墨家
墨家(ぼくか、ぼっか)は、中国戦国時代に墨子によって興った思想家集団であり、諸子百家の一つ。博愛主義(兼愛交利)を説き、またその独特の思想に基づいて、武装防御集団として各地の守城戦で活躍した。墨家の思想は、都市の下層技術者集団の連帯を背景にして生まれたものだといわれる。代表的な思想家に、墨翟(墨子)がいる。
戦国時代に儒家と並び最大勢力となって隆盛したが、秦の中国統一ののち勢威が衰え消滅した。
墨家(ぼくか、ぼっか)は、中国戦国時代に墨子によって興った思想家集団であり、諸子百家の一つ。博愛主義(兼愛交利)を説き、またその独特の思想に基づいて、武装防御集団として各地の守城戦で活躍した。墨家の思想は、都市の下層技術者集団の連帯を背景にして生まれたものだといわれる。代表的な思想家に、墨翟(墨子)がいる。
戦国時代に儒家と並び最大勢力となって隆盛したが、秦の中国統一ののち勢威が衰え消滅した。
9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/25(日) 08:58:26 ID:xODL9FJq0
墨家の思想は自分に一番ぴったりくる
11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/11(日) 06:16:28 ID:5IwPC3070
ガンジーみたい
14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/11(日) 16:26:49 ID:Qa9u+I/IO
墨攻ってのは墨守の姿勢を示してゆくことで支持を得ようというある種の社会に対する攻撃のことだからね
19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/14(水) 22:39:06 ID:diLPHNlD0
日本人は墨子を勉強するべきだな
と、最近思うようになってきた
と、最近思うようになってきた
21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/14(水) 23:41:49 ID:diLPHNlD0
墨子は兼愛だけじゃないし、非攻は戦闘放棄や無抵抗主義という事じゃない。
偏った読み方で兼愛と非攻の一部だけを勉強したら知らないけどな。
偏った読み方で兼愛と非攻の一部だけを勉強したら知らないけどな。
31: wata-ken 2007/07/07(土) 21:15:09 ID:rn088BO00
墨子は、結構きつい記述があります。「兼愛、非攻」はともかく、一度規律の下に入ると孫呉兵法もかくや、という位のきつい軍律で縛られたそうです。日本で言ったら「戦国時代の島津軍法」「新撰組の隊規」のような「違反者は死罪」というような。実際どれだけ「部外者」に強制したかははっきりしないようですが、守城に失敗した墨者一派が集団自殺したり、雇われた国の国法よりも墨子教団内の内規(こっちのほうがキツい)の方を重視して違反墨者を処刑したりしてます。
なので、一般の人たちからは「ありがたい人たちだけど、とてもついていけない」と思われたことが墨子教団が消えた主な理由では。
なので、一般の人たちからは「ありがたい人たちだけど、とてもついていけない」と思われたことが墨子教団が消えた主な理由では。
56: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/15(火) 21:02:55 ID:FsjBACVg0
当時は城壁が発達しており、並大抵のことでは城市を落とすことは不可能だったが、戦国末期になると大規模な攻城兵器の出現と、それを可能にする交通手段の発達により攻める側が守る側よりも有利になって墨子教団は衰退したと言われていた。
(「墨攻」における秦との癒着などもこの説に拠っている)
しかし最近では攻城兵器の出現よりも早い段階で墨子教団が姿を消していることが指摘されており、単純に諸侯の巨大化・統治力の強化により確たる地理的基盤を持たない墨子教団は解散に追い込まれたとする説が有力。
(「墨攻」における秦との癒着などもこの説に拠っている)
しかし最近では攻城兵器の出現よりも早い段階で墨子教団が姿を消していることが指摘されており、単純に諸侯の巨大化・統治力の強化により確たる地理的基盤を持たない墨子教団は解散に追い込まれたとする説が有力。
57: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/07/16(水) 00:39:56 ID:uZmhXrJ/0
墨家は独自に武装勢力養ってたり、自分たちだけの法律作って勝手に内部で処刑まで行ってたりした、かなりカルト的な教団だったから、国家権力が伸長したら生き残れなくなるのは当然。
王様が許すと言ってるのに墨家の法があると言って、身内の犯罪者を独自に処分した事案が呂氏春秋に見える。
守城戦に失敗したら集団自決した事件が同じ呂氏春秋に記録されてるけど、かなり強い教団員への思想統制がなけりゃ、そんなことは無理でしょ。おまけに末期には三派に分かれて内ゲバやってたようだし、衰退は当然。これは韓非子に見える。
何か現代の新興宗教やコミュニストなんかを彷彿とさせる。
王様が許すと言ってるのに墨家の法があると言って、身内の犯罪者を独自に処分した事案が呂氏春秋に見える。
守城戦に失敗したら集団自決した事件が同じ呂氏春秋に記録されてるけど、かなり強い教団員への思想統制がなけりゃ、そんなことは無理でしょ。おまけに末期には三派に分かれて内ゲバやってたようだし、衰退は当然。これは韓非子に見える。
何か現代の新興宗教やコミュニストなんかを彷彿とさせる。
77: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/09/18(木) 21:14:41.99 ID:co4tPDJc0
>>57
刑罰で家族も処刑したって聞いて一瞬で幻滅した覚えがある。
刑罰で家族も処刑したって聞いて一瞬で幻滅した覚えがある。
70: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/02/26(土) 09:06:32.26 ID:azIw7HyG0
墨子って城の守り方が上手くて1度も落とされた事がないってやつだっけ?
71: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/02/26(土) 20:55:28.69 ID:N2cGbsQY0
>>70
固く守る事を意味する『墨守』の語源になったのは確かだが、一度も落とされた事が無いかどうかは判らない。
固く守る事を意味する『墨守』の語源になったのは確かだが、一度も落とされた事が無いかどうかは判らない。
78: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/10/12(日) 01:02:43.69 ID:qCzb1/W40
墨家が道教になったと以前のレスを見て調べてみた。
中国の学説では、墨家は秦代には統治階級に排除されて庶民には浸透していたが武帝の時には衰退し、後漢では廃れてしまったらしい。しかし、墨子の思想は後漢末の道教の経典である「太平経」の中で宗教思想に置き換えられているらしい。
「太平経」は「太平清領書」の引き写しが多いらしいから、墨家は太平道の思想に生まれ変わったってことだろ。
もっとも、太平道はすぐに廃れるし「太平経」は重要な経典であったといえ、社会的影響力は限定的なものであったと思われるけど。
中国の学説では、墨家は秦代には統治階級に排除されて庶民には浸透していたが武帝の時には衰退し、後漢では廃れてしまったらしい。しかし、墨子の思想は後漢末の道教の経典である「太平経」の中で宗教思想に置き換えられているらしい。
「太平経」は「太平清領書」の引き写しが多いらしいから、墨家は太平道の思想に生まれ変わったってことだろ。
もっとも、太平道はすぐに廃れるし「太平経」は重要な経典であったといえ、社会的影響力は限定的なものであったと思われるけど。
79: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/10/12(日) 01:03:52.65 ID:qCzb1/W40
また、墨家が遊侠になったと説は墨家と遊侠の思想に関連性が認められることと、墨家の支持者基盤が戦国時代の武を専門とする「士」とあると考えられることから墨家の没落後、支持者がある意味堕落し、ある意味現実的になって遊侠となった説があるようだ。
これは魯迅や聞一多も主張しているから、なかなか有力。
個人的に活躍時期がほぼ交代するように出ているし、組織力の大きな墨家が末端まで滅亡するとは考えにくいからこちらの方が納得できる。
前漢代の遊侠は墨家に近い風格があるし。
これは魯迅や聞一多も主張しているから、なかなか有力。
個人的に活躍時期がほぼ交代するように出ているし、組織力の大きな墨家が末端まで滅亡するとは考えにくいからこちらの方が納得できる。
前漢代の遊侠は墨家に近い風格があるし。
81: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/10/12(日) 11:09:07.67 ID:qCzb1/W40
墨家は自分から攻勢に出たとはいえ、肝心の墨子が仕えていた宋が滅亡するから、戦争を止めるのは無理ってのは分かるし、支配者階級には支持されない
秦に墨家が多かったってのも思想と矛盾するんだが、秦なら攻められないから防衛のため命を捨てることはないって言い訳していたかもしれんし、統一の手助けをして思想を換骨奪胎して生き残ろうとしていたかもしれん
どちらにせよ、戦争は多くを犠牲にするから無駄→戦争をする秦ばかり勝ち、統一に向かっている
悪いことはすると天の意志に反し、鬼が罰するからやめよう→虎狼の国、秦に天罰がない
もう、思想的に完全に敗北
負けたら自殺して優秀な人材を失うし、キン肉マンの完璧超人並に危うい思想
こんな感じだから、焚書坑儒の時に気骨ある人材は死ぬか、守城技術を提供するだけの秦の犬に成り下がった仲間に失望して去ってしまったんだろう
もっとも、「非攻」と「明鬼」がなければ支配階級のバックアップはないし、商業を否定しているから現代的に見ればまともに思えても、どちらにせよ統一に向かう上で消える運命だったのだろう
秦に墨家が多かったってのも思想と矛盾するんだが、秦なら攻められないから防衛のため命を捨てることはないって言い訳していたかもしれんし、統一の手助けをして思想を換骨奪胎して生き残ろうとしていたかもしれん
どちらにせよ、戦争は多くを犠牲にするから無駄→戦争をする秦ばかり勝ち、統一に向かっている
悪いことはすると天の意志に反し、鬼が罰するからやめよう→虎狼の国、秦に天罰がない
もう、思想的に完全に敗北
負けたら自殺して優秀な人材を失うし、キン肉マンの完璧超人並に危うい思想
こんな感じだから、焚書坑儒の時に気骨ある人材は死ぬか、守城技術を提供するだけの秦の犬に成り下がった仲間に失望して去ってしまったんだろう
もっとも、「非攻」と「明鬼」がなければ支配階級のバックアップはないし、商業を否定しているから現代的に見ればまともに思えても、どちらにせよ統一に向かう上で消える運命だったのだろう
84: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/11/03(火) 15:51:14.89 ID:nehF5+L20
十世期頃かかれたとされる角力記にはこうかいてある
儒家が七に墨家が三の思想になった と
儒家が七に墨家が三の思想になった と
85: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/05/11(水) 21:31:53.31 ID:dtfetIsK0
墨子の文体は他の諸子百家に比べると、良く言えば具体的、悪く言えば泥臭いが私は好きだな。
思想も尚賢や兼愛、非攻など賛同できるものが多いし、非儒と公孟の箇所は読んでいると痛快だ。
貴義と魯問には役立つ格言が集められているし、非命を読むとまた頑張ろうという気持ちになる。
だから個人的には、墨子が一番好きだな。
思想も尚賢や兼愛、非攻など賛同できるものが多いし、非儒と公孟の箇所は読んでいると痛快だ。
貴義と魯問には役立つ格言が集められているし、非命を読むとまた頑張ろうという気持ちになる。
だから個人的には、墨子が一番好きだな。
86: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/05/22(日) 22:34:04.84 ID:xvnKGIkZ0
一
”天下の害”を除いて、”天下の利”を追求する事、これが仁者の使命である。”天下の害”のうち、一番目に余るものは何か。
大国が小国を攻める、大氏族が小氏族を痛めつける、強者が弱者をいじめる、多数が少数をないがしろにする、えせ君子が人民を誤魔化す、貴族が平民をさげずむ、等々である。また君主が横暴であること、臣下が不忠であること、親が愛情に欠けること、子が孝養を尽くさぬこと、これも”天下の害”である。まだある。武器を手にし、毒薬を仕込み、水攻め火攻めで、手段をえらばず殺戮しあうこと、これも”天下の害”である。
こういうおびただしい”害”はどこから生ずるのか。それは我々が人を愛し、人に利益を与えたために生ずるのか。無論、そうではない。
人を憎み、人に不利益を与えたために生ずるのである。人を憎み、人に不利益を与える行為、それは”人には平等に対するべし”とする考え、つまり「兼愛」から生ずるのか。それとも”人には差別を設けるべし”とする考え、つまり「別愛」から生ずるのか。いうまでもなく後者である。してみれば、この「別愛」こそ、”天下の害”をもたらす根源である。私が「愛」に反対する理由はここにある。
”天下の害”を除いて、”天下の利”を追求する事、これが仁者の使命である。”天下の害”のうち、一番目に余るものは何か。
大国が小国を攻める、大氏族が小氏族を痛めつける、強者が弱者をいじめる、多数が少数をないがしろにする、えせ君子が人民を誤魔化す、貴族が平民をさげずむ、等々である。また君主が横暴であること、臣下が不忠であること、親が愛情に欠けること、子が孝養を尽くさぬこと、これも”天下の害”である。まだある。武器を手にし、毒薬を仕込み、水攻め火攻めで、手段をえらばず殺戮しあうこと、これも”天下の害”である。
こういうおびただしい”害”はどこから生ずるのか。それは我々が人を愛し、人に利益を与えたために生ずるのか。無論、そうではない。
人を憎み、人に不利益を与えたために生ずるのである。人を憎み、人に不利益を与える行為、それは”人には平等に対するべし”とする考え、つまり「兼愛」から生ずるのか。それとも”人には差別を設けるべし”とする考え、つまり「別愛」から生ずるのか。いうまでもなく後者である。してみれば、この「別愛」こそ、”天下の害”をもたらす根源である。私が「愛」に反対する理由はここにある。
87: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/05/22(日) 22:37:56.93 ID:xvnKGIkZ0
二
しかし我々は一つの見方に反対する以上、それに代わる別の見方を示さねばならない。もし相手の見方に反対するだけでそれに代わる別の見方を示せぬとしたら、それは水を用いて水を救い、火を用いて火を救うようなものだ。このような論法は正しくはないだろう。従って、私は「別愛」に代わって「兼愛」を主張する。
「別愛」に代えて「兼愛」を主張するのはなぜか。もし諸侯が自国同様に他国のために尽くすならば、戦争がおこるはずがない。なぜなら相手を我が身同様にみなすのだから。もし領主が自分の領地同様に他人の領地のために尽くすならば、内乱はおこるはずがない。なぜなら相手を我が身同様にみなすのだから。もし卿大夫が自分の一族に対するのと同様に他の氏族のために尽くすならば、紛争はおこるはずがない。なぜなら相手は我が身同然なのだから。
戦争や内乱がおこらぬ状態、それは天下の”利”であるか、”害”であるか。いうまでもなく”天下の利”である。こういうおびただしい”利”はどこから生ずるのか。それは人を憎み人に不利益を与えたために生ずるのか。無論そうではない。人を愛し人に利益を与えたために生ずるのである。人を愛し人に利益を与える行為、それは「別愛」から生ずるのか。それとも「兼愛」から生ずるのか。いうまでもなく後者である。
してみればこの「兼愛」こそ、”天下の利”をもたらす根源である。私が「兼愛」は正しいと主張する理由はここにある。
”天下の害”を除いて”天下の利”を追求すること、これが仁者の使命であると私は言った。そして今、我々は”天下の利”をもたらす根源は「兼愛」にあること、”天下の害”をもたらす根源は「別愛」にあることがわかった。すなわち「別愛」は間違った見方であり、「兼愛」こそ正しい見方であるとする私の主張は道理に合っているわけである。
もし我々が”天下の利”を追求しようとするなら、ただ「兼愛」の道あるのみである。「兼愛」に従えば人々の協力を得ることができる。
よい目とよい耳とが協力し合ってこそ、ものの本当の姿がつかめるのだ。強い手と強い足とが協力し合ってこそ、正しい行動がとれるのだ。道に目覚めた人々が互いに協力し合ってこそ、人々を導くことができるのだ。そればかりではない。「兼愛」に従えば、身寄りのない老人も救いの手が差し伸べられて寿命を全うし、孤児も保護され成人することができる。「兼愛」のもたらす利益はこれほどまでに大きい。
それなのに天下の士は、「兼愛」というとすぐ非難する。なぜなのだろうか。
しかし我々は一つの見方に反対する以上、それに代わる別の見方を示さねばならない。もし相手の見方に反対するだけでそれに代わる別の見方を示せぬとしたら、それは水を用いて水を救い、火を用いて火を救うようなものだ。このような論法は正しくはないだろう。従って、私は「別愛」に代わって「兼愛」を主張する。
「別愛」に代えて「兼愛」を主張するのはなぜか。もし諸侯が自国同様に他国のために尽くすならば、戦争がおこるはずがない。なぜなら相手を我が身同様にみなすのだから。もし領主が自分の領地同様に他人の領地のために尽くすならば、内乱はおこるはずがない。なぜなら相手を我が身同様にみなすのだから。もし卿大夫が自分の一族に対するのと同様に他の氏族のために尽くすならば、紛争はおこるはずがない。なぜなら相手は我が身同然なのだから。
戦争や内乱がおこらぬ状態、それは天下の”利”であるか、”害”であるか。いうまでもなく”天下の利”である。こういうおびただしい”利”はどこから生ずるのか。それは人を憎み人に不利益を与えたために生ずるのか。無論そうではない。人を愛し人に利益を与えたために生ずるのである。人を愛し人に利益を与える行為、それは「別愛」から生ずるのか。それとも「兼愛」から生ずるのか。いうまでもなく後者である。
してみればこの「兼愛」こそ、”天下の利”をもたらす根源である。私が「兼愛」は正しいと主張する理由はここにある。
”天下の害”を除いて”天下の利”を追求すること、これが仁者の使命であると私は言った。そして今、我々は”天下の利”をもたらす根源は「兼愛」にあること、”天下の害”をもたらす根源は「別愛」にあることがわかった。すなわち「別愛」は間違った見方であり、「兼愛」こそ正しい見方であるとする私の主張は道理に合っているわけである。
もし我々が”天下の利”を追求しようとするなら、ただ「兼愛」の道あるのみである。「兼愛」に従えば人々の協力を得ることができる。
よい目とよい耳とが協力し合ってこそ、ものの本当の姿がつかめるのだ。強い手と強い足とが協力し合ってこそ、正しい行動がとれるのだ。道に目覚めた人々が互いに協力し合ってこそ、人々を導くことができるのだ。そればかりではない。「兼愛」に従えば、身寄りのない老人も救いの手が差し伸べられて寿命を全うし、孤児も保護され成人することができる。「兼愛」のもたらす利益はこれほどまでに大きい。
それなのに天下の士は、「兼愛」というとすぐ非難する。なぜなのだろうか。
88: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/05/22(日) 22:43:39.12 ID:xvnKGIkZ0
三
「兼愛」を非難する意見はあとを絶たない。彼らはこう主張する。
「なるほど、立派な考えである。しかし実行できるわけがない。」
実行できないのであれば私とて主張はしない。しかし、立派な考えであるのに実行できないなどということがあるだろうか。
「兼愛」と「別愛」とを比べてみよう。ここに二人の男がいる。一方は「別愛」の立場、他方は「兼愛」の立場である。「別愛」の男の意見はこうである。
「友人だからといって、我が身のようにみなせるだろうか。友人の親だからといって、我が親のようにみなせるだろうか。」
そして実際、友人が飢えにせまられていても食べ物を工面しようとせず、寒さに震えていても着るものを世話しようとしない。病気にせまられていても看病しようとせず、死んだ時も葬ろうとしない。これが、「別愛」の立場をとる男の意見と行動である。これに対して「兼愛」の立場をとる男の意見はこうである。
「高潔の士は友人を我が身同様に思う。友人の親に対しても、我が親に対するのと同じ態度をとる。そうでなければ高潔の士と呼ばれる資格はない。」
そして実際、友人が飢えにせまられていたら食べ物を工面するし、寒さに震えていれば着るものを世話する。病気になれば看病するし、死んだ時には手厚く葬る。これが「兼愛」の立場をとる男の意見と行動である。この二人は意見も行動も正反対である。
では、この二人が出鱈目を言っているのではなく、意見と行動が完全に一致し、言ったことは必ず実行するものとして、具体的な例を考えてみよう。この二人に友人がおり、戦争が起こって戦士として出陣することになったとする。生きて帰れるかどうかわからない。あるいはまた、君命を受けて外国へ使者として旅立つことになったとする。無事に使命を終えて帰れるかどうかわからない。
さて、こういう事態に直面したとして、あとに残してゆく両親や妻子の世話を頼もうとする場合、かれは二人の友人の内、どちらを選ぶだろうか。いかに愚かな者でも、たとえ「別愛」に反対する者であっても、きっと「兼愛」の立場をとる友人を選ぶに違いない。
つまり、この男は口では「兼愛」に反対しておきながら、いざ両親や妻子を託すとなると「兼愛」の立場をとる友人を選ぶのである。かれの言行は矛盾することになるのではないか。それなのに天下の士は「兼愛」というとすぐ非難する。なぜなのだろうか。
「兼愛」を非難する意見はあとを絶たない。彼らはこう主張する。
「なるほど、立派な考えである。しかし実行できるわけがない。」
実行できないのであれば私とて主張はしない。しかし、立派な考えであるのに実行できないなどということがあるだろうか。
「兼愛」と「別愛」とを比べてみよう。ここに二人の男がいる。一方は「別愛」の立場、他方は「兼愛」の立場である。「別愛」の男の意見はこうである。
「友人だからといって、我が身のようにみなせるだろうか。友人の親だからといって、我が親のようにみなせるだろうか。」
そして実際、友人が飢えにせまられていても食べ物を工面しようとせず、寒さに震えていても着るものを世話しようとしない。病気にせまられていても看病しようとせず、死んだ時も葬ろうとしない。これが、「別愛」の立場をとる男の意見と行動である。これに対して「兼愛」の立場をとる男の意見はこうである。
「高潔の士は友人を我が身同様に思う。友人の親に対しても、我が親に対するのと同じ態度をとる。そうでなければ高潔の士と呼ばれる資格はない。」
そして実際、友人が飢えにせまられていたら食べ物を工面するし、寒さに震えていれば着るものを世話する。病気になれば看病するし、死んだ時には手厚く葬る。これが「兼愛」の立場をとる男の意見と行動である。この二人は意見も行動も正反対である。
では、この二人が出鱈目を言っているのではなく、意見と行動が完全に一致し、言ったことは必ず実行するものとして、具体的な例を考えてみよう。この二人に友人がおり、戦争が起こって戦士として出陣することになったとする。生きて帰れるかどうかわからない。あるいはまた、君命を受けて外国へ使者として旅立つことになったとする。無事に使命を終えて帰れるかどうかわからない。
さて、こういう事態に直面したとして、あとに残してゆく両親や妻子の世話を頼もうとする場合、かれは二人の友人の内、どちらを選ぶだろうか。いかに愚かな者でも、たとえ「別愛」に反対する者であっても、きっと「兼愛」の立場をとる友人を選ぶに違いない。
つまり、この男は口では「兼愛」に反対しておきながら、いざ両親や妻子を託すとなると「兼愛」の立場をとる友人を選ぶのである。かれの言行は矛盾することになるのではないか。それなのに天下の士は「兼愛」というとすぐ非難する。なぜなのだろうか。
89: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/05/22(日) 22:47:54.94 ID:xvnKGIkZ0
四
しかしなお、「兼愛」を非難する意見があとを絶たない。彼らはこうも主張する。
「なるほど、友人を選ぶ場合はそのとおりだとしても、君主を選ぶ場合はそうはいかぬのではないか。」
ではもう一度、「兼愛」と「別愛」とを比べてみよう。ここに二人の君主がいる。一方は「別愛」の立場、他方は「兼愛」の立場である。
「別愛」の立場をとる君主の意見はこうである。
「人民を我が身同様に見なせようか。そんな考えは人の情に反する。人生は短いのだ。四頭立ての馬車が塀の隙間をあっというまに過ぎ去るようなものだ。人民よりは我が身が先だ。」
そして実際、人民が飢えに苦しんでいても穀物を放出しようとせず、寒さにふるえていても着るものを心配しようとしない。人民の間に疫病がはやっていても対策をたてようとはせず、死者が出たときにも葬ろうともしない。これが「別愛」の立場をとる君主の意見と行動である。一方、「兼愛」の立場をとる君主の意見はこうである。
「名君はまず人民のことを考え、我が身のことを後回しにする。そうでなければ名君といわれる資格はない。」
そして実際、人民が飢えに苦しんでいれば穀物を放出し、寒さに震えていれば着るものを心配する。疫病がはやれば対策をたて、死者が出たときには手厚く葬る。これが「兼愛」の立場をとる君主の意見と行動である。この二人は意見も行動も正反対である。
では、この二人が出鱈目を言っているのではなく、意見と行動が完全に一致し、言ったことは必ず実行するものとして、具体的な例を考えてみよう。
ある年に疫病がはやり、たくさんの人民が飢えと寒さに苦しみ、行き倒れが続出したとする。こういう事態に直面すれば、人民はどの君主にしたがうであろうか。いかに愚かな者でも、たとえ「別愛」に反対する者であっても、きっと「兼愛」の立場をとる君主を選ぶに違いない。つまり、口では「兼愛」に反対しておきながら、いざしたがうとなると、「兼愛」の立場をとる君主にしたがうのである。
かれの言行は矛盾することになるのではないか。それなのに天下の士は「兼愛」というとすぐ非難する。なぜなのだろうか。
しかしなお、「兼愛」を非難する意見があとを絶たない。彼らはこうも主張する。
「なるほど、友人を選ぶ場合はそのとおりだとしても、君主を選ぶ場合はそうはいかぬのではないか。」
ではもう一度、「兼愛」と「別愛」とを比べてみよう。ここに二人の君主がいる。一方は「別愛」の立場、他方は「兼愛」の立場である。
「別愛」の立場をとる君主の意見はこうである。
「人民を我が身同様に見なせようか。そんな考えは人の情に反する。人生は短いのだ。四頭立ての馬車が塀の隙間をあっというまに過ぎ去るようなものだ。人民よりは我が身が先だ。」
そして実際、人民が飢えに苦しんでいても穀物を放出しようとせず、寒さにふるえていても着るものを心配しようとしない。人民の間に疫病がはやっていても対策をたてようとはせず、死者が出たときにも葬ろうともしない。これが「別愛」の立場をとる君主の意見と行動である。一方、「兼愛」の立場をとる君主の意見はこうである。
「名君はまず人民のことを考え、我が身のことを後回しにする。そうでなければ名君といわれる資格はない。」
そして実際、人民が飢えに苦しんでいれば穀物を放出し、寒さに震えていれば着るものを心配する。疫病がはやれば対策をたて、死者が出たときには手厚く葬る。これが「兼愛」の立場をとる君主の意見と行動である。この二人は意見も行動も正反対である。
では、この二人が出鱈目を言っているのではなく、意見と行動が完全に一致し、言ったことは必ず実行するものとして、具体的な例を考えてみよう。
ある年に疫病がはやり、たくさんの人民が飢えと寒さに苦しみ、行き倒れが続出したとする。こういう事態に直面すれば、人民はどの君主にしたがうであろうか。いかに愚かな者でも、たとえ「別愛」に反対する者であっても、きっと「兼愛」の立場をとる君主を選ぶに違いない。つまり、口では「兼愛」に反対しておきながら、いざしたがうとなると、「兼愛」の立場をとる君主にしたがうのである。
かれの言行は矛盾することになるのではないか。それなのに天下の士は「兼愛」というとすぐ非難する。なぜなのだろうか。
90: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/05/22(日) 22:52:08.83 ID:xvnKGIkZ0
五
しかしなお、「兼愛」を非難する意見があとを絶たない。彼らはこうも主張する。
「「兼愛」の立場は親の利益をそこなうものであって、孝養を尽くす妨げになるのではないか。」
息子が親に尽くそうとする気持ちを考えてみよう。いったい、親を大切にする息子は、他人に我が親を大切に扱ってもらいたいと望むだろうか。それとも、手荒く扱ってもらいたいのだろうか。かれの気持ちからして、当然前者である。他人からも大切に扱ってもらうためにはどうしたらよいか。
他人からも我が親を大切に扱ってもらいたければ、まず私自身が人の親を大切にしたほうがよいか。それとも、手荒く扱ったほうがよいか。いうまでもなく、前者である。まず自分自身が人の親を大切にして、初めて人からも同様のことが期待できるのである。
してみると、親に尽くすためにはどうしてもまず人の親を大切にしなければならないのだ。
親に尽くす場合はそのとおりだが、それは稀な事例であって、万事に当てはめることはできないというかもしれない。それでは、先王の書に根拠を求めてみよう。「大雅」(『詩経』の篇名)にはこううたわれている。
「言葉には言葉を。徳には徳を。人が桃をくれたなら私は李を与えよう。」
つまり、人を愛すれば必ず人からも愛されるし、人を憎めば必ず人からも憎まれるのだ。それなのに天下の士は「兼愛」というとすぐ非難する。なぜなのだろうか。
『墨子』「兼愛」より
しかしなお、「兼愛」を非難する意見があとを絶たない。彼らはこうも主張する。
「「兼愛」の立場は親の利益をそこなうものであって、孝養を尽くす妨げになるのではないか。」
息子が親に尽くそうとする気持ちを考えてみよう。いったい、親を大切にする息子は、他人に我が親を大切に扱ってもらいたいと望むだろうか。それとも、手荒く扱ってもらいたいのだろうか。かれの気持ちからして、当然前者である。他人からも大切に扱ってもらうためにはどうしたらよいか。
他人からも我が親を大切に扱ってもらいたければ、まず私自身が人の親を大切にしたほうがよいか。それとも、手荒く扱ったほうがよいか。いうまでもなく、前者である。まず自分自身が人の親を大切にして、初めて人からも同様のことが期待できるのである。
してみると、親に尽くすためにはどうしてもまず人の親を大切にしなければならないのだ。
親に尽くす場合はそのとおりだが、それは稀な事例であって、万事に当てはめることはできないというかもしれない。それでは、先王の書に根拠を求めてみよう。「大雅」(『詩経』の篇名)にはこううたわれている。
「言葉には言葉を。徳には徳を。人が桃をくれたなら私は李を与えよう。」
つまり、人を愛すれば必ず人からも愛されるし、人を憎めば必ず人からも憎まれるのだ。それなのに天下の士は「兼愛」というとすぐ非難する。なぜなのだろうか。
『墨子』「兼愛」より
91: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/05/27(金) 20:57:58.48 ID:wLdTzZz50
一
墨子は弟子たちを前にして語った。
「いくら義の実践がうまくいかないからといって、義を棄ててはいけない。大工をみるがいい。木材をまっすぐに削れないからといって、墨縄を棄てたりするだろうか。」
墨子は弟子たちを前にして語った。
「いくら義の実践がうまくいかないからといって、義を棄ててはいけない。大工をみるがいい。木材をまっすぐに削れないからといって、墨縄を棄てたりするだろうか。」
92: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/05/27(金) 20:59:13.44 ID:wLdTzZz50
二
当今の君子は矛盾している。豚一頭を差し出して料理しろとえば、できないときはできないといって辞退する。それなのに、大臣になってくれといえば、できなくても平気で引き受ける。実に矛盾している。
当今の君子は矛盾している。豚一頭を差し出して料理しろとえば、できないときはできないといって辞退する。それなのに、大臣になってくれといえば、できなくても平気で引き受ける。実に矛盾している。
93: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/05/27(金) 21:02:20.93 ID:wLdTzZz50
三
目の見えない人がこう言ったとする。
「ダイヤは白い。炭は黒い。」
目の見える人でも、これには反対しようがない。しかし、白いものを黒いものと並べて選ばせれば、目の見えない人はより分けることができない。つまり、”目の見えない人は色がわからない”というのは、目の見えない人が色の名を知らないということではなく、実際に色をよりわけられないからである。
これは当今の君子にも当てはまる。もし仁について語らせれば、湯王であっても、その考えには反対しようがないだろう。しかし、仁と不仁をいっしょにして実際に選ばせたら、当今の君子はよりわけることができない。
私がかれらを指して仁を知らないというのも、仁という言葉を知らないという意味ではなく、実際に仁と不仁とをよりわけることができないという意味である。
目の見えない人がこう言ったとする。
「ダイヤは白い。炭は黒い。」
目の見える人でも、これには反対しようがない。しかし、白いものを黒いものと並べて選ばせれば、目の見えない人はより分けることができない。つまり、”目の見えない人は色がわからない”というのは、目の見えない人が色の名を知らないということではなく、実際に色をよりわけられないからである。
これは当今の君子にも当てはまる。もし仁について語らせれば、湯王であっても、その考えには反対しようがないだろう。しかし、仁と不仁をいっしょにして実際に選ばせたら、当今の君子はよりわけることができない。
私がかれらを指して仁を知らないというのも、仁という言葉を知らないという意味ではなく、実際に仁と不仁とをよりわけることができないという意味である。
94: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/05/27(金) 21:03:50.68 ID:wLdTzZz50
四
世俗の君子は、義のために奔走する人を粟をかつぐ人よりも低く見ている。ここに粟をかつぐ人がいて、道端に休んでいたが荷が重くて起き上がれなかったとする。それを見れば、君子はだれでも助け起してやる。なぜか。そうすることが義であるからだ。ところが、義のために働く人が先王の道を説いたとする。
当世の君子は進んで義を実行しないばかりか、よってたかってこういう人の足をひっぱる。
つまり、義のために働く人を粟をかつぐ人よりも低く見ているのだ。
世俗の君子は、義のために奔走する人を粟をかつぐ人よりも低く見ている。ここに粟をかつぐ人がいて、道端に休んでいたが荷が重くて起き上がれなかったとする。それを見れば、君子はだれでも助け起してやる。なぜか。そうすることが義であるからだ。ところが、義のために働く人が先王の道を説いたとする。
当世の君子は進んで義を実行しないばかりか、よってたかってこういう人の足をひっぱる。
つまり、義のために働く人を粟をかつぐ人よりも低く見ているのだ。
95: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/05/27(金) 21:05:41.32 ID:wLdTzZz50
五
私の主義は実行するだけの価値がある。私の主義を棄てて別の主義を採るのは、取入れをやめて落穂を拾うようなものだ。別の主義で私を攻撃したところで、それは卵を石にぶつけるようなものだ。天下の卵を全部ぶつけても、石は割れはしない。
『墨子』「貴義」より
私の主義は実行するだけの価値がある。私の主義を棄てて別の主義を採るのは、取入れをやめて落穂を拾うようなものだ。別の主義で私を攻撃したところで、それは卵を石にぶつけるようなものだ。天下の卵を全部ぶつけても、石は割れはしない。
『墨子』「貴義」より
96: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/05/28(土) 20:06:33.36 ID:kXX6kZZZ0
>>86~95
いいね!変節や風見鶏が大半な思想界において、これほど頑固に自分を貫いた墨子には、純粋に敬意を抱けるよ。
いいね!変節や風見鶏が大半な思想界において、これほど頑固に自分を貫いた墨子には、純粋に敬意を抱けるよ。
98: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/06/07(火) 21:04:42.47 ID:/CdYljvh0
>>95
勉強になるよ。そして墨子の石の様に硬く流されない頑固さは、あらゆるものが流され、変節
や掌がえしが当たり前の現代に、真に必要なのかもしれない。
勉強になるよ。そして墨子の石の様に硬く流されない頑固さは、あらゆるものが流され、変節
や掌がえしが当たり前の現代に、真に必要なのかもしれない。
101: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/08/07(日) 23:04:46.65 ID:XXKRYDzD0
墨子は述べた。
「世俗の君子は貧乏なのに金持ちだと言われれば怒る。そのくせ、義など持ち合わせていないのに義を大切にしていると言われれば喜ぶ。実に矛盾した話ではないか。」
『墨子』耕柱より
「世俗の君子は貧乏なのに金持ちだと言われれば怒る。そのくせ、義など持ち合わせていないのに義を大切にしていると言われれば喜ぶ。実に矛盾した話ではないか。」
『墨子』耕柱より
102: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/08/09(火) 21:16:29.60 ID:+jQgakSd0
墨子が魯陽(楚の地名)の文君に説いた。
「大国が小国を攻めるのは、子供が馬遊びに夢中になるのと同じです。夢中になっているうちに、子供の足はヘトヘトに疲れてしまいます。もし大国が小国を攻めれば、守る国では農夫は畑仕事ができず婦人は機織り仕事ができず、ただ防戦に追われるのは勿論ですが、攻める側でも、やはり農夫は仕事ができず婦人は機織り仕事ができません。攻めることで手一杯です。大国が小国を攻めるのは、馬遊びに夢中になるのと変わりありません。いかに大国であろうと、結局自分もヘトヘトに疲れてしまいます。」
『墨子』耕柱より。
現代の戦争好きな為政者は、墨子のこの発言を声を出して数十回は読むべき。
「大国が小国を攻めるのは、子供が馬遊びに夢中になるのと同じです。夢中になっているうちに、子供の足はヘトヘトに疲れてしまいます。もし大国が小国を攻めれば、守る国では農夫は畑仕事ができず婦人は機織り仕事ができず、ただ防戦に追われるのは勿論ですが、攻める側でも、やはり農夫は仕事ができず婦人は機織り仕事ができません。攻めることで手一杯です。大国が小国を攻めるのは、馬遊びに夢中になるのと変わりありません。いかに大国であろうと、結局自分もヘトヘトに疲れてしまいます。」
『墨子』耕柱より。
現代の戦争好きな為政者は、墨子のこの発言を声を出して数十回は読むべき。
103: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/08/09(火) 22:16:46.78 ID:uFJcx60j0
でも現実に戦国時代を終わらせたのは大国秦による天下統一だからなぁ。
104: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/03(土) 20:03:59.26 ID:eUbP5nLW0
墨子「宿命論は馬鹿の考え。」
105: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/04(日) 00:11:08.52 ID:vVOSGeE70
墨家はキリスト教に似てるというけどキリスト教は国教化で栄えたんだよね。対する墨家は滅んだ。
兼愛なんて支配者にすりゃ都合がよくないだろうし上に従え敬え絶対だの忠孝の儒家が採用されるのは分かる。
でもキリスト教も博愛だのローマ皇帝を神として礼拝しないだの都合は凄く悪い。結局数の力とすると墨家も天下取れる可能性はあったね
兼愛なんて支配者にすりゃ都合がよくないだろうし上に従え敬え絶対だの忠孝の儒家が採用されるのは分かる。
でもキリスト教も博愛だのローマ皇帝を神として礼拝しないだの都合は凄く悪い。結局数の力とすると墨家も天下取れる可能性はあったね
106: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/30(金) 20:32:48.03 ID:JdjwS25Z0
墨家が連座制で家族を処罰したという話を聞いた
それが事実なら墨子の意思を受け継いだとは思えない
家族を否定するならそれによる利益も損害も受けるのはおかしい
それが事実なら墨子の意思を受け継いだとは思えない
家族を否定するならそれによる利益も損害も受けるのはおかしい
107: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/30(金) 21:55:22.53 ID:PBJ+IyrK0
責任を取るために集団自決した話は聞いてるけど、家族を処罰したとは聞かない。
というかそもそも墨者の家族は墨家教団と何の関係もないので処罰などできるはずがない。
逆に息子に学問させて栄達することを期待してたのに墨家の理想のために死んでしまった
責任を親から問われたりしてる。
というかそもそも墨者の家族は墨家教団と何の関係もないので処罰などできるはずがない。
逆に息子に学問させて栄達することを期待してたのに墨家の理想のために死んでしまった
責任を親から問われたりしてる。
108: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/10/05(水) 01:10:28.91 ID:sQMU4xH40
内通した者を家族含めて処刑したって話を聞いた時にそれが事実ならこいつらは墨子の遺志を継いでいないと感じた
博愛を否定したのならあくまで家族制度は否定すべきだ
博愛を否定したのならあくまで家族制度は否定すべきだ
109: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/10/05(水) 22:19:18.79 ID:dALUT9HP0
否定したのは偏愛であって博愛では無い。
家族制度を否定したわけでも無い。
家族と同じように他人も愛せと言っただけ。
家族制度を否定したわけでも無い。
家族と同じように他人も愛せと言っただけ。
129: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/01/17(水) 01:23:16.66 ID:qCW56Txg0
平等に愛するのは博愛だろう。
墨子の主張は兼愛だ。兼愛とは全ての人を我身同様に愛することであり、自分自身が基準である。
博愛と兼愛がどう違うのかは難しくて俺も掴みきれてないけど。
墨子の主張は兼愛だ。兼愛とは全ての人を我身同様に愛することであり、自分自身が基準である。
博愛と兼愛がどう違うのかは難しくて俺も掴みきれてないけど。
130: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/01/24(水) 16:12:22.39 ID:GKXrpqsu0
兼愛とは自己と他者とを区別せずに兼ね愛させることである。そこで兼ねる当事者の一方は、常に自己でなければならない。
したがって、自己が他者Aと他者Bとの間に区別を設けず愛するとの関係は、元々墨子の主張から外れている。よく墨子の兼愛を無差別平等愛とする解説を見かけるが、これは誤解を招きやすい表現である。
この場合、無差別平等愛なる表現が、自己と他者との間に差別を設けず自他を平等に愛するとの意味で使用されているのであれば問題はない。だがもしそれが、自己から見て他者であるもの同士を差別せず両者を平等に愛するとの意味であれば、墨子の意図を逸脱した理解となる。
もっとも、自己と他者Aを同等に愛し、かつ一方で自己と他者Bを同等に愛せば、結果的には自己が他者Aと他者Bとを差別せずに同等に愛したことになる。ただしこれは、あくまで最終的な現象としてはそうなるというに留まり、他者Aと他者Bとの間に直接橋は架けられていないから、それ自体が兼愛の本旨にはならない。
孟子は兼愛論を、自分の父と他人の父、または、自国と他国、を同等に愛せと要求してくる危険思想だと批判する。しかし孟子の批判は兼愛論の真意からすると外れており、孟子の敵意による誇張を含んでいる。
したがって、自己が他者Aと他者Bとの間に区別を設けず愛するとの関係は、元々墨子の主張から外れている。よく墨子の兼愛を無差別平等愛とする解説を見かけるが、これは誤解を招きやすい表現である。
この場合、無差別平等愛なる表現が、自己と他者との間に差別を設けず自他を平等に愛するとの意味で使用されているのであれば問題はない。だがもしそれが、自己から見て他者であるもの同士を差別せず両者を平等に愛するとの意味であれば、墨子の意図を逸脱した理解となる。
もっとも、自己と他者Aを同等に愛し、かつ一方で自己と他者Bを同等に愛せば、結果的には自己が他者Aと他者Bとを差別せずに同等に愛したことになる。ただしこれは、あくまで最終的な現象としてはそうなるというに留まり、他者Aと他者Bとの間に直接橋は架けられていないから、それ自体が兼愛の本旨にはならない。
孟子は兼愛論を、自分の父と他人の父、または、自国と他国、を同等に愛せと要求してくる危険思想だと批判する。しかし孟子の批判は兼愛論の真意からすると外れており、孟子の敵意による誇張を含んでいる。
131: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/02/28(水) 01:02:06.61 ID:+MV3+xhk0
つまり、自分≠他人ではあるけど、他人A=他人B=他人C…… になっていれば博愛ではあるが兼愛ではない。
自分=他人Aかつ自分=他人Bかつ自分=他人C(以下略)というのが兼愛の本質で、結果として(自分=)他人A=他人B=他人C(以下略)にもなるから博愛にも該当する、ということで良いのか
自分=他人Aかつ自分=他人Bかつ自分=他人C(以下略)というのが兼愛の本質で、結果として(自分=)他人A=他人B=他人C(以下略)にもなるから博愛にも該当する、ということで良いのか
133: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/04/03(火) 21:32:15.11 ID:8rTB1cQQ0
>>131
そうですね。博愛は博く愛するけどその程度については基準がない。広く浅くということもあり得る。
兼愛は我が身を愛するようにが基準だからはっきりしている。
そうですね。博愛は博く愛するけどその程度については基準がない。広く浅くということもあり得る。
兼愛は我が身を愛するようにが基準だからはっきりしている。
136: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/06/06(水) 15:45:13.34 ID:Cajsn7F50
墨子の意思を受け継いだ弟子はいなかった
137: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/06/06(水) 17:29:47.83 ID:e/TRgzBR0
>>136
墨家の指導者を鉅子といい、墨子の後を継いだ禽滑釐、三代目 孟勝と受け継がれたのを知らないの?
特に禽滑釐は墨子の弟子として墨子のテキストにしばしば出てくるので知らないということは読んでないことになる。
墨家の指導者を鉅子といい、墨子の後を継いだ禽滑釐、三代目 孟勝と受け継がれたのを知らないの?
特に禽滑釐は墨子の弟子として墨子のテキストにしばしば出てくるので知らないということは読んでないことになる。
153: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/09/16(日) 20:08:06.69 ID:w/FyB2vW0
>>137
そいつらのやっていることから受け継いでいないと感じる
そいつらのやっていることから受け継いでいないと感じる
143: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/08/17(金) 14:58:47.10 ID:Q+QXh1Yq0
城を守れなくて集団自決した話とか、墨子の意思を受け継いだとは思えない
144: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/08/17(金) 15:49:48.31 ID:AsYIGkah0
城を守る約束を守れなかったのに責任を取らないと噂される事を恐れて自決すると指導者が決めて
他の者はそれに追従したのであって、誰も強要した訳ではないのよ?
他の者はそれに追従したのであって、誰も強要した訳ではないのよ?
145: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/08/17(金) 16:24:11.54 ID:AsYIGkah0
もうちょっと補足。
墨家は侵略戦争に反対して防衛側に協力するわけだけど所詮は他所者なので、いざとなったら逃げるんじゃないのという疑惑の目にさらされている。命をかけているという信頼を失ったらやって行けない。それを証明するためには実際に死ぬしかない訳だ。
墨家は侵略戦争に反対して防衛側に協力するわけだけど所詮は他所者なので、いざとなったら逃げるんじゃないのという疑惑の目にさらされている。命をかけているという信頼を失ったらやって行けない。それを証明するためには実際に死ぬしかない訳だ。
146: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/08/21(火) 15:23:24.07 ID:cqvzD6na0
裏切りか何かで家族も処刑ってのを見た時、儒教の博愛を否定したくせにと思った
どんなに支持されようともぼっかじゃない
どんなに支持されようともぼっかじゃない
147: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/08/21(火) 17:57:22.42 ID:d7LpUmAT0
それは俺は読んだ記憶が無いな。
148: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/08/21(火) 18:00:06.09 ID:d7LpUmAT0
憶えが無いというのは墨家を貶めるつもりで誰かが書いた文章じゃないのという事だ。
それと儒教は博愛じゃなくて偏愛。身内しか近しい人しか愛さないから。
それと儒教は博愛じゃなくて偏愛。身内しか近しい人しか愛さないから。
167: 名無しさん@お腹いっぱい。 2020/01/18(土) 22:14:21.19 ID:AQl6v1ad0
家族を愛するのが差別なら裏切り者の家族を処刑するのもおかしい
鬼神とか報われるわけないだろ
鬼神とか報われるわけないだろ
173: 名無しさん@お腹いっぱい。 2020/09/06(日) 20:52:38.23 ID:8V6V+twJ0
鬼神を重視しているのがな
努力しても才能があっても報われない現実の裏返しな気がする
努力しても才能があっても報われない現実の裏返しな気がする
引用元: ・【墨攻】墨子を語るスレ
紀元前なのに元素の話に翻訳するの笑うからやめて欲しい…