1: 世界@名無史さん 2015/04/10(金) 18:08:06.71 0
日本では、鎌倉時代(13世紀)に、法然・親鸞・一遍・道元・日蓮と、多くの仏教宗派の開祖を輩出して、鎌倉仏教の盛期を迎えた。
中国にも、そんな時代があった。
それは6世紀。南北朝の末期から、隋唐の初期だ。
彼らを語らずして、日本仏教は語れない・・・。
中国にも、そんな時代があった。
それは6世紀。南北朝の末期から、隋唐の初期だ。
彼らを語らずして、日本仏教は語れない・・・。
2: 世界@名無史さん 2015/04/10(金) 18:12:17.90 0
玄奘三蔵(602-664)がインドから膨大な量の仏典を持ち帰った、唐の初期。
この頃が、中国仏教史のハイライト。
同じ頃、中国には仏教宗派の開祖が続出した。
日本にも、そのまま伝わった宗派が多い。
この頃が、中国仏教史のハイライト。
同じ頃、中国には仏教宗派の開祖が続出した。
日本にも、そのまま伝わった宗派が多い。
4: 世界@名無史さん 2015/04/10(金) 20:01:18.96 0
道元が中国に行った時、曹洞宗は絶滅寸前だった。
6: 世界@名無史さん 2015/04/11(土) 06:29:48.67 0
日本の仏教宗派は、たいてい中国仏教に元ネタがあるのだが、中国と違うのは、教団としての組織化が進んだことだ。
そもそも、中国の仏教は、宗派がゴチャゴチャ。
時代劇に出てくる坊さんは、みんな禅僧だが、口を開けば「阿弥陀仏」(アーミーターフォー)と念仏を唱える。中国では、仏教は衰退した。しかも、禅と念仏が混ざり合ったような、奇妙な仏教に変わったようだ。
そもそも、中国の仏教は、宗派がゴチャゴチャ。
時代劇に出てくる坊さんは、みんな禅僧だが、口を開けば「阿弥陀仏」(アーミーターフォー)と念仏を唱える。中国では、仏教は衰退した。しかも、禅と念仏が混ざり合ったような、奇妙な仏教に変わったようだ。
7: 世界@名無史さん 2015/04/11(土) 06:56:17.04 0
この「念仏を唱える禅僧」というのが、中国仏教の典型的なイメージ。
これは、時代劇がイイカゲンだからではなく、本当にそうらしい。
そんな中国仏教の礎を築いたのは、道綽禅師。
これは、時代劇がイイカゲンだからではなく、本当にそうらしい。
そんな中国仏教の礎を築いたのは、道綽禅師。
8: 世界@名無史さん 2015/04/11(土) 06:58:12.89 0
wikipedia『道綽』
陳:天嘉3年/北周:保定2年(562年)、并州汶水に生れる。(生誕地は、并州晋陽とも。)
14歳のときに出家し、『涅槃経』に精通。
30歳を過ぎて慧瓚(えさん)に師事し、戒律と禅定の実践に励む。
大業5年(609年)、48歳のとき玄中寺の曇鸞の碑文を見て感じ、自力修行の道を捨て、浄土教に帰依し同寺に滞在する。
出家者、在家者のために『観無量寿経』を200回以上講義。
亡くなるまで念仏を日々7万遍称えたといわれる。
念仏を小豆で数えながら称える「小豆念仏」を勧める。(称名念仏)
貞観15年(641年)、善導が、晋陽(現:山西省太原市)にいた道綽をたずね、師事した。
そして道綽は没するまで、『観無量寿経』などの教えを授けた。
貞観19年(645年)4月27日、85歳にて逝去。
陳:天嘉3年/北周:保定2年(562年)、并州汶水に生れる。(生誕地は、并州晋陽とも。)
14歳のときに出家し、『涅槃経』に精通。
30歳を過ぎて慧瓚(えさん)に師事し、戒律と禅定の実践に励む。
大業5年(609年)、48歳のとき玄中寺の曇鸞の碑文を見て感じ、自力修行の道を捨て、浄土教に帰依し同寺に滞在する。
出家者、在家者のために『観無量寿経』を200回以上講義。
亡くなるまで念仏を日々7万遍称えたといわれる。
念仏を小豆で数えながら称える「小豆念仏」を勧める。(称名念仏)
貞観15年(641年)、善導が、晋陽(現:山西省太原市)にいた道綽をたずね、師事した。
そして道綽は没するまで、『観無量寿経』などの教えを授けた。
貞観19年(645年)4月27日、85歳にて逝去。
11: 世界@名無史さん 2015/04/11(土) 13:35:58.02 0
それにしても、1日に7万遍の念仏を唱え続けたという、道綽(どうしゃく)。
どうやって、そんなに唱えたのだろうか。
もちろん、日本でも念仏マラソンする人たちはいる。
ただし、日本語の「ナムアミダブツ」は1秒で唱えられるけど、中国語の場合は「アーミーターフォー」といちいち伸ばすから、その分だけ時間がかかるはずだ。
でも、1回の念仏に1秒以上の時間をかけていたのでは、とても間にあわない。
秒速1回で7万遍唱えると、7万秒ということになる。
実際には息を吸い込む時間が必要だから、8万秒はかかるだろう。
8万秒は、ざっと22時間。
睡眠時間を1日3時間に削って、食事をまったくしなくても足りない・・・。
どうやって、そんなに唱えたのだろうか。
もちろん、日本でも念仏マラソンする人たちはいる。
ただし、日本語の「ナムアミダブツ」は1秒で唱えられるけど、中国語の場合は「アーミーターフォー」といちいち伸ばすから、その分だけ時間がかかるはずだ。
でも、1回の念仏に1秒以上の時間をかけていたのでは、とても間にあわない。
秒速1回で7万遍唱えると、7万秒ということになる。
実際には息を吸い込む時間が必要だから、8万秒はかかるだろう。
8万秒は、ざっと22時間。
睡眠時間を1日3時間に削って、食事をまったくしなくても足りない・・・。
12: 世界@名無史さん 2015/04/11(土) 13:43:17.59 0
>秒速1回で7万遍唱えると、7万秒ということになる。
実際には息を吸い込む時間が必要だから、8万秒はかかるだろう。
ここで考えられるのは、「無声念仏」だ。
息を吸い込んでいる時間は、声を出さないだけで、心の中で念仏を唱える。
この時間もカウントすれば、ギリギリで、1日に7万遍唱えることは可能だろう。
実際、とある念仏団体では、「20秒に20回、そのうち3回は無声念仏」としていた。
実際には息を吸い込む時間が必要だから、8万秒はかかるだろう。
ここで考えられるのは、「無声念仏」だ。
息を吸い込んでいる時間は、声を出さないだけで、心の中で念仏を唱える。
この時間もカウントすれば、ギリギリで、1日に7万遍唱えることは可能だろう。
実際、とある念仏団体では、「20秒に20回、そのうち3回は無声念仏」としていた。
13: 世界@名無史さん 2015/04/11(土) 13:55:51.91 0
それでも、7万遍も唱えるためには、19時間以上かかる。
睡眠時間も削って、念仏を唱える以外のことは、ほとんどできない毎日だ。
あとは、回数を数えるのが大変だ。
これに関して、道綽のオススメは「小豆念仏」。
小豆で回数を数えるのだ。
なんとも、ご苦労なことだ。
睡眠時間も削って、念仏を唱える以外のことは、ほとんどできない毎日だ。
あとは、回数を数えるのが大変だ。
これに関して、道綽のオススメは「小豆念仏」。
小豆で回数を数えるのだ。
なんとも、ご苦労なことだ。
14: 世界@名無史さん 2015/04/11(土) 15:37:27.25 0
念仏の事実上の創始者ともいえる道綽だが、本当の創始者は、曇鸞(どんらん)だ。
日本の浄土真宗の開祖・親鸞の名前の元ネタにもなった人物だ。
曇鸞は、忘れられてた人物で、生没年も不明。
「たぶん、北魏の人だったんだろうな」という程度にしか分からない。
道綽は、若くして僧侶になったのに、アンラッキーにも北周の武帝による強烈な仏教弾圧にあって、強制還俗させられた。 武帝が若死にしたおかげで、なんとか僧侶に戻ったものの、方向を見失ってトボトボ歩いていた。
そんなとき、たまたま山西省の玄中寺で、曇鸞の碑文を発見。深く感動した道綽は、曇鸞の影響で、念仏を唱え始めた。もしも道綽が再発見しなかったら、曇鸞はそのまま埋もれていたことだろう・・・。
日本の浄土真宗の開祖・親鸞の名前の元ネタにもなった人物だ。
曇鸞は、忘れられてた人物で、生没年も不明。
「たぶん、北魏の人だったんだろうな」という程度にしか分からない。
道綽は、若くして僧侶になったのに、アンラッキーにも北周の武帝による強烈な仏教弾圧にあって、強制還俗させられた。 武帝が若死にしたおかげで、なんとか僧侶に戻ったものの、方向を見失ってトボトボ歩いていた。
そんなとき、たまたま山西省の玄中寺で、曇鸞の碑文を発見。深く感動した道綽は、曇鸞の影響で、念仏を唱え始めた。もしも道綽が再発見しなかったら、曇鸞はそのまま埋もれていたことだろう・・・。
15: 世界@名無史さん 2015/04/11(土) 15:42:24.42 0
道綽は、そのまま玄中寺にとどまり、84歳でなくなるまで、念仏ばかり唱え続ける日々を過ごした。そんな道綽に弟子入りしたのが、善導だった。
この善導こそは、日本の法然や親鸞に決定的な影響を及ぼした人。
曇鸞 → 道綽 → 善導。
この3人は、念仏の創始者として、日本で高く評価されている。
ていうか、3人とも、中国では忘れられた人物だ。
法然と親鸞のおかげで、日本でだけは有名な人たち。
現代になって、日本を訪れた中国人は、自分たちが知らない道綽と善導が、日本で高く評価されていることにビックリしたという。
この善導こそは、日本の法然や親鸞に決定的な影響を及ぼした人。
曇鸞 → 道綽 → 善導。
この3人は、念仏の創始者として、日本で高く評価されている。
ていうか、3人とも、中国では忘れられた人物だ。
法然と親鸞のおかげで、日本でだけは有名な人たち。
現代になって、日本を訪れた中国人は、自分たちが知らない道綽と善導が、日本で高く評価されていることにビックリしたという。
16: 世界@名無史さん 2015/04/11(土) 16:00:43.02 0
中国では、禅僧が念仏を唱える「念仏禅」として念仏が残ったものの、日本みたいに、念仏教団が巨大宗派になるには至らなかった。
元ネタが道綽・善導だとはいえ、浄土宗や浄土真宗は、やはり日本ならではの日本仏教そのものだ。
元ネタが道綽・善導だとはいえ、浄土宗や浄土真宗は、やはり日本ならではの日本仏教そのものだ。
17: 世界@名無史さん 2015/04/11(土) 17:07:20.76 0
浄土宗は最初善導宗とか言ったのよな
昔人物叢書で仏教開祖たちを読んだの思い出した。
中国仏教は影響の割に知られていないな。
昔人物叢書で仏教開祖たちを読んだの思い出した。
中国仏教は影響の割に知られていないな。
18: 世界@名無史さん 2015/04/11(土) 17:27:03.93 0
阿閦仏信仰が残らなかったことが悔やまれる。
19: 世界@名無史さん 2015/04/11(土) 17:33:57.23 0
昔、インドでは、阿閦仏(怒りによって心を動かされない仏)の信仰と、日本でもよく知られている阿弥陀仏信仰が起こった。
が阿閦仏信仰は念仏して往生せよ、とすすめる阿弥陀仏信仰ほどに、広がることはなかった。
そのわけは、阿閦仏信仰においては、実践するのが難しい六波羅蜜(六つの完全なる実践・布施・持戒・忍耐・努力・禅定・智慧)が進められたからだった。
そのむつかしい実践の中でも、特に難しかったのが、実は「忍耐」だったのである。
人間にとって忍耐するということはかくも難事である。
しかし、すぐ怒ってしまう小さな自我に執着することなく、相手に対する慈悲心を持って堪え忍ぶべきことを仏教はといてやまない。
が阿閦仏信仰は念仏して往生せよ、とすすめる阿弥陀仏信仰ほどに、広がることはなかった。
そのわけは、阿閦仏信仰においては、実践するのが難しい六波羅蜜(六つの完全なる実践・布施・持戒・忍耐・努力・禅定・智慧)が進められたからだった。
そのむつかしい実践の中でも、特に難しかったのが、実は「忍耐」だったのである。
人間にとって忍耐するということはかくも難事である。
しかし、すぐ怒ってしまう小さな自我に執着することなく、相手に対する慈悲心を持って堪え忍ぶべきことを仏教はといてやまない。
20: 世界@名無史さん 2015/04/11(土) 18:35:50.68 0
確かに、阿閦如来は名前だけで、具体的な話は聞いたことないねえ。
密教のほうでは、それなりに有名なのかな?
密教のほうでは、それなりに有名なのかな?
21: 世界@名無史さん 2015/04/11(土) 22:58:49.10 0
女性は阿弥陀仏より阿閦仏を信じるほうがいいかもね
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-11669926750.html
西方にある阿弥陀仏の浄土は超有名だけれど、ぜんぜんマイナーなのが東方にある阿閦仏の仏国土「妙喜世界」だ。
阿閦は「揺れ動かない」の意味で、「阿閦仏国経」のほか、維摩経とか法華経とかにも少し出てくるのだけど、なぜかあまり人気が出なかった如来である(密教では一時、とてもメジャーだったそうだけど)。
『シリーズ大乗仏教5 仏と浄土』(春秋社)の5章、「阿閦仏とその仏国土」(著:佐藤直美先生)を読んで、なかなか面白い仏さまだと知った。
注目すべきは、「妙喜世界に再生した女性には女性特有の欠点がなくなる」。
なんと、阿閦仏の仏国土には、女性も女性のまま行けるんですって。
阿弥陀仏の仏国土は、女も行けるけど、浄土に行くと男になっちゃうんですよね。
(もし彼女らがその生が尽きたあとでふたたび女性の姿をとるならば、わたくしは完全なさとりを獲得しません。『無量寿経』阿弥陀の第35願)
要するに、阿弥陀の極楽浄土には女はない。でも阿閦仏の妙喜世界には、ふつうに女がいる。しかも、阿閦仏の仏国土にいる女は、月経・妊娠・出産という苦しみがないそうです。更年期!?
阿弥陀仏の国には男装のオナベばっかりいて、阿閦仏の国には上がっちゃった美魔女ばっかり?
仏教が女性差別的かどうかはよく問題になることだけど、私は妙喜世界に行きますんでどうぞお構いなく、ということも言えるかもしれないなー。
http://ameblo.jp/nibbaana/entry-11669926750.html
西方にある阿弥陀仏の浄土は超有名だけれど、ぜんぜんマイナーなのが東方にある阿閦仏の仏国土「妙喜世界」だ。
阿閦は「揺れ動かない」の意味で、「阿閦仏国経」のほか、維摩経とか法華経とかにも少し出てくるのだけど、なぜかあまり人気が出なかった如来である(密教では一時、とてもメジャーだったそうだけど)。
『シリーズ大乗仏教5 仏と浄土』(春秋社)の5章、「阿閦仏とその仏国土」(著:佐藤直美先生)を読んで、なかなか面白い仏さまだと知った。
注目すべきは、「妙喜世界に再生した女性には女性特有の欠点がなくなる」。
なんと、阿閦仏の仏国土には、女性も女性のまま行けるんですって。
阿弥陀仏の仏国土は、女も行けるけど、浄土に行くと男になっちゃうんですよね。
(もし彼女らがその生が尽きたあとでふたたび女性の姿をとるならば、わたくしは完全なさとりを獲得しません。『無量寿経』阿弥陀の第35願)
要するに、阿弥陀の極楽浄土には女はない。でも阿閦仏の妙喜世界には、ふつうに女がいる。しかも、阿閦仏の仏国土にいる女は、月経・妊娠・出産という苦しみがないそうです。更年期!?
阿弥陀仏の国には男装のオナベばっかりいて、阿閦仏の国には上がっちゃった美魔女ばっかり?
仏教が女性差別的かどうかはよく問題になることだけど、私は妙喜世界に行きますんでどうぞお構いなく、ということも言えるかもしれないなー。
27: 世界@名無史さん 2015/04/12(日) 21:23:35.53 0
>>21
法華経ですら女性は一度男性に生まれ変わってやっと成仏できるって話ですからね
それをもって法華経では女性ですら成仏できると、女性救済のお経扱い
まぁ女性が成仏しがたいっていうのを、不浄だと蔑むのか女性が生きるために必死なせいとみるのかどっちで考えられるかでその人の仏性の程度が知れますね
法華経ですら女性は一度男性に生まれ変わってやっと成仏できるって話ですからね
それをもって法華経では女性ですら成仏できると、女性救済のお経扱い
まぁ女性が成仏しがたいっていうのを、不浄だと蔑むのか女性が生きるために必死なせいとみるのかどっちで考えられるかでその人の仏性の程度が知れますね
34: 世界@名無史さん 2015/04/13(月) 00:03:08.54 0
>>27
法華経のあれは、男に生まれ変わって成仏するという話じゃないよ。あくまで即身成仏。
當時衆會皆見龍女。忽然之間變成男子。具菩薩行。即往南方無垢世界。
法華経のあれは、男に生まれ変わって成仏するという話じゃないよ。あくまで即身成仏。
當時衆會皆見龍女。忽然之間變成男子。具菩薩行。即往南方無垢世界。
35: 世界@名無史さん 2015/04/13(月) 00:35:49.39 0
変成男子
https://ja.wikipedia.org/wiki/変成男子
変成男子(へんじょうなんし)は、転女成仏(てんにょじょうぶつ)・女人変成(にょにんへんじょう)とも称され、古来、女子(女性)は成仏することか非常に難しいとされ、いったん男子(男性)に成ることで、成仏することができるようになるとした思想。
法華経提婆達多品で、8歳の竜女が成仏する場面を由来とする。「変成男子」と「転女成仏」は対句として用いられる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/変成男子
変成男子(へんじょうなんし)は、転女成仏(てんにょじょうぶつ)・女人変成(にょにんへんじょう)とも称され、古来、女子(女性)は成仏することか非常に難しいとされ、いったん男子(男性)に成ることで、成仏することができるようになるとした思想。
法華経提婆達多品で、8歳の竜女が成仏する場面を由来とする。「変成男子」と「転女成仏」は対句として用いられる。
36: 世界@名無史さん 2015/04/13(月) 00:42:23.41 0
初期の経典にはこのような男尊女卑(とも受け取られかねない思想)は見られない。
しかし釈尊滅後、女性は成仏するのが難しいという思想が広まった。
例えば、大乗仏教に影響を与えた世親の『無量寿経優婆提舎願生偈』には「大乗善根界は等しく譏嫌の名なく、女人および根缺と二乗の種は生ぜず」(国土荘厳第一六大義門功徳成就の偈)と記しているが、これどう解するかが問題となった。
曇鸞はこれを女性が成仏できないから成仏が出来ないのではなく、浄土では一味平等であり女性という存在ではなくなるからであると説いている。
大乗仏教の世界では女性蔑視の思想を否定しようとして変成男子の思想を示したとも考えられる。
しかし釈尊滅後、女性は成仏するのが難しいという思想が広まった。
例えば、大乗仏教に影響を与えた世親の『無量寿経優婆提舎願生偈』には「大乗善根界は等しく譏嫌の名なく、女人および根缺と二乗の種は生ぜず」(国土荘厳第一六大義門功徳成就の偈)と記しているが、これどう解するかが問題となった。
曇鸞はこれを女性が成仏できないから成仏が出来ないのではなく、浄土では一味平等であり女性という存在ではなくなるからであると説いている。
大乗仏教の世界では女性蔑視の思想を否定しようとして変成男子の思想を示したとも考えられる。
25: 世界@名無史さん 2015/04/12(日) 20:24:42.80 0
中国では、仏教そのものが衰退した。
26: 世界@名無史さん 2015/04/12(日) 20:48:37.85 0
道教に合流したともとれるけど
31: 世界@名無史さん 2015/04/12(日) 22:11:04.30 0
>>26
不老長生を求めるのが道教。仙人になって長生きして、桃源郷で悠悠自適・・・
というのが、道教の理想。
それに対して、仏教の基本は輪廻転生・極楽往生だ。
もちろん、仏教も話の中身が高度になるにつれて違ってくるんだけど、とりあえず、「善いことをすれば善いところに生まれ変わりますよ、悪いことをすれば悪いところに生まれ変わりますよ」というようなのが、一般民衆に対する仏の教え。
年月がたつにつれて、仏教と道教は混ざり合っていった。
不老長生を求めるのが道教。仙人になって長生きして、桃源郷で悠悠自適・・・
というのが、道教の理想。
それに対して、仏教の基本は輪廻転生・極楽往生だ。
もちろん、仏教も話の中身が高度になるにつれて違ってくるんだけど、とりあえず、「善いことをすれば善いところに生まれ変わりますよ、悪いことをすれば悪いところに生まれ変わりますよ」というようなのが、一般民衆に対する仏の教え。
年月がたつにつれて、仏教と道教は混ざり合っていった。
51: 世界@名無史さん 2016/06/05(日) 19:03:10.47 0
>>31
いや、輪廻転生から解脱して成仏することが目標だろ
いや、輪廻転生から解脱して成仏することが目標だろ
32: 世界@名無史さん 2015/04/12(日) 22:15:06.40 0
そもそも、浄土宗の開祖・曇鸞大師からして、若い頃は仏教を仙術の一種と誤解していた。
インドから来た高僧に「不老長生の秘法」を教わろうとして断られるという黒歴史があった・・・。
(報徳寺ドットコムより)
親鸞聖人の教えは、七高僧の中でも特に曇鸞大師と善導大師の二人の教えが根幹になっていると言われています。
▼大師の生いたち
大師は北魏孝文帝(ほくぎこうぶんてい)の承明元年(四七六)、北中国山西省五台山に近い雁門に生まれたと言われています。近くには万里の長城も見られる山々に囲まれた地域です。
大師は十五歳までに五台山で出家され・・・(中略)・・・
その仕事の途中で大師は病気になられたのです。
何とかこれを完成したいと大師は長生きを願われたのでしょう。
▼大師の回心
都の洛陽でインドからやってきた有名な訳経三蔵、菩提流支(ぼだいるし)に逢いました。
そこで大師は、「仏法の中に、長生不死の法で、中国の仙経に勝るものがありますか」と尋ねられました。
菩提流支は、「中国のどこに長生の法があるのだろうか。たとえば長命を得ても、終わりにはまた迷いの世界を輪廻するだけではないか」と言って、浄土教の書物を授け、「これによって修行すれば、生死を解脱することが出来るだろう」
と教えられたと言うことです。
インドから来た高僧に「不老長生の秘法」を教わろうとして断られるという黒歴史があった・・・。
(報徳寺ドットコムより)
親鸞聖人の教えは、七高僧の中でも特に曇鸞大師と善導大師の二人の教えが根幹になっていると言われています。
▼大師の生いたち
大師は北魏孝文帝(ほくぎこうぶんてい)の承明元年(四七六)、北中国山西省五台山に近い雁門に生まれたと言われています。近くには万里の長城も見られる山々に囲まれた地域です。
大師は十五歳までに五台山で出家され・・・(中略)・・・
その仕事の途中で大師は病気になられたのです。
何とかこれを完成したいと大師は長生きを願われたのでしょう。
▼大師の回心
都の洛陽でインドからやってきた有名な訳経三蔵、菩提流支(ぼだいるし)に逢いました。
そこで大師は、「仏法の中に、長生不死の法で、中国の仙経に勝るものがありますか」と尋ねられました。
菩提流支は、「中国のどこに長生の法があるのだろうか。たとえば長命を得ても、終わりにはまた迷いの世界を輪廻するだけではないか」と言って、浄土教の書物を授け、「これによって修行すれば、生死を解脱することが出来るだろう」
と教えられたと言うことです。
28: 世界@名無史さん 2015/04/12(日) 21:38:43.60 0
中国では存在感がなかったのに、日本では妙に人気が出た善導
↓
『観無量寿経疏』(かんむりょうじゅきょうしょ)は、中国の善導が撰述した『仏説観無量寿経』の注釈書である。
『観無量寿経疏』・『観経疏』と呼ばれる。
『観経疏』は、中国では広く流布することは無かった。
しかし日本において、浄土宗の開祖法然がこの書に着目し、主著『選択本願念仏集』に「偏依善導」(偏に善導一師に依る)と記して、善導とその主著である『観経疏』を重用し、教学の根幹としている。
そして浄土真宗の開祖とされる親鸞は、『教行信証』「行巻」の巻末にある『正信念仏偈』の中で「善導独明仏正意」(善導、独り仏の正意を明かす)と讃歎している。
このように、日本の浄土思想形成に多大な影響を及ぼした。
↓
『観無量寿経疏』(かんむりょうじゅきょうしょ)は、中国の善導が撰述した『仏説観無量寿経』の注釈書である。
『観無量寿経疏』・『観経疏』と呼ばれる。
『観経疏』は、中国では広く流布することは無かった。
しかし日本において、浄土宗の開祖法然がこの書に着目し、主著『選択本願念仏集』に「偏依善導」(偏に善導一師に依る)と記して、善導とその主著である『観経疏』を重用し、教学の根幹としている。
そして浄土真宗の開祖とされる親鸞は、『教行信証』「行巻」の巻末にある『正信念仏偈』の中で「善導独明仏正意」(善導、独り仏の正意を明かす)と讃歎している。
このように、日本の浄土思想形成に多大な影響を及ぼした。
29: 世界@名無史さん 2015/04/12(日) 21:42:53.12 0
(浄土宗ホームページより)
法然上人の師たち
善導大師(ぜんどうだいし) (613?-681)
中国・唐代の浄土教の大成者。
法然上人は、43歳のとき、この善導大師が著した『観経疏』の
「一心にもっぱら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久遠を問わず、念々に捨てざる者、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」
という一文を見て、お念仏こそすべての人々が救われる教えであることに間違いはない、との確信を得、浄土宗を開かれました。
法然上人は、「 偏(ひとえ) に善導大師に 依 (よ) る」と言っています。
浄土宗では、宗祖法然上人に対し、善導大師を高祖と仰いでいます。
法然上人の師たち
善導大師(ぜんどうだいし) (613?-681)
中国・唐代の浄土教の大成者。
法然上人は、43歳のとき、この善導大師が著した『観経疏』の
「一心にもっぱら弥陀の名号を念じ、行住坐臥、時節の久遠を問わず、念々に捨てざる者、是を正定の業と名づく、彼の仏の願に順ずるが故に」
という一文を見て、お念仏こそすべての人々が救われる教えであることに間違いはない、との確信を得、浄土宗を開かれました。
法然上人は、「 偏(ひとえ) に善導大師に 依 (よ) る」と言っています。
浄土宗では、宗祖法然上人に対し、善導大師を高祖と仰いでいます。
30: 世界@名無史さん 2015/04/12(日) 21:49:17.73 0
「仏教の経典は難しすぎる。民衆を教化するのに良い教えのネタはないか?」と探していた法然は、埋もれていた600年前の中国の僧侶・善導を発見した。
いわく、南無阿弥陀仏と一心に唱えればよいんだそうな。
法然にとっては、「これだ!」という感じだっただろう。
法然・親鸞がいなければ、善導の名が知られることは永遠になかったと思われる・・・。
いわく、南無阿弥陀仏と一心に唱えればよいんだそうな。
法然にとっては、「これだ!」という感じだっただろう。
法然・親鸞がいなければ、善導の名が知られることは永遠になかったと思われる・・・。
37: 世界@名無史さん 2015/04/16(木) 07:52:47.26 0
中国の仏教開祖を考える上で重要なのは、中国に仏教を伝えた、インドや西域の高僧たちだ。多くの日本人は、「中国から日本に文化が伝わった」ことは知っていても、その文化がどこから中国に入ってきたかまでは、まず考えることがない。
でも、仏像彫刻をとってみても、仏教はインドの宗教だし、彫刻はギリシャの芸術だ。
この2つがガンダーラ地方で合体し、シルクロードを通して中国に入ってきた。
実際のところ、中国に仏教が普及した時期は、中国史上、最も民族移動が大規模に起きた時期と重なっている。
「中国人が仏教を信じるようになった」というより、「仏教を信仰する民族が中国に移住してきた」というほうが実態に近い。
でも、仏像彫刻をとってみても、仏教はインドの宗教だし、彫刻はギリシャの芸術だ。
この2つがガンダーラ地方で合体し、シルクロードを通して中国に入ってきた。
実際のところ、中国に仏教が普及した時期は、中国史上、最も民族移動が大規模に起きた時期と重なっている。
「中国人が仏教を信じるようになった」というより、「仏教を信仰する民族が中国に移住してきた」というほうが実態に近い。
39: 世界@名無史さん 2015/04/18(土) 17:42:04.96 0
>>37
インドでも似たような事情があるのではないかな?
ミリンダ王はインドの広い範囲を征服したけど、インドのカースト制度だと、いくら武力で征服してもギリシャ人は最下層民しかポストが残されていないから、仏教を後押ししたのだと
インドでも似たような事情があるのではないかな?
ミリンダ王はインドの広い範囲を征服したけど、インドのカースト制度だと、いくら武力で征服してもギリシャ人は最下層民しかポストが残されていないから、仏教を後押ししたのだと
40: 世界@名無史さん 2015/04/18(土) 18:22:37.71 0
渡来僧の最初は2世紀の後半、西域地方から洛陽に渡った安世高と支婁迦讖で、安世高は小乗経典、支婁迦讖は大乗経典(般若経典や浄土経典)を伝えたといわれています。
また3世紀には康僧鐙(大無量寿経訳)・竺法護(法華経訳)・僧伽堤婆(阿含経訳)などが渡来し、訳経に従事、その後4世紀に渡来した鳩摩羅什は西域の王家に生まれ、若くして名僧の評判が高く、中国の国家的事業であった仏典翻訳に携わり、300余に及ぶ経典を漢訳したといわれます。
今日われわれが手にする「般若心経」 「法華経」 「維摩経」 「阿弥陀経」などの諸経は、みな彼によって翻訳されたものです。
5世紀には仏駄跋陀羅(六十華厳訳)・畺量耶舎(観無量寿教訳)・衆賢(律蔵を伝える)、6世紀から7世紀にかけて菩提達磨(禅を伝える)・真諦(摂大乗論訳)菩提流支(十地論訳)、さらに8世紀の初め真言密教を伝えた善無畏(大日経訳)、これを大成させた金剛智・不空(金剛頂経訳)などは特に有名です。
また3世紀には康僧鐙(大無量寿経訳)・竺法護(法華経訳)・僧伽堤婆(阿含経訳)などが渡来し、訳経に従事、その後4世紀に渡来した鳩摩羅什は西域の王家に生まれ、若くして名僧の評判が高く、中国の国家的事業であった仏典翻訳に携わり、300余に及ぶ経典を漢訳したといわれます。
今日われわれが手にする「般若心経」 「法華経」 「維摩経」 「阿弥陀経」などの諸経は、みな彼によって翻訳されたものです。
5世紀には仏駄跋陀羅(六十華厳訳)・畺量耶舎(観無量寿教訳)・衆賢(律蔵を伝える)、6世紀から7世紀にかけて菩提達磨(禅を伝える)・真諦(摂大乗論訳)菩提流支(十地論訳)、さらに8世紀の初め真言密教を伝えた善無畏(大日経訳)、これを大成させた金剛智・不空(金剛頂経訳)などは特に有名です。
44: 世界@名無史さん 2015/04/18(土) 18:47:09.10 0
安世高:彼はパルティアの王子であった。初めて小乗仏教系の経典を中国語に翻訳した。
An Hsuan:パルティアの商人であった彼は181年に中国で僧侶となった。
曇諦 (254年):パルティア人の僧侶。『曇無徳羯麿』を訳した。
An Fachiin (281年 - 306年頃):パルティア出身の僧侶。
An Hsuan:パルティアの商人であった彼は181年に中国で僧侶となった。
曇諦 (254年):パルティア人の僧侶。『曇無徳羯麿』を訳した。
An Fachiin (281年 - 306年頃):パルティア出身の僧侶。
45: 世界@名無史さん 2015/04/18(土) 19:50:20.11 0
後漢永平十年、西暦紀元67年、仏教は皇帝の指示によって正式に中国に伝わってきました。
明帝永平十年、明帝は夢の中で金人が宮廷の中を飛んでいるのを見て、翌日、この夢について大臣たちに聞きました。
「恐らく陛下の夢の中での金人は西方の聖人で、名前は仏と言います。」と太史傅毅が答えました。
その後、明帝は中郎将蔡愔など18人を西域へ仏道を求めて派遣しました。
彼らは西域で竺法蘭、摄摩騰に会って、仏像と経書を得て、白馬に背負わせて一緒に洛陽へ帰りました。
明帝はこの二人に荘厳なお寺を建て、白馬寺と呼ばれています。そこで、二人は白馬寺で<四十二章経>を翻訳しました。
これは漢の仏教伝来の一般的な伝説で、よく歴史教科書に引用されています。
仏教は中国に伝来した後、後漢末期桓霊二帝の時代(147~189年)まで、それに関する記事が段々と詳しくなり、史料も豊富になってきました。
その時、西域の仏教学者は相次いで中国に渡来しました。
安世高、安玄は安貴息から来て、支娄迦谶、支曜は月氏から来て、竺仏朔は天竺から来て、康孟詳は康居から来ました。
このように、経書を翻訳することは段々盛んになり、法事も段々にぎやかになってきました。
明帝永平十年、明帝は夢の中で金人が宮廷の中を飛んでいるのを見て、翌日、この夢について大臣たちに聞きました。
「恐らく陛下の夢の中での金人は西方の聖人で、名前は仏と言います。」と太史傅毅が答えました。
その後、明帝は中郎将蔡愔など18人を西域へ仏道を求めて派遣しました。
彼らは西域で竺法蘭、摄摩騰に会って、仏像と経書を得て、白馬に背負わせて一緒に洛陽へ帰りました。
明帝はこの二人に荘厳なお寺を建て、白馬寺と呼ばれています。そこで、二人は白馬寺で<四十二章経>を翻訳しました。
これは漢の仏教伝来の一般的な伝説で、よく歴史教科書に引用されています。
仏教は中国に伝来した後、後漢末期桓霊二帝の時代(147~189年)まで、それに関する記事が段々と詳しくなり、史料も豊富になってきました。
その時、西域の仏教学者は相次いで中国に渡来しました。
安世高、安玄は安貴息から来て、支娄迦谶、支曜は月氏から来て、竺仏朔は天竺から来て、康孟詳は康居から来ました。
このように、経書を翻訳することは段々盛んになり、法事も段々にぎやかになってきました。
46: 世界@名無史さん 2015/04/18(土) 20:02:25.14 0
訳経僧
中国に仏教が伝わったのは1世紀頃の後漢の時代。日本に仏教が伝来する500年前です。
しかし、サンスクリット語やパーリ語で書かれた経典を中国の人は読めません。
そこで活躍したのが、中国とインドの中継地点である西域や中継路であるシルクロードの僧たち。
彼らはインドの言葉と中国語に精通し、多くの経典を翻訳したことから訳経僧と言われています。
初めてまとまった経典を翻訳したのは2世紀半ばの安世高。
もともとは西域の安息国の王子でしたが、王位を弟に譲って出家。安世高は三十四経典を訳したそうです。
やはり西域の月氏国出身の支婁迦讖。道行般若経を翻訳。
道行般若経の「空」という概念が、中国古来の「無」という考え方と結びつき、その後の中国の思想に大きな影響を与えました。
戒律と伝記
2世紀後半になると安玄という訳経僧が渡来。やはり安息国の出身です。
安玄は僧が戒律を守ることの大切さを広めるために、戒律に関する経典を翻訳しました。
安玄と一緒に翻訳に当たった厳仏調は、中国人で初めて正式に出家僧となった人物です。
3世紀になると、康居という国から康孟詳が渡来。康居は月氏国と安息国の北に位置する国です。
康孟詳はお釈迦様の伝記的経典を翻訳。これによってお釈迦様の素顔や人生が伝わり、中国に仏教が広がる契機となりました。
三国時代の訳経僧
後漢は西暦220年に滅亡し、三国志で知られる魏・呉・蜀による三国時代が到来。
魏には曇柯迦羅、康僧鎧、曇帝といった訳経僧が渡来。戒律関係の経典を精力的に翻訳しました。
中国から西域に渡ったのは朱子行。放光般若経を入手して弟子の不如檀に持ち帰らせて翻訳。
朱子行は西域で命を落としましたが、朱子行のおかげで「空」の概念が中国で一段と広がりました。
呉で活躍した訳経僧は支謙。前述の支婁迦讖の孫弟子ですが、六カ国語に精通し、般若経を中心に四十九経典を訳しました。
支謙は仏教音楽の梵唄の教科書も執筆。
「梵」はサンスクリット語のことですから、梵唄はサンスクリット語の賛歌という意味。日本では声明と言います。
三国時代の訳経僧の代表は竺法護。支謙を上回る三十六カ国語に精通し、百四十九経典を翻訳。大半が大乗経典でした。
竺法護の晩年には、中国が三国時代から晋の時代に入ります。
中国に仏教が伝わったのは1世紀頃の後漢の時代。日本に仏教が伝来する500年前です。
しかし、サンスクリット語やパーリ語で書かれた経典を中国の人は読めません。
そこで活躍したのが、中国とインドの中継地点である西域や中継路であるシルクロードの僧たち。
彼らはインドの言葉と中国語に精通し、多くの経典を翻訳したことから訳経僧と言われています。
初めてまとまった経典を翻訳したのは2世紀半ばの安世高。
もともとは西域の安息国の王子でしたが、王位を弟に譲って出家。安世高は三十四経典を訳したそうです。
やはり西域の月氏国出身の支婁迦讖。道行般若経を翻訳。
道行般若経の「空」という概念が、中国古来の「無」という考え方と結びつき、その後の中国の思想に大きな影響を与えました。
戒律と伝記
2世紀後半になると安玄という訳経僧が渡来。やはり安息国の出身です。
安玄は僧が戒律を守ることの大切さを広めるために、戒律に関する経典を翻訳しました。
安玄と一緒に翻訳に当たった厳仏調は、中国人で初めて正式に出家僧となった人物です。
3世紀になると、康居という国から康孟詳が渡来。康居は月氏国と安息国の北に位置する国です。
康孟詳はお釈迦様の伝記的経典を翻訳。これによってお釈迦様の素顔や人生が伝わり、中国に仏教が広がる契機となりました。
三国時代の訳経僧
後漢は西暦220年に滅亡し、三国志で知られる魏・呉・蜀による三国時代が到来。
魏には曇柯迦羅、康僧鎧、曇帝といった訳経僧が渡来。戒律関係の経典を精力的に翻訳しました。
中国から西域に渡ったのは朱子行。放光般若経を入手して弟子の不如檀に持ち帰らせて翻訳。
朱子行は西域で命を落としましたが、朱子行のおかげで「空」の概念が中国で一段と広がりました。
呉で活躍した訳経僧は支謙。前述の支婁迦讖の孫弟子ですが、六カ国語に精通し、般若経を中心に四十九経典を訳しました。
支謙は仏教音楽の梵唄の教科書も執筆。
「梵」はサンスクリット語のことですから、梵唄はサンスクリット語の賛歌という意味。日本では声明と言います。
三国時代の訳経僧の代表は竺法護。支謙を上回る三十六カ国語に精通し、百四十九経典を翻訳。大半が大乗経典でした。
竺法護の晩年には、中国が三国時代から晋の時代に入ります。
47: 世界@名無史さん 2015/04/18(土) 20:16:03.63 0
漢人で出家第一号は厳仏調だといわれています。
彼によって188年に『古維摩詰経』(現存せず)が漢訳されたという記録があります。
漢人で最初に出家受戒したのが、朱士行です。
朱士行は『道行般若経』を講経したのですが、どうにも意味が通じない箇所があるわけですね。
これはどうも翻訳が間違っているのではないかと思いまして、原本にあたって調べようと決意したのです。
それで西域への求法の旅に出ることになったのです。3世紀の三蔵法師みたいなものですね。
260年、雍州を出立し、于闐にまで到達しました。そこで、念願の『二万五千頌般若経』の原典を手に入れたのです。
弟子の弗如檀に命じて中国に将来させました。
本人は于闐で亡くなったそうです。
彼によって188年に『古維摩詰経』(現存せず)が漢訳されたという記録があります。
漢人で最初に出家受戒したのが、朱士行です。
朱士行は『道行般若経』を講経したのですが、どうにも意味が通じない箇所があるわけですね。
これはどうも翻訳が間違っているのではないかと思いまして、原本にあたって調べようと決意したのです。
それで西域への求法の旅に出ることになったのです。3世紀の三蔵法師みたいなものですね。
260年、雍州を出立し、于闐にまで到達しました。そこで、念願の『二万五千頌般若経』の原典を手に入れたのです。
弟子の弗如檀に命じて中国に将来させました。
本人は于闐で亡くなったそうです。
52: 世界@名無史さん 2016/06/10(金) 04:30:57.33 0
玄奘が必死で経典を求めてインドにたどり着いた頃には既に仏教大破壊の元凶ムハンマドがイスラム教を創始していたと思うと無常を感じるな・・・
53: 世界@名無史さん 2016/06/10(金) 04:44:22.88 0
>>52
http://awabi.2ch.sc/test/read.cgi/whis/1428656886/
後生の人が無常を感じるなら、仏教者として苦労した甲斐あったんじゃないかなw
キツい修行も、キツい修行はあんまり意味がないって実感する為には無駄ではなかった・・・みたいなところあるし
後生の人が無常を感じるなら、仏教者として苦労した甲斐あったんじゃないかなw
キツい修行も、キツい修行はあんまり意味がないって実感する為には無駄ではなかった・・・みたいなところあるし
54: 世界@名無史さん 2016/06/21(火) 00:06:58.95 0
玄奘とムハンマドの論戦見てみたい・・・
引用元: ・中国の仏教開祖