1: 人間七七四年 2007/07/22(日) 02:17:48 ID:ULE6QOe7
桓武平氏良文流三浦氏族で陸奥会津を本拠とし、戦国時代には南奥州に覇を唱えた葦名氏について語りましょう








2: 宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c 2007/07/22(日) 02:19:24 ID:pSmteVuj
蘆名盛氏は名将ですな。

3: 人間七七四年 2007/07/22(日) 02:23:46 ID:tmcXpSuQ
芦名
蘆名
葦名

本やサイトによって表記がバラバラ
どれが正しいのか

6: 人間七七四年 2007/07/22(日) 06:47:27 ID:AsLW6Sj7
>>3
後に伊達に仕えた分家は、同時代資料では「葦」の字が使われることが多い。

16: 仙台藩百姓 2007/07/24(火) 01:19:50 ID:w0BqaTWC
>>3
会津の民俗学者の方が言うには「葦名」が正しいらし
11代盛信以来、葦名氏の菩提寺は会津天寧寺であるが、安置されている盛信や盛氏の位牌は「葦名」で書かれている
例の盛氏座像にも「葦名」で刻銘されているらしい

それと植物の葦についてだけど、未熟のものは葭、成長したものを蘆(芦は蘆の略字のようなもの)
成熟し穂を付けたものを葦と呼ぶらしい
だから姓にするなら成熟した葦こそ相応しい

以上の事から見てなるほどとおれも思った

421: 人間七七四年 2009/09/23(水) 14:44:42 ID:MIrhDsF7
芦名義広(佐竹盛重)は、常陸に逃げ帰った後も芦名の名字を使ってたの?

422: 人間七七四年 2009/09/23(水) 15:06:06 ID:KhCvc4zT
葦名義広が佐竹を名乗ったことあるの?
宗家の嫡男か方角家の嫡男じゃないと佐竹を名乗ることができなかったんじゃないの?

423: 人間七七四年 2009/09/23(水) 15:20:04 ID:aTqFw6Qi
佐竹義広→結城義広→蘆名義広(会津時代)→蘆名盛重(角館時代)

424: 人間七七四年 2009/09/23(水) 15:45:10 ID:KhCvc4zT
角館時代は義勝で盛重は江戸崎時代じゃないか?
佐竹家に居るときに元服して佐竹義広って名乗ったことあるの?

428: 人間七七四年 2009/09/28(月) 15:53:20 ID:Ecz+zMA9
>>424
少なくとも元服したのは白河でだね
養子の話しが持ち上がったのが義広が生まれたばかりの時で、白河に入部したと思われるのが4歳ぐらいの時だし、元服した後はずっと義広で、盛重の初見は江戸崎時代なわけだけど、「義広」は結城氏の諱だし葦名入嗣時に改名しなかったのだろうか…

でも「義」の字は便利だね
佐竹の通字だし、白川結城の通字でもある
そして三浦氏の通字でもあるからある意味いずれの氏族としてもおかしくはない

429: 人間七七四年 2009/09/28(月) 23:46:08 ID:7gd0dBgk
>>428
葦名になった時点で通字「盛」を使った名前になってそうな貴がするんだけどねぇ

431: 人間七七四年 2009/09/30(水) 20:12:14 ID:eQfT6rEL
三浦・蘆名の通字は、けっこう変遷しているよ

433: 人間七七四年 2009/10/02(金) 12:30:19 ID:YY+QqCPP
ここんちって、名門なのにいまいち地味なんだよな。
なんつーか華がないっていうか。

434: 人間七七四年 2009/10/02(金) 19:57:32 ID:b5JwpxG3
それ言ったら大大名以外はみんなそんなもんだよ
葦名は会津合考、芦名記、永慶軍記や伊達佐竹関連資料などを見ると、結構いろんな逸話あるだけマシな方

436: 人間七七四年 2009/10/09(金) 23:23:03 ID:knuA0xF/
金上盛備の最期について
金上 盛備(かながみ もりはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。蘆名氏一族・金上氏15代当主。越後国蒲原郡津川城主。その卓越した政治手腕から「蘆名の執権」と呼ばれた。
天正17年(1589年)6月5日の摺上原の戦いで伊達軍の片倉景綱隊に突撃し戦死した。享年63。


437: 人間七七四年 2009/10/13(火) 22:48:28 ID:6Avnh2jN
刷り上げ原で戦死っていうのは・・・・・

439: 人間七七四年 2009/10/18(日) 00:20:21 ID:8WPH7Eei
>>437
うたがわしいね

438: 人間七七四年 2009/10/15(木) 21:41:09 ID:rxm45A+8
葦名家臣団は不明瞭な点が多すぎてよくわからんね

454: 人間七七四年 2009/11/19(木) 23:45:13 ID:Y4PbzLzz
盛氏は部下に恵まれなかったな
唯一優秀だったのが金上盛備

533: 人間七七四年 2010/05/27(木) 10:18:59 ID:YsRdngiH
金上盛備の生年て何年?
wikiの1527年だと享年とあわない気が…

534: 人間七七四年 2010/05/28(金) 08:11:07 ID:013MsXz5
wikiの生年はソース不明が多いから。

535: 仙台藩百姓 2010/06/01(火) 10:07:32 ID:VIxX2aL0
滅びた家の常で葦名家臣は殆ど消息不明だから仕方ない
だが、享年と没年書くなら辻妻ぐらい合わせるべきだ

455: 人間七七四年 2009/11/23(月) 13:48:23 ID:bxU9n5/O
人がいなかったわけではないが独立思考が強くて反乱ばかり起こすんだよな

456: 人間七七四年 2009/11/24(火) 23:30:59 ID:tZ78JkhQ
とことん中世地方大族的大名だな

468: 人間七七四年 2009/12/26(土) 11:26:15 ID:4aH81Ara
葦名って會津でも影薄いね
歴史館とか行っても松平氏がメインで葦名は少ししか展示してないし歴史書も松平氏に比べて圧倒的に少ない
まあ、茨城でも佐竹が全く同じだけど
そういや葦名氏の文書はやはり義広が持っていたのだろうか
敗戦ともなると金品だけではなく文書類を含み家財を持ち出さなきゃならないし大変だったろうね

478: 人間七七四年 2010/01/19(火) 00:02:59 ID:L3NOMuJg
蘆名盛氏は賢君だが、覇者になれる器ではなかった

479: 人間七七四年 2010/01/21(木) 15:51:22 ID:V7aLGsBc
どちらかと言うと賢君というか猛将ってイメージ
戦は強かったけど、じわじわ足元を崩されてしまった感じ

480: 人間七七四年 2010/01/27(水) 00:20:10 ID:zk1+qcwt
そりゃ、一門が少なすぎるもの

496: 人間七七四年 2010/02/19(金) 12:04:34 ID:3NydQLCz
盛氏は佐竹に白川や石川をめぐる攻防戦で敗北してからは南陸奥でのイニシアティブを失っていったからなぁ
その佐竹も政宗が登場してからは4年で南陸奥から駆逐されてしまった
やっぱ政宗は凄いね

531: 人間七七四年 2010/05/26(水) 21:51:44 ID:eo77Wu+j
跡継ぎに恵まれなかったばかりに伊達ずれに舐められるとは・・・

532: 人間七七四年 2010/05/27(木) 07:14:17 ID:U4H+i6Is
三代続けて早世は組織をズタズタにしちまったからね。
しかも葦名は芦名家執政の金上盛備の主導による
織田の上杉侵攻や上杉後継者争いや新発田の乱に介入しまくった
挙句に上杉に大敗して終了してるし
もともと執政の金上盛備の領地が越後隣接してる関係で真反対側の仙道には興味がない上に、二本松畠山国王丸と会津葦名亀王丸の幼君コンビで組織指導力もオワタw状態だし。

537: 人間七七四年 2010/06/07(月) 16:13:43 ID:cFXhbKlV
正統芦名氏である針生氏からは、片倉小十郎重長の妻、白河義実の妻が出ており、前者が産んだ娘が松前安国に嫁いで片倉景長と松前広国を産み、後者は伊達綱村公の乳母として、協力して伊達家を救った。
伊達家の存続は、全て芦名家の功績によるものである。
 さらに、景長の娘が産んだ吉村公が5代を継ぎ、伊達宗家にも芦名の血が6代ぶりに入ることになって現代に続いている。
よく、重長の妻お梅(真田幸村の娘)が時代祭りでも取り上げられ、あたかも片倉家には真田の血が流れているかのように思い込んでいる者も多いが、正妻はあくまで芦名家(針生家)の娘であり、その偉大な血が伊達家を救い、片倉家を大きくしたのである。

538: 仙台藩百姓 2010/06/07(月) 21:15:29 ID:klztcYEn
針生氏は政宗公が拾って準一家として優遇したからね
政宗公の目は確かだったと言う事か
さすがだ

539: 人間七七四年 2010/06/07(月) 22:08:53 ID:cFXhbKlV
芦名宗家は盛氏公以降早死にで他家からの養子が続き、三浦氏の血を引いているとはいえない(伊達氏を通してかろうじて繋がっている、晴宗母が芦名、盛隆母が晴宗長女、盛重母が晴宗5女、亀王丸母が晴宗4女)
一方、針生家は14代盛高公の嫡男に始まる家で、その後他家からの養子もないため、こちらこそが本当の芦名家なのである。
針生家は、伊達騒動を解決した功績と、角館芦名家の断絶を受け、芦名氏に戻って維新を迎えた。
「伊達騒動」を最終的に解決した片倉小十郎と、若君を護衛した松前鉄之助(本当は八之助)は兄弟、乳母の政岡は従姉だと知った時は驚いた。
 政岡の婚家の白河家は一門に昇格したが、芦名家は準一家のままだった。
準一家は、芦名と松前を除くと、他家を裏切って政宗公に味方した者が多いのであまりいい印象がありません。
(猪苗代→芦名を裏切り、保土原→二階堂を裏切り 上遠野→岩城家臣ながら、政宗公を見逃す)

544: 人間七七四年 2010/07/26(月) 18:32:49 ID:T2+DVd+q
蘆名家って1500年代以降、当主の近親者が異様に少なかったよね

545: 人間七七四年 2010/07/30(金) 08:41:06 ID:Bv9edpKQ
正腹の子が一人だけってパターンが何代も続いたからね
盛興の早世と氏方の反乱が致命的であった

547: 人間七七四年 2010/08/01(日) 07:47:58 ID:82Gxd0eO
松本っていつも反乱に加わるよね

549: 仙台藩百姓 2010/08/03(火) 19:21:22 ID:VgkLSfF/
3回か4回ぐらい反乱企てたよな

555: 人間七七四年 2010/10/05(火) 01:14:03 ID:M37NsiQb
室町~戦国の芦名って正室腹以前に庶子自体殆どいない

正室腹2子の盛舜
白拍子の子 氏方
位か

557: 人間七七四年 2010/10/06(水) 06:26:21 ID:Q6kqYcuS
正直、松本行輔の反乱は適切に処遇すれば防げたもののように思う。
意図的に反乱させたのかも知れないが。

592: 人間七七四年 2011/01/30(日) 21:45:37 ID:agWfhtlu
芦名と佐竹の抗争はイライラする

594: 人間七七四年 2011/01/30(日) 23:40:54 ID:DuYdui/r
実際、佐竹と葦名は言うほど険悪な対立なんてしてないんだけどな。
葦名対佐竹なんて勝手に妄想で話を大きくしてるだけだし。
佐竹にとっては旧領奪回のために白川領に攻め言ってるだけの話だし。
葦名視点からしたら遠くで紛争による小競り合いが起きてる程度の話に過ぎない。

595: 人間七七四年 2011/01/31(月) 00:33:00 ID:Xh7ii6fg
>>594
いや佐竹と蘆名は、険悪かどうかは知らんが十分深刻な争いをしてる。
それに高野郡が戦国期以前に佐竹の影響下に属したことあったか?
佐竹が白川に対して「旧領奪回」なんて言えるのは精々依上保くらいであって、それも既に義篤の治世には完了している。
佐竹の白川攻めは、対蘆名戦争の中で行われた局地的な経過のひとつであって、それ事態が戦争の焦点になるものではなかった。

597: 人間七七四年 2011/01/31(月) 19:17:20 ID:CUA6DQ4q
葦名の敵は田村であって佐竹は辺境で紛争を起こしてるだけの立ち位置。
依上保は高野郡内であり、白河側も奪回に動くんだから、戦いが周辺に飛びするのは仕方がない。
石川郡の石川は同じ源氏の同朋だから助けようとしてただけだし。
そもそも白河から盛氏への婚姻要請がきても渋りまくってた一方で探題家の伊達との婚姻に盛氏は熱心だったし
永禄3年義昭の時に那須の北上の際に佐竹も援軍を送った際に娘の顔を立てて白河に葦名が援軍を送っていた為に偶発的に葦名と衝突したと言えるかも知れないが
翌年に盛氏は家督を譲って当事者から一歩引いてるし。
北条から佐竹を挟撃しようって話がたびたびやってきたけど積極的な態度にはならなかった。
葦名は田村との戦いから二階堂攻略に目がいっていて、そのさらに下にあまり手を出すつもりはなかった。
結局、探題家の輝宗との婚姻許可と二階堂嫡男を人質にもらう無事交渉が成立して満足してるし。
結局、白河の内紛とクーデターの際には盛氏は娘を回収してしまったし。

602: 人間七七四年 2011/01/31(月) 23:29:32 ID:AErj1URZ
>>595
佐竹氏は依上というか南郷(高野郡の寺山以南)の地頭職を得ていたらしい
山入一揆を克服した佐竹義舜以来、旧領回復に奔走するわけだが、義昭の代にはあらかた近隣勢力と和睦若しくは従わせる事に成功し南郷も支配下に置いた
南郷を奪われた白川氏は小峰義親が葦名盛氏の娘を正室に迎えていた事から、葦名氏の助力を得て南郷奪還を図る
以来、葦名白川両氏と佐竹氏が争うという構図が十数年続く
時には葦名白川氏と田村氏が組んだり佐竹氏と石川氏が組んだりして高野郡で争い、双方ともかなりの損害を出している
この頃の関係は険悪といっていい
武力では当時最盛期だった葦名氏の助力を得た白川方が割と優位にたっていたが、佐竹方の外交戦略による切り崩しと、手を広げすぎた葦名氏の衰退によって、結局白川氏は佐竹氏の軍門に降り葦名氏も和睦に至る
以降、葦名佐竹両氏の関係は一転して極めて良好に転じるわけだが。
要は初め南郷を巡って50年ぐらい白川佐竹両氏が争っていたが、白川氏が押されるに至って葦名氏を引き込み、葦名氏と佐竹氏の戦いに発展していったと言う事だね
後半になると葦名氏が白川氏を飛び越えて直接高野郡の国人と関係を結ぶようになっている
石川庄でも同様の動きがみられる

603: 人間七七四年 2011/02/01(火) 00:39:22 ID:SrmjJf68
依上保が高野郡内だったていつの話だよ。倭名鈔とかの時代じゃねえか。しかも推定の話だし。
まあそんなことはどうでもいいので高野郡の変遷には深く立ち入らないけれども。
大体仮にそうだったとしても、「高野郡は佐竹の旧領」なんていえる時代は、義篤期未前には存在しないじゃないか。高野郡南郷がいつぞやの時代に佐竹旧領だったとしても、その旧領回復とやらは義昭の時代で終わってることだ

「石川が源氏の同朋だ」なんてもあまりにも馬鹿馬鹿しくて話にならんわ。
そもそも御家騒動で散々より近親の同族殺しをやっている時代を経てるのに、そんな頓珍漢な論理で軍事外交的な政策を立案するなんてドンダケだよ。
義重は天正元年頃赤坂朝光に送った書状(『家蔵文書20』)の中で、「竹貫三河と相談して石川と手切れし、(石川氏属の)白石で勝利しろ」と言ってるんだよ。
佐竹は常に石川の味方をしていたわけではない。当り前だがあくまで佐竹の利益優先だ。

そんで、所謂佐竹の対白川戦が、実は対蘆名戦の枝葉に過ぎなかったのは、史料的にあまりにも明白過ぎることなの。
永禄十~永禄十一年(1567~1568)くらいまで、石川白川領が佐竹と蘆名の政治的角逐の場となり、石川白川麾下の諸氏に対して両陣営が所領安堵や所領宛行を頻発させるという事案が発生。
●上館左衛門大夫に所領安堵、帰属支援の確認(『佐竹義喬起請文・沢井八郎文書』)
●上遠野藤兵衛に浅川領の所領宛行約束(『止々斎宛行状・上遠野秀夫文書』)
●赤館左衛門尉に支援約束(『止々斎起請文・沢井八郎文書』)
●上館左衛門尉に支援約束、上の半年後(『止々斎起請文・沢井八郎文書』)
●沢井左衛門大夫に支援約束(『佐竹義重起請文・沢井幸一家文書』)
これらの書の文言には「道堅(石川晴光)が帰城しようがしなかろうが」とか、「白川よりその方に対して慮外の刷い候えども」なんてのが付いてくる。

604: 人間七七四年 2011/02/01(火) 00:41:55 ID:SrmjJf68
こうした中で永禄12年(1569)蘆名による石川領侵攻が行われ(『塔寺八幡宮長帳』
『平田常範書状・上杉家文書』)、元亀二年(1571)佐竹が石川に援軍を送るが、蘆名に協調した田村の後詰によって敗れる(『佐竹義重感状・家蔵文書44』『止々斎書状・伊達家文書』)ということになる。
そして蘆名との講和を説いた?和田昭為が出奔し、元亀三年(1572)八槻で蘆名田村対佐竹戦(『東州雑記』等)、上記の「白石での勝利」、天正二年(1574)白川善七郎蜂起・二階堂が蘆名から離反?・赤館で蘆名対佐竹戦(『伊達輝宗日記』)、金波で蘆名田村対佐竹石川戦(『白河古事考』かなんか)、天正三年(1575)に白川陥落・天正四年(1576)佐竹による蘆名方の長沼攻め(『東州雑記』)となる。
こうした多くの蘆名と佐竹の戦争を見かねた上杉謙信が、蘆名盛氏に対して「これらの佐竹との際限無き弓箭は全くの理由の無いものでは?」と手紙して、佐竹との講和を勧め(『謙信書状・伊達家文書』)、実際に蘆名と佐竹の講和が成る。
こうした流れを見れば、石川白川が一連の戦乱で果たした役割は限定的で、主導権は明らかに蘆名と佐竹にあったのが分かる。
伊達輝宗日記にも「佐会田(佐竹会津田村)無事の事定まり」、赤館での戦闘でも「義重清顕対面あるべき」などとあり、白川の存在が表に出てこない。
最後の謙信の書状でも講和とは蘆名と佐竹の間のことで、白川には触れられていない。
当時でも戦争は蘆名と佐竹の間のものだったという認識なんだよ。

さらに。蘆名盛興が暗殺されたなどという証拠はない。『塔寺八幡宮長帳』によれば、「御北様(盛興)御患いにて御酒止まり申候」とあり、おそらく酒に関る病気っつーか中毒的なものに罹っていたと思われる。

611: 人間七七四年 2011/02/01(火) 20:09:23 ID:JuNBbZkU
>>603
依上保が分離したのは永正の頃だよ
まあ、どうでもいい事だが

612: 603 2011/02/01(火) 23:17:33 ID:SrmjJf68
>>611
それは佐竹義舜が依上保を支配下に組み入れたことで、依上保の「行政区分」が陸奥国から常陸国となった、という話でしょ?

ここで前提として言っているのは、そもそも和名抄の時代の「陸奥国白川郡高野」「陸奥国白川郡依上」から、「陸奥国高野郡」「陸奥国依上保」という区分に分かたれたのが何時か?ということ。
「保」という国衙領の中の一区分の名がついているのだから、これはほぼ間違いなく平安時代(といっても長いが)に分割されたと言えるわけね。
つまり「依上保が高野郡内」なんていうのは平安時代の話で、その頃には佐竹はともかく白川の所領だのなんてのはなんてありえないわな。

少なくとも史料上では、建武年間に白川氏が高野郡と依上保の検断権や地頭権を手に入れ、応永年間頃には佐竹氏族の依上三郎なるものが依上保を領有していたらしいこと、その後足利持氏が白川氏朝に依上保を預け置き、また知行させたこと、その後佐竹義舜が云々ということになる。

そこで、「佐竹が奪回に動いた」とか旧領回復とか、上レスの人々が言っているでしょ?
依上保については依上三郎が領有してたという事実が確認できるのだから、「旧領回復」というのもまあまあ成り立ち得るけれども、高野郡については「佐竹の旧領回復」なんてのは言えないわけね。
勿論佐竹義篤、佐竹義昭が南郷を制圧する以前に、高野郡が佐竹の所領とか地頭職とか、あるいはせめて検断職とかいう事実があるなら、まあそういうことも言えるかもしれない。
ただそれが当時存在してる大名の優先すべき戦争理由として設定され得るとは、私は思わないけれども。だから深く立ち入らないわけね。意味ないから。

引用元: ・【三浦介】葦名氏総合スレ【会津守護】