1: 人間七七四年 2007/07/22(日) 02:17:48 ID:ULE6QOe7
桓武平氏良文流三浦氏族で陸奥会津を本拠とし、戦国時代には南奥州に覇を唱えた葦名氏について語りましょう








2: 宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c 2007/07/22(日) 02:19:24 ID:pSmteVuj
蘆名盛氏は名将ですな。

3: 人間七七四年 2007/07/22(日) 02:23:46 ID:tmcXpSuQ
芦名
蘆名
葦名

本やサイトによって表記がバラバラ
どれが正しいのか

6: 人間七七四年 2007/07/22(日) 06:47:27 ID:AsLW6Sj7
>>3
後に伊達に仕えた分家は、同時代資料では「葦」の字が使われることが多い。

16: 仙台藩百姓 2007/07/24(火) 01:19:50 ID:w0BqaTWC
>>3
会津の民俗学者の方が言うには「葦名」が正しいらしお
11代盛信以来、葦名氏の菩提寺は会津天寧寺であるが、安置されている盛信や盛氏の位牌は「葦名」で書かれている
例の盛氏座像にも「葦名」で刻銘されているらしいお

それと植物の葦についてだけど、未熟のものは葭、成長したものを蘆(芦は蘆の略字のようなもの)、成熟し穂を付けたものを葦と呼ぶらしい
だから姓にするなら成熟した葦こそ相応しい

以上の事から見てなるほどとおれも思ったお( ^ω^)

592: 人間七七四年 2011/01/30(日) 21:45:37 ID:agWfhtlu
芦名と佐竹の抗争はイライラする

594: 人間七七四年 2011/01/30(日) 23:40:54 ID:DuYdui/r
実際、佐竹と葦名は言うほど険悪な対立なんてしてないんだけどな。
葦名対佐竹なんて勝手に妄想で話を大きくしてるだけだし。
佐竹にとっては旧領奪回のために白川領に攻め言ってるだけの話だし。
葦名視点からしたら遠くで紛争による小競り合いが起きてる程度の話に過ぎない。

595: 人間七七四年 2011/01/31(月) 00:33:00 ID:Xh7ii6fg
>>594
いや佐竹と蘆名は、険悪かどうかは知らんが十分深刻な争いをしてる。
それに高野郡が戦国期以前に佐竹の影響下に属したことあったか?
佐竹が白川に対して「旧領奪回」なんて言えるのは精々依上保くらいであって、それも既に義篤の治世には完了している。
佐竹の白川攻めは、対蘆名戦争の中で行われた局地的な経過のひとつであって、それ事態が戦争の焦点になるものではなかった。

602: 人間七七四年 2011/01/31(月) 23:29:32 ID:AErj1URZ
>>595
佐竹氏は依上というか南郷(高野郡の寺山以南)の地頭職を得ていたらしい
山入一揆を克服した佐竹義舜以来、旧領回復に奔走するわけだが、義昭の代にはあらかた近隣勢力と和睦若しくは従わせる事に成功し南郷も支配下に置いた
南郷を奪われた白川氏は小峰義親が葦名盛氏の娘を正室に迎えていた事から葦名氏の助力を得て南郷奪還を図る
以来、葦名白川両氏と佐竹氏が争うという構図が十数年続く
時には葦名白川氏と田村氏が組んだり佐竹氏と石川氏が組んだりして高野郡で争い、双方ともかなりの損害を出している
この頃の関係は険悪といっていい
武力では当時最盛期だった葦名氏の助力を得た白川方が割と優位にたっていたが、佐竹方の外交戦略による切り崩しと、手を広げすぎた葦名氏の衰退によって、結局白川氏は佐竹氏の軍門に降り葦名氏も和睦に至る
以降、葦名佐竹両氏の関係は一転して極めて良好に転じるわけだが。
要は初め南郷を巡って50年ぐらい白川佐竹両氏が争っていたが、白川氏が押されるに至って葦名氏を引き込み、葦名氏と佐竹氏の戦いに発展していったと言う事だね
後半になると葦名氏が白川氏を飛び越えて直接高野郡の国人と関係を結ぶようになっている
石川庄でも同様の動きがみられる

603: 人間七七四年 2011/02/01(火) 00:39:22 ID:SrmjJf68
依上保が高野郡内だったていつの話だよ。倭名鈔とかの時代じゃねえか。しかも推定の話だし。
まあそんなことはどうでもいいので高野郡の変遷には深く立ち入らないけれども。
大体仮にそうだったとしても、「高野郡は佐竹の旧領」なんていえる時代は、義篤期未前には存在しないじゃないか。高野郡南郷がいつぞやの時代に佐竹旧領だったとしても、その旧領回復とやらは義昭の時代で終わってることだ

「石川が源氏の同朋だ」なんてもあまりにも馬鹿馬鹿しくて話にならんわ。
そもそも御家騒動で散々より近親の同族殺しをやっている時代を経てるのに、そんな頓珍漢な論理で軍事外交的な政策を立案するなんてドンダケだよ。
義重は天正元年頃赤坂朝光に送った書状(『家蔵文書20』)の中で、「竹貫三河と相談して石川と手切れし、(石川氏属の)白石で勝利しろ」と言ってるんだよ。
佐竹は常に石川の味方をしていたわけではない。当り前だがあくまで佐竹の利益優先だ。

そんで、所謂佐竹の対白川戦が、実は対蘆名戦の枝葉に過ぎなかったのは、史料的にあまりにも明白過ぎることなの。
永禄十~永禄十一年(1567~1568)くらいまで、石川白川領が佐竹と蘆名の政治的角逐の場となり、石川白川麾下の諸氏に対して両陣営が所領安堵や
所領宛行を頻発させるという事案が発生。
●上館左衛門大夫に所領安堵、帰属支援の確認(『佐竹義喬起請文・沢井八郎文書』)
●上遠野藤兵衛に浅川領の所領宛行約束(『止々斎宛行状・上遠野秀夫文書』)
●赤館左衛門尉に支援約束(『止々斎起請文・沢井八郎文書』)
●上館左衛門尉に支援約束、上の半年後(『止々斎起請文・沢井八郎文書』)
●沢井左衛門大夫に支援約束(『佐竹義重起請文・沢井幸一家文書』)
これらの書の文言には「道堅(石川晴光)が帰城しようがしなかろうが」とか、「白川よりその方に対して慮外の刷い候えども」なんてのが付いてくる。

604: 人間七七四年 2011/02/01(火) 00:41:55 ID:SrmjJf68
こうした中で永禄12年(1569)蘆名による石川領侵攻が行われ(『塔寺八幡宮長帳』『平田常範書状・上杉家文書』)、元亀二年(1571)佐竹が石川に援軍を送るが、蘆名に協調した田村の後詰によって敗れる(『佐竹義重感状・家蔵文書44』『止々斎書状・伊達家文書』)ということになる。
そして蘆名との講和を説いた?和田昭為が出奔し、元亀三年(1572)八槻で蘆名田村対佐竹戦(『東州雑記』等)、上記の「白石での勝利」、天正二年(1574)白川善七郎蜂起・二階堂が蘆名から離反?・赤館で蘆名対佐竹戦(『伊達輝宗日記』)、金波で蘆名田村対佐竹石川戦(『白河古事考』かなんか)、天正三年(1575)に白川陥落・天正四年(1576)佐竹による蘆名方の長沼攻め(『東州雑記』)となる。
こうした多くの蘆名と佐竹の戦争を見かねた上杉謙信が、蘆名盛氏に対して「これらの佐竹との際限無き弓箭は全くの理由の無いものでは?」と手紙して、佐竹との講和を勧め(『謙信書状・伊達家文書』)、実際に蘆名と佐竹の講和が成る。
こうした流れを見れば、石川白川が一連の戦乱で果たした役割は限定的で、主導権は明らかに蘆名と佐竹にあったのが分かる。
伊達輝宗日記にも「佐会田(佐竹会津田村)無事の事定まり」、赤館での戦闘でも「義重清顕対面あるべき」などとあり、白川の存在が表に出てこない。
最後の謙信の書状でも講和とは蘆名と佐竹の間のことで、白川には触れられていない。
当時でも戦争は蘆名と佐竹の間のものだったという認識なんだよ。

さらに。蘆名盛興が暗殺されたなどという証拠はない。『塔寺八幡宮長帳』によれば、「御北様(盛興)御患いにて御酒止まり申候」とあり、おそらく酒に関る病気っつーか中毒的なものに罹っていたと思われる。

611: 人間七七四年 2011/02/01(火) 20:09:23 ID:JuNBbZkU
>>603
依上保が分離したのは永正の頃だよ
まあ、どうでもいい事だが

612: 603 2011/02/01(火) 23:17:33 ID:SrmjJf68
>>611
それは佐竹義舜が依上保を支配下に組み入れたことで、依上保の「行政区分」が陸奥国から常陸国となった、という話でしょ?

ここで前提として言っているのは、そもそも和名抄の時代の「陸奥国白川郡高野」「陸奥国白川郡依上」から、「陸奥国高野郡」「陸奥国依上保」という区分に分かたれたのが何時か?ということ。
「保」という国衙領の中の一区分の名がついているのだから、これはほぼ間違いなく平安時代(といっても長いが)に分割されたと言えるわけね。
つまり「依上保が高野郡内」なんていうのは平安時代の話で、その頃には佐竹はともかく白川の所領だのなんてのはなんてありえないわな。

少なくとも史料上では、建武年間に白川氏が高野郡と依上保の検断権や地頭権を手に入れ、応永年間頃には佐竹氏族の依上三郎なるものが依上保を領有していたらしいこと、その後足利持氏が白川氏朝に依上保を預け置き、また知行させたこと、その後佐竹義舜が云々ということになる。

そこで、「佐竹が奪回に動いた」とか旧領回復とか、上レスの人々が言っているでしょ?
依上保については依上三郎が領有してたという事実が確認できるのだから、「旧領回復」というのもまあまあ成り立ち得るけれども、高野郡については「佐竹の旧領回復」なんてのは言えないわけね。
勿論佐竹義篤、佐竹義昭が南郷を制圧する以前に、高野郡が佐竹の所領とか地頭職とか、あるいはせめて検断職とかいう事実があるなら、まあそういうことも言えるかもしれない。
ただそれが当時存在してる大名の優先すべき戦争理由として設定され得るとは、私は思わないけれども。だから深く立ち入らないわけね。意味ないから。

614: 人間七七四年 2011/02/03(木) 07:35:08 ID:C50WX3Z/
今の「しらかわ」郡が「西白河郡」と「東白川郡」で分かれてるのがなんとなくわかった。小峰城は白河市内だったな。
葦名と佐竹の2大勢力によって分けられたのか。
アメリカ、中国、ロシアの介入で国が別れた朝鮮半島に似てるな。

618: 人間七七四年 2011/02/04(金) 04:03:07 ID:YFKuwZY6
あまり関係ないかもしれないが、白川周辺のことについて。

船尾山城守昭直の子である船尾義綱(三七、兵衛尉、右兵衛)は何故か白川義親から義の字と白川の名字を貰い、義綱と名乗っている『白川義親一字状/家蔵文書25』。

また天正十三年の『白川義親礼式帳』に「白川御城主御礼式」として家臣団の中で最上級の格式を与えられている七人のうちのひとりに「白川右兵衛殿」がいるが、これは右兵衛の官途が示すところを考えると、船尾三七義綱と非常に関係が深い人物であると思われる。

言うまでもなく「義綱」は白川晴綱の父に当たる人物の名でもあり、後に白川義親の養子になった人物の名でもある。
船尾家の人物が隆直、昭直の父子に示されるように「直」を通字とするにも関わらず、船尾三七が白川後代の重要な字である「綱」を名乗ったのは、三七が白川家の中で重要な地位を得たことが想起される。

これらを前提として考えると、白川義親という人物の立場にも重大な疑義が差し挟まれる。ズバリ言ってしまうと、船尾義綱は一時的にせよ白川義親の跡を継いだのではないか。となると、次のような系譜が考慮できる。
白川庶子家? 義綱?→義親→(右兵衛殿?→)船尾義綱→義名→義綱
白川本宗家   義綱→晴綱→隆綱→(朝顕?→)白川義広→義広子(が継ぐはずだった)
最終的には船尾義綱が伊達の赤館侵攻直前に白川から離反して赤館に退くことで、白川義親養子の件は反故にされたと思われる。
問題は『礼式帳』で「白川右兵衛殿」と白川義名なる人物の存在で、白川右兵衛殿=白川義名 もしくは 白川右兵衛殿=船尾義綱か。
ただし白川義名≠善七郎であるのは確実らしい。
上記のように考えると白川隆綱=白川義親説は益々疑いがもたれる。

625: 人間七七四年 2011/02/21(月) 02:08:16.70 ID:m+YCNYdW
佐竹や上杉撃退したのに、佐竹と伊達に食い物にされた、、、悔しい。

627: 人間七七四年 2011/03/11(金) 05:47:44.12 ID:aupRY/t+
葦名盛氏時代は上杉謙信と友好関係を構築してきたから、仙道方面にも進出できたんだよな。
謙信が子を残して葦名家に養子にでも、嫁にでも出してればねえ。

630: 人間七七四年 2011/03/18(金) 16:48:54.64 ID:L5SJhbEh
>>627
信玄と結んで越後侵攻したが謙信に葦名軍は瞬殺されてるはず。

631: 人間七七四年 2011/03/25(金) 16:29:38.13 ID:xQFtjNN2
>>630
は?

632: 人間七七四年 2011/03/25(金) 20:03:24.64 ID:HjXwUhn9
北条高広が離反した翌年の永禄10年に信玄が信越国境の野尻城を攻略した際に呼応した盛氏が菅名庄へ乱入してきたので上杉軍は野尻城を奪回し、さらに葦名500余を打ち取り菅名庄も回復してる。
さらに佐野城監視の五十公野氏が謙信に無断で佐野を離れて葦名を頼り自領へ帰国しようとしたところを盛氏が捕縛し北条氏に引き渡してしまい、謙信は急ぎ色部氏を佐野へ向かわせた。
さらに信濃飯山城を強化してから佐野へ出陣。

637: 人間七七四年 2011/04/28(木) 12:30:31.70 ID:Ty2aRtfa
芦名氏の末裔って居るの?

638: 人間七七四年 2011/04/28(木) 13:28:14.73 ID:JHYda1G4
嫡流は江戸期初期に断絶
近い庶流は針生氏が仙台藩士で残ってる
それ以外の分家は知らない

651: 人間七七四年 2011/06/18(土) 11:59:48.99 ID:tqsJOl3I
>>638
金上も芦名の分家筋
今も末裔がいるはず

芦名の嫡流は絶えたが、重臣クラスが芦名の庶流だったりする

652: 人間七七四年 2011/06/18(土) 22:00:39.46 ID:C+Hg2hYg
金上氏は分家じゃなくて別家だな
足利と新田とか佐竹と武田みたいな関係

653: 人間七七四年 2011/06/18(土) 22:10:56.19 ID:wlPj0GF+
相模三浦
猪苗代
佐原
金上
北田

だっけ

654: 人間七七四年 2011/06/18(土) 22:36:27.89 ID:C+Hg2hYg
長男 猪苗代
次男 北田
三男 藤倉(金上)
四男 葦名
五男 加納
六男 新宮

らしい

664: 人間七七四年 2011/07/13(水) 05:32:54.44 ID:9JN9wF/r
>>654
一応
蘆名の直轄地が一番広かったんだよね

642: 人間七七四年 2011/05/07(土) 11:28:25.16 ID:yn3gCKrP
葦名って代々子供少ないよね
特に正室の子となると一人っ子ばかり
なんとか細々繋いで来た感じ

649: 人間七七四年 2011/06/18(土) 10:16:24.47 ID:BJWchtJk
葦名は一門の裏切りで滅んだ

650: 人間七七四年 2011/06/18(土) 10:58:21.04 ID:wqqQQonQ
大概滅びる時は裏切り者が出るものさ

657: 人間七七四年 2011/06/27(月) 11:45:19.87 ID:5WSeVMy7
蘆名が会津代表みたいな感じになっているのは一番勢力が強かったから?

658: 人間七七四年 2011/06/27(月) 11:56:43.36 ID:jDki5R4q
いや、光盛(葦名)は嫡男で佐原の家督を相続したから初めから代表(宗家)だよ
上3人は庶子だから分家を立てたに過ぎない

660: 人間七七四年 2011/06/28(火) 14:54:18.75 ID:Dn/UUCb4
猪苗代とか松本とか自分の事を蘆名の家臣と思ってなさそう

662: 人間七七四年 2011/06/28(火) 18:08:10.86 ID:ahxUykvo
芦名・加納(佐原)・新宮が宝治合戦で北条方についてたんだよな

666: 人間七七四年 2011/07/13(水) 13:27:10.55 ID:euMxNlHc
盛興が死んだ後、後継に盛隆を指名したのは正しい選択だったんだろうか?
武勇に優れていたのは確かだけどさ。頓死してしまったのがなお悪い

まあそもそも盛興が早死したのがいかんかったのだけど

673: 人間七七四年 2011/08/02(火) 02:16:56.60 ID:pIG3803g
葦名盛興って有能だったの?
蘆名 盛興(あしな もりおき)は、戦国時代の陸奥国の戦国大名。蘆名氏第17代当主。

父と同様に智勇に優れ、永禄4年(1561年)、家督を譲られて蘆名氏の勢力拡大に奔走した。
天正2年(1574年)、病死。「会津四家合考」「富田家年譜」によれば死因は酒毒とされている。『会津旧事雑考』によれば、父・盛氏は1562年と1571年、2回に渡り領内における造酒を禁止したことから、盛氏は盛興の酒豪癖を懸念していたのではないかという推測がある。

盛興には世継ぎはなく、父・盛氏は二階堂氏から蘆名盛隆を養子に迎え、家督を継がせた。


674: 人間七七四年 2011/08/04(木) 13:20:23.64 ID:jocoocpL
世継ぎを遺せなかったという点では無能だったと言える

676: 人間七七四年 2011/08/06(土) 02:40:02.00 ID:+nre4z7u
伊達派が勝利して小次郎が養子になってればどうなったろ
小田原で潰されるか、叔父達と同じ目に合うか佐竹派に篭絡されて政宗に滅ぼされるか
蘆名 盛氏(あしな もりうじ)は、戦国時代の陸奥国の武将・戦国大名。蘆名氏第16代当主。

盛氏の晩年、伊達輝宗から自分の次男(後の伊達小次郎)が成長したら盛氏の養子にするという申し出があり、これに応じる約束を交わしていた。盛氏没後に発生した蘆名氏の家督問題において、輝宗とその嫡男の政宗はその約束の履行(小次郎が蘆名氏の養子になることは、同氏の家督を継ぐことを意味する)を求めた。しかし、佐竹氏との関係を強めていた蘆名氏の家臣団はこれに応じずに蘆名・伊達両氏の関係が悪化、政宗が蘆名氏および佐竹氏と戦う一因となった。

677: 人間七七四年 2011/08/12(金) 04:32:01.18 ID:Vx+5Weew
どっちにしても滅びるのか

684: 人間七七四年 2011/09/06(火) 15:34:36.88 ID:+7lhIMqB
蘆名盛氏
「佐竹領に乱入し、兵数百を打ち取り女を数百人さらった。戦ほど面白いものはなし」
盛氏がある坊主へあてた手紙

686: 人間七七四年 2011/09/07(水) 23:43:31.11 ID:f/tcHRJO
>>684
それ、本当にあった手紙?

731: 人間七七四年 2011/10/30(日) 02:48:05.82 ID:KXpKUEhy
>>684>>686
「戦ほど面白いものはなし」って言ってたのは本当。
俺も見たことがある。
その前にそんなセリフがあったんだとは知らなかった。
本当?それはそれでキャラが立って面白い。

685: 人間七七四年 2011/09/07(水) 00:46:44.87 ID:l0fHG4C1
小峰義親「あのお義父様、それうちの領民なんですけど」

687: 人間七七四年 2011/09/08(木) 20:59:04.11 ID:RuR4nLdg
寺山だか赤館だかを攻めた時の手紙だろ
でも元々は結城氏の領地だし義親にしてみれば荒らされるのは複雑な心境だったろうな

688: 忍法帖【Lv=13,xxxPT】 2011/09/11(日) 18:17:48.29 ID:dzOl1UFu
盛氏ってなんか小物臭ぷんぷんなんだよなw
やたら徳政令出したり、盛興死後に禁酒令出したり全てが後手に回ってる
生まれる時代が早かったから助かっただけで、伊達政宗と張り合ってたら確実に蘆名滅亡に導き暗君のレッテル貼られてたなw

695: 人間七七四年 2011/10/03(月) 04:59:17.94 ID:FHuqFAR/
支配地域ってどれぐらいだったん

696: 人間七七四年 2011/10/03(月) 11:53:45.84 ID:M2omQHcq
會津郡 耶麻郡 大沼郡 河沼郡 蒲原郡
千葉郡 結城郡 奈須郡 白川郡 安積郡
小田郡 行方郡 磐瀬郡 宮城郡 安達郡

※郡内全てを支配していたわけではありません

697: 人間七七四年 2011/10/03(月) 23:33:45.00 ID:6zJJCOqa
>>696
うーん、現代だとどこら辺か判らない郡名があるなぁ
千葉郡とか小田郡とか福島県及び周辺にあったかなぁ
宮城郡は宮城県とも思えないし、まさかと思い仙台藩の葦名(針生)氏を調べたら栗原郡だし

699: 人間七七四年 2011/10/05(水) 11:51:41.52 ID:JrMGGo/R
葦名盛氏ニ至リ押領之郡地
十五郡之内令知行高積百二十万石當
士分以上千三百五十人余
野士八十人余
外輿力徒歩士合三千六百人
旗下大名五万六千人余
都合六万騎余

700: 人間七七四年 2011/10/10(月) 17:11:40.90 ID:CgeXKVFD
120万石??

701: 人間七七四年 2011/10/10(月) 22:17:24.66 ID:DpPCzGgi
そこは軍記物なので話し半分で見てください

702: 人間七七四年 2011/10/15(土) 16:50:14.47 ID:DxeJ7cPu
現実的には20万石ちょっとで、城下は毎年洪水で徳政令を出さなきゃ治安維持すらできなくなるほど

703: 人間七七四年 2011/10/15(土) 19:04:28.78 ID:oW88XWmG
分限帳によると会津四郡に、従属大名が須賀川、二本松、塩松、白河、石川
後の検地と見比べると

葦名本領が28万石
従属大名が
須賀川5万石
二本松3万5千石
塩松3万5千石
白河7万石
石川3万石
合計50万石

まあ、こんなものだろう
間違っても100万石は無理

704: 人間七七四年 2011/10/16(日) 12:56:50.86 ID:1jl+/a2q
>>703
盛氏末期にはことごとく彼らは離反してるし、そもそもその石高は明らかに、開発ラッシュ時代の秀吉時代石高を利用した後世からの逆算。
当時は石ではなく貫で表記してたし、度量衡も統一されてないから石を貫に換算するのも不可能。

706: 人間七七四年 2011/10/16(日) 22:58:38.73 ID:Hn9jM1Cs
>>704
石高は文禄検地のデータ
葦名滅亡から4年目だからそれほどは変わっていないはず
領域と支配体制については細かく議論するときりがないが、他の藩同様に大まかな指標にはなる

708: 人間七七四年 2011/10/17(月) 14:33:43.45 ID:ZUYs4MMG
>>706
大きく違う。
氏郷が上方の土木技術で治水新田開発や農業先進国伊勢の作付けと灌漑、近江伊勢の商人の動員でもはや外征費用を内治に投入できるようになった。
蘆名滅亡による帰農もあるし。豊臣化とは、開発独裁による豊国安定の上で将来の唐出兵を実行すること。
その開発のために動員する人数も蒲生権力の徹底浸透目的地でもある。

709: 人間七七四年 2011/10/17(月) 15:17:24.66 ID:BChysWUA
蒲生入部の際の石高は42万石じゃん
これは会津四郡に白河、石川、須賀川を含めたもの
塩松、二本松は含まれない
まあ、だいたい50万石ぐらいで合っている
盛氏全盛期の話しね
摺上原の戦い時点では、白河、石川、塩松、二本松に加え高玉、猪苗代辺りも失っていたから
せいぜい30万石弱がいいところだろう

710: 人間七七四年 2011/10/17(月) 16:23:19.87 ID:ZUYs4MMG
それ上方の検地と同じ方法を使ってないから甘い。
京升を使ったりしたのも大崎葛西の乱の後の平定地域だけ。
本気で機内同様の石高制で検地をしたのは朝鮮出兵して国元が抵抗できない状態に三成らが奥羽に赴任してやってる。

711: 人間七七四年 2011/10/17(月) 23:18:33.98 ID:RznOKSy9
石高なんて細かく言ったらきりがないから大体ていいんだよ
毎年収穫量が違うのだから実高とか言うだけ無駄

712: 人間七七四年 2011/10/18(火) 08:27:38.25 ID:yyXQ/cJY
>>702くらいが実態だろね。
じゃなければ佐竹におんぶに抱っこ状態の理由がわからん。

引用元: ・【三浦介】葦名氏総合スレ【会津守護】