
1: 世界@名無史さん 投稿日:2005/10/02(日) 20:36:51
三皇
五帝
殷
周
春秋戦国
秦
前漢
新
後漢
三国
を語りましょう
五帝
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秦
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新
後漢
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を語りましょう
関連記事【殷周】三国時代までの中国の歴史を語ろう【秦漢】
396: 世界@名無史さん 投稿日:2008/04/30(水) 02:48:30
劉邦も楚人なのに、どうして項羽のように秦ジェノサイドしなかったの?
397: 世界@名無史さん 投稿日:2008/04/30(水) 07:12:28
>>396
楚人であると同時に、秦に雇われた役人でもあったからねえ
楚人であると同時に、秦に雇われた役人でもあったからねえ
401: 世界@名無史さん 投稿日:2008/05/01(木) 14:15:32
項羽は楚の貴族の血統とはいえ、自ら「『西』楚の『覇』王」と称していたのは、地域基盤としては旧・正統楚王国からは外れていたからだろう。
408: 世界@名無史さん 投稿日:2008/08/03(日) 05:46:36
秦以後と秦以前では中国大陸における、一つの節目だったのだと思う。
おそらく秦が六国を滅ぼすまでは、中国は一つとか統一国家という概念は存在しなかった。
秦が六国を滅ぼすまでは、現在の欧州のようなもので、統一国家とか、中国は一つという概念などどこにもなかったのだと思う。
しかし秦以後、統一概念が生まれた。
その意味では秦の六国征服事業は大きなターニングポイントだったと思う。
おそらく秦が六国を滅ぼすまでは、中国は一つとか統一国家という概念は存在しなかった。
秦が六国を滅ぼすまでは、現在の欧州のようなもので、統一国家とか、中国は一つという概念などどこにもなかったのだと思う。
しかし秦以後、統一概念が生まれた。
その意味では秦の六国征服事業は大きなターニングポイントだったと思う。
415: 世界@名無史さん 投稿日:2008/08/28(木) 09:09:26
しかし日本の戦国時代と比べると、すでにこの時代ですら中国の戦争史をみると規模がでかいな
敵兵40万とか50万とか当たり前で出てくるが、日本だと戦国時代の最後、関ヶ原でも両軍あわせて18万そこそこ
小田原の合戦でも秀吉23万くらい
項羽が20万人生き埋めにした、とか白起が40万人生き埋めにした、とか規模がでかすぎて想像もつかんな
敵兵40万とか50万とか当たり前で出てくるが、日本だと戦国時代の最後、関ヶ原でも両軍あわせて18万そこそこ
小田原の合戦でも秀吉23万くらい
項羽が20万人生き埋めにした、とか白起が40万人生き埋めにした、とか規模がでかすぎて想像もつかんな
416: 世界@名無史さん 投稿日:2008/08/28(木) 10:32:21
>>415
まぁ誇張もあるだろうけど、日本から見れば当時から戦争動員数がかなり多かったのは事実だろうね。
まぁ誇張もあるだろうけど、日本から見れば当時から戦争動員数がかなり多かったのは事実だろうね。
418: 世界@名無史さん 投稿日:2008/08/29(金) 02:31:29
>>415>>416
戦国後期の中国の人口が2000万人ほどと仮定すると、七雄のそれぞれは平均300万人弱の人口だよね。
三晋は領土が狭いから人口も少ないのか、中原のど真ん中だから大目なのかはわからないけど、まあ平均値と考えてみる。
長平で白起が40万人埋めた後、平原君やら何やらの頃も軍事行動をしているので、まだ何十万かの動員が可能だったはず。すると300万の人口のうち、だいたい50~80万くらいが兵役人口だったことになる。
男子が半分の150万、幼年と老齢を省いて100万と見て、装丁のほとんどが戦場に駆り出された計算になってしまう。これで生産活動をまかなえたのか不思議でならない。
誇張の度合いがどの程度か知りたいっす。
戦国後期の中国の人口が2000万人ほどと仮定すると、七雄のそれぞれは平均300万人弱の人口だよね。
三晋は領土が狭いから人口も少ないのか、中原のど真ん中だから大目なのかはわからないけど、まあ平均値と考えてみる。
長平で白起が40万人埋めた後、平原君やら何やらの頃も軍事行動をしているので、まだ何十万かの動員が可能だったはず。すると300万の人口のうち、だいたい50~80万くらいが兵役人口だったことになる。
男子が半分の150万、幼年と老齢を省いて100万と見て、装丁のほとんどが戦場に駆り出された計算になってしまう。これで生産活動をまかなえたのか不思議でならない。
誇張の度合いがどの程度か知りたいっす。
419: 世界@名無史さん 投稿日:2008/08/30(土) 03:17:56
女の兵士や10歳前後の子供兵士、60歳くらいの爺さん兵士とかもいたんだろうけど、誇張が相当入ってるとしか思えないんだが
情報工作の一環で、敵方の殺戮行為を多めに情報流した結果、都市伝説がそのまま歴史になったケースも十分ありそう
20万人生き埋めにするだけでそいつらを逃げさせずに殺すってちょっと無理があるのにまして40万人とか・・
穴掘るだけで残った軍全部でとりかかって何日かかるんだよ
情報工作の一環で、敵方の殺戮行為を多めに情報流した結果、都市伝説がそのまま歴史になったケースも十分ありそう
20万人生き埋めにするだけでそいつらを逃げさせずに殺すってちょっと無理があるのにまして40万人とか・・
穴掘るだけで残った軍全部でとりかかって何日かかるんだよ
424: 世界@名無史さん 投稿日:2008/09/01(月) 23:42:27
>>419
いまでもアノあたりで土ほじくると人骨がわらわら出てくるって何かで読んだ気がするから、ある程度はあったんだろうね。
太平記で千早城に幕府軍百万が…とか無茶な数字が出てくるんで、大陸ならではの習慣ってワケではないと思うけど。
いまでもアノあたりで土ほじくると人骨がわらわら出てくるって何かで読んだ気がするから、ある程度はあったんだろうね。
太平記で千早城に幕府軍百万が…とか無茶な数字が出てくるんで、大陸ならではの習慣ってワケではないと思うけど。
420: 世界@名無史さん 投稿日:2008/08/30(土) 12:07:05
中国に限らず戦果は誇張されがちだよね。
421: 世界@名無史さん 投稿日:2008/08/30(土) 13:39:12
当時の秦は敵一人を殺せば爵位を一つ上げる(誇張あり)の政策を採ってたから、過剰報告になりやすいのかもね。
426: 世界@名無史さん 投稿日:2008/09/21(日) 01:23:18
秦朝って何族?漢族?
427: 世界@名無史さん 投稿日:2008/09/21(日) 03:39:18
詳しくないけど、漢族(というタームはまだないけど)と羌族の中間ってイメージだね。
でも戦国後期にはもうそんなに違いはなさそう。
楚とか燕も含めて、前漢期に同化してほぼ区別がつかなくなったってとこじゃないかい?
漢族ってのは究極の雑種なのかな。
溶鉱炉に物を投げ入れて溶けちゃうみたいに、元の形がなくなったら民族のアイデンティティも溶けて吸収されちゃう。
ときどきモンゴルみたいに溶けにくい材質もあるけどね。
でも戦国後期にはもうそんなに違いはなさそう。
楚とか燕も含めて、前漢期に同化してほぼ区別がつかなくなったってとこじゃないかい?
漢族ってのは究極の雑種なのかな。
溶鉱炉に物を投げ入れて溶けちゃうみたいに、元の形がなくなったら民族のアイデンティティも溶けて吸収されちゃう。
ときどきモンゴルみたいに溶けにくい材質もあるけどね。
428: 世界@名無史さん 投稿日:2008/09/21(日) 13:33:03
>>427
>>秦
トルコ系遊牧民じゃなかったっけ?
>>秦
トルコ系遊牧民じゃなかったっけ?
429: 世界@名無史さん 投稿日:2008/09/21(日) 14:13:56
秦は西戎系だったかもとも言われるが、その西戎もチベット系ともテュルク系とも言われよくわからん。
432: 世界@名無史さん 投稿日:2008/09/24(水) 22:30:19
>>427
> 楚とか燕も含めて、前漢期に同化してほぼ区別がつかなくなったってとこじゃないかい?
これはあってるの?
> 楚とか燕も含めて、前漢期に同化してほぼ区別がつかなくなったってとこじゃないかい?
これはあってるの?
437: 世界@名無史さん 投稿日:2008/09/27(土) 22:24:49
>>432
書いといて自分でも自信ないw
ミャオ族とか生活圏は近くても最後まで漢化されなかった連中もいるから、吸収されなかった民族も多いかもしれん。
ただ少なくとも、漢風国号の地方政権を建てるくらいなら、中原文明へのあこがれを抱いたヤツバラかなと思うのです。
書いといて自分でも自信ないw
ミャオ族とか生活圏は近くても最後まで漢化されなかった連中もいるから、吸収されなかった民族も多いかもしれん。
ただ少なくとも、漢風国号の地方政権を建てるくらいなら、中原文明へのあこがれを抱いたヤツバラかなと思うのです。
439: 世界@名無史さん 投稿日:2008/09/28(日) 00:54:18
契丹の遼も女真の金も漢風の国号だけどあれを漢族国家とは言えない。
漢の時代はまだ個々の民族的アイデンティティーが残ってたんじゃないかな?と思う。
楚人は沐候に冠するのみと言われて無茶苦茶怒った逸話などは、まだ各国の民族意識が強烈だったからとでも考えなければ理解しにくい。
秦の兵馬俑は東を向いてるし。蜀なんてあの地域単位で後世に至るまで何度も独立国になってる
中元文明への憧れ=漢族に同化ではないと思う。
より後代のベトナム王族なんか神農氏の後裔を自称していた
漢の時代はまだ個々の民族的アイデンティティーが残ってたんじゃないかな?と思う。
楚人は沐候に冠するのみと言われて無茶苦茶怒った逸話などは、まだ各国の民族意識が強烈だったからとでも考えなければ理解しにくい。
秦の兵馬俑は東を向いてるし。蜀なんてあの地域単位で後世に至るまで何度も独立国になってる
中元文明への憧れ=漢族に同化ではないと思う。
より後代のベトナム王族なんか神農氏の後裔を自称していた
441: 世界@名無史さん 投稿日:2008/10/04(土) 23:12:31
>楚人は沐候に冠するのみ
「候」でなくて「猴」な。
政敵から「ヤツぁエテ公だ」と言われて怒らないヤツが居るかい?
「候」でなくて「猴」な。
政敵から「ヤツぁエテ公だ」と言われて怒らないヤツが居るかい?
443: 世界@名無史さん 投稿日:2008/10/18(土) 00:41:34
三皇から入れたら5000千年の歴史で殷から入れたら4000千年だっけか?
447: 世界@名無史さん 投稿日:2008/11/14(金) 02:07:20
>>443
岡田英弘氏は「皇帝たちの中国」で、「中国4000年の歴史なんてのは20世紀になって中国人が言い出した事で何の根拠もない単なる作り話。
明治維新後の日本の神武紀元を模倣して黄帝紀元を唱えだして黄帝紀元から数えて4000年となっただけの事で、本当の中国の歴史は秦の始皇帝以降の2200年が正解云々」って書いてるよ。
岡田英弘氏は「皇帝たちの中国」で、「中国4000年の歴史なんてのは20世紀になって中国人が言い出した事で何の根拠もない単なる作り話。
明治維新後の日本の神武紀元を模倣して黄帝紀元を唱えだして黄帝紀元から数えて4000年となっただけの事で、本当の中国の歴史は秦の始皇帝以降の2200年が正解云々」って書いてるよ。
451: 中国駐在 投稿日:2008/11/18(火) 23:07:06
21世紀に入る頃から大陸では中国五千年の歴史と言ってるぞ。
452: 世界@名無史さん 投稿日:2008/11/24(月) 02:39:27
五千年ってこたぁ
仰韶文化、大モン口文化、龍山文化、屈家嶺文化、良渚文化、紅山文化
とまあこの辺ですか。
仰韶文化、大モン口文化、龍山文化、屈家嶺文化、良渚文化、紅山文化
とまあこの辺ですか。
458: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/21(水) 23:25:21
杞県でも掘れば出てこないかな。夏の遺跡が。
459: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/22(木) 10:24:41
万里の長城って結局どんだけの効果有ったんだ?
460: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/22(木) 12:02:00
>>459
家畜と家族を連れていては、長城を越えられない。
戦闘員だけだったら、越えられないこともない。
家畜と家族を連れていては、長城を越えられない。
戦闘員だけだったら、越えられないこともない。
463: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/22(木) 12:40:51
>>460
それなら一旦、戦闘員だけで突破して長城の内側に橋頭堡を築けば後から家族を入れる事も可能だな・・・
てか、それやっちまうと中華側から総反撃食らった時に迅速に逃げられなくてフルボッコされるんだろうけど。
それなら一旦、戦闘員だけで突破して長城の内側に橋頭堡を築けば後から家族を入れる事も可能だな・・・
てか、それやっちまうと中華側から総反撃食らった時に迅速に逃げられなくてフルボッコされるんだろうけど。
461: 世界@名無史さん 投稿日:2009/01/22(木) 12:22:11
平時の国境線としての役割の方が大きい
466: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/12(木) 13:51:30
時々、杞の国が大帝国だったという証拠が出やしないかという心配にかられるんだ。
杞
杞(き)は、古代中国の殷代から戦国時代にかけて存在した国。国姓は姒であり、禹の末裔と称した。殷末周初に一時滅亡するが、周初に再興され、史料では東楼公より20代の王が記録されている。紀元前445年、楚によって滅ぼされた。
杞は小国であったため、史書での記述は極めて限定的である。『史記』には「陳杞世家」の記述があるが、杞についての記述は僅か270字であり、「杞小微、其事不足称述(杞は小微にして、其の事称述するに足らず)」と扱われている。
小国の杞であるが、杞が夏王室の末裔であり、夏礼を保存していることから儒家にとっては大きな意義があった。孔子も夏礼を学ぶために杞を訪問した記録がある。
杞(き)は、古代中国の殷代から戦国時代にかけて存在した国。国姓は姒であり、禹の末裔と称した。殷末周初に一時滅亡するが、周初に再興され、史料では東楼公より20代の王が記録されている。紀元前445年、楚によって滅ぼされた。
杞は小国であったため、史書での記述は極めて限定的である。『史記』には「陳杞世家」の記述があるが、杞についての記述は僅か270字であり、「杞小微、其事不足称述(杞は小微にして、其の事称述するに足らず)」と扱われている。
小国の杞であるが、杞が夏王室の末裔であり、夏礼を保存していることから儒家にとっては大きな意義があった。孔子も夏礼を学ぶために杞を訪問した記録がある。
468: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/25(水) 23:33:20
>>466
楚によって簡単に滅ぼされちゃったような国が大帝国なわけないだろ?
杞憂だよ。
楚によって簡単に滅ぼされちゃったような国が大帝国なわけないだろ?
杞憂だよ。
469: 世界@名無史さん 投稿日:2009/02/26(木) 23:00:57
杞と商は他の国とは別格だったのに・・・
491: 世界@名無史さん 投稿日:2009/09/15(火) 15:04:57
三晋が魏趙韓に分裂せず、知氏に統一されてたら・・・どうなったんだろうな。
春秋時代は楚と晋が覇権を長いこと争ってたみたいだし・・・後の秦に対抗できたんだろうか。
春秋時代は楚と晋が覇権を長いこと争ってたみたいだし・・・後の秦に対抗できたんだろうか。
三晋(さんしん)は、戦国時代の中国における趙・魏・韓の三国の総称。後に山西省の別称となった。春秋時代末期、晋は趙・魏・韓の3国に分割された(三家分晋)。『戦国策』『史記』『資治通鑑』などでは、この趙・魏・韓の3国を晋の後継国家と見なし、三晋と総称している。
497: 世界@名無史さん 投稿日:2009/11/13(金) 18:31:19
>>491
智氏も六卿の内から魏氏、韓氏と組んで他を叩いてたわけだし、史実が示すようにちょっと裏切られるだけですぐに形勢逆転するような勢力情勢だったということは、智氏が六卿の中で強大だったと言えども、他に冠絶したとかそういうレベルではなく過半数でも何でもなかったということ
結局、史実の三晋とは別の形ではあるが、いくつかに分裂するだろうし、その後も趙武霊の登場が確約されないから北方から騎馬民族にジワジワとぶっ殺されて史実より酷い可能性もある
智氏も六卿の内から魏氏、韓氏と組んで他を叩いてたわけだし、史実が示すようにちょっと裏切られるだけですぐに形勢逆転するような勢力情勢だったということは、智氏が六卿の中で強大だったと言えども、他に冠絶したとかそういうレベルではなく過半数でも何でもなかったということ
結局、史実の三晋とは別の形ではあるが、いくつかに分裂するだろうし、その後も趙武霊の登場が確約されないから北方から騎馬民族にジワジワとぶっ殺されて史実より酷い可能性もある
492: 世界@名無史さん 投稿日:2009/09/21(月) 19:24:15
秦の強さは西方に強大な勢力がなかったことと、そして何より商王央の変法が大きいからなあ
趙、魏はともかく韓なんて七雄の味噌っかすだし
同じく南方に強大な敵がなく、しかし途中で改革をやめてしまった楚が後に始皇帝ほぼ一代で滅ぼされたのを考えると、晋が一国のままなら勝てたというものではないと思う
趙、魏はともかく韓なんて七雄の味噌っかすだし
同じく南方に強大な敵がなく、しかし途中で改革をやめてしまった楚が後に始皇帝ほぼ一代で滅ぼされたのを考えると、晋が一国のままなら勝てたというものではないと思う
493: 世界@名無史さん 投稿日:2009/09/22(火) 22:26:52
そういう意味だと分岐点は魏が商鞅を登用しなかったことかもね。

商 鞅(しょう おう、紀元前390年 - 紀元前338年)は、中国戦国時代の秦国の政治家・将軍・法家・兵家。法家思想を基に秦の国政改革を進め、後の秦の天下統一の礎を築いたが、性急な改革から自身は周囲の恨みを買い、逃亡・挙兵するも秦軍に攻められ戦死した。
495: 世界@名無史さん 投稿日:2009/10/20(火) 19:59:38
白起の登場もでかいと思う
伊闕の戦いの前の秦は、韓、魏に押されてたみたいだし
伊闕の戦いの前の秦は、韓、魏に押されてたみたいだし
494: 世界@名無史さん 投稿日:2009/10/07(水) 02:40:14
魏は色んな人物がやってくるから重用されず、また他国へ流れて流れた先でその人物が活躍するケース多くない?
502: 名無し象は鼻がウナギだ! 投稿日:2010/01/17(日) 22:48:45
このスレで『古代中国の虚像と実像』(落合淳思著、講談社現代新書)読んだ人いる?
「有名な逸話は全部講談の作り話」てな内容で、俺的には不満多しだったが。
「有名な逸話は全部講談の作り話」てな内容で、俺的には不満多しだったが。
526: 世界@名無史さん 投稿日:2010/03/10(水) 21:05:58
>>502
史記は、というか世のあらゆる史書というものは様々な種本の集成。
史記も様々な情報源から情報を持ってきただろうが、その中には多分に民間説話から引っ張ってきたと思しきものが含まれている。当時はまだ文献批判の技術なども未発達だから司馬遷としても情報源は全部ぶち込むしかなかったでしょうな。
ただ、有名な逸話は全部作り話ってことはないと思う。細かい会話内容などにはかなり脚色(多分、各情報源の段階で脚色されていたのでは?)が入ってるだろうけど。
情報源のソースが確定できるものも中にはあって、そういうのは信頼できるのでは?
たとえば楚漢戦争などは、情報源の多くは劉邦の幕僚の一人だった陸賈の著書「楚漢春秋」に
依っているというのが分かっている。実際に現場にいた人間が情報源だからね。
もっとも残された楚漢春秋の断片を見るに、陸賈自身がかなり吹いてるっぽいのが困りものだが。
史記は、というか世のあらゆる史書というものは様々な種本の集成。
史記も様々な情報源から情報を持ってきただろうが、その中には多分に民間説話から引っ張ってきたと思しきものが含まれている。当時はまだ文献批判の技術なども未発達だから司馬遷としても情報源は全部ぶち込むしかなかったでしょうな。
ただ、有名な逸話は全部作り話ってことはないと思う。細かい会話内容などにはかなり脚色(多分、各情報源の段階で脚色されていたのでは?)が入ってるだろうけど。
情報源のソースが確定できるものも中にはあって、そういうのは信頼できるのでは?
たとえば楚漢戦争などは、情報源の多くは劉邦の幕僚の一人だった陸賈の著書「楚漢春秋」に
依っているというのが分かっている。実際に現場にいた人間が情報源だからね。
もっとも残された楚漢春秋の断片を見るに、陸賈自身がかなり吹いてるっぽいのが困りものだが。
527: 世界@名無史さん 投稿日:2010/03/10(水) 22:43:00
列伝は歴史劇的なものもかなり混ざってるらしいな。
読み物として面白いくらいだからな。
読み物として面白いくらいだからな。
528: 世界@名無史さん 投稿日:2010/03/11(木) 00:11:52
個々の事件自体は実際にあったことが多いと思う。
その細部はさあてね。
刺客列伝で言えば有名な荊軻の始皇帝暗殺未遂事件自体は実際のことだと思っている。
ニュースソースがはっきりしている→始皇帝付きの医者であった夏無且
また、漢代の画像石でこの事件を題材に取ったレリーフがあちこちで発掘されている。
ただし、荊軻の出身地や身分は良いとして、実際に秦の宮殿にやってくるまでの個々のエピソードはかなり尾ひれがついてるんでは?
清末に両江総督馬新胎暗殺事件と言うのがあって、無頼漢による何の面白みもないただの刺殺事件なんだが、事件発生後数年経たぬうちに、なぜか暗殺実行犯の過去エピソードがあることないこと創作されて、やがては映画化されてたりする。→ブラッドブラザース刺馬、ウォーロード
馬新胎暗殺事件自体は事実なんだけど、それにまつわる話はかなり創作込み。
歴史伝承というのは多分こんなもんなんだろう。今も昔も民衆はゴシップが好き。
その細部はさあてね。
刺客列伝で言えば有名な荊軻の始皇帝暗殺未遂事件自体は実際のことだと思っている。
ニュースソースがはっきりしている→始皇帝付きの医者であった夏無且
また、漢代の画像石でこの事件を題材に取ったレリーフがあちこちで発掘されている。
ただし、荊軻の出身地や身分は良いとして、実際に秦の宮殿にやってくるまでの個々のエピソードはかなり尾ひれがついてるんでは?
清末に両江総督馬新胎暗殺事件と言うのがあって、無頼漢による何の面白みもないただの刺殺事件なんだが、事件発生後数年経たぬうちに、なぜか暗殺実行犯の過去エピソードがあることないこと創作されて、やがては映画化されてたりする。→ブラッドブラザース刺馬、ウォーロード
馬新胎暗殺事件自体は事実なんだけど、それにまつわる話はかなり創作込み。
歴史伝承というのは多分こんなもんなんだろう。今も昔も民衆はゴシップが好き。
530: 世界@名無史さん 投稿日:2010/03/24(水) 20:01:52
古代の中国で、戦争に勝った側が、負けた側の兵士の遺体で山を築く風習があったと思ったが、なんて呼ぶんだっけ?
531: 世界@名無史さん 投稿日:2010/03/24(水) 20:38:42
京観
京観(けいかん)とは、古代中国において戦争で討ち取った敵兵をつみあげるなどして埋葬し塚を作り、戦勝の記念碑とする風習。『三国志』や『新唐書』などにもこの表現がみられる。
「京観」という表記そのものは「高く作り上げた見はらし台」と言った程度の意味で、漢文学者の白川静によれば「京」の文字は城門の上に望楼のある形からなる象形文字で、説文解字は「人工の高丘の形」としているがアーチ状の門の形であり、これを都城や陣営の入り口に設けたものが「京観」、城門が二重のものを「重京」と呼び、戦場で作成される「京観」は凱旋門のような意味もあったとする。
「京観」という表記そのものは「高く作り上げた見はらし台」と言った程度の意味で、漢文学者の白川静によれば「京」の文字は城門の上に望楼のある形からなる象形文字で、説文解字は「人工の高丘の形」としているがアーチ状の門の形であり、これを都城や陣営の入り口に設けたものが「京観」、城門が二重のものを「重京」と呼び、戦場で作成される「京観」は凱旋門のような意味もあったとする。
537: 世界@名無史さん 投稿日:2010/07/31(土) 00:35:33
欧米では、秦以前の王朝は伝説、神話ということで、実在はしていなかったということになっているな
538: 世界@名無史さん 投稿日:2010/07/31(土) 00:38:45
殷以前ではなくてか。
539: 世界@名無史さん 投稿日:2010/07/31(土) 20:34:04
殷も遺跡が発掘されるまでは中国内でも実在が否定されていた