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1: 日本@名無史さん 2024/01/14(日) 13:27:31.61
光文社「鎌倉幕府と室町幕府」より
・実は元寇後の恩賞問題で御家人が大きな不満を抱いたというような資料はない
・北条が特別悪政を敷いたという事はなく安定した政治をしていた
・調べるほど、幕府の安定性が浮き彫りになる
・結局鎌倉幕府が滅んだ理由は専門家もわからない

なんでほろんだの?
単純に戦いで負けたから?








3: 日本@名無史さん 2024/01/14(日) 17:47:53.80
北条が地位を独占しているから妬みが多くなっていた

17: 日本@名無史さん 2024/01/20(土) 03:43:25.35
尊氏が幕府離反決めたのも、一回楠討伐に向かった際に直に反幕府の空気を感じたからではないかって、呉座勇一編集の本に書いてあったな

12: 日本@名無史さん 2024/01/18(木) 20:18:46.86
鎌倉時代の京都には上皇の院政と鎌倉幕府は藤原氏の摂政・関白を中心とした朝廷秩序を求めたが、上皇・法皇の院政側は拒否しつずけて鎌倉と対立したんだよ。

16: 日本@名無史さん 2024/01/19(金) 10:22:33.45
我々が思ってる以上に天皇の力が強かったのではないか
承久の乱はたまたま戦闘で敗れたけど後鳥羽上皇の命令に多くの人間が従って幕府軍と戦った
後醍醐天皇のときも多くの人間が天皇に従い幕府軍との戦闘に勝った

19: 16 2024/01/20(土) 10:23:29.90
66カ国にまだ国府があって国衙領があって国司・在庁官人がいて、さらに皇族貴族寺院の荘園も豊富にあって、後醍醐天皇方に付くと得する者も多かったのではないか

20: 日本@名無史さん 2024/01/24(水) 08:29:17.11
当時の武家に滅んだという認識はなかったはず
鎌倉幕府の後継組織は室町幕府ではなく鎌倉府

77: 日本@名無史さん 2024/02/14(水) 10:38:11.01
元寇が発端。
御恩と奉公という幕府と御家人との一種の契約が履行出来なくなったから

120: 日本@名無史さん 2024/03/16(土) 19:20:42.65
>>77
本領安堵が頼朝だったっけ?
そのあと、元寇までだいぶ年数があるから、御恩と奉公というのが忘れられてると思うんだけど。
昔はいい時代だったんだがあんな時代は本当にあったのかねえ
くらいに思われてたかも。人の寿命も短かかったわけで

87: 日本@名無史さん 2024/02/21(水) 02:55:48.84
源頼朝がつくった鎌倉幕府なのに、源氏ではなく北条氏に占領・寄生された。
鎌倉という土地が山に囲まれ閉鎖的で発展性がなくなった→ほかの土地に都を遷都しよう説。

89: 日本@名無史さん 2024/02/21(水) 16:16:17.90
>>87
源氏なんて北条にとっては最初から"神輿"でしかなかったんでしょ。
別に源氏でなくても自分達の旗頭になれる貴種であれば誰でも良かった。
武士による政権を立ち上げるためには武士だけが寄り集まっても朝廷の権威には対抗出来ないから流人の頼朝を担いだだけの事。

幕府という政権が立ち上がってしまえばあとは神輿なんか何だっていいし。
まして頼朝は娘を後鳥羽天皇に入内させようと工作したから排除された。
頼朝は平家に比べればまだ武士の本分は弁えていたかもしれんが、それでも骨の髄までは武士になり切れなかった。
だから最後には自分も平家、もっと遡れば藤原氏の猿真似に走って朝廷にすり寄ろうと…

92: 日本@名無史さん 2024/02/28(水) 16:58:25.97
得宗専制成立までは実力と善政で御家人=在地領主の支持を得たが、特に元寇後の社会変動に伴う御家人の不満と新興領主の台頭を抑え込むには北条氏に権威と正当性が足りず

後醍醐の個人的動機からの倒幕が引き金になって有力御家人の反乱でオセロみたいに一気にひっくり返った

狭義の室町時代が1392-1467の70年足らずであるの考えると、長持ちしたよ

94: 日本@名無史さん 2024/03/02(土) 12:46:33.63
元々、御家人たちは鎌倉に屋敷を構えて、所領と鎌倉の両方に拠点を持っていた
そして、鎌倉屋敷に駐在する者が幕府の行事に参加していた
だが、得宗専制期になると、行事に参加できなくなったらしい
やがて、鎌倉屋敷を引き払って、所領へ引き上げていったらしい
こういう御家人の動きは、幕府が短期間で一気に滅亡したことと関係が深いと思う

96: 日本@名無史さん 2024/03/02(土) 18:27:51.36
>>94
その先、即ち「何故所領に引き上げて行ったか」を考えるべきだろう。
現場に腰を据えて直に差配しなければ収まらないような事態が在地に生じていたからではないか。
多くの御家人が在地に向かったとするなら、その動向の原因は個別の表面的な政治事情などに非ず、もっと普遍性のある要素に起因する状況だったと見なければならない。
 

95: 日本@名無史さん 2024/03/02(土) 17:33:48.72
鎌倉にいるといつ闇討ちされるか分かんないしね。

98: 日本@名無史さん 2024/03/03(日) 09:14:43.57
当時は鎌倉幕府なんて名称はなく鎌倉殿率いる集団くらいの認識だから、そういう意味では鎌倉殿と呼ばれた尊氏義詮までは鎌倉幕府が続いたことになる
鎌倉10代将軍が足利尊氏 11代将軍義詮
室町初代将軍足利義満

99: 日本@名無史さん 2024/03/03(日) 14:11:10.69
>>98
基氏から義氏まで九代。
成氏の時に古河に移ったがずっと「鎌倉殿」と呼ばれていた。

102: 日本@名無史さん 2024/03/04(月) 02:40:45.00
当時の呼び名で呼ばないと物事の本質を見誤ると思える
「鎌倉幕府」と呼ばずに「鎌倉殿」と呼ぶべきではないか

北条一族の人らはどういう自称・他称だったのか?

北条氏
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B0%8F
>北条から移住した後も実際に北条の名字で呼称されたことが確認できる者は時政、時頼などごく少数派である

北条泰時
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E6%B3%B0%E6%99%82
>「北条泰時」は便宜上の歴史用語である。前述のように元服後の名乗りは江間太郎(江間村の領主の長男)、父の任官後は「相模太郎」(相模守の長男)を称し、その後も「相模修理亮泰時」と称するなど、生涯一度も北条と名乗った形跡は無い。

103: 日本@名無史さん 2024/03/04(月) 03:30:17.11
>>102
ちょっと言葉足らずだったな

・父親と息子で名字が違う
・惣領家と庶家は名字が違う
・ていうか、歴代北条一族トータル1000人くらい?全員名字がバラバラ?

・・・・で、それでよく一族としてまとまることができたな
誰が誰か区別できた?
有事の際の指揮系統とかどうなってんの?

得宗家の庶家は名越流とか大仏流とか呼ばれてるけど、そういう名字? その名字を代々引き継いだ? それともバラバラ?
政村流だけなんで諱?
庶家の庶家は? 庶家の庶家の庶家は? 得宗家の後代の庶家は?
庶家として独立できなかった人はどうなった?

104: 日本@名無史さん 2024/03/04(月) 06:11:17.35
あるいは、史料がなくて確認できないだけでおおむね「北条」が自称であるとか?

105: 日本@名無史さん 2024/03/04(月) 06:20:08.55
庶家を1家作るには財源がいるよな
北条一門の財源は?

どうしても上級庶家 中級庶家 下級庶家にわかれるよな
あと、庶家が被官化してしまうこともある?

115: 日本@名無史さん 2024/03/05(火) 00:19:37.86
>>105
義時が江間の始祖だと言うけど、当時ただでさえ狭い北条の領土からさらに狭い領土与えられただけだから、頼朝の挙兵もなくつつがなく伊豆の国人のままだったら義時とか百姓同然だったかもしれん

106: 日本@名無史さん 2024/03/04(月) 06:29:31.51
北条一門、家格の高い者は朝廷の官職に就いているけど国司の場合は国衙に目代を派遣して遙任国司として国衙領の収益だけgetしている?
いくらくらいの収入になるんやろ?

京官の場合は実際に朝廷の役所に出勤して勤務している? そんなわけない?
京官の収入っていくら? 収入なくて国司を兼帯しないと食っていけないとか?(京都の官人の場合)

117: 日本@名無史さん 2024/03/09(土) 15:15:34.86
領主になれる最低限度の規模とは?
農業以外の収入は?
平将門も能登の時国家も海運業で富を蓄積したようだしな

118: 日本@名無史さん 2024/03/11(月) 09:35:28.20
ネットで「開発領主」って検索したら「1町から」って書いてあるな
本当かどうかわからんけど。
あと、自分が農業をやったことないので1町の農地のオーナーがどういうものかよくわからん

1町程度で領主なら日本全国に大量にいそうだな。
土地の私有はできないので国司に申請して「名」「保」などに認定してもらってさらにその土地の荘官と認めてもらって初めて成立するのか。
あるいは有力貴族に寄進するか。
その後、その土地の地名を名乗って権利を主張できたのだろうか? そうでもない?
領主と言っても納税される側であると同時に常に納税者でもあるんだな

119: 日本@名無史さん 2024/03/11(月) 09:43:53.09
竹崎季長のウィキペディアを見たら所領争いに敗れて没落したって書いてあるな。
どうやって食ってたのだろうか?
自給自足できるくらいの耕作地はあった?
所領を継承できなくても御家人の地位は継承できるのか。
元寇がなかったら庶民まで転落した?

文永・弘安の役で一緒に行ったのが姉の旦那の三井三郎資長と、「資」の字を持つ郎党2人+中間1人か。
1町程度の領主でこんなもんなのかもしれんな。わからんけど

213: 日本@名無史さん 2024/05/01(水) 23:03:30.12
鎌倉は当時の経済都市圏から離れすぎてスポンサーが貧乏すぎる

219: 日本@名無史さん 2024/05/26(日) 08:07:51.83
ウィキペディアを見たら
北条家ってあくまでも御家人の筆頭で、君主は将軍だったんたねぇ
摂家将軍、皇家将軍も源義家の女系の子孫で、鎌倉幕府の正統性は源氏の権威にあった

北条家は権威付けのために足利家との婚姻を繰り返して、最後は足利と新田に離反されて滅亡
新田義貞の旗揚げから北条家滅亡までの経緯はまるで戊辰戦争みたい

元寇の後始末が破綻したというのは定説だけど、そこに「そもそもなんでお前らが仕切ってるの?」という反発も加わったんだろうな

223: 日本@名無史さん 2024/06/08(土) 21:07:29.94
実質的には北条から足利に変わっただけって思ってたんでしょ

224: 日本@名無史さん 2024/06/10(月) 17:17:20.49
御内人がもっと増えていけば、御内人は北条得宗政権の「御家人」となり、北条主従による政権になっていたのかも知れない
その前段階で、鎌倉殿の御家人の蜂起を招いてしまい、期せずして滅亡してしまった

231: 日本@名無史さん 2024/06/22(土) 13:22:34.16
ウィキペディア情報では
北条家はあくまでも御家人の筆頭で、鎌倉幕府の主君は将軍
摂家将軍も宮将軍も源義朝の女系子孫
北条家は権威を高めようと足利家との婚姻を繰り返したりしたが、最後は足利家と新田家に離反されて存在意義を失って滅亡した
というニュアンスだな

鎌倉幕府という政府が滅亡したと言うより、武家政権内での主導権争いから北条家が転落した
という位置づけなのだろう
幕府という言葉も江戸幕府が初めて使ったのであって、鎌倉も室町も独自の統治機構の自覚はなかったわけだからな
源頼朝が求めたのは令外の官としての征夷大将軍と、朝廷から干渉されずに武家を束ねる権利
そして武家の主導権が足利家に移った
幕府(ばくふ)は、日本において征夷大将軍を首長とする武家政権もしくはその政庁を指す語。

源頼朝は建久元年(1190年)、権大納言と右近衛大将(右大将)に任じられた。そのため、政庁(居館)が「幕府」と呼ばれた。その後、建久3年(1192年)に征夷大将軍に任ぜられるが、居館は引き続き「幕府」と呼ばれ、以後、「幕府」は武家政権の首長およびその居館の呼称として用いられた。ただし、鎌倉時代末には、現代において「鎌倉幕府」と呼ばれている政体を「東関柳営」もしくは「東関幕府」と呼んだという同時代史料が存在している。

239: 日本@名無史さん 2024/06/28(金) 13:23:03.12
元寇において、御家人は幕府との「御恩」と「奉公」という関係に基づき、私財を投じて戦場へと赴いた。しかし、十分な恩賞は与えられず、北条氏による守護職の独占が強まる一方で、本来御家人に与えられるべき褒賞である領地は彼らに渡されることはなかった。
幕府は徳政令によって困窮する御家人の窮状を救おうとしたものの、経済の混乱は収束せず、根本的な解決には至らなかった。結果、御家人と幕府の関係は崩壊の道を歩み始めたのである。

244: 日本@名無史さん 2024/06/29(土) 09:45:44.82
戦死した御家人の領地を生き残った御家人に与えれば褒賞になったわけだし、3度目の来襲があるかもしれない状況で北部九州を北条家で固めたのも私利私欲が全てとは言い切れない
通説もまるっきりの誤りでもないだろうが、通説に疑問を持つことにも一理ある

楠木正成も足利尊氏や新田義貞も、元寇に参加して報酬が貰えなかったのかって言ったら、そもそも元寇に参加していないみたいだしな

豊臣秀吉の朝鮮征伐が遠因となって明が滅びたように、鎌倉幕府も戦費がかさんで疲弊したら対抗勢力を抑えきれなくなったということだろう

246: 日本@名無史さん 2024/06/29(土) 21:24:07.45
有力御家人である三浦一族と執権北条泰時の対立が激化し、三浦一族が滅亡した事件(三浦の変)と、それに続く安達泰盛の失脚が、御家人の勢力バランスを大きく変化させ、幕府権力の基盤を弱体化させたこと

462: 日本@名無史さん 2024/10/08(火) 12:50:21.83
ふと思ったけどよ、最近 マンガがヒットしててアニメも人気な逃げ上手さんが護良親王を生きたまま確保できてたら、鎌倉幕府再興できてたんじゃねーの

護良親王は解任されたとはいえ前の征夷大将軍やし、得宗家の生き残りもいる
そもそも鎌倉時代後半には鎌倉の将軍は皇族将軍ばかりで、護良親王も皇族将軍なんやから、資格は十分

名分の乏しかった史実の戦いでさえ一時は足利軍を圧倒して直義を撤退させてるんやから、もし護良親王も合流できてたら足利軍を完全に打ち破って尊氏をも破ることができてたかもしれん

それを懸念したから直義は汚名を被ってまで護良親王を殺害してから逃げたんやしな

467: 日本@名無史さん 2024/11/20(水) 23:26:20.30
鎌倉幕府は滅んだのかもしれんが、すぐあとに鎌倉府ができただろ
将軍がいるわけじゃないから幕府じゃなかったけど、足利氏の公方さんがいて、実質的に幕府同然だったわけじゃん
だから鎌倉幕府は滅んだんじゃなくて、続いてたってことだよ。
もっといえば、鎌倉幕府の流れは古河にうつって、江戸開府直前まで続いてたってことだな。

468: 日本@名無史さん 2024/11/21(木) 12:39:37.72
西ローマ皇帝がいなくなった事が西ローマ帝国の滅亡とは違うみたいなものか

引用元: ・なぜ鎌倉幕府は滅びたのか


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鎌倉幕府と室町幕府 最新研究でわかった実像 (光文社新書) 新書 – 2022/3/16 山田 徹 (著)