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1: 日本@名無史さん 2011/09/29(木) 23:39:20.59
摂関政治を打破し、その後300年にわたり続いた院政について語るスレです。
白河院政から武家の台頭、鎌倉開幕を経て南北朝時代までをのんびり語りましょう。








149: 日本@名無史さん 2012/12/24(月) 04:01:00.07
日本が母系制から父系制に移行したのは院政の影響?

150: 日本@名無史さん 2012/12/26(水) 07:21:08.27
>>149
どうなんだろうね?
中国文化の影響もあったと思うが。

151: 日本@名無史さん 2012/12/26(水) 13:02:19.90
>>149>>150
院政も中国文化もあるだろうが、武者の世になったのが大きいんじゃないかな。

152: 日本@名無史さん 2013/01/08(火) 16:45:09.45
>>149
平安時代中期頃まで母方が有力でなければ天皇になれなかったんだが、藤原頼通以降、摂関家出身の高貴な后から子が生まれなくなり、院近臣クラスの母方の身分が低い皇子が帝位につくようになった
母方に権力がないのでよるべきものは父方ということになる
身分の低い母から生まれた子でも父や祖父の寵愛の度合いによって即位するようになったことで、院政が可能になったと言える

154: 日本@名無史さん 2013/01/10(木) 23:52:18.41
>>152
偶然ではあるけど、皇子の生母が比較的早死が続いて、外祖父が実権を握る暇もなかったという一面もあるな。

155: 日本@名無史さん 2013/01/11(金) 16:23:17.91
>>154
後冷泉天皇の母藤原嬉子(藤原道長六女)は後冷泉を出産したとき死んでしまったんだが、後冷泉は伯父藤原頼通の後ろ盾によって成長して在位中はやはり関白頼通の世の中だった
生母が早世すれば必ずしも外戚が力を握れないというものでもない
やはり院政期に藤原摂関家を外戚とする天皇が出なかったことは痛い

156: 日本@名無史さん 2013/01/11(金) 17:16:31.89
後三条が転機でしょ

157: 日本@名無史さん 2013/01/13(日) 18:35:40.51
>>156
後三条自身は院政を執らずまた摂関勢力からの完全防衛にも成功しなかった
続く白河天皇は摂関家の養女中宮賢子を寵愛し異母弟を退けて賢子の産んだ堀河天皇を帝位に付けた
実は摂関政治は堀河天皇のときに復活している
院政が本格化したのは堀河の子で摂関家を外戚としない鳥羽が5歳で即位
祖父の白河法皇が院政をとってから

158: 日本@名無史さん 2013/03/10(日) 14:50:35.59
院政は朝廷主導政治の終焉を早めたのだろうか?

159: 日本@名無史さん 2013/03/10(日) 18:51:49.04
摂関政治が続いてても武士の世は来たでしょ
保元の乱では朝廷だけでなく摂関家もまた武士の武力を頼りにして争いを繰り広げてたし、平清盛は娘を天皇家ばかりでなく摂関家にも娘を送り込んで操ったから

173: 日本@名無史さん 2013/10/20(日) 09:08:42.81
白河院が鳥羽院に院政の肝を教えておかなかったから、鳥羽院がめちゃくちゃやって保元の乱になった。
院政の肝とは皇位の正統性を確保すること。
崇徳以外の子供は全員出家させるべきだった。

174: 日本@名無史さん 2013/10/20(日) 15:10:14.35
>>173
それだと、崇徳にぽっくり逝かれた場合には困るのよ。
だから、白河も基本的には後継者の同母兄弟の出家は見送ったりしている筈。
白河没後に鳥羽がその方針を崩した(妾腹の近衛の即位ばかりが注目されるが、崇徳の同母弟である覚性法親王の出家も白河の方針に反する行為だった)。

175: 日本@名無史さん 2013/10/21(月) 14:26:46.67
>>174
崇徳の予備に白河を残しておくぐらいは良かったが近衛まで残したのがまずかったんだろ。
一人の天皇に対して皇位継承の可能性ありで残しておく男子は2人で十分だよ。
天皇家1500年の歴史においても、一般的に一人の天皇の息子が2人以上即位する例はないから。
(5世紀に允恭天皇の息子が3人即位したのが唯一あるだけ)
覚性法親王の出家は妥当。

176: 日本@名無史さん 2013/10/23(水) 16:27:49.26
>>175
藤原4兄弟のケースでもわかるように、当時の医療レベルでは伝染病が流行すると王族貴族もバタバタ死ぬ可能性があったからなあ…。

177: 日本@名無史さん 2013/10/23(水) 19:58:11.41
躰仁親王を残しただけならまだいい。鳥羽は皇太子に立てた。
白河院が生きていたら泡を噴いてぶっ倒れるレベル。
ついでに幼帝安徳を連れて逃げれば政権が維持できると思った平家も清盛が見たら馬鹿すぎて卒倒するレベル。
後白河院を連れて行けば天皇などいくらでも生産できるというのに。

178: 日本@名無史さん 2013/10/23(水) 21:36:12.66
>>177
平家は都落ちの時後白河法皇を連れて行こうとしたが直前に後白河法皇に逃げられた。
ついでに後鳥羽天皇になった四宮も連れていくのに失敗した。

179: 日本@名無史さん 2013/10/24(木) 07:43:35.47
清盛の「朝廷を丸ごと人質にする」福原遷都が一番理に適っていたわけだね。
清盛が院政を停止した状態で後白河が死んでいたら、院政もそこで終ってしまい天皇が頂点に立つ政治が復活していただろう。

180: 日本@名無史さん 2013/10/24(木) 07:53:55.00
>>179
清盛は後白河院政は停止したけど代わりに「高倉院政」を開始させた。
傀儡とはいえ当時院政はやっぱり必要。
高倉院政は高倉上皇の崩御により停止。
その直後仕方なしに後白河院政が復活している。

181: 日本@名無史さん 2013/10/24(木) 08:39:15.72
>>180
高倉死後、後白河まで死んでしまったら、院政する人いないでしょ?ってことだろ。

182: 日本@名無史さん 2013/10/24(木) 09:39:50.74
>>181
後白河法皇の死後しばらく後鳥羽天皇親政だったが土御門天皇が産まれて、暫くしたら譲位して
後鳥羽院政が始まったぞ。

186: 日本@名無史さん 2013/10/24(木) 14:01:00.04
>>182
あれは、院政がどうしても必要だったから、まだ若い後鳥羽天皇が幼い土御門天皇にやむなく譲位して、必要不可欠な院政という形態を無理矢理執ったわけではなく、土御門天皇の外戚源通親が実権を握るべく、後鳥羽天皇を譲位させたんだよ。

源通親は後鳥羽天皇の乳母の再婚相手であり、幼少期から後鳥羽天皇を守り育てた恩義があり、後鳥羽天皇も乳父の通親には逆らえず、後鳥羽院政とはいっても実態はあまりなかった。

しかし、通親が後鳥羽上皇妃で土御門天皇生母であった通親の養女源在子(妻の連れ子)と通じたことから、次第に後鳥羽上皇は通親と土御門天皇を疎んじ始め、距離ができる。
通親が死んだあとは、後鳥羽上皇が院として実権を握った。

190: 日本@名無史さん 2013/10/24(木) 16:49:34.01
>>186
それはその時期に譲位が行われた理由にはなるけど親政推進の理由にはならない。
院政を支えるもうひとつの柱院領の存在を忘れてはならない。
天皇のままでは荘園を保有することはできないが上皇ならば荘園を保有できる。
後鳥羽天皇は退位後、時期を開けるが八条院領を獲得する。
また後白河院領も後鳥羽上皇の支配下に入る。
莫大な経済力を背景に強大な後鳥羽院政を開始する意図があったのだろう。

192: 日本@名無史さん 2013/10/24(木) 17:37:59.27
>>190
>天皇のままでは荘園を保有することはできないが上皇ならば荘園を保有できる。

天皇も私的な荘園を持つことができるよ。
有名な長講堂領は、後白河法皇→宣陽門院を経て、鎌倉幕府の一時没収後、現役の天皇である後深草天皇に譲られている。
八条院領も、八条院→昇子内親王を経て、現役の天皇である順徳天皇に譲られている。
(退位後の後鳥羽上皇が八条院領を所有したことはない)
さらに八条院領は時代を経て、現役の天皇である後醍醐天皇も所有している。

193: 日本@名無史さん 2013/10/24(木) 18:39:30.01
>>192
八条院領
八条院→春華門院→後鳥羽院→後高倉院→安嘉門院、式乾門院→亀山院

長講堂領
後白河法皇→宣陽門院→後深草院

じゃなかったっけ。

194: 日本@名無史さん 2013/10/24(木) 18:53:18.05
>>193
八条院領は、八条院の死後、八条院の養女であった春華門院(後鳥羽皇女・昇子内親王)が相続した。
春華門院も建暦元年(1211年)に没したため、春華門院の異母弟で養子であった(春華門院は順徳天皇の准母)順徳天皇が相続した。
順徳天皇が八条院領を相続したのは建暦元年(1211年)で、在位時。

また、後深草天皇が長講堂領を所有したのは文永4年(1267年)。
こちらも後深草天皇が在位中のことで、現役の天皇時代。

196: 日本@名無史さん 2013/10/24(木) 19:11:43.09
>>194
その順徳天皇が相続した件は何で確認できるかな?

197: 日本@名無史さん 2013/10/24(木) 19:20:16.96
>>196
自分は「大日本史料」で見た。

君の言う、春華門院から八条院領を相続したのは後鳥羽上皇だというのは一次史料は何に書いてあるの?

198: 日本@名無史さん 2013/10/24(木) 19:38:07.56
>>197
回答ありがとう。
後鳥羽上皇が所有していなかったという点は納得した。
ついでに次の件についてあなたの意見も伺いたい。

承久の乱を起こすことのできた要因についつ後鳥羽院が皇族の領地に関して強い権限を持っていたからだと言われているが実際の所はどうだったんだろうか?
もし、権限を持っていたとしたら、所有者をどう従えていたのだろうか?

203: 日本@名無史さん 2013/11/02(土) 06:09:00.77
>>194
朝日が出している週刊「新発見日本の歴史」の第19号にのってる記事では八条院領は後鳥羽上皇も順徳上皇も相続にはなっていない。
順徳天皇の皇子が七条院領を継承はしていたけど。

専門の人が書いた記事だからなんかの裏付けがあると思うんだけど、誰かソースになる一次史料知っている人いない?

207: 日本@名無史さん 2013/11/23(土) 02:07:06.59
>>203
四辻宮家(順徳子孫)の七条院領継承は『東寺百合文書』

185: 日本@名無史さん 2013/10/24(木) 13:47:40.91
院が必要不可欠だという認識はいつ頃確立したのだろうね。
二条帝の時は親政派が一大勢力になっていたのにね。

187: 日本@名無史さん 2013/10/24(木) 16:33:53.15
>>185
あの時点で後白河上皇は中継ぎで院政する資格はないと見なされてたからね。
鳥羽院領は美福門院が握ってたから後白河上皇には経済的な力もない。

美福門院が娘婿である二条天皇に領地を譲位の後の二条天皇に譲ったとしたら二条上皇(になった場合)鳥羽院政並みの強力な院政を行った可能性もある。

218: 日本@名無史さん 2014/09/25(木) 15:16:59.51
そもそも、文武天皇の後見をするために、持統天皇が上皇が天皇と同じ権力を持つことにしたのが、ことの発端だっけ?

219: 日本@名無史さん 2014/09/26(金) 11:13:50.55
>>218
持統天皇は夫天武の側室たちが産んだあまたの皇子たちを退けて、若年15歳の自分の孫文武天皇を即位させて自分が政治を執った
持統は天皇在位中も自分で政治を執っていたため天皇が次の天皇を指名するための譲位だった
太上天皇が天皇と同権の共同統治者であることを定めた大宝律令は、持統太上天皇の死の2年前に発布されており持統太上天皇の考えである可能性は高い

220: 日本@名無史さん 2014/09/26(金) 15:27:06.03
上皇がたくさんいた平安時代は、元首ばかりでうるさくってたまらんな。

223: 日本@名無史さん 2014/09/30(火) 02:24:02.83
上皇なら鎌倉末期も多かった

225: 日本@名無史さん 2014/11/01(土) 22:57:25.58
「上皇はたくさんいるし、摂政はいるし、関白はいるし、どないせいっちゅうねん」

って気分だったのかね、当時の天皇。

226: 日本@名無史さん 2014/11/02(日) 16:06:49.94
>>225
それじゃ摂政と関白が同時に両方いるみたいだぞ

228: 日本@名無史さん 2015/02/17(火) 08:09:55.69
不思議なことに上皇は複数存在しても、天皇を同時に並立させる思考には最後まで到達しなかった。
もし院政の創始者白河が鳥羽帝を退位させなかったら、院も同時期に一人限定になっていた可能性は高い。
そう考えると鳥羽帝が泰子入内のためにした裏工作が後の世までの禍根となったともいえる。

229: 日本@名無史さん 2015/02/17(火) 13:51:06.13
>>228
上皇は複数いても院政を執れるのは一人
院政をとれない上皇などただの隠居の身で東宮でもないのに出家もしていない親王みたいなもんだ

233: 日本@名無史さん 2015/02/19(木) 21:57:54.72
生存する上皇の最高記録は5人。
後深草上皇・亀山上皇・後宇多上皇・伏見上皇・後伏見上皇が併存していたことがある。
こういう時どうやって各人を区別したのだろうか。

本院 中院 新院では数が足りない。

234: 日本@名無史さん 2015/02/20(金) 15:36:07.61
>>233
「増鏡」によれば後伏見が退位した直後
後伏見を新院、伏見を中院、後宇多を一院と呼んだらしい
後深草と亀山は前後の章段で法皇とだけ出て来る
2人の法皇を区別するために亀山を「万里小路の法皇(当時万里小路に住んでいた)」
と呼んだりしている

266: 日本@名無史さん 2015/03/14(土) 12:08:24.16
>>265
血統で決まる帝の地位だけど、帝の一族は権威を高める努力を行うのが仕事です。
帝に権威があるからこそ、帝の名代としての摂関家の地位も高くなる。
そう考えると鳥羽院が得子可愛さに体仁を皇位に就けたのは大失敗でした。
白河と鳥羽の行動を比較すると、鳥羽のバカさ加減がよく分かります。

288: 日本@名無史さん 2016/04/21(木) 13:43:04.25
昭和の頃は日本の中世は鎌倉幕府の成立からと教わったが、近年の歴史学界では院政の始まりあたりを中世の起点とする傾向がある。現在の学校教科書もその方向で書き換えられているようだ。
中世史としての「院政時代」を眺めれば、今までの歴史観も変わってくる。

289: 日本@名無史さん 2016/04/23(土) 11:10:25.08
ま、院政時代には荘園の割合が口分田を圧倒するようになってて、必然的に荘園を管理・防衛する武士が当たり前の存在になってたからね

290: 日本@名無史さん 2016/04/23(土) 12:24:06.35
荘園が国衙領を上回るのは室町以降とか、誰かが書いていたな

293: 日本@名無史さん 2016/04/24(日) 17:42:22.95
国衙領も10世紀には口分田や人頭税方式が廃止されて税のおさめ先が国衙配下の名主ってこと以外は荘園と変わらんがな

321: 日本@名無史さん 2017/03/15(水) 00:21:07.67
最後に院政を行われたのは光格上皇なのか後花園院なのか後小松院なのか

322: 日本@名無史さん 2017/03/15(水) 09:34:28.35
>>321
明治時代に院政が否定されたから最後の上皇である光格院まででしょう
明治以前は院庁の役人が付けられて上皇が政治に口出しもしてたしね

光格天皇が実父に太上天皇号を贈ろうと幕府ともめた尊号一件の際にも、後桜町上皇が出てきて光格天皇をなだめてるし

引用元: 院政について語ろう




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