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1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/24(日) 16:32:05 ID:ox/VhjFa
恒利・恒興・元助・輝政…
地味ではあるが良将揃い

さぁ!ものどもよ!
池田氏について心行くまで語れ!!










6: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/24(日) 19:56:37 ID:ox/VhjFa
池田輝政
池田恒興の次男。織田信長・豊臣秀吉に仕える。
1584年の長久手の戦いで父の恒興と兄の元助が戦死したため輝政は遺領を継ぎ、美濃国内で10万石を領して岐阜城主となる。後に三河国吉田に移る。
1600年の関ヶ原合戦には徳川方に属して、岐阜城を攻め落とす。
その戦功により播磨国領主となり姫路城を築く。
また播磨から備前などに100万石近い大領を領したということもあって、「播磨宰相」・「姫路宰相」・「西国将軍」とまで称された。

わしゃ政宗より名将じゃとおもっちょります

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/24(日) 20:12:02 ID:VCif4UcQ
輝政かなり好きだが、名将という雰囲気が全然しないところがいい
おれは輝政を、ラッキー池田と呼んでる
父と兄が不運だった分、輝政に大きな幸運(女運)が舞い込んだ感じ

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 03:08:00 ID:4aoHgB33
輝政はなんか影薄いよな

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 03:59:34 ID:ik9pqEaA
姫路ではとりあえず殿様といえば輝政だけど、でも千姫のが有名かもしれん。
よその大名や武将のお膝元行って銅像や土産品の多さにおどろいた。
城はプッシュしてるけど殿様は微妙、それが姫路。

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 04:09:32 ID:C5qkee82
まあ姫路に池田がいたの短いし、そのあとは徳川譜代の入れ替わりが激しかったんで、ひとつの家や殿さまに思い入れが生まれないからな

14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 04:31:50 ID:C5qkee82
輝政は姫路城の付録アイテムっていうかな・・
でも歴代の殿様の中ではいちばん好かれてると思うよ
池田のあとの殿さまにロクなのいないし、誰も覚えてないし
お城建てた輝政の殿さまはGJ!ってかんじ

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 07:19:13 ID:kGMKZrTc
池田と言えばやはり城か
でもさ、なんで輝政はこんなに大きな領地貰えたの?
純粋に大活躍?
それとも九州かどっかの押さえとして?

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 07:40:15 ID:gVqCRjz0
>>17
まぁ、一言で言うと再婚した妻が家康の愛娘だったからw
姫路は畿内に近い中国の要地だから、徳川の外戚になった池田は、外様でも西国大名への抑えを期待された。
のちに池田家は国替えで播磨を失って要地の姫路には譜代入れるから、やっぱり輝政への厚遇は妻の効果が大きかったと思う。
督姫(とくひめ、永禄8年(1565年)あるいは天正3年11月11日(1575年12月13日) - 慶長20年2月4日(1615年3月3日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての女性。徳川家康の次女。

文禄3年(1594年)12月27日、秀吉の肝煎りで池田輝政に再嫁した。この時、北条氏に伝来していた「酒呑童子絵巻」(狩野元信筆、現在はサントリー美術館所蔵)と「後三年合戦絵詞」(重要文化財、東京国立博物館所蔵)を持参している。輝政との夫婦仲は良く、5男2女をもうけた。

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 07:40:47 ID:lhIy+oul
城造りが巧かったのかな?

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 07:57:25 ID:v56etrrG
城造りもそうだろけど子造りもうまいよな
11男3女てw
それなりに優秀な子もいるし
姫つかって伊達と繋がってるし

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 08:03:07 ID:hQ9gWpIZ
池田家の殿さまは領国経営は上手い方だと思う
岡山の池田家とか名君も多いし
輝政もでかい城建てたけど、自分自身は倹約家で手堅い内政だった
むしろ江戸時代になってからの方が、池田家はかっこいいかも

24: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 08:30:57 ID:D+NQ4cG5
家康は、我が子の中でも好き嫌いが激しい父親だったけど、輝政に嫁にやった督姫は、娘の中で一番お気に入りだったらしい。
督姫の生んだ五男忠継も、孫の中ではえらく可愛がられ、わずか5歳で父とは別にポンと備前28万石を与えられ、その後38万石まで加増された。8歳で死んでしまったが。6男にも淡路6万石をやったりしてる。

42: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/26(火) 00:59:13 ID:vbMVvJO+
>>24
ところでこのポンと貰った備前28万石
淡路6万石はその後どうなったのかいね?

43: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/26(火) 01:02:53 ID:Ib0YHVGX
>>42
> ところでこのポンと貰った備前28万石
> 淡路6万石はその後どうなったのかいね?

備前は岡山池田藩、淡路は死後断絶。

25: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 19:08:12 ID:iMu70AWA
まぁどう考えても、戦上手という意味での名将ではない
輝政の目だった軍功は、関ヶ原前哨戦の岐阜城攻略くらいだろう
本戦は南宮山の抑えで戦ってないし、文禄・慶長ともに不参加
あとは三河中入れで、自分も死に掛けたくらいでは?

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 21:12:45 ID:ue5AXIcp
>>25
戦功があまりないのに妻のおかげで大大名に出世したから、いろいろ言われた。

福島正則「おれは槍使って大大名になったけど、お前はチ〇ポ使っただけだよな!」
池田輝政「おれがお前のように槍使ってたら、天下取ってたけどな」

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 21:49:21 ID:ik9pqEaA
ある意味槍の使い方を心得てたわけだな

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 22:39:07 ID:Ly1NbIaC
>>29
だれが巧いことを言えといった

30: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 22:02:46 ID:sD+qurBC
正直、おれは輝政みたいな人生が羨ましいwww
ほぼ女運だけで勝ち組って、ある意味人生の達人だろ

31: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2006/09/25(月) 22:03:36 ID:HT5grWS4
妻の父はオヤジの仇だけどね。

32: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/25(月) 22:13:31 ID:sD+qurBC
ありゃ秀吉が、輝政に家康の後家娘を娶れって命じたんだから仕方ない
太閤が、何で池田を選んで娶らせたのかイマイチよくわかんないけど

37: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/26(火) 00:18:18 ID:D19dMHMK
名君光政の岡山池田が、輝政と先妻の息子の血筋で本家だな。
池田 光政(いけだ みつまさ)は、武将、大名。播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩主(池田宗家)。光政の治世は後世の岡山藩の模範とされた。幕末期の池田茂政や章政らは光政の偉業を倣って幕末の動乱に対処するべく決意表明している。

39: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/26(火) 00:33:04 ID:Ib0YHVGX
>>37
あんまり関係ねぇじゃねーの?
当主で行けば、輝政の次は忠継だし、忠継の血筋なら鳥取池田だし、飽く迄、岡山領有してるのが本家だと言えば、光政だし。それに光政は最初鳥取だったわけだし。
池田で本家分家は無いんじゃね?
幕府内の序列も官位も鳥取池田が上なわけだし。

40: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/26(火) 00:38:36 ID:D19dMHMK
>>39
石高・家格は徳川の外戚・鳥取池田の方が上だが、あとで国替えして本家により重要な山陽道側を与えたのは、幕府が岡山池田に配慮したんだよ。

41: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/26(火) 00:56:15 ID:Ib0YHVGX
>>40
まぁそれは光仲が幼かったから配慮もあったかもしれんが。
本家だ本家だ言ってるのは岡山池田の方だし。
当主忠継の池田が岡山に居たとき、『分家』されて新に領地貰ったのは光政だぞ?

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/26(火) 01:51:33 ID:2BPxXS0b
なんで鳥取池田はお膝元の鳥取で印象うすいんだ?

48: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/26(火) 02:04:20 ID:Ib0YHVGX
>>46
簡単に言うと、鳥取池田は鳥取水戸徳川家であって。
国元より江戸がいそがしかったから。
藩の収入の約半分を江戸で使ってほっとかれたら、印象も薄いし、鳥取大震災で縁の物ほぼ全滅したし。鳥取池田は幕末、大砲鋳造出来た数少ない藩の一つだがそれも地元民主体で藩は作れと号令出しただけだし。
まぁ全国的に見たら雄藩だろうし、幕末はそこそこ活躍もしたけど、地元民からしたら存在感薄いわな。元藩士が北海道いったのも大きいかもな。

49: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/26(火) 02:16:52 ID:k1Aj+L/D
>>48
なるほどな。池田家が転封したあとの播磨もそう。
徳川譜代で老中出すような家にあたると、関心が江戸ばっかりになる。
殿さまが領国経営ほったらかしで幕閣での出世に血道あげるから、費用もかさむし年貢もきついしで、いいこと全然なし。一揆ばっかり。

55: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/27(水) 11:23:32 ID:PAvxfh8H
池田輝政が死んだあと、輝政に殉死しようとした家臣たちがいた。
他の家臣が止めようとしたがきかないので、嫡子の利隆にとめてくれるように頼んだ。そこで利隆は一計を案じた。

利隆はその家臣たちの前までくると、「死んだ父には忠誠を尽くせるのに、自分に尽くす気がないならとめはしない。はやく勝手に死ねばいい。」と淡々と言った。
家臣たちは殉死を取りやめ、無意味な殉死者を出さなかった。

56: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/27(水) 17:52:58 ID:FtJwfwgp
「はやく勝手に死ねばいい」・・・これを淡々と言うのか

こええw

57: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/27(水) 18:38:48 ID:oRMMU0xd
なかなかクールな切れ者系だな、利隆。

58: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/27(水) 18:48:27 ID:jyqMOe5V
利隆って30で家督を継いでわずか3年で死んでる・・・
殉死って美徳とされて残された家に褒美が与えられたりしてたせいで流行してたみたいだな。


59: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/27(水) 22:15:19 ID:IyslFoUT
輝政や光政が名君ってのはわかるけど、逆に、岡山、鳥取とかで暗君と呼ばれたやついるの?
大虐殺しました!人間を茹でちゃいました!とか

61: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/27(水) 22:49:26 ID:ndErOQM4
>>59
鳥取では暗君とも呼ばれ無いくらい何もしてない。
まったくと言って良い。
評価依然に評価のしようがない。
因州和紙や鉄、蝋燭や北前船などで金持ちだったはずなのに。
ただ居ただけ。これが鳥取池田の評価とも言える。

63: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/27(水) 23:24:30 ID:bJ2DSSfr
岡山池田の殿さまは、みんなわりといい殿さまだった
学校つくったり、庭園造営したり、新田開発したりと領国経営好き
評判落としたのは、部落差別問題と絡んだ渋沢一揆くらいか


渋染一揆

渋染一揆(しぶぞめいっき)は、江戸時代末期(幕末)の1857年(安政4年)に起こった、備前国岡山藩の被差別部落住民53団による強訴である。

岡山藩の被差別部落民は、藩士より農業指導を受け農業生産を生業としていたため、他藩の被差別部落民より生活水準は良い状況であったと言われる。しかし、池田慶政の財政再建のための藩政改革の柱の一つである藩内の全ての者に対する質素倹約の方針のあおりを受けて、1856年(安政3年)に出された倹約令・別段御触書により、被差別部落民は公式の場の紋無し・柿渋による渋染の着衣(部落民にとっては渋染は、それまで着ていた古着より高価な物であった)、下駄履きの原則禁止などを強制された。

これに対し、各部落の代表者が集まり、白い死装束を着て非武装で強訴を行い、武装した藩士と交渉した。その結果、嘆願書を藩主に渡すという要求は実現し、御触書は撤廃された。ただし首謀者は、厳しい取り調べなどにより死亡した。


64: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/28(木) 01:59:56 ID:zSm3S1Mb
>>63
>部落差別問題と絡んだ渋沢一揆くらいか

もし俺が学校で教わった通りなら十分だからなぁ
その時の岡山池田藩がどのような政治とっていたか○解り。
その時期は悪政と言える。

65: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/28(木) 03:26:50 ID:5RkXT/4q
>>63
まあ、備前池田の殿さまは文治に向いてたんだろう。
岡山・播磨あたりの瀬戸内は、気候温暖だし地味が豊かだから初期条件が恵まれてる。
つか、殿さまが余程のバカ殿でない限りもともと楽に治められる国っていうのもあるけどな。あのへんの心配ってせいぜい水不足くらいじゃないの?

東北の農民なんて、初期条件からして悲惨だぜ…

67: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/30(土) 05:08:50 ID:hfJi1dPe
恒興はかぶりものがキャラ立ってて印象に残る分、輝政より存在感はある気はする
それ以外は清洲会議と三河中入れぐらいしか、あんまり具体的なイメージ浮かばんが
信長の馬廻りで、織田家宿老なのにな

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68: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/30(土) 08:50:45 ID:oCRBQe/q
確かに輝政は画像として、イメージが思い浮かばないなあ

69: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/02(月) 07:20:55 ID:RsnTRzi5
じゃあ、輝政のイメージを固めるために逸話でも・・

大した功もないのに播磨52万石、さらに備前32万石を与えられた輝政。
あるとき督姫づきの侍女が
「ご当家が栄えているのは、督姫さまのおかげですねー」
と、つい本当のことを言ってしまった。
輝政は督姫の前で
「何を言うんだね!そんなことはない。そんなことはないぞー!」
と、その侍女を叱責した。

あとで輝政はその侍女をこっそり呼びつけ、
「まあ確かに当家が栄えてるのは、ぶっちゃけ奥のおかげなんだが、奥の前でそんなことを言うと、奥がつけあがって夫婦仲が悪くなるだけだから、督姫の前ではそういうことを言わないでくれよ」と頼んだ。

132: 人間七七四年 2007/08/08(水) 04:43:57 ID:2Rl/S0e5
輝政ってチビでほかの大名にバカにされてたとか 
戦国大名もいい年こいて消防みたいなことするんだな

133: 人間七七四年 2007/08/15(水) 19:16:46 ID:7zQgMoqL
>>132 
兜を飾って背を高く見せるとか、色々やってるよなw

71: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/02(月) 19:49:59 ID:0XpIhWZT
恒興、元助が戦死しなかったら池田はあそこまでいけなかった?

双方戦死せず、且つ、督姫がこなかった場合、池田の領土はどの位が適正か?またどの辺りに封じられるか?

80: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/08(日) 03:42:37 ID:ALs63AIO
>>71
元助の正妻は、長男の由之を産んで死んでいて元助にも正室不在だったから、元助のとこに督姫が来ただけでは?
督姫の再婚先にほかに適当なところってあったのかな?

118: 人間七七四年 2007/06/04(月) 20:46:11 ID:UkIDZ9hR
池田秀雄、秀氏について教えて下さい。
池田 景雄(いけだ かげかつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。伊予国分城主。諱は後に豊臣秀吉の偏諱を受けて秀雄(ひでかつ / ひでお)と改めた。

池田 秀氏(いけだ ひでうじ)は、安土桃山時代の武将、大名。伊予大洲城主。豊臣秀吉の家臣で、後に藤堂高虎に仕えた。諱は高祐ともし、池田高祐の名でも知られる。


124: 人間七七四年 2007/06/05(火) 12:41:32 ID:AxFs0+C8
池田秀氏家は、佐々木氏の分流で、六角氏の重臣だから、分家とはいえ佐々木源氏系統で、一番血筋がはっきりしている。

125: 人間七七四年 2007/06/05(火) 19:07:02 ID:VV7VPmBL
池田秀雄、最期は四国で7万石ぐらいの大名?
最期がよく分からないんだよね。誰か知っています?

127: 人間七七四年 2007/06/10(日) 02:43:40 ID:YFkGQX3E
藤堂家に仕えて、のちに幕府の旗本になった、ような気がする

129: 人間七七四年 2007/06/10(日) 21:43:54 ID:wWThyJEa
池田勝正は金ヶ崎の退き口での活躍が秀吉や光秀に取られてるし、踏んだり蹴ったり。
池田秀雄も朝鮮出兵で散々な目に遭って病死して子孫は旗本に没落。
ラッキーなのは尾張池田だけ。

144: 人間七七四年 2007/10/26(金) 18:01:28 ID:bCaE9k3k
元助の名前ってどこからきているんだろ?
だれからの偏諱だ

145: 人間七七四年 2007/10/26(金) 22:00:13 ID:wOqwDUft
>>144
「之」助が、達筆?で「元」助に誤読されて広まったみたい。
以下、wikより転載。

>元助の嫡男は由之と称しており、実際の名前は「之助」であった可能性が高い。

146: 人間七七四年 2007/11/12(月) 14:08:39 ID:SM9eafb8
>>145
でも、二男は元信って名乗ってるから。
ちなみに元信は織田秀信と従兄弟。母親が姉妹。

148: 人間七七四年 2008/01/27(日) 17:09:00 ID:a37XKOii
結局、尾張池田氏にはろくな通字すらないってことか?

149: 人間七七四年 2008/01/29(火) 21:27:38 ID:wMAz8Eba
尾張池田の出自には説が色々とあるけれど、どれも裏づける史料がなかったはず。だから不詳なんじゃなかったか。
ところで紀の池田は美濃と摂津にわかれたらしいが美濃の方は戦国で名前がでてこないけど滅んだのか?

150: 人間七七四年 2008/01/31(木) 04:24:34 ID:W9Mwt22m
別に滅んじゃいないだろ。

154: 人間七七四年 2008/02/21(木) 22:35:56 ID:EoAYjcRG
恒興の父親が早く死んで詳しい血筋がわからなくなったんじゃない?
美濃に父親の墓があるってwikiに書いてるから摂津や美濃の池田となんらかの関係はあると思うけど。
滝川一益と従兄弟はどうなんだろ。

156: 人間七七四年 2008/07/16(水) 22:54:56 ID:ZWe/AOtW
元助(之助)って名前は諱ってより通称みたいだな。
なんで恒興の息子が元助(之助)と輝政なんだろ。
通字も無いし、信長の乳兄弟なんだから一字もらったりとかなかったのかな。

157: 人間七七四年 2008/07/25(金) 00:39:31 ID:yOPJX69/
一応、恒興の父が恒利らしいから、池田家の通字は「恒」だと思う。
でも、江戸時代の通字は「政」に変わってるw
よく分からないな、この辺りの事情は。

140: 人間七七四年 2007/10/11(木) 04:09:03 ID:ZF/d4V21
幕府が諸侯に系図の提出を命じた。
諸侯「拙者は桓武平氏~流」「某は清和源氏~流」と盛り上る。
池田光政にも「池田殿は?」
光政「何の話で御座ろうか」
一同「ほれ、例の系図の」
光政「あぁ、それならば林大学頭に創らせている所で御座る」
一同「ワーハッハ!(こりゃ参った)」

160: 人間七七四年 2008/09/12(金) 11:16:51 ID:aKQOxpL+
時代は遡って光政が「いま系図を林大学に作らせております」=出自ない といっているが

仮にも恒興の母親は信長の乳母なんだからそんじょそこらの庶民レベルよりは上の出自だろう。(美濃池田氏説はあるにはある)

摂津池田の末裔はそれこそ信長から荒木退治の功で摂津貰ったときに「おんなじ苗字だし、向こうはメジャーだし、関係者とか言っといたほうが地元の評判よくね?」的に言い出したんじゃないかなと。

161: 人間七七四年 2008/09/28(日) 22:42:17 ID:ojpi3wmf
江戸時代の大名なんてみんな庶民上がりだからね。
えらそうな系図を信じてるアホ大名より、冷静な人が多いんだな。
鳥取藩主の池田定常(学者として有名)も、
「今の武家は民間から出てきて大名になった者が多いのでのその先祖はよくわからない。うちも恒利以前はわからない」
って言ってるしね。

162: 人間七七四年 2008/09/28(日) 23:33:29 ID:+FPtfd8f
光政の>>140>>160のような洒落っ気が好きだw

引用元: ・池田氏について語るスレ