
1: ハトドメ キヨシ 2008/06/05(木) 23:26:52 0
さぁ、ここであなたの心を『振るわせ』『熱くさせ』そして『切なく』させた人物を挙げ、その想いを語ってみませんか?
2: 世界@名無史さん 2008/06/05(木) 23:27:45 0
私的には色々思い浮かびます
日本史なら 源義経 斉藤道三 真田幸村 平賀源内 坂本龍馬 野口英世でしょうか
世界史なら ロアール・アムンゼン フローレンス・ナイチンゲール ガリレオ・ガリレイ フランシス・ドレーク
等、色々います
その中でもナポレオン・ボナパルトでしょうか
彼の活躍時期と没落振りと無念さが特にそれを引き立たせます
日本史なら 源義経 斉藤道三 真田幸村 平賀源内 坂本龍馬 野口英世でしょうか
世界史なら ロアール・アムンゼン フローレンス・ナイチンゲール ガリレオ・ガリレイ フランシス・ドレーク
等、色々います
その中でもナポレオン・ボナパルトでしょうか
彼の活躍時期と没落振りと無念さが特にそれを引き立たせます
6: ウーゴ ◆eaYqa3SeLE 2008/06/05(木) 23:52:10 0
・シモン・ボリーバル
全イスパノアメリカの統一、アメリカの連合を目標にスペイン軍と戦い、15年余りの歳月をかけて南アメリカからスペインの勢力を一掃するが、その思想のほとんどの部分が誰にも理解されず、気まぐれな大衆、かつての部下、外国勢力の干渉、地域主義、階級対立、人種対立、宗教対立等々により1830年にグラン・コロンビアは崩壊し、解放した地域は五つの共和国に分裂した。
絶望したボリーバルはヨーロッパに亡命しようとしたが、病状が悪化したため、ヌエバ・グラナダ内に留まり失意の内にサンタマルタで死去。
臨終の言葉は「ここの人たちは私に冷たい・・・行こう・・・もっと遠くへ・・・もっと・・・」だったという。
解放戦争のために家財を処分して得た400万ペソの支出により、南北アメリカ大陸有数の大富豪だったボリーバル家は没落し、代わりにかつてボリーバルの部下だったパエス、サンタンデル、ラ・マルといった将軍達は新たに成立した共和国で、スペイン人や民衆から新たに奪った富により各国の寡頭支配層を形成し、現在に至っている。
死後も多くの人々からは、特にカール・マルクスの著書によって酷くけなされたことにより、世界の左翼知識人からもマルクスのバイアスを通した冷たい目で見られることになった。
・ホセ・デ・サン・マルティン
リオ・デ・ラ・ラプラタ連合州の独立後、最高執政官プエイレドンに任命されてアンデス軍の司令官としてチリを解放した後、ブエノスアイレスの裏切りにあって司令官旗を手放すことになった。
その後チリの客分としてペルーを解放するも、解放したペルーでは内紛が多発。
丁度南下してきたボリーバルの部下にしてくれとの要請も、リマの寡頭支配層とのペルー共和国政府との関係から断られ、ペルー護国卿を辞してリオ・デ・ラ・プラタに帰国した直後に妻が病死し、引退してメンドーサで絵描きになろうとする夢も叶わずに、内戦を避けてヨーロッパに渡り、一度帰国するも罵倒されて再びヨーロッパに戻り、失意の内に死去。
全イスパノアメリカの統一、アメリカの連合を目標にスペイン軍と戦い、15年余りの歳月をかけて南アメリカからスペインの勢力を一掃するが、その思想のほとんどの部分が誰にも理解されず、気まぐれな大衆、かつての部下、外国勢力の干渉、地域主義、階級対立、人種対立、宗教対立等々により1830年にグラン・コロンビアは崩壊し、解放した地域は五つの共和国に分裂した。
絶望したボリーバルはヨーロッパに亡命しようとしたが、病状が悪化したため、ヌエバ・グラナダ内に留まり失意の内にサンタマルタで死去。
臨終の言葉は「ここの人たちは私に冷たい・・・行こう・・・もっと遠くへ・・・もっと・・・」だったという。
解放戦争のために家財を処分して得た400万ペソの支出により、南北アメリカ大陸有数の大富豪だったボリーバル家は没落し、代わりにかつてボリーバルの部下だったパエス、サンタンデル、ラ・マルといった将軍達は新たに成立した共和国で、スペイン人や民衆から新たに奪った富により各国の寡頭支配層を形成し、現在に至っている。
死後も多くの人々からは、特にカール・マルクスの著書によって酷くけなされたことにより、世界の左翼知識人からもマルクスのバイアスを通した冷たい目で見られることになった。
・ホセ・デ・サン・マルティン
リオ・デ・ラ・ラプラタ連合州の独立後、最高執政官プエイレドンに任命されてアンデス軍の司令官としてチリを解放した後、ブエノスアイレスの裏切りにあって司令官旗を手放すことになった。
その後チリの客分としてペルーを解放するも、解放したペルーでは内紛が多発。
丁度南下してきたボリーバルの部下にしてくれとの要請も、リマの寡頭支配層とのペルー共和国政府との関係から断られ、ペルー護国卿を辞してリオ・デ・ラ・プラタに帰国した直後に妻が病死し、引退してメンドーサで絵描きになろうとする夢も叶わずに、内戦を避けてヨーロッパに渡り、一度帰国するも罵倒されて再びヨーロッパに戻り、失意の内に死去。
7: ハトドメ キヨシ 2008/06/06(金) 00:57:49 0
>>6
シモン・ボリーバル
結構渋い人ですね
妻の急死と再婚をしない誓いって漢ですね
また、資材を投げうって気が付けば無一文で死去・・・ってのも切ないですね
ホセ・デ・サン・マルティン
根っからの軍人気質ですね
2人のとって、ナポレオンの影響も絡んでいる所もポイントですね
シモン・ボリーバル
結構渋い人ですね
妻の急死と再婚をしない誓いって漢ですね
また、資材を投げうって気が付けば無一文で死去・・・ってのも切ないですね
ホセ・デ・サン・マルティン
根っからの軍人気質ですね
2人のとって、ナポレオンの影響も絡んでいる所もポイントですね
11: 世界@名無史さん 2008/06/06(金) 03:42:46 0
>>6
ラテンアメリカ史だとウォーカー戦争元凶のこいつが悲劇の人というか面白杉
ウィリアム・ウォーカー
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・ウォーカー
>ウィリアム・ウォーカー(William Walker,1824年5月8日 - 1860年9月12日)は、アメリカ人の傭兵、冒険家。ニカラグア大統領(在任期間1856年)
ラテンアメリカ史だとウォーカー戦争元凶のこいつが悲劇の人というか面白杉
ウィリアム・ウォーカー
http://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・ウォーカー
>ウィリアム・ウォーカー(William Walker,1824年5月8日 - 1860年9月12日)は、アメリカ人の傭兵、冒険家。ニカラグア大統領(在任期間1856年)

1854年12月、ウォーカーはニカラグアの自由党から中米連邦崩壊以前から断続的に続いていた保守党派との内戦を終結させるための援軍を求められ、翌1855年6月に57人の部下を従えてニカラグアに上陸した。ウォーカー軍は快進撃し、10月にはグラナダを占領して自由党の政治家パトリシオ・リバスを大統領に据える。ウォーカー自身は軍の最高司令官になり、実権を掌握した。しかし、当時ニカラグアはパナマと並んで中米地峡における運河建設の候補地であり、これを巡ってウォーカーはリバスと対立するようになる。
1856年、ウォーカーは自ら大統領選挙に出馬して当選すると、すぐに生まれ故郷であるアメリカ南部の制度にならって黒人奴隷制を復活させた。さらにアメリカ人が土地を所得しやすくなる法律を公布し、英語を公用語にして、ニカラグアをアメリカ南部を中心にした環カリブ海帝国を建設するための拠点にしようとした。こうした動きに不安を感じた近隣の中米諸国は軍隊を集結させ(国民戦争、イギリスやヴァンダービルト財閥もウォーカーに敵対する構えを見せた。またこうした政策に反発したニカラグア国内の反ウォーカー勢力も結集した結果彼は追放されるが、その際にグラナダに放火するという蛮行に走っている。
ウォーカーはリバスの戦いの後、1857年にコスタリカ軍を中心とした中米連合軍に降伏し、アメリカ海軍に護衛されて帰国した。アメリカ本国では英雄として扱われるが、それでも”自らの国を持つ”夢をあきらめられず1860年に今度はホンジュラスのトルヒーヨに上陸したが現地の協力を得ることができず、隣接する英領ホンジュラス(現ベリーズ)のイギリス海軍に捕らえられた。
アメリカでは南北戦争の直前だったこともあって米国民から注目もされないままホンジュラス軍に引き渡され、9月12日に処刑された。36歳没。
15: 世界@名無史さん 2008/06/24(火) 18:21:02 0
>>11
アレックス・コックスの手にかかるとコメディ映画の主人公になってたな。
アレックス・コックスの手にかかるとコメディ映画の主人公になってたな。
16: ウーゴ ◆eaYqa3SeLE 2008/06/25(水) 09:43:53 O
あのエド・ハリスの役作りは凄い。あのストラマー氏の音楽も良いし、何気に途中ちょっと出てくるのにも感動
8: 山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ 2008/06/06(金) 01:34:36 0
・車胤
晋の人。貧しい中で蛍を袋に入れて勉強したという故事で知られる。
後に念願かなって出世したが、勉学以外に世俗の交際にも長けており、彼がいなければ酒宴も盛り上がらぬと言われた。
最後は政治的に失敗し、自殺を強要されている。
・潘岳
晋の人。幼い頃から秀才として知られ、また美男子でもあった。
才能を活かし、とんとん拍子に出世する。
しかし、性格に軽薄で落ち着きがなく、世俗の利に親しむところがあったので、母からはしばしば「知足を心得、眼前の利益よりも後のことを考えなさい」と言われていた。
後に彼の父の部下で、彼がその卑劣な性格を嫌ってしばしば鞭打っていた孫秀が大臣となる。
「やはり私の昔したことを憶えておいででしょうか。」
こう尋ねたところ、孫秀は『詩経』の一節を引いて「中心これを蔵す、何れの日にかこれを忘れん」と歌ったので、彼も覚悟を決めた。
その後、孫秀の誣告により、彼は一族や友人たちと共に捕えられた。
刑場に引かれていく時、彼は言った。
「母君に背いてしまいました。」
その場を逃れた彼の兄の子と、抱き合って泣いている間に恩赦を受けることの出来た弟の妻と娘を除き、彼の一族は母から子に至るまで殺された。
・沈約
梁の人。祖父は宋で将軍を、父は太守を務めていたが、父は約が幼い頃に誅殺されてしまい、それが為に妻子は逃げ隠れすることとなった。
後に家族は赦免されたが、流浪の中で貧しい生活を続けていた。
沈約は貧しい中で勉学に励んでいたが、夜になると「体をこわしはしないか」と心配した母が明かりを消したので、昼間に暗記し、夜に暗誦した。
文名高く、最後は宰相にまでなったが、やはり文人として卓越した才能を持っていた梁の武帝に妬まれることが多く、彼自身の行動も誤解を招くことがあったため、最後は使者に譴責され、心労で亡くなった。
晋の人。貧しい中で蛍を袋に入れて勉強したという故事で知られる。
後に念願かなって出世したが、勉学以外に世俗の交際にも長けており、彼がいなければ酒宴も盛り上がらぬと言われた。
最後は政治的に失敗し、自殺を強要されている。
・潘岳
晋の人。幼い頃から秀才として知られ、また美男子でもあった。
才能を活かし、とんとん拍子に出世する。
しかし、性格に軽薄で落ち着きがなく、世俗の利に親しむところがあったので、母からはしばしば「知足を心得、眼前の利益よりも後のことを考えなさい」と言われていた。
後に彼の父の部下で、彼がその卑劣な性格を嫌ってしばしば鞭打っていた孫秀が大臣となる。
「やはり私の昔したことを憶えておいででしょうか。」
こう尋ねたところ、孫秀は『詩経』の一節を引いて「中心これを蔵す、何れの日にかこれを忘れん」と歌ったので、彼も覚悟を決めた。
その後、孫秀の誣告により、彼は一族や友人たちと共に捕えられた。
刑場に引かれていく時、彼は言った。
「母君に背いてしまいました。」
その場を逃れた彼の兄の子と、抱き合って泣いている間に恩赦を受けることの出来た弟の妻と娘を除き、彼の一族は母から子に至るまで殺された。
・沈約
梁の人。祖父は宋で将軍を、父は太守を務めていたが、父は約が幼い頃に誅殺されてしまい、それが為に妻子は逃げ隠れすることとなった。
後に家族は赦免されたが、流浪の中で貧しい生活を続けていた。
沈約は貧しい中で勉学に励んでいたが、夜になると「体をこわしはしないか」と心配した母が明かりを消したので、昼間に暗記し、夜に暗誦した。
文名高く、最後は宰相にまでなったが、やはり文人として卓越した才能を持っていた梁の武帝に妬まれることが多く、彼自身の行動も誤解を招くことがあったため、最後は使者に譴責され、心労で亡くなった。
9: 山野野衾 ◆jBrGNc9rBQ 2008/06/06(金) 01:52:30 0
・伊賀光季
伊賀家は藤原氏(の中で文道を家職とした中級の家柄)の後裔であり、大江や三善、同じ文人系藤原氏の二階堂などと共に鎌倉幕府に「文士」として仕え、儀礼や折衝などに携わっていた。
承久の乱の時、彼は大江広元の息子の親広と共に京都につめていたが、親広とは異なり、後鳥羽院の召喚に応じることなく、院が倒幕の意志を鮮明にした後も、下ることがなかった。
周囲は東国へ落ち延びることを勧めたが、彼は「それでは鎌倉が私にこのお役目を任せてくれたのに、期待を裏切ることになる。持ち場は離れられない。」と言い、逃げるものは逃げるに任せ、重代の従者と父に「お前は逃れよ」と言われたが逃れなかった10代の息子と共に館に立て籠もった。
やがて、院の大軍が館を包囲し、数十名の伊賀方を攻撃して来る。 衆寡敵せず門が打ち破られそうになると光季は言った。
「破らせてやるは業腹じゃ。開けてやれい。」
どっと侵入して来る敵の前で、従者たちは次々と斃れて行く。
光季も矢を放っていたが覚悟を決め、息子に早く腹を切るようにうながすが、なかなか切れずにいたので、目をつぶって息子を刺し殺すと、館に放った火の中に遺骸を放り込み、自らも腹をかき切ると、炎の中に身を躍らせて死んだ。
伊賀家は藤原氏(の中で文道を家職とした中級の家柄)の後裔であり、大江や三善、同じ文人系藤原氏の二階堂などと共に鎌倉幕府に「文士」として仕え、儀礼や折衝などに携わっていた。
承久の乱の時、彼は大江広元の息子の親広と共に京都につめていたが、親広とは異なり、後鳥羽院の召喚に応じることなく、院が倒幕の意志を鮮明にした後も、下ることがなかった。
周囲は東国へ落ち延びることを勧めたが、彼は「それでは鎌倉が私にこのお役目を任せてくれたのに、期待を裏切ることになる。持ち場は離れられない。」と言い、逃げるものは逃げるに任せ、重代の従者と父に「お前は逃れよ」と言われたが逃れなかった10代の息子と共に館に立て籠もった。
やがて、院の大軍が館を包囲し、数十名の伊賀方を攻撃して来る。 衆寡敵せず門が打ち破られそうになると光季は言った。
「破らせてやるは業腹じゃ。開けてやれい。」
どっと侵入して来る敵の前で、従者たちは次々と斃れて行く。
光季も矢を放っていたが覚悟を決め、息子に早く腹を切るようにうながすが、なかなか切れずにいたので、目をつぶって息子を刺し殺すと、館に放った火の中に遺骸を放り込み、自らも腹をかき切ると、炎の中に身を躍らせて死んだ。
14: 世界@名無史さん 2008/06/24(火) 17:47:09 0
真田幸村、毛利勝永
この二人はまさにラストサムライ
この二人はまさにラストサムライ
31: 世界@名無史さん 2009/07/05(日) 21:07:29 0
真田は素浪人じゃなく、自ら志願して大阪行ってるし悲劇ではない
32: 世界@名無史さん 2009/07/07(火) 18:17:13 0
むしろ秀頼のほうが悲劇だと思う
17: ウーゴ ◆eaYqa3SeLE 2008/07/12(土) 13:35:32 0
ホーエンシュタウフェン朝のマンフレーディ

マンフレーディ(Manfredi, 1232年 - 1266年2月26日)は、ホーエンシュタウフェン朝のシチリア王(在位:1258年 - 1266年)。
1254年に異母兄コッラードが死亡した際、後を継いだ甥のコッラディーノはまだ幼く(2歳)、ドイツに住居していたため、シチリア摂政としてシチリア王領を実質支配した。1258年にコッラディーノが死んだという誤報を受け、シチリア王位を継いだ。間もなく誤報であることが判明したが王位を譲らず、その後北イタリア支配をめぐってローマ教皇と対立した。
1266年、ローマ教皇クレメンス4世の要請でフランス王ルイ9世の弟シャルル・ダンジューがイタリアに侵攻し、マンフレーディはベネヴェントの戦いで戦死した。
18: 世界@名無史さん 2008/08/10(日) 02:57:36 0
30年戦争のワレンシュタイン
活躍するも皇帝に疑われて最後は暗殺されたから。
活躍するも皇帝に疑われて最後は暗殺されたから。
20: 世界@名無史さん 2009/01/18(日) 12:22:25 O
トロツキー
23: 世界@名無史さん 2009/03/08(日) 22:57:31 0
カール12世

カール12世(1682年6月17日(グレゴリオ暦6月27日) - 1718年11月30日(グレゴリオ暦12月11日))は、プファルツ王朝のスウェーデン国王(在位:1697年 - 1718年)。バルト帝国に君臨し、ロシアのツァーリ・ピョートル1世の好敵手として知られる。
1718年11月30日、ノルウェー攻略の要となるフレデリクスハルド要塞を攻囲中、カール12世は流れ弾に当たって落命した。
24: 世界@名無史さん 2009/03/09(月) 01:14:59 O
クレオパトラ七世
他国の男の子供を孕んでまで国の維持に勤めた
他国の男の子供を孕んでまで国の維持に勤めた
25: 世界@名無史さん 2009/04/10(金) 22:06:46 0
フランツ・ヨーゼフ
長生きしたゆえにあらゆる不幸を経験することになった。
唯一、帝国の滅亡にだけ立ち会わなかったが。
長生きしたゆえにあらゆる不幸を経験することになった。
唯一、帝国の滅亡にだけ立ち会わなかったが。
26: 世界@名無史さん 2009/07/03(金) 23:57:53 0
エレキテルの平賀源内は悲劇
完全に環境か時代のどちらかが合ってない
当時の日本には科学を追及するというロマンや将来性の事は必要なかったからね
一番寒々しく思うのはコイルの効率化のトコで研究しないと大きな電力はだせないんだけど世間は『今すぐやってみろ』的な感覚・・・
結局小さな明かりでお芝居に使われただけで終わった事と当時有名だった杉田玄白も、その姿を哀れんでいた
完全に環境か時代のどちらかが合ってない
当時の日本には科学を追及するというロマンや将来性の事は必要なかったからね
一番寒々しく思うのはコイルの効率化のトコで研究しないと大きな電力はだせないんだけど世間は『今すぐやってみろ』的な感覚・・・
結局小さな明かりでお芝居に使われただけで終わった事と当時有名だった杉田玄白も、その姿を哀れんでいた
27: 世界@名無史さん 2009/07/05(日) 18:43:09 O
グラックス兄弟
ジャンヌ=ダルク
フス
ジャンヌ=ダルク
フス

グラックス兄弟は、古代ローマのセンプロニウス氏族グラックス家に生まれた兄弟、ティベリウス・センプロニウス・グラックスとガイウス・センプロニウス・グラックスの2人を指す。
共和政ローマ末期、戦争が続き社会的な疲弊を感じたティベリウスは、紀元前133年に護民官となりローマの改革に着手するものの、元老院の反発に遭い暗殺される。
紀元前123年には弟のガイウスが護民官に就任して改革を再開するが、兄よりも広範囲に急激な改革を目指したため抵抗が強く、紀元前121年に反対派によって自殺に追い込まれた。2人の死後、グラックス派は一掃され、矛盾と対立に満ちた「内乱の一世紀」へと向かうことになる。

ヤン・フス(1369年頃 - 1415年7月6日)は、チェコ出身の宗教思想家、宗教改革の先駆者。
ジョン・ウィクリフの考えをもとに宗教運動に着手し、ボヘミア王の支持のもとで反教権的な言説を説き、贖宥状を批判し、聖書だけを信仰の根拠とし、プロテスタント運動の先駆者となった。カトリック教会はフスを1411年に破門し、コンスタンツ公会議によって有罪とされた。その後、世俗の勢力に引き渡され、杭にかけられて火刑に処された。
33: 世界@名無史さん 2009/07/11(土) 01:15:42 0
エルウィン・ロンメルは本当に悲劇・・・
あの騎士道精神があるからこそ
しかも狂気のヒトラーに堂々と意見したのも大きい
あの騎士道精神があるからこそ
しかも狂気のヒトラーに堂々と意見したのも大きい
37: 豚松 ◆4FfyOtW0fiF5 2009/07/22(水) 05:47:59 O
ジョン・ブラウン。
そもそも決死だったし、死して南北対決を決定付けたから悲劇とはいえないかもしれんが。
勇気と行動力のある偉大な理想主義者。
そもそも決死だったし、死して南北対決を決定付けたから悲劇とはいえないかもしれんが。
勇気と行動力のある偉大な理想主義者。
39: 世界@名無史さん 2009/08/04(火) 11:18:14 O
カエサル
41: 世界@名無史さん 2009/10/13(火) 01:33:33 0
【数学】同性愛を理由に自殺に追い込まれた天才数学者アラン・チューリング、55年ぶり名誉回復
引用元: ・【世界史】あなたが思う悲劇の偉人とは?【日本史】