1: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 01:19:32 0
スペイン・ポルトガル総合スレも盛り上がってきたので、ちょっと分割してもいいよな?
イドリースィーが学び、イブン・ルシュドが思索し、イブン・ハズムが恋愛を語った豊穣なアル=アンダルス。政治史・軍事史はもちろん、社会史や文化史でもネタは沢山あるぞ。
711年のウマイヤ朝軍上陸から1492年グラナダ陥落、1614年のモリスコ追放完了まで、存分に語れ!
イドリースィーが学び、イブン・ルシュドが思索し、イブン・ハズムが恋愛を語った豊穣なアル=アンダルス。政治史・軍事史はもちろん、社会史や文化史でもネタは沢山あるぞ。
711年のウマイヤ朝軍上陸から1492年グラナダ陥落、1614年のモリスコ追放完了まで、存分に語れ!
2: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 01:20:05 0
邦語文献一覧
・アンダルス史関連
W.M.ワット『イスラーム・スペイン史』岩波書店、1976(※絶版)
余部福三『アラブとしてのスペイン』第三書館、1992
D.W.ローマックス『レコンキスタ』刀水書房、1996
安達かおり『イスラム・スペインとモサラベ』彩流社、1997
Ch-E.デュフルク『イスラーム治下のヨーロッパ』藤原書店、1997
R.フレッチャー『エル・シッド』 法政大学出版局、1997
K.B.ウルフ『コルドバの殉教者たち』刀水書房、1998
近藤仁之『スペイン・ユダヤ民族史』刀水書房、2004
・通史
立石博高編『新版世界各国史 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000
立石・関・中川・中塚編『スペインの歴史』昭和堂、1998
・アンダルス史関連
W.M.ワット『イスラーム・スペイン史』岩波書店、1976(※絶版)
余部福三『アラブとしてのスペイン』第三書館、1992
D.W.ローマックス『レコンキスタ』刀水書房、1996
安達かおり『イスラム・スペインとモサラベ』彩流社、1997
Ch-E.デュフルク『イスラーム治下のヨーロッパ』藤原書店、1997
R.フレッチャー『エル・シッド』 法政大学出版局、1997
K.B.ウルフ『コルドバの殉教者たち』刀水書房、1998
近藤仁之『スペイン・ユダヤ民族史』刀水書房、2004
・通史
立石博高編『新版世界各国史 スペイン・ポルトガル史』山川出版社、2000
立石・関・中川・中塚編『スペインの歴史』昭和堂、1998
3: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 01:20:34 0
180 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/05/04(水) 18:40:24 0
スペインの中世考古学で興味深い分野は農村部の灌漑システムの発掘だろう。
古代ローマ末期の都市の衰退から、イスラムの統治、レコンキスタを経て領主支配の封建社会、と社会制度がかわるにしたがって灌漑システムの運用の仕方も変遷し、それが雄弁にシステムのデザインにも変化をもたらす。
さらに各時代での新たな技術・東方からの目新しい作物の導入が加わり、小規模エリア内でのエコ・システムの人工的な変革(もともと半砂漠気候の南スペインに亜熱帯の極小気候帯を作り出す)を行い、地域経済・社会に大きな変化をもたらした。
スペインの中世考古学で興味深い分野は農村部の灌漑システムの発掘だろう。
古代ローマ末期の都市の衰退から、イスラムの統治、レコンキスタを経て領主支配の封建社会、と社会制度がかわるにしたがって灌漑システムの運用の仕方も変遷し、それが雄弁にシステムのデザインにも変化をもたらす。
さらに各時代での新たな技術・東方からの目新しい作物の導入が加わり、小規模エリア内でのエコ・システムの人工的な変革(もともと半砂漠気候の南スペインに亜熱帯の極小気候帯を作り出す)を行い、地域経済・社会に大きな変化をもたらした。
4: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 01:21:17 0
258 名前:世界@名無史さん 投稿日:2005/05/25(水) 19:46:46 0
アル・アンダルスでは灌漑農耕が盛んであり、レコンキスタ後の史料を見る限りでも、元々灌漑地であった土地がどんどん乾地農耕である小麦畑へと姿を変えていっている。イスラム教国が北部キリスト教国から小麦をかなり輸入していたデータもある。つまりアル・アンダルスでは相対的に小麦の耕作面積は小さかったのかな。
部族的なつながりのある農業共同体の社会であるアル・アンダルスでは、農民たちが政策的に、富の蓄えが出来ない灌漑耕作物(野菜とか果実とかね)を意図的に集約して作り、余剰生産の多くは都市市場への売買を目的とし、封建領主の出現を防いでいた、という説もあるけど・・・。
じゃあ、アル・アンダルスの食生活はどうだったの?かなりバラエティに富んだ、バランスの取れた食生活だったみたいだけど、主食は何?知ってる人、教えて。
↑こういう情報って、本屋で買える本には出てこないよな?
どこで入手するの?
アル・アンダルスでは灌漑農耕が盛んであり、レコンキスタ後の史料を見る限りでも、元々灌漑地であった土地がどんどん乾地農耕である小麦畑へと姿を変えていっている。イスラム教国が北部キリスト教国から小麦をかなり輸入していたデータもある。つまりアル・アンダルスでは相対的に小麦の耕作面積は小さかったのかな。
部族的なつながりのある農業共同体の社会であるアル・アンダルスでは、農民たちが政策的に、富の蓄えが出来ない灌漑耕作物(野菜とか果実とかね)を意図的に集約して作り、余剰生産の多くは都市市場への売買を目的とし、封建領主の出現を防いでいた、という説もあるけど・・・。
じゃあ、アル・アンダルスの食生活はどうだったの?かなりバラエティに富んだ、バランスの取れた食生活だったみたいだけど、主食は何?知ってる人、教えて。
↑こういう情報って、本屋で買える本には出てこないよな?
どこで入手するの?
12: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 03:14:06 0
>>3
日本では手に入らないかも。現地では盛んに研究されてるよ。
M.Barcelo、P.Guichard、A.Bazzana、A.Malpica、T.F.Glick、L.Bolens
あたりが詳しいかも。
大都市には政府高官や貴族のレクレーション・耕作地であるAlmuniaが点在し、集約的な耕作方法で東方からイベリア半島に持ち込まれた目新しい作物の実験的な栽培が行われ、その地の気候に順応させてから普及させた。
日本では手に入らないかも。現地では盛んに研究されてるよ。
M.Barcelo、P.Guichard、A.Bazzana、A.Malpica、T.F.Glick、L.Bolens
あたりが詳しいかも。
大都市には政府高官や貴族のレクレーション・耕作地であるAlmuniaが点在し、集約的な耕作方法で東方からイベリア半島に持ち込まれた目新しい作物の実験的な栽培が行われ、その地の気候に順応させてから普及させた。
72: 世界@名無史さん 2005/06/11(土) 13:04:34 0
>>4
デュフルク『イスラーム治下のヨーロッパ』によると、主食は
「細かく刻んだ肉と豆類で適度に味付けされた、小麦粉かセモリナの濃いスープと一種のポリッジ(麦粉を牛乳・水で煮詰めた粥)が基本的食べ物であったようだ。(中略)しかし下層の民はソラマメ、エンドウあるいはヒラマメのスープを主食としている。また野菜と薬草の入ったバーミセリ(極細にしたスパゲティ様の麺類)入りポタージュも愛好された。(中略)小麦か大麦のパンが常用されたが、アル・アンダルスではマグレブから小麦をかなり輸入していた」
とある。ただし、上記はシチリアとアンダルス双方のことを述べているし、そもそもデュフルクは出典をめったに明らかにしない人なので、慎重に読む必要があるが。
副食は肉(生・乾燥肉双方)、魚(塩漬けアンチョビー等)、野菜(生食も盛んだった)、フルーツ(生食・ジャム・ドライフルーツ・ジュース等)など、やっぱりヴァラエティに富んでいたらしい。貧乏人はマメ類と黍ばっかりだったらしいが。
デュフルク『イスラーム治下のヨーロッパ』によると、主食は
「細かく刻んだ肉と豆類で適度に味付けされた、小麦粉かセモリナの濃いスープと一種のポリッジ(麦粉を牛乳・水で煮詰めた粥)が基本的食べ物であったようだ。(中略)しかし下層の民はソラマメ、エンドウあるいはヒラマメのスープを主食としている。また野菜と薬草の入ったバーミセリ(極細にしたスパゲティ様の麺類)入りポタージュも愛好された。(中略)小麦か大麦のパンが常用されたが、アル・アンダルスではマグレブから小麦をかなり輸入していた」
とある。ただし、上記はシチリアとアンダルス双方のことを述べているし、そもそもデュフルクは出典をめったに明らかにしない人なので、慎重に読む必要があるが。
副食は肉(生・乾燥肉双方)、魚(塩漬けアンチョビー等)、野菜(生食も盛んだった)、フルーツ(生食・ジャム・ドライフルーツ・ジュース等)など、やっぱりヴァラエティに富んでいたらしい。貧乏人はマメ類と黍ばっかりだったらしいが。
5: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 01:32:58 0
灌漑といえば、バレンシア周辺の大耕地(ウェルタ)。今でも稲作してるよね。パエーリャはもともとバレンシアが本場。
16~17世紀初頭のモリスコ追放までは、イスラム教徒たちが農業を支えていた。追放のせいでバレンシアでは人口が3割も減ったらしい。
16~17世紀初頭のモリスコ追放までは、イスラム教徒たちが農業を支えていた。追放のせいでバレンシアでは人口が3割も減ったらしい。
22: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 23:40:55 0
>>5
バレンシアの灌漑はその起源をイスラムに求めるのか、それともローマ時代にまで遡るのか、いまだ論争しているんではなかったか?
確かローマ時代の灌漑のローテーションを記した板だったかが発掘されたはず。
ただし、起源を探るその論争自体、不毛なものだ、と揶揄する意見もあるのだが。
バレンシアの灌漑はその起源をイスラムに求めるのか、それともローマ時代にまで遡るのか、いまだ論争しているんではなかったか?
確かローマ時代の灌漑のローテーションを記した板だったかが発掘されたはず。
ただし、起源を探るその論争自体、不毛なものだ、と揶揄する意見もあるのだが。
7: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 01:40:08 0
後ウマイヤ朝時代に、アル・アンダルスにサトウキビが持ち込まれた。
8: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 01:51:06 0
『狼王』イブン・マルダニーシュについて語れる漢はおらんのかあっ!!
『恐れ知らずの』ジラルド(キリスト教徒だけど)も!!
『恐れ知らずの』ジラルド(キリスト教徒だけど)も!!
9: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 01:58:14 0
なぜピレネー以南を全部征服しておかなかったんだ...
10: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 02:15:11 0
>>9
一時的になら全部征服したよ。ただ、カンタブリア山脈以北のアストゥリアスやカンタブリアはすぐ(722年のコバドンガの戦いで)離反したけどね。
カタルーニャはシャルルマーニュに取られたし。
一時的になら全部征服したよ。ただ、カンタブリア山脈以北のアストゥリアスやカンタブリアはすぐ(722年のコバドンガの戦いで)離反したけどね。
カタルーニャはシャルルマーニュに取られたし。
11: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 03:02:53 0
カンタブリアなんて一時的にすら支配して無いだろ。。
16: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 14:58:36 0
>>9->>11
やはり北のほうは、山がちで攻めにくいうえに、経済的重要性も低かったので、ムスリムがあんまりこだわらなかったのでは?
よく考えたら、初期のイスラム軍て、アラビアや地中海沿岸など、平地(ていうかほとんど砂漠)ばっかりを転戦してきたんですよね。
やはり北のほうは、山がちで攻めにくいうえに、経済的重要性も低かったので、ムスリムがあんまりこだわらなかったのでは?
よく考えたら、初期のイスラム軍て、アラビアや地中海沿岸など、平地(ていうかほとんど砂漠)ばっかりを転戦してきたんですよね。
18: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 17:46:39 0
>>16
対サーサーン朝の戦いではザグロス山脈を越えてイラン高原に侵入してるし、アルメニア・グルジアなどザカフカースを征服した時もクルディスタンの山岳地帯を通過し、さらにカフカースの北のダゲスタンまで侵攻してるし、マグリブの征服の時にもアトラス山脈に分け入ってますが。
対サーサーン朝の戦いではザグロス山脈を越えてイラン高原に侵入してるし、アルメニア・グルジアなどザカフカースを征服した時もクルディスタンの山岳地帯を通過し、さらにカフカースの北のダゲスタンまで侵攻してるし、マグリブの征服の時にもアトラス山脈に分け入ってますが。
13: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 09:12:38 0
エルサレムなど東方において十字軍が暴れ回った時、エジプトではキリスト教徒が血祭りにあげられたというのをどこかの本で読んだ憶えがあります(書名は失念しますた)。イベリア半島内のレコンキスタならいざ知らず、東方における十字軍のとばっちりを受けて、イベリア半島のイスラム領内に住むキリスト教徒が血祭りにあげられることは多かったのでしょうか。
15: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 14:55:47 0
>>13
エジプトでのキリスト教徒虐殺というと、有名なのがファーティマ朝のアル・ハーキムの治世ですが、これは十字軍よりも前の時代です。
また、イベリア半島に信仰したムラービト朝とムワッヒド朝は、イスラームの純化と強烈な聖戦意識に支えられていて、キリスト教徒だけではなくユダヤ教徒に対しても不寛容でした。
エジプトでのキリスト教徒虐殺というと、有名なのがファーティマ朝のアル・ハーキムの治世ですが、これは十字軍よりも前の時代です。
また、イベリア半島に信仰したムラービト朝とムワッヒド朝は、イスラームの純化と強烈な聖戦意識に支えられていて、キリスト教徒だけではなくユダヤ教徒に対しても不寛容でした。
14: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 14:35:12 0
4 :世界@名無史さん :2005/03/22(火) 03:14:42 0
イスラム勢力とキリスト教勢力との関係も、敵対的な側面と共生的な側面が時代によって様々な配分で現れることがわかってきている。
従来言われていたような「イスラム側=寛容、キリスト教側=偏狭・非妥協的」ってのも、いつもそうだったわけではない。
ムラービト朝やムワッヒド朝時代にはイスラム側もかなり非妥協的になり、ユダヤ人がアンダルスからキリスト教圏に亡命したりしている。
かと思えば、武勲詩で有名なエル・シッドことロドリゴ・ディアス・デ・ビバールがサラゴサのイスラム君主に傭兵隊長として仕えたり、彼と仲の悪いカスティリャ王アルフォンソ6世は若い頃トレドのタイファ国家に亡命していたりしている。
イスラム勢力とキリスト教勢力との関係も、敵対的な側面と共生的な側面が時代によって様々な配分で現れることがわかってきている。
従来言われていたような「イスラム側=寛容、キリスト教側=偏狭・非妥協的」ってのも、いつもそうだったわけではない。
ムラービト朝やムワッヒド朝時代にはイスラム側もかなり非妥協的になり、ユダヤ人がアンダルスからキリスト教圏に亡命したりしている。
かと思えば、武勲詩で有名なエル・シッドことロドリゴ・ディアス・デ・ビバールがサラゴサのイスラム君主に傭兵隊長として仕えたり、彼と仲の悪いカスティリャ王アルフォンソ6世は若い頃トレドのタイファ国家に亡命していたりしている。
20: 世界@名無史さん 2005/05/30(月) 22:16:55 0
アル・アンダルスではユダヤ人の活躍も著しかった。
例をあげると、アブド・アッラフマーン3世とアル・ハカム2世の宮廷医をつとめたハスダイ・イブン・シャプルートと、ジール朝グラナダ王国の宰相にまでのぼりつめたシュムエル・イブン・ナグレーラなど。
例をあげると、アブド・アッラフマーン3世とアル・ハカム2世の宮廷医をつとめたハスダイ・イブン・シャプルートと、ジール朝グラナダ王国の宰相にまでのぼりつめたシュムエル・イブン・ナグレーラなど。
23: 世界@名無史さん 2005/05/31(火) 10:25:17 0
トレドの伝統工芸ダマスキナードは、イスラーム圏から伝わったもの。
34: 世界@名無史さん 2005/06/01(水) 20:10:08 0
>>23
ダマスキナード(damasquinado=彫金細工)は古くは古代エジプトでも行われており、ギリシャ、ローマにも伝わっている。現在見られるような形に完成されたのはビザンチン帝国、ともいわれている。よって、イベリア半島には、あくまでイスラムの文化を媒体として、昔から地中海世界に存在していた技術が伝播した、とするのが正しいだろう。
もちろん、名前が示すように、当時スペイン人がダマスカスから伝わった工芸、ととらえていたのだろうけど。
ちなみにスペインでは別名、ataujiaともいうらしい(アラビア語起源ね)。
ダマスキナード(damasquinado=彫金細工)は古くは古代エジプトでも行われており、ギリシャ、ローマにも伝わっている。現在見られるような形に完成されたのはビザンチン帝国、ともいわれている。よって、イベリア半島には、あくまでイスラムの文化を媒体として、昔から地中海世界に存在していた技術が伝播した、とするのが正しいだろう。
もちろん、名前が示すように、当時スペイン人がダマスカスから伝わった工芸、ととらえていたのだろうけど。
ちなみにスペインでは別名、ataujiaともいうらしい(アラビア語起源ね)。
32: 世界@名無史さん 2005/06/01(水) 17:20:09 0
タイルもムスリムがスペインに持ち込んだもの。
クエルダセカ技法によるアラベスク模様のタイルは有名。
クエルダセカ技法によるアラベスク模様のタイルは有名。
33: 世界@名無史さん 2005/06/01(水) 18:34:22 0
陶芸の技術は常に東方からの影響があり、いかに東方(特に中国産の磁器)の技術を模倣するか、ということで発展してきた歴史がある。その中から鉛製の上薬(なめらかな白い皮膜を作り出す)などが生まれた。
コルドバ・カリフ時代に一世風靡した様式は白地にマンガンの黒い輪郭線、銅の上薬による緑を使った文様をつけたもの。verde y manganesoとか、カリファート様式などと呼ばれ、メディナ・アッサーラやカリフ時代のグラナダ、エルビラ遺跡などから多数出土している。
時代は下って、ナスル朝時代のグラナダや、後ムデハルを通じて伝わったバレンシアのマニセスでは、reflejo metalicoと呼ばれる銅の光沢を帯び、優雅なアラベスク模様で飾った絢爛な様式がはやった。アルハンブラ宮殿には同様式の代表作、ガゼルの壷が残っている。
ちなみに、クエルダ・セカ(cuerda seca)の技法は、マンガンを含んだ陶土を細いひも状にして陶器表面に輪郭線を描き、その紐を境界線として様々な色の出る上薬をステンドガラスのように乗せていく方法。ある研究によると、この技術はアル・アンダルスで独自に開発された技法ではないかと目されている。
コルドバ・カリフ時代に一世風靡した様式は白地にマンガンの黒い輪郭線、銅の上薬による緑を使った文様をつけたもの。verde y manganesoとか、カリファート様式などと呼ばれ、メディナ・アッサーラやカリフ時代のグラナダ、エルビラ遺跡などから多数出土している。
時代は下って、ナスル朝時代のグラナダや、後ムデハルを通じて伝わったバレンシアのマニセスでは、reflejo metalicoと呼ばれる銅の光沢を帯び、優雅なアラベスク模様で飾った絢爛な様式がはやった。アルハンブラ宮殿には同様式の代表作、ガゼルの壷が残っている。
ちなみに、クエルダ・セカ(cuerda seca)の技法は、マンガンを含んだ陶土を細いひも状にして陶器表面に輪郭線を描き、その紐を境界線として様々な色の出る上薬をステンドガラスのように乗せていく方法。ある研究によると、この技術はアル・アンダルスで独自に開発された技法ではないかと目されている。
26: 世界@名無史さん 2005/05/31(火) 13:28:41 0
アブドゥル・ラーマン3世の時代、アル・アンダルスから毎年の貢租として金貨1204万5000ディナールを引き出した。
王都コルドバは600のモスク、900の浴場、20万の家屋を数え、グアダルキビル川の流域には1万2000におよぶ村落があった。
(多少の誇張はあるかもしれないが)
王都コルドバは600のモスク、900の浴場、20万の家屋を数え、グアダルキビル川の流域には1万2000におよぶ村落があった。
(多少の誇張はあるかもしれないが)
27: 世界@名無史さん 2005/05/31(火) 21:35:28 0
Qurtuba(コルドバ)の人口には諸説あって、史料によっては50万人なんてのもあるが、実際は最盛期の9~10世紀で10~15万ってとこじゃないか?
まあ10万でも当時のローマやパリよりずっと多いわけだが。
まあ10万でも当時のローマやパリよりずっと多いわけだが。
28: 世界@名無史さん 2005/06/01(水) 00:15:30 0
アブドゥル・ラーマン3世は、ザフラー宮殿を造営するとき、コンスタンティノープルから職人を呼び寄せた。
そのためここには今でもビザンティン風の装飾が見られる。
またコルドバのメスキータの馬蹄形アーチは、西ゴートの様式である。
そのためここには今でもビザンティン風の装飾が見られる。
またコルドバのメスキータの馬蹄形アーチは、西ゴートの様式である。
29: 世界@名無史さん 2005/06/01(水) 04:55:27 0
>>28
ザフラー宮殿=
アラビア語 マディナート・アッ・ザフラー(花の宮殿都市)
スペイン語 メディナ・アサーラ
スペイン政府は本格的な発掘調査をしてくれないんだろうか・・・
ザフラー宮殿=
アラビア語 マディナート・アッ・ザフラー(花の宮殿都市)
スペイン語 メディナ・アサーラ
スペイン政府は本格的な発掘調査をしてくれないんだろうか・・・
30: 世界@名無史さん 2005/06/01(水) 08:22:49 0
38: 世界@名無史さん 2005/06/02(木) 00:49:10 0
>>30
マディーナトゥッ・ザフラーは、1010年以来何度も破壊されたり建材供給地として利用されたりしてるので、自然の侵食以上に傷んでいる。
一応1910年以来発掘を含む調査は行われているし、閣議所とモスクが復元途上にあるらしいので安心されたし。
ちなみに、1010年にはここにはベルベル人部隊が駐留していたんだが、アル・マンスールが呼び寄せたこれらベルベル兵を嫌うコルドバの下層市民によって襲撃され、略奪された。後ウマイヤ朝を滅ぼした、アンダルス人対ベルベル人・スラブ人の闘争の余波がこんなところにも現れている。
また、建材泥棒の一人にムラービト朝のアブー・ヤアクーブがいる。建材は今セビーリャのヒラルダの塔の一部に化けているらしい。
マディーナトゥッ・ザフラーは、1010年以来何度も破壊されたり建材供給地として利用されたりしてるので、自然の侵食以上に傷んでいる。
一応1910年以来発掘を含む調査は行われているし、閣議所とモスクが復元途上にあるらしいので安心されたし。
ちなみに、1010年にはここにはベルベル人部隊が駐留していたんだが、アル・マンスールが呼び寄せたこれらベルベル兵を嫌うコルドバの下層市民によって襲撃され、略奪された。後ウマイヤ朝を滅ぼした、アンダルス人対ベルベル人・スラブ人の闘争の余波がこんなところにも現れている。
また、建材泥棒の一人にムラービト朝のアブー・ヤアクーブがいる。建材は今セビーリャのヒラルダの塔の一部に化けているらしい。
35: 世界@名無史さん 2005/06/01(水) 23:13:29 0
ところで質問なんですが、イスラム時代というのは現代スペイン史学の中では、どういう評価をされているんですか?
スペインの黄金時代といえば、大航海時代をまず思い浮かべるがそれ以外に、コルドバ時代も十分黄金時代と呼べる繁栄ぶりだったわけですね。
しかし、レコンキスタというどこか否定的なニュアンスの言葉が使われたりして、どうもイスラム時代というものが、スペイン史のなかで、否定的な扱いを受けている気がするんですが。
スペインの黄金時代といえば、大航海時代をまず思い浮かべるがそれ以外に、コルドバ時代も十分黄金時代と呼べる繁栄ぶりだったわけですね。
しかし、レコンキスタというどこか否定的なニュアンスの言葉が使われたりして、どうもイスラム時代というものが、スペイン史のなかで、否定的な扱いを受けている気がするんですが。
37: 世界@名無史さん 2005/06/02(木) 00:47:27 0
長い間、スペイン・ポルトガルの研究者たちは、アル=アンダルスを軽視してきた。というより、「イスラム勢力は、イベリアにおけるキリスト教社会の発展を中断させた。イスラム勢力が来なかったら、今頃俺らフランス並に進歩してた」といった考え方が幅を利かせていた。
そういった研究者の代表が、西葡総合スレにも登場してたサンチェス=アルボルノス(C.Sanchez Albornoz)。
これに対して、「キリスト教スペインは、ムスリム社会との相互作用によって余儀なくされたものを自らの生き方に組入れ移植した時に、存在するに至った」と言い切り、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教徒の共存から近代スペインが生まれたと主張したのがアメリコ・カストロ(Americo Castro)。1950年代はこの2人の論争が熱かった。
余談だが、ムスリム嫌いのアルボルノスの姓であるAlbornozの語源は、「フードつきマント」を意味するアラビア語らしい。
そういった研究者の代表が、西葡総合スレにも登場してたサンチェス=アルボルノス(C.Sanchez Albornoz)。
これに対して、「キリスト教スペインは、ムスリム社会との相互作用によって余儀なくされたものを自らの生き方に組入れ移植した時に、存在するに至った」と言い切り、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教徒の共存から近代スペインが生まれたと主張したのがアメリコ・カストロ(Americo Castro)。1950年代はこの2人の論争が熱かった。
余談だが、ムスリム嫌いのアルボルノスの姓であるAlbornozの語源は、「フードつきマント」を意味するアラビア語らしい。
40: 世界@名無史さん 2005/06/02(木) 05:14:23 0
フランコ時代のファシズム思想が、スペインの歴史学会にネガティブな影響を与えたことは否めません。専制的な政治体制が、純粋な学問である歴史学を、結果的に人々の意見を操作するために使われてしまったのは悲しいことです。
ようするに、近現代スペインが、西ゴートのゲルマン文化の正当な継承者であるという、なんともあいまいな事実を強調したかったのですね。
また、マルクスの進化的社会論的な歴史観も、右翼思想とは対極をなすものですが、歴史を考察にあたって客観性を失わせていたのも事実でしょう。
フランコの死後、民主主義、地方自治体勢力の台頭により、地域研究が盛んになり、いままで余りスポットを当てられなかった分野・時代にも歴史学のメスが入るようになり、イスラム統治下の時代の歴史も積極的に評価する姿勢が高まってきました。さらに、技術の進展、メソッドの熟成により、中世考古学も急速に発達し、地質学、植物学、化学分析など、学際的な研究がなされるようになったことにより、もとより残存している文献資料が格段に少なく、従来の歴史文献学では限界のあったアル・アンダルス史にも、多大な知識をもたらすようになっています。
とはいえ、従来の歴史学メソッドに固執する研究者層も、スペイン歴史学界には今でも珍しくなく、これらの革新的な方法を懐疑的に見ている人も、中にはいるようです。
考古学を積極的に取り入れようとしている学者層でも、文献資料もおろそかにしてはいけない、寧ろ双方は互いに補完しあうものだ、と自己批判しています。
スペインの中世考古学は、都市や歴史的モニュメントの発掘よりも、中世社会の事実上の推進力であった農村部に眼が向けられ、航空写真分析なども含む広域的な発掘調査にこそ、活気があるように感じられます。
ようするに、近現代スペインが、西ゴートのゲルマン文化の正当な継承者であるという、なんともあいまいな事実を強調したかったのですね。
また、マルクスの進化的社会論的な歴史観も、右翼思想とは対極をなすものですが、歴史を考察にあたって客観性を失わせていたのも事実でしょう。
フランコの死後、民主主義、地方自治体勢力の台頭により、地域研究が盛んになり、いままで余りスポットを当てられなかった分野・時代にも歴史学のメスが入るようになり、イスラム統治下の時代の歴史も積極的に評価する姿勢が高まってきました。さらに、技術の進展、メソッドの熟成により、中世考古学も急速に発達し、地質学、植物学、化学分析など、学際的な研究がなされるようになったことにより、もとより残存している文献資料が格段に少なく、従来の歴史文献学では限界のあったアル・アンダルス史にも、多大な知識をもたらすようになっています。
とはいえ、従来の歴史学メソッドに固執する研究者層も、スペイン歴史学界には今でも珍しくなく、これらの革新的な方法を懐疑的に見ている人も、中にはいるようです。
考古学を積極的に取り入れようとしている学者層でも、文献資料もおろそかにしてはいけない、寧ろ双方は互いに補完しあうものだ、と自己批判しています。
スペインの中世考古学は、都市や歴史的モニュメントの発掘よりも、中世社会の事実上の推進力であった農村部に眼が向けられ、航空写真分析なども含む広域的な発掘調査にこそ、活気があるように感じられます。
51: 世界@名無史さん 2005/06/04(土) 00:09:45 0
ドン・ペラーヨがイスラム軍をコバドンガで制圧したのがレコンキスタの始まり、なぁーんてのは後から勝手に理由付けたもの。その時分は対イスラムとか、宗教的な聖戦とかの思想はなかっただろうね。
75: 35ですが 2005/06/13(月) 21:12:36 0
しつもーぉん!
これはおそらく結論が出ていない質問なのでしょうが、アル・アンダルスの繁栄の原因について、どのような説が唱えられているんでしょうか。
こういう歴史上の繁栄地域は、たいてい交通の要衝であったりパワフルな土地生産力を、後背地に持っていたりしますよね。
しかし、アル・アンダルスはイスラム世界からも、ヨーロッパ世界からも辺境地域であることは否めないし、この地域が強力な土地生産力を持っていたようでもない。
かといって、それに替わる鉱山などがあったとも聞かない。
アル・アンダルスの繁栄要因については、どのような説が出されているんでしょうか?
これはおそらく結論が出ていない質問なのでしょうが、アル・アンダルスの繁栄の原因について、どのような説が唱えられているんでしょうか。
こういう歴史上の繁栄地域は、たいてい交通の要衝であったりパワフルな土地生産力を、後背地に持っていたりしますよね。
しかし、アル・アンダルスはイスラム世界からも、ヨーロッパ世界からも辺境地域であることは否めないし、この地域が強力な土地生産力を持っていたようでもない。
かといって、それに替わる鉱山などがあったとも聞かない。
アル・アンダルスの繁栄要因については、どのような説が出されているんでしょうか?
86: 世界@名無史さん 2005/06/14(火) 23:47:47 0
>>75
1
ダール・アル・イスラームの辺境だから繁栄しないってことはない。
辺境だから栄えるってこともある。トランスオクシアナを想起せよ。
奴隷貿易(from北西ヨーロッパ)と金貿易(fromサハラ以南)の取引により、資産がアンダルスに蓄積した。
2
アンダルス南部(ローマ属州バエティカ)はローマ皇帝を何人も輩出してるのみならず、西ゴート時代にも聖イシドルスなどを生み出してる。
冶金技術など、イスラーム時代に受け継がれた技術も多い。もともとアンダルスは先進地だった。
3
後ウマイヤ朝の成立により、アッバース朝で迫害された人々の亡命先となり、ダマスカスやバグダードの先進文化が導入された。
ex.オシャレ泥棒ジルヤーブ
1
ダール・アル・イスラームの辺境だから繁栄しないってことはない。
辺境だから栄えるってこともある。トランスオクシアナを想起せよ。
奴隷貿易(from北西ヨーロッパ)と金貿易(fromサハラ以南)の取引により、資産がアンダルスに蓄積した。
2
アンダルス南部(ローマ属州バエティカ)はローマ皇帝を何人も輩出してるのみならず、西ゴート時代にも聖イシドルスなどを生み出してる。
冶金技術など、イスラーム時代に受け継がれた技術も多い。もともとアンダルスは先進地だった。
3
後ウマイヤ朝の成立により、アッバース朝で迫害された人々の亡命先となり、ダマスカスやバグダードの先進文化が導入された。
ex.オシャレ泥棒ジルヤーブ
87: 35ですが 2005/06/15(水) 00:21:28 0
>>86
トランスオクシアナってなんでつか?
ほほー。アル・アンダルスはもともと先進地域だったと。
西ゴートは、すぐ消えた(実際は百五十年も続いたが)イメージがあるので、後進的な感じもありますが、なるほど、繁栄の基盤はあったということですね。
トランスオクシアナってなんでつか?
ほほー。アル・アンダルスはもともと先進地域だったと。
西ゴートは、すぐ消えた(実際は百五十年も続いたが)イメージがあるので、後進的な感じもありますが、なるほど、繁栄の基盤はあったということですね。
89: 世界@名無史さん 2005/06/15(水) 01:26:49 0
>>87
トランスオクシアナはギリシア語での呼び名。古代のソグド人の地域。
イスラム時代でいうところの「マーワラーアンナフル」。
アムダリヤ河からシルダリヤ河の間の地域で、今のウズベキスタンからキルギスタンの西側の地域。
トランスオクシアナはギリシア語での呼び名。古代のソグド人の地域。
イスラム時代でいうところの「マーワラーアンナフル」。
アムダリヤ河からシルダリヤ河の間の地域で、今のウズベキスタンからキルギスタンの西側の地域。
97: 世界@名無史さん 2005/06/19(日) 02:11:46 0
>>87
西ゴートって150年ですか?
はじめてイベリアに入った時から数えると300年くらい、本格的にスペインの領有に入ってから250年くらい続いてるけど。
西ゴートって150年ですか?
はじめてイベリアに入った時から数えると300年くらい、本格的にスペインの領有に入ってから250年くらい続いてるけど。
76: 世界@名無史さん 2005/06/14(火) 16:34:10 0
集約的農法による余剰生産物、ビザンチン帝国など東方からの華奢品の交易など、交通の要所であったことなど。北方のキリスト教国とも常に戦争していたわけではなく、比較的平和な時期には盛んに交易が行われていた。あと、アル・アンダルスの経済にはスーダンで産出される黄金も重要な役割を果たしていた。
レコンキスタ時代の「国境」に関しては、そのテーマのみで学会とかも開催されるくらいだから、結構研究されているよ。
レコンキスタ時代の「国境」に関しては、そのテーマのみで学会とかも開催されるくらいだから、結構研究されているよ。
82: 世界@名無史さん 2005/06/14(火) 21:55:16 0
ベルベル人はアル=アンダルスで林業もおこなっていたらしい。
83: 世界@名無史さん 2005/06/14(火) 22:02:17 0
《サハラ交易の形態》
サハラの北からは岩塩、馬、装飾品(宝貝・セウタの珊瑚など)、スペインのアルメリア産の大理石、アル=アンダルスやマグリブで織られた衣類・布地、ヘンナの種、乾果、パンの原料となる穀物、釉薬をかけた陶磁器などが運ばれた。
一方、サハラの南からは金、黒人奴隷、黒檀、ゴム、皮革、象牙、インディゴ、木材などが運ばれた。
サハラの北からは岩塩、馬、装飾品(宝貝・セウタの珊瑚など)、スペインのアルメリア産の大理石、アル=アンダルスやマグリブで織られた衣類・布地、ヘンナの種、乾果、パンの原料となる穀物、釉薬をかけた陶磁器などが運ばれた。
一方、サハラの南からは金、黒人奴隷、黒檀、ゴム、皮革、象牙、インディゴ、木材などが運ばれた。
84: 世界@名無史さん 2005/06/14(火) 22:27:56 0
アル・アンダルスへのムスリムによる再入植は、その土地に移り住むグループの出身ごとに固まっており、そのグループがアンダルスへ移住する前に住んでいた土地・気候形態に似通った所へ好んで入植する傾向があり、以前と同様な生活様式を続けることに努めた。
たとえばシリアなどから来たアラビア人たちは好んで平野部・都市部に移り住み、アトラス山脈で林業・放牧などを行っていた
ベルベル人は同じくイベリア半島の山間部に移り住んだ。
もちろん、例外はあるが。たとえばレバンテ地方の平野部に多く残るBeniで始まる地名(Benicassim, Benidorm, Benicarlo, etc.)は、ベルベル起源の地名ではないかと考えられている。
たとえばシリアなどから来たアラビア人たちは好んで平野部・都市部に移り住み、アトラス山脈で林業・放牧などを行っていた
ベルベル人は同じくイベリア半島の山間部に移り住んだ。
もちろん、例外はあるが。たとえばレバンテ地方の平野部に多く残るBeniで始まる地名(Benicassim, Benidorm, Benicarlo, etc.)は、ベルベル起源の地名ではないかと考えられている。
90: 世界@名無史さん 2005/06/15(水) 23:55:00 0
アル=アンダルスにはなんであんなにお家騒動が多かったんだろう。
コルドバ王国では1008年から23年間の間に10人の王が13回即位し、グラナダ王国では1391年から101年間の間に13人の王が21回即位。
コルドバ王国では1008年から23年間の間に10人の王が13回即位し、グラナダ王国では1391年から101年間の間に13人の王が21回即位。
92: 世界@名無史さん 2005/06/16(木) 20:26:20 0
>>90
後ウマイヤ朝末期の混乱に関していえば、部族紛争とはあまり関係ないよ。
1008年以降の混乱は、
侍従(ハージブ)兼各大臣職として専横を極めたアーミル家+彼らが呼んだ新来のベルベル人傭兵+スラブ人官僚・傭兵(サカーリバ)
vs
「アンダルス人」(アラブ系+征服初期から土着したベルベル人+ムワッラド)
の闘争が原因。双方が勝手にウマイヤ家の一門の中からカリフを立てたり、ベルベルの名族ハンムード家(モロッコのイドリース朝の王家の子孫)の人間をカリフに擁立したりした結果、>>90みたいなことになった。
後ウマイヤ朝も末期になると、「新入り(アーミル家に呼ばれたアフリカ人・スラブ人連中)ウザい」意識のおかげか、アラブ部族の対立はほとんど見られなくなっているようだよ。
8世紀に土着した古参のベルベル人やムワッラドも、その頃になると「自分はアラブの名族の血筋です」てな捏造家系伝説を持ってるのが普通だった。
「俺らアラブ起源のアンダルス人。ナカーマ。新入りは死ねよ」なわけだ。
後ウマイヤ朝末期の混乱に関していえば、部族紛争とはあまり関係ないよ。
1008年以降の混乱は、
侍従(ハージブ)兼各大臣職として専横を極めたアーミル家+彼らが呼んだ新来のベルベル人傭兵+スラブ人官僚・傭兵(サカーリバ)
vs
「アンダルス人」(アラブ系+征服初期から土着したベルベル人+ムワッラド)
の闘争が原因。双方が勝手にウマイヤ家の一門の中からカリフを立てたり、ベルベルの名族ハンムード家(モロッコのイドリース朝の王家の子孫)の人間をカリフに擁立したりした結果、>>90みたいなことになった。
後ウマイヤ朝も末期になると、「新入り(アーミル家に呼ばれたアフリカ人・スラブ人連中)ウザい」意識のおかげか、アラブ部族の対立はほとんど見られなくなっているようだよ。
8世紀に土着した古参のベルベル人やムワッラドも、その頃になると「自分はアラブの名族の血筋です」てな捏造家系伝説を持ってるのが普通だった。
「俺らアラブ起源のアンダルス人。ナカーマ。新入りは死ねよ」なわけだ。
93: 世界@名無史さん 2005/06/16(木) 20:41:46 0
イスラーム世界では長子相続制が確立していなかったこともその原因?
254: 世界@名無史さん 2005/06/27(月) 01:39:45 0
アンダルスのムスリムの音楽は、移民の定着先であるマグリブやシャームなどにもたらされ、保存されてきたようです。
ttp://www.kohshinmedia.com/pneuma/catalogue.html
ttp://www.kohshinmedia.com/pneuma/catalogue.html
255: 世界@名無史さん 2005/06/27(月) 12:39:00 0
>>254
ムラービト朝時代には、アル・アンダルスの文化が北アフリカに輸出されたようですね。
アルジェの大モスクには馬蹄型アーチが使用されているし、コルドバの木製工芸品、アルメリアの絹織物も輸出されていたらしい。
ムラービト朝時代には、アル・アンダルスの文化が北アフリカに輸出されたようですね。
アルジェの大モスクには馬蹄型アーチが使用されているし、コルドバの木製工芸品、アルメリアの絹織物も輸出されていたらしい。
263: 世界@名無史さん 2005/07/20(水) 20:32:59 0
アルハンブラ宮殿の壁や柱には、「アッラーの他に勝利者なし」と刻み込まれている。
グラナダ王国は、1238年にカスティーリャの朝貢国になったあと、不本意ながらおなじムスリム諸侯国の攻撃に手を貸し続けた。
例えば1248年にキリスト教徒軍がセビーリャを攻撃した際も、グラナダ王ムハンマド1世は自らの軍を同盟国として出動させている。
キリスト教徒に与して同胞を裏切った国王は、「勝利者!」と歓呼する民衆に対して、アルハンブラの壁に繰り返し「アッラーの他に勝利者なし」と書いて答えた。
そのグラナダも、1492年に国王アブー・アブドゥッラー(ボアブディル)がカトリック両王にアルハンブラの鍵を渡して開城し、滅亡することになる。
グラナダ王国は、1238年にカスティーリャの朝貢国になったあと、不本意ながらおなじムスリム諸侯国の攻撃に手を貸し続けた。
例えば1248年にキリスト教徒軍がセビーリャを攻撃した際も、グラナダ王ムハンマド1世は自らの軍を同盟国として出動させている。
キリスト教徒に与して同胞を裏切った国王は、「勝利者!」と歓呼する民衆に対して、アルハンブラの壁に繰り返し「アッラーの他に勝利者なし」と書いて答えた。
そのグラナダも、1492年に国王アブー・アブドゥッラー(ボアブディル)がカトリック両王にアルハンブラの鍵を渡して開城し、滅亡することになる。
264: 世界@名無史さん 2005/07/21(木) 19:35:03 0
グラナダではいまでも当時の開城を記念して、毎年1月2日にお祭りをしてるね。
「男として守りきれなかったものに、女のように泣きなさい」...って、ボアブディルの母ちゃん、きっつぅ~。
「男として守りきれなかったものに、女のように泣きなさい」...って、ボアブディルの母ちゃん、きっつぅ~。
267: 世界@名無史さん 2005/07/22(金) 23:32:31 0
原文(っつてもスペイン語だけど)はこれね
つLLora como mujer, por lo que no supiste defender como hombre.
つLLora como mujer, por lo que no supiste defender como hombre.
259: 世界@名無史さん 2005/07/14(木) 17:59:46 0
バレアレス諸島は後ウマイヤ朝の版図内?
260: 世界@名無史さん 2005/07/16(土) 12:31:01 0
>>259
そうでつ。
アル・アンダルスの軍勢は、クレタ島にも攻め込んでいる。
844年には北アフリカのムスリムから学んで「ギリシアの火」も使用するようになる。
そうでつ。
アル・アンダルスの軍勢は、クレタ島にも攻め込んでいる。
844年には北アフリカのムスリムから学んで「ギリシアの火」も使用するようになる。
265: 世界@名無史さん 2005/07/21(木) 23:37:50 0
イタリアのマヨリカ陶器は、イベリア半島からマヨリカ(マホルカ)島を経由して伝わったのでこの名で呼ばれるようになった。
それ以前のヨーロッパでは、陶土をかたく焼きしめた緑釉、褐色釉のかかったかなり地味な陶器しか知られていなかった。
それ以前のヨーロッパでは、陶土をかたく焼きしめた緑釉、褐色釉のかかったかなり地味な陶器しか知られていなかった。
269: 世界@名無史さん 2005/07/30(土) 09:46:45 0
マヨルカをはじめとするバレアレス諸島は、後ウマイヤ朝崩壊後すぐにサカーリバ勢力が割拠して以来、1115年までムラービト朝の支配を免れていた。ムラービト朝による征服後も、総督のガーニヤ家がまもなく自立し、本土でムラービト朝が滅んでも1202年まで諸島を支配した。
ムワッヒド朝の支配は27年で、1229年アラゴンのジャウマ(ハイメ)1世によるレコンキスタにあう。
イベリア半島の動乱をよそに、政治的・軍事的に比較的安定していたのと、交易に対する地理的な優位性が工芸品の販路確保を容易にしたことが、高い技術力を培ったのかもね。
ムワッヒド朝の支配は27年で、1229年アラゴンのジャウマ(ハイメ)1世によるレコンキスタにあう。
イベリア半島の動乱をよそに、政治的・軍事的に比較的安定していたのと、交易に対する地理的な優位性が工芸品の販路確保を容易にしたことが、高い技術力を培ったのかもね。
278: 世界@名無史さん 2005/08/04(木) 19:40:48 0
アル・アンダルスに限ったことではないけれど、アラブ世界の公衆浴場(ハンマーム)はヘレニズム時代の公衆浴場の構造そのままを受け継いでいる。
Frigidarium、Caldariumに続いて浴槽のある構造は、ロンダやグラナダに現存するイスラム時代の浴場にも適用されているね。
Frigidarium、Caldariumに続いて浴槽のある構造は、ロンダやグラナダに現存するイスラム時代の浴場にも適用されているね。
279: 世界@名無史さん 2005/08/04(木) 19:56:47 0
>>278
実はイスラーム文明こそローマ文明の後継者?
実はイスラーム文明こそローマ文明の後継者?
280: 世界@名無史さん 2005/08/05(金) 23:11:43 0
だってイスラームが西欧ルネッサンスの揺籃を担ったんでしょ?古代ギリシャ・ローマ文化の伝統を保持して、結果的に西欧に伝えたと。。。
281: 世界@名無史さん 2005/08/06(土) 00:23:32 0
古典ギリシア・ローマと西欧との橋渡し役は、イスラームの学者達だけではないよ。古くはシャルルマーニュの頃のイングランド人学僧たち、北イタリアなどに点在する修道院の蔵書、新しくはビザンツ滅亡後の亡命者や奴隷として売られてきた人たちなどが皆で担ったこと。
でもまあ、クレモナのゲルハルドゥスをはじめとするトレドでのアラビア語文献翻訳活動の意味が小さかったというつもりもないけどね。
でもまあ、クレモナのゲルハルドゥスをはじめとするトレドでのアラビア語文献翻訳活動の意味が小さかったというつもりもないけどね。
282: 世界@名無史さん 2005/08/06(土) 00:36:51 0
トレド翻訳学派ね。翻訳活動にはモサラベみたいな双方の言語・文化に精通した人々が活躍したみたいね。12、3世紀頃はトレドは「黒魔術の街」って呼ばれてたんでしょ。
イスラム時代、タホ河には水をくみ上げる大水車が設置されていたって。
イスラム時代、タホ河には水をくみ上げる大水車が設置されていたって。
284: 世界@名無史さん 2005/08/06(土) 01:35:42 0
イスラム支配下時代のアンダルス民謡のCD持ってるけど、イスラームと西欧音楽が混じったようなカンジでいいよ。
お勧め
お勧め
287: 世界@名無史さん 2005/08/17(水) 12:23:19 0
今更だけど、こっちのスレにコルドバの都市人口推定が載っている
*◆****世界都市****◆*
ttp://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1044984645/
A.D.800 16万人 (6位、または8位)
A.D.900 20万人 (5位、または3位タイ)
A.D.925 25万人 (3位)
A.D.1000 45万人 (1位、または3位)
まあ>>27によると、これは多めの推定ということになるけど、他との比較が面白い。
1000年頃の他の大都市は、
バグダード (12.5~120万人)
コンスタンティノープル (30~60万人)
開封 (40万人)
アンコール (20万人)
京都 (17.5万人)
カイロ (13.5~20万人)
サマルカンド (7.5~20万人)
西欧諸国最大の都市がヴェネチアの10万人かそれ以下
セヴィーリャが9~10万人、ファーティマ朝支配下のパレルモが7.5万人
*◆****世界都市****◆*
A.D.800 16万人 (6位、または8位)
A.D.900 20万人 (5位、または3位タイ)
A.D.925 25万人 (3位)
A.D.1000 45万人 (1位、または3位)
まあ>>27によると、これは多めの推定ということになるけど、他との比較が面白い。
1000年頃の他の大都市は、
バグダード (12.5~120万人)
コンスタンティノープル (30~60万人)
開封 (40万人)
アンコール (20万人)
京都 (17.5万人)
カイロ (13.5~20万人)
サマルカンド (7.5~20万人)
西欧諸国最大の都市がヴェネチアの10万人かそれ以下
セヴィーリャが9~10万人、ファーティマ朝支配下のパレルモが7.5万人
288: 世界@名無史さん 2005/08/27(土) 16:02:53 0
アンダルスでは、イクター制は定着してなかったよな。
じゃあ大土地所有制は発達したのかな?あるいはイラクのように、官僚や軍人にカティーア(小規模な分与地)やダイア(私領地)がどんどん設定されたのか?
>>12に出てくるAlmuniaが私領に当たるんだろうか?
あと、農村の暮らしはどうだったんだろう。マシュリクのように村長(シャイフ)、ダイア所持者(ターニー)、自作農(ムザーリウーン)、小作農(ファッラーフーン)みたいな構図?
じゃあ大土地所有制は発達したのかな?あるいはイラクのように、官僚や軍人にカティーア(小規模な分与地)やダイア(私領地)がどんどん設定されたのか?
>>12に出てくるAlmuniaが私領に当たるんだろうか?
あと、農村の暮らしはどうだったんだろう。マシュリクのように村長(シャイフ)、ダイア所持者(ターニー)、自作農(ムザーリウーン)、小作農(ファッラーフーン)みたいな構図?
290: 世界@名無史さん 2005/09/14(水) 00:34:19 0
イベリアは西ゴート王国時代にワインのための葡萄園が多かったがイスラム教徒の征服者たちはワインから収入を得ると非難されると思って放ったらかしにしといたとか。
で、レコンキスタまでは農民が領主もいないまま勝手にやってたと・・・
で、レコンキスタまでは農民が領主もいないまま勝手にやってたと・・・
295: 世界@名無史さん 2005/09/27(火) 18:01:18 0
>>290
マラガでは葡萄の生産はかなり大規模に行われてて、特に干ブドウは内外に名を馳せていて、遠く近東まで輸出されていた、ってきくよ。大部分は干ブドウ用だが、近隣の消費者用に果物としてのブドウ、また一部にはワイン生産用にも耕作されてたらしいね。
ワインは建前としてはキリスト教諸国への輸出用とはいうものの、もちろんアル・アンダルスでも消費されてたって。
マラガでは葡萄の生産はかなり大規模に行われてて、特に干ブドウは内外に名を馳せていて、遠く近東まで輸出されていた、ってきくよ。大部分は干ブドウ用だが、近隣の消費者用に果物としてのブドウ、また一部にはワイン生産用にも耕作されてたらしいね。
ワインは建前としてはキリスト教諸国への輸出用とはいうものの、もちろんアル・アンダルスでも消費されてたって。
297: 世界@名無史さん 2005/09/28(水) 22:07:55 0
「ムハンマドが禁止したのはワインだけ」と無茶な解釈をする人もいる。
304: 世界@名無史さん 2005/10/21(金) 12:20:59 0
>>297
キリスト教徒との差別化を図るためワイン禁止。
砂漠気候のところでアルコール飲むと脱水症状がより悪化し死んでしまうからというのが現実問題。
豚は寄生虫があるので、生焼けー昔は燃料そうそう使えなかったーのを食べれない。
キリスト教徒との差別化を図るためワイン禁止。
砂漠気候のところでアルコール飲むと脱水症状がより悪化し死んでしまうからというのが現実問題。
豚は寄生虫があるので、生焼けー昔は燃料そうそう使えなかったーのを食べれない。
306: 世界@名無史さん 2005/10/27(木) 15:28:23 0
>>304
あと酒販売してるユダヤを儲けさせないために説もあるよね。
じつは初めは「控えめに」だったのが最後は禁止になる
あと酒販売してるユダヤを儲けさせないために説もあるよね。
じつは初めは「控えめに」だったのが最後は禁止になる
298: 世界@名無史さん 2005/09/28(水) 22:34:26 0
イブン・ハズムも酒宴の席を詩ってるよね。