1: 世界@名無史さん 2005/05/19(木) 22:41:48 0
曲阜の孔家(衍聖公)、麗江木氏(土司)、清朝の蒙古王族など、4000年の中国史を彩る王侯将相権臣門閥名紳貴顕勢族富家などについて語りましょう。
4: 世界@名無史さん 2005/05/19(木) 23:26:43 0
潁川陳氏、弘農楊氏、琅邪王氏、太原王氏、陳郡謝氏、陳郡袁氏、潁川庾氏、河南褚氏、譙國桓氏、渤海刁氏、清河崔氏、范陽盧氏、趙郡李氏、渤海高氏、隴西李氏。
六朝隋唐の名家はメジャーどころだとここらへんか。
六朝隋唐の名家はメジャーどころだとここらへんか。
7: 世界@名無史さん 2005/05/19(木) 23:40:07 0
楚の昭、景、屈氏
晋の六卿
魯の三桓
晋の六卿
魯の三桓
晋(春秋)(しん、紀元前11世紀 - 紀元前376年)は、現在の中国山西省に西周代、春秋時代にわたって存在した国家である。春秋末期、晋は事実上、范氏・智氏・中行氏・趙氏・魏氏・韓氏の4氏6家系により支配されるようになり、他の有力大夫を排除して六卿を世襲するようになっていた。
37: 山野野衾 ◆a/lHDs2vKA 2005/05/26(木) 22:00:34 0
武林隆重も孟子六十一世という事でしたが、自称がずいぶんといそうですね。
勿論、認められた家というものもあったのでしょうが。
勿論、認められた家というものもあったのでしょうが。
武林 隆重(たけばやし たかしげ、寛文12年(1672年)-元禄16年2月4日(1703年3月20日)は、江戸時代前期の武士。赤穂浪士四十七士の一人。隆重の祖父は、文禄・慶長の役で日本軍の捕虜になった明軍所属の孟二寛である。
「江戸名所図絵」巻六 金竜山浅草寺の項によれば、孟二寛は古代中国の思想家孟子の後裔(広島の国泰寺塔頭南湘院墓地にある墓によれば孟子から六十一世)として浙江省杭州(旧称は西府)武林に生まれ、医学を学んで育ち、文禄の役の際に日本軍の捕虜となったが、医術に精通していたことから毛利家が召し抱えたという(しかし文禄の役に毛利家は出陣していない。慶長の役には毛利秀元が出陣している)。
一方、広島の国泰寺塔頭南湘院墓地にある墓によれば「明杭州武林郡人 漂流仕長門国 称孟二官 後仕芸州藩 為医官 改武林治庵 明暦三年丁酉五月十八日病死 実亜 聖孟子六十一世裔也」とあり、捕虜ではなく漂流説をとっている。
「江戸名所図絵」巻六 金竜山浅草寺の項によれば、孟二寛は古代中国の思想家孟子の後裔(広島の国泰寺塔頭南湘院墓地にある墓によれば孟子から六十一世)として浙江省杭州(旧称は西府)武林に生まれ、医学を学んで育ち、文禄の役の際に日本軍の捕虜となったが、医術に精通していたことから毛利家が召し抱えたという(しかし文禄の役に毛利家は出陣していない。慶長の役には毛利秀元が出陣している)。
一方、広島の国泰寺塔頭南湘院墓地にある墓によれば「明杭州武林郡人 漂流仕長門国 称孟二官 後仕芸州藩 為医官 改武林治庵 明暦三年丁酉五月十八日病死 実亜 聖孟子六十一世裔也」とあり、捕虜ではなく漂流説をとっている。
38: 世界@名無史さん 2005/05/26(木) 23:13:23 0
日本名が武林なら本姓は武氏?ですか。
孟子の直系子孫は孔家と同じく貴族待遇と聞いたことがあります。
孟子の直系子孫は孔家と同じく貴族待遇と聞いたことがあります。
39: 山野野衾 ◆a/lHDs2vKA 2005/05/27(金) 00:01:03 0
孟姓で、来日後故郷の名を取って日本風に武林と改めたとか。
すみません。典拠が手元にある訳ではありません。
すみません。典拠が手元にある訳ではありません。
40: 36,38 2005/05/27(金) 00:57:55 0
武林唯七隆重は赤穂浪士ですね。江戸時代に帰化した中国人はけっこういるみたいです。
医家や僧侶が多いような気がします。
医家や僧侶が多いような気がします。
41: あやめ ◆C0.O2CxIMg 2005/05/27(金) 11:23:03 0
武林は杭州の雅称です。唯七の先祖が杭州の出身だったようです。
徳川時代に帰化した明・清人にはこうした本貫の日本風読みがしばしば見られます。
(高氏)渤海>深海>深見ふかみ(陳氏)潁川えがわ(劉氏)彭城さかき(趙氏)鉅鹿おおしか
(郭氏)汾陽かわきた
以上はちょっと思いついた例だけですが、他では「江夏」もそうだったように記憶します。
徳川時代に帰化した明・清人にはこうした本貫の日本風読みがしばしば見られます。
(高氏)渤海>深海>深見ふかみ(陳氏)潁川えがわ(劉氏)彭城さかき(趙氏)鉅鹿おおしか
(郭氏)汾陽かわきた
以上はちょっと思いついた例だけですが、他では「江夏」もそうだったように記憶します。
46: あやめ ◆C0.O2CxIMg 2005/05/31(火) 15:06:39 0
>>41
訂正
「鉅鹿」の訓みは「おおしか」ではなく「おおが」で、唐姓は「趙」ではなく「魏」が正しいようです。この家系も深見や彭城と同じく長崎の唐通辞で、現在の当主は鉅鹿直賢という方です。
あやめの叔父の話では40年程前に裁判官で鉅鹿姓の方がおられたそうです。また戦前の横浜にあった野球のクラブチーム(金港クラブ)の選手に潁川姓の人がおり、陸上自衛隊の将官に汾陽姓の方がおられたそうです。
訂正
「鉅鹿」の訓みは「おおしか」ではなく「おおが」で、唐姓は「趙」ではなく「魏」が正しいようです。この家系も深見や彭城と同じく長崎の唐通辞で、現在の当主は鉅鹿直賢という方です。
あやめの叔父の話では40年程前に裁判官で鉅鹿姓の方がおられたそうです。また戦前の横浜にあった野球のクラブチーム(金港クラブ)の選手に潁川姓の人がおり、陸上自衛隊の将官に汾陽姓の方がおられたそうです。
47: あやめ ◆C0.O2CxIMg 2005/05/31(火) 15:35:59 0
また訂正 「汾陽」の訓みは「かわきた」ではなく「かわみなみ」のようです。
北里大獣医学かに汾陽光盛という教授がおられます。この方の御先祖は薩摩藩の琉球在番奉行だった人ではないかと思います。
北里大獣医学かに汾陽光盛という教授がおられます。この方の御先祖は薩摩藩の琉球在番奉行だった人ではないかと思います。
51: 世界@名無史さん 2005/06/02(木) 22:48:33 0
→「汾陽」の訓みは「かわきた」ではなく「かわみなみ」のようです。
漢籍では河川の北側を陽というので「かわきた」のほうがしっくりくるような気がしますが姓名なのでなんとも言えませんね。
他にも例があったら教えてください。
漢籍では河川の北側を陽というので「かわきた」のほうがしっくりくるような気がしますが姓名なのでなんとも言えませんね。
他にも例があったら教えてください。
59: あやめ ◆C0.O2CxIMg 2005/06/04(土) 14:54:53 0
>>51
御指摘のとおりで最初カワキタと読んだのは叔父の話からで、叔父も汾水の陽なら北だろうと思っての記憶のようです。そしてぐぐったら北里大の先生がヒットしてミナミと振り仮名があったので、それに従った次第です。
馮氏の平野という和姓の由来が判らないけど強いて考えると、郡望に始平(陝西)の馮氏というのがあるから、その辺から持って来たものか?
唐通詞の和姓に河間というのは郡望から河間の張氏、清川というのは清河の崔氏が推定できます。江夏も郡望から江夏の李氏あたりでしょうか。
御指摘のとおりで最初カワキタと読んだのは叔父の話からで、叔父も汾水の陽なら北だろうと思っての記憶のようです。そしてぐぐったら北里大の先生がヒットしてミナミと振り仮名があったので、それに従った次第です。
馮氏の平野という和姓の由来が判らないけど強いて考えると、郡望に始平(陝西)の馮氏というのがあるから、その辺から持って来たものか?
唐通詞の和姓に河間というのは郡望から河間の張氏、清川というのは清河の崔氏が推定できます。江夏も郡望から江夏の李氏あたりでしょうか。
57: 世界@名無史さん 2005/06/04(土) 05:15:54 0
>>41
長崎唐通詞の例だと
馮氏→平野氏 林氏→官梅(かんばい)氏等
参考「長崎唐通事」について
ttp://www5.big.or.jp/~n-gakkai/katsudou/reikai/200104_01_01.html
あと張氏→弓長(ゆみなが)というもあったな。
長崎唐通詞の例だと
馮氏→平野氏 林氏→官梅(かんばい)氏等
参考「長崎唐通事」について
ttp://www5.big.or.jp/~n-gakkai/katsudou/reikai/200104_01_01.html
あと張氏→弓長(ゆみなが)というもあったな。
42: 世界@名無史さん 2005/05/27(金) 19:21:10 0
確かトヨタの張富士夫氏の先祖も明清交替期の亡命華僑だと思ったけど、これは本姓で通してる珍しい例。
57: 世界@名無史さん 2005/06/04(土) 05:15:54 0
>>42
トヨタの張氏はいろいろいわれているが徳島県には中国とは何の関係もない「張」という
姓がある。まぁご本人は東京の都会育ちだから先祖のことなど知らんかもしれん。
ついでに秋田県には韓国とは何の関係もない「金」という苗字があり、作家の今東光、今日出海兄弟はこの一族出身。
トヨタの張氏はいろいろいわれているが徳島県には中国とは何の関係もない「張」という
姓がある。まぁご本人は東京の都会育ちだから先祖のことなど知らんかもしれん。
ついでに秋田県には韓国とは何の関係もない「金」という苗字があり、作家の今東光、今日出海兄弟はこの一族出身。
58: 42 2005/06/04(土) 07:44:48 0
>>57
張富士夫氏の本籍(というか本貫)って阿波なの?!
以前何かの本で明清交替期亡命華僑の末裔だって、本人のインタビュー付きで読んだ事があるんだけど、見間違いだったのか……?!(汗
>ついでに秋田県には~「金」という苗字があり
秋田というか東北一帯ね。ついでに読み方は「きん」じゃなくて「こん」。
同じく東北一帯に多く見られる、「今」「紺」「昆」「今野」「紺野」「近野」「昆野」「金野」等の「こん」「こんの」姓も、この亜種(同族)と見られる。
張富士夫氏の本籍(というか本貫)って阿波なの?!
以前何かの本で明清交替期亡命華僑の末裔だって、本人のインタビュー付きで読んだ事があるんだけど、見間違いだったのか……?!(汗
>ついでに秋田県には~「金」という苗字があり
秋田というか東北一帯ね。ついでに読み方は「きん」じゃなくて「こん」。
同じく東北一帯に多く見られる、「今」「紺」「昆」「今野」「紺野」「近野」「昆野」「金野」等の「こん」「こんの」姓も、この亜種(同族)と見られる。
44: 世界@名無史さん 2005/05/31(火) 02:47:46 0
蒙古王族徳王について詳しい本はないでしょうか?
デムチュクドンロブ(1902年2月8日 - 1966年5月23日)は、南モンゴルの政治家。ソニド右旗(現在の内モンゴル自治区シリンゴル盟)にチンギス・ハーンの30代目の子孫として生まれる。通称「徳王」(とくおう)。1930年代から日本軍に協力し、蒙古聯合自治政府の主席を務めた。
45: あやめ ◆C0.O2CxIMg 2005/05/31(火) 14:48:27 0
「徳王自伝―モンゴル再興の夢と挫折」(森久男訳、岩波書店刊)がありますが、絶版になってると思います。
53: 世界@名無史さん 2005/06/02(木) 22:58:00 0
>>45
ありがとうございます
蒙古の徳王が来日したとき、どこに行っても人が一杯なので自分の後に人が付いてきていると思っていたらしい。
ありがとうございます
蒙古の徳王が来日したとき、どこに行っても人が一杯なので自分の後に人が付いてきていると思っていたらしい。
48: 世界@名無史さん 2005/05/31(火) 16:30:35 0
「貞観政要」の中で、地方豪族同士が近親婚(異姓の従兄妹婚)を続けていることに関して、唐太宗が怒ってこれを禁止したとかあったように記憶していますが、こういった行為はそれ以前もそれ以後も一般的であったと考えて宜しいのでしょうか?
(禁止しても、その代だけとか。)
(禁止しても、その代だけとか。)
52: 世界@名無史さん 2005/06/02(木) 22:52:25 0
>>48
春秋戦国時代に諸侯の間で近親間の姦通が多かったらしい。
春秋戦国時代に諸侯の間で近親間の姦通が多かったらしい。
54: 斉襄公 2005/06/03(金) 13:04:46 0
>>52
えっ、妹、姦通?なんのこと?あなた魯の人?
えっ、妹、姦通?なんのこと?あなた魯の人?
64: 世界@名無史さん 2005/06/13(月) 01:22:54 0
中国で最高の名家は?
皇室か孔家のいづれかだと思うのですが。
皇室か孔家のいづれかだと思うのですが。
65: 世界@名無史さん 2005/06/13(月) 23:55:29 0
あるいは延恩侯朱氏か?
延恩侯(えんおんこう)は、明朝(1368年 - 1644年)の末裔が清朝(1644年 - 1912年)の諸侯に封じられた際に授けられた封号であり、世襲の爵位である。この封号の所持者は明の国姓の朱を名乗ったことから朱侯とも呼ばれた。延恩侯は春と秋に、北京の近くの明の歴代皇帝の陵墓で先祖を祀る祭祀を行った。
以下に歴代の延恩侯を示す。養子縁組は関連する家族間で行われた。
1.朱之璉 - 1725年に雍正帝により侯爵の爵位を授けられる。1730年に亡くなる。1750年に乾隆帝から延恩侯の爵位が追贈される。
2.朱震 - 朱之璉の息子
3.朱紹美 - 朱震の息子
4.朱儀鳳 - 朱紹美の従子。1777年に称号を継承。
5.朱毓瑞 - 朱儀鳳の息子。1797年に称号を継承。
6.朱秀吉 - 朱毓瑞の息子
7.朱秀祥 - 朱秀吉の弟。1828年に称号を継承。
8.朱貽坦 - 朱秀祥の族祖父。1836年に称号を継承。
9.朱書桂 - 朱貽坦の族叔父。1836年に称号を継承。
10.朱鶴齢 - 朱書桂の養子
11.朱誠端 - 朱鶴齢の族孫。1869年に称号を継承。
12.朱煜勲 - 朱誠端の息子。1882年生。1891年に称号を継承。
以下に歴代の延恩侯を示す。養子縁組は関連する家族間で行われた。
1.朱之璉 - 1725年に雍正帝により侯爵の爵位を授けられる。1730年に亡くなる。1750年に乾隆帝から延恩侯の爵位が追贈される。
2.朱震 - 朱之璉の息子
3.朱紹美 - 朱震の息子
4.朱儀鳳 - 朱紹美の従子。1777年に称号を継承。
5.朱毓瑞 - 朱儀鳳の息子。1797年に称号を継承。
6.朱秀吉 - 朱毓瑞の息子
7.朱秀祥 - 朱秀吉の弟。1828年に称号を継承。
8.朱貽坦 - 朱秀祥の族祖父。1836年に称号を継承。
9.朱書桂 - 朱貽坦の族叔父。1836年に称号を継承。
10.朱鶴齢 - 朱書桂の養子
11.朱誠端 - 朱鶴齢の族孫。1869年に称号を継承。
12.朱煜勲 - 朱誠端の息子。1882年生。1891年に称号を継承。
80: 世界@名無史さん 2005/06/22(水) 22:36:59 0
延恩侯朱氏って本当に明の末裔ですか?
82: あやめ ◆C0.O2CxIMg 2005/06/24(金) 17:51:59 0
延恩侯については「清史稿」の「宣宗本紀」の「道光十七年春三月戊寅朔丙申」の條に繋けて「上は明の長陵・獻陵・泰陵・景陵・永陵に詣り酒を奠(そな)へ、明裔の延恩侯書桂を以て散秩大臣と爲す」の記事が見え、「諸臣封爵世表」中に「一等延恩侯」の格を設けて世系を列記しています。
これによると初代の朱之璉は正白旗漢軍の出身で、雍正二年十二月に明裔ということで正定知府の官から一等侯を特賜されています。彼が卒すると雍正八年十一月に子の朱震が襲爵しています。
乾隆十一年二月に朱震の子の朱紹美が一等侯を襲爵しますが、十四年八月には一等延恩侯世襲に改封され、これに伴い朱之璉に対しても一等延恩侯が追贈されます。朱紹美は何かの事端によって革爵され、彼の従子つまり甥の朱儀鳳が乾隆四十年十二月に襲爵しました。
次に朱儀鳳の子の朱毓瑞が嘉慶二年に襲爵し、彼の子の朱秀吉については「襲」の記載がなく、その弟の朱秀祥が道光八年に襲爵しており、次は朱秀祥の族祖の朱貽坦が翌年に襲爵したことになっています。恐らく秀祥は幼年で嗣爵し直後に夭折したため近親に成人の適格者がおらず、祖父の儀鳳の等輩に当る貽坦が襲爵することになったのかと想われます。
これによると初代の朱之璉は正白旗漢軍の出身で、雍正二年十二月に明裔ということで正定知府の官から一等侯を特賜されています。彼が卒すると雍正八年十一月に子の朱震が襲爵しています。
乾隆十一年二月に朱震の子の朱紹美が一等侯を襲爵しますが、十四年八月には一等延恩侯世襲に改封され、これに伴い朱之璉に対しても一等延恩侯が追贈されます。朱紹美は何かの事端によって革爵され、彼の従子つまり甥の朱儀鳳が乾隆四十年十二月に襲爵しました。
次に朱儀鳳の子の朱毓瑞が嘉慶二年に襲爵し、彼の子の朱秀吉については「襲」の記載がなく、その弟の朱秀祥が道光八年に襲爵しており、次は朱秀祥の族祖の朱貽坦が翌年に襲爵したことになっています。恐らく秀祥は幼年で嗣爵し直後に夭折したため近親に成人の適格者がおらず、祖父の儀鳳の等輩に当る貽坦が襲爵することになったのかと想われます。
83: あやめ ◆C0.O2CxIMg 2005/06/24(金) 18:04:55 0
次には書桂が道光十六年に襲爵していますが、彼は貽坦の族叔ということですから、更に一代を遡って朱紹美の等輩に当ることになり、継襲の順がが些か不自然な感じを受けます。
書桂の次が鶴齡ですが彼は書桂の繼子ということで、果たして血縁の継続があるのかさえ疑わしくも想われます。また「襲」の記載もなく書桂・鶴齡の二代は名諱のみで何故か朱姓が加えられていないのが異例です。書桂は前記の「宣宗本紀」の記述でも朱姓が省かれています。鶴齡の次の誠端も朱姓が加えられていませんが、鶴齡の族孫ということで同治八年に襲爵し、次の朱煜勳は誠端の子で光緒十七年に襲爵しています。彼は「紫禁城の黄昏」に出てる人です。
ところで初代の朱之璉は明の宗室のどういう系統に連なる人物か、それは次回に書きます。
書桂の次が鶴齡ですが彼は書桂の繼子ということで、果たして血縁の継続があるのかさえ疑わしくも想われます。また「襲」の記載もなく書桂・鶴齡の二代は名諱のみで何故か朱姓が加えられていないのが異例です。書桂は前記の「宣宗本紀」の記述でも朱姓が省かれています。鶴齡の次の誠端も朱姓が加えられていませんが、鶴齡の族孫ということで同治八年に襲爵し、次の朱煜勳は誠端の子で光緒十七年に襲爵しています。彼は「紫禁城の黄昏」に出てる人です。
ところで初代の朱之璉は明の宗室のどういう系統に連なる人物か、それは次回に書きます。
98: あやめ ◆C0.O2CxIMg 2005/07/11(月) 00:38:09 0
>>83
朱之璉の明室との連枝関係ですが、なかなか書籍では発見できなかったんですがネット検索で「搜狐網」の関連サイトに沙梨熊という人の執筆した「清十三朝漢軍王公們的最終結局」という記事が見つかりました。沙梨熊という筆者については後にふれます。
この記事は清一代の間に漢人にして王・公・侯爵を蒙った者の本末を略記したものです。基本情報は「清史稿」の「諸臣封爵世表」に載っていますが、これを補う事実も述べられているので貴重です。
延恩侯についても初代の朱之璉の身上がいくらか明白にされています。即ち彼は安徽鳳陽の人で、明の太祖の庶十三子である朱桂の後裔となります。
朱桂は代王に封ぜられ、子孫の朱彝は明末に洪承疇のために軍を松山に監していたところ、敗軍して甥の朱文元と共に清軍の俘虜となったので、清朝に帰降して鑲白旗の隷下に属することとなり、雍正時に一等侯を賜ったことに伴い上三旗たる正白旗に昇格したというわけです。
朱之璉の明室との連枝関係ですが、なかなか書籍では発見できなかったんですがネット検索で「搜狐網」の関連サイトに沙梨熊という人の執筆した「清十三朝漢軍王公們的最終結局」という記事が見つかりました。沙梨熊という筆者については後にふれます。
この記事は清一代の間に漢人にして王・公・侯爵を蒙った者の本末を略記したものです。基本情報は「清史稿」の「諸臣封爵世表」に載っていますが、これを補う事実も述べられているので貴重です。
延恩侯についても初代の朱之璉の身上がいくらか明白にされています。即ち彼は安徽鳳陽の人で、明の太祖の庶十三子である朱桂の後裔となります。
朱桂は代王に封ぜられ、子孫の朱彝は明末に洪承疇のために軍を松山に監していたところ、敗軍して甥の朱文元と共に清軍の俘虜となったので、清朝に帰降して鑲白旗の隷下に属することとなり、雍正時に一等侯を賜ったことに伴い上三旗たる正白旗に昇格したというわけです。
93: 世界@名無史さん 2005/07/05(火) 21:14:25 0
客家ネタの本に出てくる、日本に洪秀全末裔が居るという伝説はウソだったの?
99: あやめ ◆C0.O2CxIMg 2005/07/11(月) 00:47:16 0
>>93
大鹽中齋の子の格之助が大陸に渡って洪秀全になったという怪しげな伝説はありますけどね。陽明学が耶蘇教に化けるかしら?
大鹽中齋の子の格之助が大陸に渡って洪秀全になったという怪しげな伝説はありますけどね。陽明学が耶蘇教に化けるかしら?
137: 世界@名無史さん 2006/01/29(日) 22:07:04 0
孫文が孫子の末裔って本当ですか。
朱元首相も朱元璋末裔とか。
日本にも渡来人として来てる。東儀英明も秦の皇族の末裔とか。
朱元首相も朱元璋末裔とか。
日本にも渡来人として来てる。東儀英明も秦の皇族の末裔とか。
138: 世界@名無史さん 2006/01/29(日) 22:29:11 0
>>137
USO800に決まってんじゃん。
USO800に決まってんじゃん。
140: 世界@名無史さん 2006/03/05(日) 12:32:58 0
>>137
丹波哲郎も後漢の霊帝の末裔だそうだがw
丹波哲郎も後漢の霊帝の末裔だそうだがw
142: 世界@名無史さん 2006/03/07(火) 22:12:55 0
古代の渡来系氏族の当宗(まさむね)氏は、後漢献帝の4世孫山陽公の子孫を称してる。
156: 世界@名無史さん 2006/07/17(月) 22:07:45 0
長宗我部元親の先祖は始皇帝
と称していた。
と称していた。
177: 世界@名無史さん 2007/04/14(土) 01:17:23 0
>>156
丹波哲郎の先祖は後漢の霊帝
と何でも鑑定団で丹波家家系図を披露していたっけな。
丹波哲郎の先祖は後漢の霊帝
と何でも鑑定団で丹波家家系図を披露していたっけな。
187: 世界@名無史さん 2007/09/13(木) 02:55:04 0
>>177
後漢の霊帝が先祖って家は日本中にあるぞ
庄屋の家系に多い
漢末の混乱に故国を離れて来日したわけだね
なにしろ皇室や源平藤橘の名族に繋がなくていいから便利だ
後漢の霊帝が先祖って家は日本中にあるぞ
庄屋の家系に多い
漢末の混乱に故国を離れて来日したわけだね
なにしろ皇室や源平藤橘の名族に繋がなくていいから便利だ
159: 世界@名無史さん 2006/08/28(月) 14:13:07 0
有名作家の金庸は、浙江で代々進士を輩出してきた家と聞いた
161: 世界@名無史さん 2006/09/14(木) 21:55:00 0
金庸は査継佐・査慎行・査嗣庭などを輩出した海寧の査氏の一族に連なる
184: 世界@名無史さん 2007/08/31(金) 21:49:08 0
三国時代の呉の四性の陸、張、朱、顧は呉が滅んだあとはどうなったの?没落した?
185: 世界@名無史さん 2007/09/12(水) 21:48:34 0
君主の政権維持が破綻しても、貴族の政治的社会的地位には影響がない。
これが六朝時代の特質である。
従って呉の四姓も中央政界で依然として一定の地位を保持することができた。
ただし王氏や謝氏などの北方貴族よりも相対的に下位ランクに甘んじてはいたが。
これが六朝時代の特質である。
従って呉の四姓も中央政界で依然として一定の地位を保持することができた。
ただし王氏や謝氏などの北方貴族よりも相対的に下位ランクに甘んじてはいたが。
186: 世界@名無史さん 2007/09/12(水) 23:56:15 0
中国人にとっては南北朝は愛国心を掻き立てられる時代だろうな
北方の異民族に立ち向かう中華王朝という感じで
北方の異民族に立ち向かう中華王朝という感じで
164: 世界@名無史さん 2006/10/02(月) 23:08:21 0
日本と違ってしょっちゅう支配階級の面子が入れ替わってる中で春秋戦国以来ずっと特別扱いされ続けてるってすごいね>孔家
ある意味、日本の天皇家みたいなものなのかな?
神道の代わりに儒教で…。
ある意味、日本の天皇家みたいなものなのかな?
神道の代わりに儒教で…。
引用元: ・【 【 中国の地方豪族、名家 part1 】 】
日本では昔に中国からの渡来人は皆秦人の末裔として秦氏を自称し、長宗我部氏と島津氏の先祖はその秦氏から派生した氏族と考察されている。
京都の太秦は秦氏の住居地から由来する地名。稲荷神社の縁起も秦氏と関連する。
秦氏の中に最も有名な人物は聖徳太子に仕えた秦河勝、伝説上の人物である徐福も日本に渡来した秦人。現代だと徐福の末裔と自称する人物の中に元内閣総理大臣羽田孜は日本史上最高位の秦氏と言えなくもない。