陸 秀夫(嘉熙元年(1237年)- 祥興2年2月6日(1279年3月19日))は、中国南宋末期の重臣。字は君実。楚州塩城県長建里(現在の江蘇省塩城市建湖県建陽鎮)の人。文天祥や張世傑と共に南宋の三忠臣(亡宋の三傑)の一人。

徳祐2年(1276年)、バヤン率いる元の軍が南宋の首都の臨安に迫ると、和睦の交渉を進めて国難を救おうとしたが失敗する。同年1月、臨安は無血開城し、恭帝は元に降伏するが、宋王朝の滅亡を潔しとしない陸秀夫は、前皇帝度宗の遺児を連れ出して臨安を脱出、南方に逃れ、張世傑と協力して亡命政権を打ち立てた。

しかし、南宋残党を追撃する元軍の猛攻の前に南宋の滅亡は決定的となり、祥興2年(1279年)の崖山の戦いにおいて自身の妻子を殺した後、自分も幼帝と共に海に身を投げて自殺した。





2: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/24(火) 18:59:02 ID:6IO3YM3P0
崖山の戦いの結末は、悲惨だねえ。
300年に渡って続いた宋朝の最期としては、ある意味相応しいものだったのかも知れないけど。
次々と擁立された幼い皇帝たちが可哀想。

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/24(火) 20:38:31 ID:6IO3YM3P0
にしても、崖山の光景は凄まじかっただろうな。
何万人もが海に身を投げたんだから。
平家の壇ノ浦の百倍の規模だし。

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/25(水) 03:25:46 ID:AyWkIViO0
日本に逃げようとは考えなかったのかねえ。
文永の役で元軍と交戦した事とか、度重なる服属要求を拒否し続けてることとかは伝わってたと思うんだが。

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/25(水) 08:50:21 ID:ldm+WpPM0
日本ではなく、ベトナムのほうに逃げようとしていたでしょ。
陳宜中が使者に行ったのに、姿くらましたもんだから、進退窮まって崖山で悲壮な戦い…
文天祥は華南の山岳地帯でゲリラもどきの転戦を…
降伏ではなく全滅を選んだこの人たちの胸中、どのようであったのか。
他の時代でもなかなか例をみないな。
普通、皇帝とかそのアホとりまきはさっさと逃げ出し、途中で捕らえられるとか、皇帝殺して首を差し出すとかするのにね。

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/26(木) 02:13:08 ID:91P56rFS0
>>10
だから何故日本じゃなくベトナムに行こうとしたのかと小一時間(ry
日本に来ていればあんな事にならずに済んだだろうに。
鎌倉幕府も朝廷も無下には扱わなかっただろうし。

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/27(金) 00:51:03 ID:X6f4Dp+60
>>17
日本に宋朝の子孫が来ていたら、どうなっただろう?
公家の立場を与えられるか、あるいは亡命政権の樹立を認められるか?
亡命政権なんか認めたら、元朝と全面対決になりそう。
まあ、元朝がどう頑張っても、海に囲まれた日本を占領することはできないだろうけど。

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/27(金) 09:35:25 ID:TavDgbbI0
>>20
そんな交通に難儀する辺境の小島を制圧しても旨みがないだけ。
しかも上陸を試みて二回とも撃退されてる。
逆に言えば、海上封鎖するだけで、日本を干上がらせることができるのだけどね。
それは現在のほうにこそ有効か。当時は日本国内も結構裕福だったようだし。

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/29(日) 02:15:56 ID:VbHo0P3E0
>>21
フビライは海上封鎖どころか日本との交易禁止すらしてないな。
その辺は割とおおらかな性格だったんだろう。
文天祥にしても破格の扱いだし。

24: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/29(日) 11:56:49 ID:26deI4230
>>23
フビライは、モンゴル帝国諸国とその周辺が一体化した、ユーラシア大陸全域を巻き込んだ巨大な交易圏の構築を企図していたんだと思うよ。
内陸部の遊牧民出身なのに、海上交易にも関心が強かったようだし。

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/26(木) 09:22:46 ID:e12cwApx0
日本への制海権がすでに手中になかったからだろうよ。
あの時代、いかに宋の操船技術と造船技術が優れていても、南シナ海から延々と日本を目指すのは危険が大きすぎ、二の足踏むのも仕方ないとおもうがなぁ。
それより、似たように無下に扱わないであろう、大越陳朝の方が近い上に気安い感覚もあったと思う。
ただ、思ったほど色よい反応もなく、使者も姿を晦ましてしまった不幸。

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/26(木) 16:00:48 ID:w0u6UrQP0
陳朝にしても、下手に亡命政権を受け入れたら、元朝と全面戦争だからなあ。
厄介ごとは抱え込みたくなかったのだろう。

結局、侵攻は受けたけど。

12: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/25(水) 19:52:33 ID:rSQ3JPYr0
張世傑でもなく文天祥でもなく陸秀夫か……。
この人、最期の話しか知らないんだけど、それ以外になんかやったの?

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/25(水) 22:43:53 ID:iFfaNNET0
まあ、臨安陥落以前は、元朝との和睦交渉に当たって失敗したというぐらいしか、特筆することはない。

でも、悲劇的な最期は、今でも多くの人々に哀惜の念を与えている。

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/25(水) 16:11:30 ID:+Orvf47M0
宋朝って情けなく言われることも多いけど、あれだけ殉じた人がいたんだから、なんだかんだで偉大な王朝だったんだなと思う。

14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/10/26(木) 00:23:28 ID:Rs0N5P/uO
宋朝は民に害を成すような暴君はいなかったんだよね、無能は、Kゲフンゲフン
それが悲劇をひきたたせてる

27: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/02(木) 08:08:24 ID:NG54xtO4O
住人諸賢は何を見て(読んで)陸秀夫を知りましたか?自分は田中芳樹の『海ショー』なんですが…。
陸秀夫について深く書かれた本などを御存知であれば御教示願いたい。

28: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/02(木) 10:35:46 ID:A/kIBOdD0
陳先生の小説十八史略だな。
俺の中国歴史の基本。

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/02(木) 20:15:42 ID:+gXRPHPY0
十八史略だったか何だか忘れたが、なぜ宋朝の遺臣たちはあれほど忠節を尽くしたのかというと、歴代の王朝と比べて官僚の給料が高かったから、と書いてあった。

30: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/02(木) 23:54:33 ID:gKo4z4RJ0
逆に明朝は、薄給だったらしいね。

31: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/03(金) 00:08:47 ID:tel6/8ib0
宋朝は官僚(士大夫)を最も優遇した王朝として有名だからね。
高官が引退しても名誉職で恩給形式で貰えたし。

>>30
顧炎武が「俸薄の害」と呼んでいたな。
薄給なので副収入(いわゆる賄賂)が無きゃ家族を養えなかった官僚が大半。

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/03(金) 07:51:23 ID:Eo9waEPS0
北宋にしろ南宋にしろ、内乱ではなく外圧で滅んでいる。
これは中国の王朝で稀有な例じゃないの?

宋は中国の王朝の中では一番まともだと思う。

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/07(火) 23:18:58 ID:gOCEQupBO
>>33
外圧によって倒れるのがまともな王朝ってこと?

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/07(火) 23:47:13 ID:rrWZGC8Y0
王朝のまともな終わり方って何だろう?

39: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/08(水) 00:36:14 ID:T+oa+sGj0
>>35
内部を有力者に食い尽くされて平和裏に禅譲。

42: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/08(水) 02:10:24 ID:4rSeN12C0
>>39
統一王朝でそういう終わり方したのは前漢→新くらいかなぁ。
その後大乱になったけど。

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/08(水) 00:00:50 ID:PvDOsAsP0
それは、マトモというより、内乱・腐敗と外圧で滅びる王朝が、古今東西「よくある例」だということでしょ。
小国でも、外圧「のみ」で滅びる王朝は数が少ないと、そういうこと。
王朝の終焉は、根本的に内部腐敗からだから、実際南宋朝とて例外ではないのだ。
ただ、腐り始めたばかりのところを、強力な外圧によって押しつぶされたものだから、中の人が他国の支配を享受できないかったのだろう。
南北宋の稀有なところは、暴虐や漁色の皇帝が出なかったことにつきる。

40: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/08(水) 00:45:28 ID:VjNt340rO
>>36
>ただ、腐り始めたばかりのところを、強力な外圧によって押しつぶされたものだから、

いやー、宋朝の内部腐敗もかなり根が深かったと思うがなぁ…
徽宗の治世は党争の嵐だったし、南宋でも秦檜、史弥遠、カ似道なんかは国を傾けてんだろ。

37: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/08(水) 00:27:06 ID:RFVgHAsY0
南宋はともかく、北宋はかなりやばかったと思うが。
結果的に外圧で滅んだが、実質すでに王朝末期の様相を呈していたと思うよ徽宗の代ですでに。

徽宗は個人の性格は温和だったが、その代の統治は暴政といってさしつかえない。個人的に、この人の統治は明の万暦帝と被る。もし精康の変がなかったら、徽宗と蔡京の統治がさらに続いた。

38: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/08(水) 00:35:09 ID:xqfmvLdI0
だが、文化的に宣和年間は盛況だったわけで。
王朝末期に漂う黒々としたものが、顕在化する前に拉致られたような状態。
むろん、徽宗の治世がまともと言っているわけじゃなく、どうしようもなくなる前に無理やりリタイヤさせられたことを言っている。
続いており、蔡京ら六奸臣がのさばったままだと、王朝末期の内乱に大突入したことは、想像に難くないわな…

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/08(水) 23:11:50 ID:zQnM1BiL0
徽宗の代でも別に全国的な統治力を失っていたわけではないから、それ程末期的な症状ではなかったのでは?
北方政策さえ間違わなければ、北宋はもっと続いたと思う。

47: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/09(木) 21:59:26 ID:wqAQB29c0
>>44
で、徽宗や蔡京や童貫がそのまま続いて花石鋼やらなにやらがそのまま続行されると。
第二、第三の方ロウの乱が続発するだけだと思うが。
よく「繁栄の絶頂から~」などといわれるが、実際に繁栄していたのは東京やその他一部であって、他の大部分では搾取であえいでいた。
さらに国家システムも以前から相当のガタがきていた。それを解消しようとしたのが王安石の新法だが、これも結局は失敗に終わっている。

正直、不安材料しか見当たらないのだが。

49: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/10(金) 00:10:46 ID:9qknhmrB0
>>47
不安材料があって、現在はともかく未来はやばそう、というのは皆一致していると思う。
おれが言いたいのは、それでも隋末のようなどうしようもない状態になる手前で、他勢力に潰されたから、それを享受できない、あるいはしたくないと感じた人民が比較的多かったのじゃないかな、と。
と、いっても南方に逃れて亡命政権打ち立てるのは、前例もあることだし、それだけが反金の原動力になったとは言えないかもだけど。
東晋期にも、北からおもいっきり圧力受けていたら、海にまでしぶとく逃げたかもしれないなぁ…

50: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/10(金) 00:25:13 ID:rKhExsxg0
やっぱり宋代それまでの単なる大貴族代表みたいな皇帝と違って皇帝権力が確立されてるし、国家自体も強固になってるんじゃないかな。
だからちょっとやそっとの反乱じゃ滅びないし、権臣による簒奪も発生しにくい。

結果、(決め手としては)強大な武力を持った外国によって侵略されて滅びるしかない。

52: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/10(金) 22:27:57 ID:o6uoxPH50
北宋は徽宗以外には暗君は出てないから、徽宗一代さえ乗り切ればもう少し何とかなったのでは?

54: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/10(金) 23:07:25 ID:9qknhmrB0
>>52
一般には、真宗も暗君とされる。
だけど、真宗のときは、あの寇準がいたために、大事に至らなかった。
それだけじゃないけど、徽宗期と比べれば官僚の質がはるかによかったのは間違いないだろう…

63: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/22(月) 20:37:48 ID:4iYX7Aso0
徽宗のときに外圧がなくて次代以降の皇帝がなんとか乗り切れば玄宗以降の唐ぐらいには生き残れたかもしれない

64: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/22(月) 21:46:42 ID:0rabnrim0
>>63
実際に、南宋というかたちで生き残ってるじゃん。
玄宗以降も、河北は支配下に入っていないとみてもいいかたちだから。

68: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/10(土) 15:51:04 ID:YRiHeE1N0
徽宗の後の欽宗の皇帝としての能力はどんなものだったんだろう。
歴史上では、父親の尻拭いをさせられる格好で、もうどうしようもない状態になってから即位させられたけど。

69: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/28(水) 14:53:12 ID:XISqMzd40
長子の欽宗趙桓はわりと真面目だったらしい。
三子の鄆王趙楷の性格が父親の徽宗趙佶に似ていて、一番気に入られていたらしい。

70: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/02(水) 22:36:31 ID:P4E6hWHY0
趙楷を跡継ぎに擁立しようとした謀反まがいの騒動も起こっているしね。

77: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/22(日) 17:27:48 ID:QpW2uasd0
チンギス・ハーン4での彼の能力はイマイチだったが…。

78: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/08/23(木) 06:48:00 ID:Sf1+MamR0
別に華々しい活躍をしそうなタイプではないし。

79: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/28(金) 06:06:31 ID:Xn1IIbWH0
陸秀夫はゲーム向きじゃないよなw

81: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/12/17(月) 00:45:04 ID:cSweJlGy0
忠誠心と義理は高いから、後方の城の留守番が適任だな。

82: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/22(金) 11:51:23 ID:06Mk2bvg0
三忠臣の中では、張世傑が一番戦力になるかな。
忠誠心だけじゃ戦えないし。

83: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/22(金) 16:42:14 ID:AWqKuaZA0
文天祥はゲリラ的な抵抗戦したおかげで伏兵とかのスキルもってるしな。

85: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/12/15(水) 17:18:06 ID:iFKxcYKWO
幼帝を背負って入水する死に様が平家滅亡と似てる

90: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/08/08(金) 10:05:25.01 ID:PDJUtLX80
この人が出てくる小説って田中芳樹の海嘯以外にある?
興味はあるんだがこの時代の知識があんまりなく
まずは取っ付きやすい小説から入りたいと思ったんだけど

91: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/02/20(土) 07:32:20.99 ID:X+vOP7l00
陳舜臣の小説十八史略に出てね

93: 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/05/17(金) 16:33:25.80 ID:/gOZnb5h0
三傑は文天祥と陸秀夫とあと誰?

94: 名無しさん@お腹いっぱい。 2021/06/30(水) 17:11:33.76 ID:8tUzJQV20
>>93
張世傑じゃね?

引用元: ・陸    秀    夫