1: 日本@名無史さん 2005/10/14(金) 15:50:22
地味なとこで・・・地方別歴史も面白そうなんでまったりいきましょう。








3: 日本@名無史さん 2005/10/14(金) 18:50:38
根井行親、楯親忠、小諸光兼、八島なんとか等、木曽義仲軍の故郷だな。

6: 日本@名無史さん 2005/10/14(金) 19:55:36
佐久近辺は武田24将の子孫を称してる家が多い。それと戦国期以前の家はあまり目だたないね。
戦国期だと村上、伴野・海野(もっと前かな?)。

7: 日本@名無史さん 2005/10/14(金) 21:05:14
一応城下町

37: 日本@名無史さん 2005/11/01(火) 11:26:08
>>7
>一応城下町

否、陣屋町。1万石しかなかったもんで。

38: 日本@名無史さん 2005/11/01(火) 12:31:16
>>37
一万六千石(臼田一万二千石、三河に四千石)

8: 日本@名無史さん 2005/10/14(金) 22:54:40
新田次郎の「武田信玄」を読んで、武田に全力で抵抗した佐久衆には感動しましたよ、笠原氏とか額岩寺氏とか。
「佐久の人ことごとく叛いて死に絶えても、草木が武田に叛くでしょう」

10: 日本@名無史さん 2005/10/16(日) 10:11:17
>>8
海ノ口城、海尻城のこと?村上氏とかじゃないの?

16: 日本@名無史さん 2005/10/17(月) 22:43:53
>>10
笠原氏は北佐久志賀城、額岩寺氏は北佐久布引城を本拠地とした土豪。
一度佐久を制した武田氏に叛旗を翻し滅ぼされた。
ちなみに村上氏は佐久衆に影響を及ぼしてはいたが、主君ではない。

11: 日本@名無史さん 2005/10/16(日) 12:34:45
村上義清って佐久?
武田に二回勝ったんだっけ?

13: 日本@名無史さん 2005/10/17(月) 12:59:19
>>11
佐久。ちなみにうちの先祖は村上氏→武田氏と主人を変えてるが・・・武田氏(性格には部下からの)からの戦役感状を後生大事に持ってる。

14: 日本@名無史さん 2005/10/17(月) 17:58:32
村上義清の本拠葛尾城は、埴科郡ですな。
また信玄を破った上田原は、たしか小県郡ではなかったか。

18: 日本@名無史さん 2005/10/17(月) 23:08:36
佐久の歴史だろ?
どうして海ノ口の平賀氏や岩村田の大井氏、野沢の伴野氏、武田の家臣となった依田氏の名前が上がらないんだ?


29: 日本@名無史さん 2005/10/18(火) 17:25:07
佐久の前野城主が確か伴野といった気がする。
いわゆる天正の甲斐信濃動乱で依田信蕃に攻め落とされたと記憶する
伴野氏 (とものうじ)

鎌倉時代から戦国時代にかけて信濃国佐久郡伴野荘(長野県佐久市野沢,中込付近)を中心に勢力を張った武士。伴野氏は,甲斐源氏小笠原長清が鎌倉幕府草創期に伴野荘地頭となり,その後六男時長がこれを相伝したことに始まる。


30: 日本@名無史さん 2005/10/19(水) 05:14:17
>>29
そう言えば佐久は伴野姓多いな
しかも地主だったり、酒蔵経営してたりするし、
28: 日本@名無史さん 2005/10/18(火) 14:01:04
野沢に伴野君っていたわそういえば・・・依田なんて聞かないな。滅亡したのかな?
依田氏(よだし)は、日本の氏族。『尊卑分脈』によると清和源氏(多田源氏)満快流(源満仲の弟)。依田は信濃国小県郡依田荘に由来する。

源満快の曾孫・源為公が信濃に下向し、信濃守となり、現在の長野県上伊那郡箕輪町上ノ平に居館を構え、主に南信濃に広がる信濃源氏の祖となった。依田氏の祖は為公の六男依田六郎為実とされ、東信濃の小県郡に依田城を築いて本拠地とした。


43: 日本@名無史さん 2005/11/09(水) 14:51:17
>>28
依田一族は家康にくっついて江戸にいって旗本になりました。
おれはその子孫です。

22: 日本@名無史さん 2005/10/18(火) 01:38:37
佐久って言うと井出氏や神津氏が幅利かせてるイメージだが、戦国期は豪族かなんかなの?

24: 日本@名無史さん 2005/10/18(火) 03:04:56
>>22
井出も神津も、信玄が甲斐から連れてきた植民。
信玄は佐久の百姓から土地を強制的に取り上げて、甲斐の百姓を連れて来て植民させ地侍(地主)とし、佐久の百姓を農奴にした。
全国の戦国大名でも、占領地の百姓にこんな苛斂誅求なことをしたのは、武田と長曽我部だけ。他の戦国大名は、当然ながら百姓には手をつけない。

44: 日本@名無史さん 2005/11/09(水) 15:43:36
佐久の場合は信憑性はともかく庄屋クラスになると戦国前期ぐらいから歴史があり、それなりの格式ではあるはずだがイマイチって感じ

45: 日本@名無史さん 2005/11/09(水) 15:48:46
あの辺も時代の流れに逆らえずに大分、家が消えて行ったそうですよ。聞いた話ですが
昭和30年頃までは信じられないくらい広い家があったそうです。

85: 日本@名無史さん 2005/12/25(日) 07:30:53
>>45
>信じられないくらい広い家があったそうです。


うちの曾ばあちゃんはお嫁に来るまで、山の向こうまで他人の敷地を跨がずにいけたらしい。
まぁ、実家も本家も家2,3軒は立てられそうなぐらい広いけど・・・・。

48: 日本@名無史さん 2005/11/09(水) 16:06:28
ttp://www1.odn.ne.jp/~cem89780/sinano.html

信濃国人衆ってあるが・・・やっぱだいぶ徳川についていったのかな?知らん苗字が多い。佐久の場合は神津・井出・黒澤は はずせないし伴野(これは表にある)木内・高見沢なんてのも多い。この辺の苗字は名主系だと思う。

56: 日本@名無史さん 2005/11/10(木) 23:28:44
佐久の歴史のなかで、長野県岩村田の龍雲寺に武田信玄の、納骨堂が建立されていますが本当なの?

57: 日本@名無史さん 2005/11/11(金) 08:50:17
>>56
建前上はこうなってるぞ
ttp://www.dynax.co.jp/sinsen/culture/temple/t_ryuunji.html

58: 日本@名無史さん 2005/11/11(金) 11:50:46
武田の位牌なら何だっけな・・・佐久のどっかの寺にあるらしいよ。思い出したら又書く。

59: 日本@名無史さん 2005/11/11(金) 15:51:24
武田信玄の位牌なんてあっちこっちにあるだろうに

61: 日本@名無史さん 2005/11/13(日) 17:57:26
位牌でなく遺骨、遺骨があるんだってよ。本当にあるの?????????

75: 日本@名無史さん 2005/12/08(木) 18:25:27
何故大藩が無いの?

78: 日本@名無史さん 2005/12/18(日) 01:54:06
>>74-75
佐久の地侍がかなりがんばったそうですよ。武田侵攻時はすさまじい反抗となかなか帰順しなかったそうですが・・・
結局大藩は出来なくほとんどは百姓に戻されたそうです。この辺は美濃と一緒ですね。

79: 日本@名無史さん 2005/12/18(日) 04:49:37
武田侵攻時の逸話は寧ろ信濃への見せしめにされただけなんじゃないか?
恭順を一切許さず徹底抗戦せざるを得ないほど相手を追い詰める
それを叩き潰す事によって武田に逆らうとこうなりますよ~って言う感じで
その後の侵攻を容易にする腹積もりが信玄にはあったのだろう
それが後代に佐久は武田に反抗し続けた的思考になったのだと。

188: 地元民 2007/02/28(水) 18:42:18
小諸藩・岩村田藩・竜岡藩があるけど大藩はないな

189: 日本@名無史さん 2007/03/01(木) 02:07:32
地侍が多かったとこはだいたい小藩おいて住民は農民にってパターン。
岐阜、長野、群馬、新潟、山梨(も?)

84: 日本@名無史さん 2005/12/23(金) 23:55:29
佐久に住んでいたころ、臼田の五稜郭跡地へ行ってみましたが、ものすごい趣があって良かったです。
450px-Tatsuoka_Castle_1975


123: 日本@名無史さん 2006/04/25(火) 17:13:34
室町、戦国期の佐久の支配者って誰?諏訪氏とか?

125: 日本@名無史さん 2006/05/07(日) 09:32:40
>>123
室町期なら岩村田の大井氏。
依田氏系の豪族を従え、鎌倉公方を保護擁立し、信濃の戦乱(大塔合戦)を仲裁停止させるほどの実力があった。
千騎の大将と云われていたらしい。
しかし同族の伴野氏と争い、さらに北信の村上氏と戦って衰退した。

戦国期だと小領主が小城に拠って割拠状態→武田→織田(滝川氏)→後北条(大導寺氏)→徳川となる。
徳川勢力にあって後北条方と戦い、佐久を制したのは芦田を本拠にした依田氏。
一時は大名になるも(佐久郡、後に上州藤岡)改易され、旗本になったとか。

126: 日本@名無史さん 2006/05/17(水) 00:01:50
戦国後期草刈場になったようですが、地侍などはどうしたのでしょうか?流されるまま?
あまり佐久出身の武士ってのも聞かない気がするのですがほとんど仕官できなかったのでしょうか?

131: 日本@名無史さん 2006/05/31(水) 19:19:46
>>126
地侍の去就。
佐久の一円支配に成功した依田氏の幕下となる。
依田康国は徳川氏の関東移封に従い上州藤岡に移転。現在でも当地には佐久系の氏族が多い。残留組は、依田氏に変わった豊臣系の仙石氏に仕え、関ヶ原、大阪の陣に出陣してるね。

大名となった依田氏も改易され、家臣は離散。 江戸期は旗本クラスに数家がランクインするも、まああまりぱっとしないね。

こうした節目に武家として仕官を選ばず、領地に残った土豪も多かった。
豪農としてかつての郎党を農奴として従え、用水開削や新田開発の中核となって名を残してますな。

132: 日本@名無史さん 2006/05/31(水) 21:50:45
>>131
>江戸期は旗本クラスに数家がランクインするも

苗字は分かりますか?
土豪っていうと?これも苗字は分かりますでしょうか?

134: 日本@名無史さん 2006/06/06(火) 09:05:08
>>132
旗本となった佐久の武士。
依田氏(松平氏)の改易後、その家臣であった佐久出身の武士の多くは幕臣に。
芦田衆と称され、その長には大井氏が就いた。
旗本になった氏族は依田氏、大井氏、平原氏など。
「寛政重修諸家譜」などで調べるのがいいかも。(たまには図書館にGo!)

133: 日本@名無史さん 2006/05/31(水) 22:05:09
起請文(詳しくは思い出せないが)では地元土豪の名前はほとんど無かったような・・・海野や望月程度だが佐久かな?

127: 日本@名無史さん 2006/05/23(火) 12:10:01
佐久って行っても山梨の県境から下って平地になったあたりには旧家が多いが割りと地味。おそらくその辺から広がっていったと思われる。

129: 日本@名無史さん 2006/05/23(火) 12:33:43
>>128
おそらく防衛の為に県境に地侍集が集まっていたと思われるが敗退後山を降りて散ったのだろう
かなりの旧家がある。あの辺は・・・ただ地味というか質素。臼田とか行くとみな門や塀を直してきれいにして、かつ豪華にしてるが、あの辺は江戸時代のままかも

137: 日本@名無史さん 2006/06/13(火) 08:57:53
佐久の古い家の門って独特じゃない?
長屋門から長屋だけ取っ払ったような感じと言うか、側面に壁がある。

145: 日本@名無史さん 2006/07/10(月) 21:38:52
神津の家ってまだある?公開とかしてるの?

157: 日本@名無史さん 2006/07/26(水) 23:03:16
>>145
赤壁の家なら外から見る事はできるよ。
黒壁の家はありません。

146: 日本@名無史さん 2006/07/10(月) 23:25:48
昔は名門旧家ってのがあったがほぼ消えたな。

159: 日本@名無史さん 2006/08/14(月) 23:04:45
佐久あたりだと真田の配下になったりしたんでしょうか?

167: 日本@名無史さん 2006/09/05(火) 01:20:02
>>159
真田氏の勢力は小県郡どまり。佐久には進出しとりませんな。
真田が独立勢力になった時の佐久郡って、碓氷峠から小諸に進出した後北条軍と、甲州から北上してきた徳川軍が合戦を繰り広げ、とても自立したばかりの真田昌幸には手が出なかったみたいです。
郡境に小兵力を出してちょっかい出したみたいだけれど、拠点は作れずじまい。

真田領になってたら、それはまたスリリングだったかも。

169: 日本@名無史さん 2006/10/03(火) 17:37:32
内山村の歴史について教えてくだされ。
家系図に戦国時代にあのへんから出てきたと書いてあったので。

170: 日本@名無史さん 2006/10/16(月) 22:52:54
内山村は平賀郷の村落。
15世紀中頃に平賀氏が滅ぼされると大井氏領となり、代官(依田氏)支配となった。
大井氏宗家が衰退するとこの依田氏は内山氏を名乗り独立。
武田氏の侵入時は大井貞清が内山城に篭城するも、攻囲十一日で降伏。内山氏は村上氏をたよりこの地を去った。
後の江戸期には幕府旗本になってますな。先祖の地は忘れず双方連絡があったとか。

武田氏は佐久支配の拠点として内山城を整備。家臣小山田備中守が在城していた。
現在の内山集落は城下町(極めて小規模であるが・・)の趣を残してます。
小山田氏は武田滅亡の数ヶ月後に後北条氏に追われ、内山を落去。
簡単ながら、戦国時代の内山村。

172: 日本@名無史さん 2006/11/21(火) 23:17:40
信玄初陣の折酒に酔って油断しきって攻められた人たちの子孫のスレですか?

引用元: ・【信濃国 佐久の歴史について語ろう】