1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/30(金) 20:39:08 ID:NWYF5afx
伊賀・甲賀衆や周辺諸勢力について語りましょう。
2: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/06/30(金) 20:49:06 ID:M4dBxHLD
実際、暗殺とかやっていたのかな
実質傭兵団だよね。
実質傭兵団だよね。
14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/03(月) 01:03:03 ID:2cWFHE7t
甲賀、伊賀では無いと思うが、島原の乱時、細川家の忍びが忍びの実態曝け出してるけどな。
16: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/06(木) 14:23:09 ID:HPo1UOz5
甲賀忍者にはなぜ著名な忍者が輩出しなかったのか。
17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/06(木) 21:51:05 ID:bv6LxvZ2
忍びで名が売れるのも、どうかと思うけどね。
19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/07(金) 06:47:38 ID:1lDMVZbX
伊賀は三家を頂点とした、ピラミット型の支配体制。
甲賀はそれぞれの家ごとの独立体制。
だから組織的に大規模に動ける伊賀は、その指揮官として名前がどうしても出るんじゃない?
甲賀はそれぞれの家ごとの独立体制。
だから組織的に大規模に動ける伊賀は、その指揮官として名前がどうしても出るんじゃない?
32: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/22(金) 02:53:48 ID:L12ARF3w
伊賀衆は服部さん、百地さん、藤林さんの三家を頂点としてますね。
また中忍には伊賀崎道順や城戸弥左衛門など名前を残した忍びがいますよ。
また中忍には伊賀崎道順や城戸弥左衛門など名前を残した忍びがいますよ。
34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/09/22(金) 14:49:13 ID:lbWk7NI6
藤林に有名どころは?
39: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/07(日) 23:16:06 ID:UrGCrscP
>>34
藤林長門守かな
ちなみに百地三太夫の戒名が『本覚了誓』、藤林長門守の戒名が『本覚深誓』と一字違い
伊賀地方では血縁でない限り、ありえない戒名
この二人は兄弟であったか、実は同一人物であったか
藤林長門守かな
ちなみに百地三太夫の戒名が『本覚了誓』、藤林長門守の戒名が『本覚深誓』と一字違い
伊賀地方では血縁でない限り、ありえない戒名
この二人は兄弟であったか、実は同一人物であったか
伊賀の藤林氏
伊賀流の上忍三家の一つ。服部家の支流とされ、独立したといわれるが、確証はない。伊賀の北東部東湯舟郷を治めていた。
当主であった藤林長門守は服部家の服部半蔵、百地家の百地丹波と並び伊賀の三大上忍と呼ばれる。藤林家の子孫、藤林保武(保義)が伊賀甲賀四十九流といわれる忍術の諸流を集大成した忍術書「万川集海」(ばんせんしゅうかい)を記した。
伊賀流の上忍三家の一つ。服部家の支流とされ、独立したといわれるが、確証はない。伊賀の北東部東湯舟郷を治めていた。
当主であった藤林長門守は服部家の服部半蔵、百地家の百地丹波と並び伊賀の三大上忍と呼ばれる。藤林家の子孫、藤林保武(保義)が伊賀甲賀四十九流といわれる忍術の諸流を集大成した忍術書「万川集海」(ばんせんしゅうかい)を記した。
40: 名無し議論スレにて投票方法審議中 2007/01/08(月) 23:43:07 ID:vAvL4Rdi
藤林一家は紀州流を称して萬川集海を書いたんじゃね?
20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/08(土) 22:06:26 ID:GNV63mEE
秀吉は甲賀忍者を嫌っていたとしか思えない。
「梟の城」の中で司馬遼太郎は伊賀忍者に秀吉を狙わせ甲賀忍者を守備側に配しているが、本当に秀吉が狙いたかったのは甲賀忍者だと思われるくらいである。
秀吉は天正十三年には甲賀の中心水口に明らかに甲賀忍者の監視役と思われる中村一氏を送り込んで、甲賀にはじめての織豊系の石垣作りの本格的な城を築かせており、甲賀忍者の締め付けを図っている。
さらに雑賀攻めに際しては、甲賀武士に最も過酷と思われる水攻用堤防工事を命じ、その工事遅れを理由に当時最も有力であった山中氏ほかの有力甲賀武士を次々と取り潰している。(これを地元では「甲賀破却」と言ってるらしい)
「梟の城」の中で司馬遼太郎は伊賀忍者に秀吉を狙わせ甲賀忍者を守備側に配しているが、本当に秀吉が狙いたかったのは甲賀忍者だと思われるくらいである。
秀吉は天正十三年には甲賀の中心水口に明らかに甲賀忍者の監視役と思われる中村一氏を送り込んで、甲賀にはじめての織豊系の石垣作りの本格的な城を築かせており、甲賀忍者の締め付けを図っている。
さらに雑賀攻めに際しては、甲賀武士に最も過酷と思われる水攻用堤防工事を命じ、その工事遅れを理由に当時最も有力であった山中氏ほかの有力甲賀武士を次々と取り潰している。(これを地元では「甲賀破却」と言ってるらしい)
21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/08(土) 23:00:48 ID:Xoxl84Hm
水口はただ単に交通の要所だからじゃないの?
中村が築城したわけではないし(大規模改修はしたが、もともと城はあった)、それに完成するのは江戸幕府になってからだし(中村が国替えになっても、絶えず次の領主がその事業を引き継いだ)
中村が築城したわけではないし(大規模改修はしたが、もともと城はあった)、それに完成するのは江戸幕府になってからだし(中村が国替えになっても、絶えず次の領主がその事業を引き継いだ)
22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/07/09(日) 17:55:55 ID:ZV58xkq1
家康は逆に甲賀衆と密接な関係を築いているね。
50: 人間七七四年 2007/07/30(月) 07:02:14 ID:cGWEWXjo
伊賀とか貧しい小国なのに、どうやって生計を立ててたんだろ?
52: 人間七七四年 2007/09/02(日) 06:23:06 ID:u94EYNLS
>>50
普通に農業や商工業では?
都も近いことだし。
普通に農業や商工業では?
都も近いことだし。
54: 人間七七四年 2007/09/18(火) 18:37:10 ID:Xyuh//n2
行ってみたら意外と広かったね伊賀上野。街道の要所だし。
山地を抜けていくといきなり視界が開ける感じ。それなりの国力も有ったんじゃない?
ただ、服部川の水害の碑とかも有ったから農業収入は安定していなかったかもな。
元は琵琶湖だろあのへんの平地は?
山地を抜けていくといきなり視界が開ける感じ。それなりの国力も有ったんじゃない?
ただ、服部川の水害の碑とかも有ったから農業収入は安定していなかったかもな。
元は琵琶湖だろあのへんの平地は?
55: 人間七七四年 2007/09/26(水) 04:18:59 ID:4MxDBs5h
東大寺の荘園だよね、多くが。
73: 人間七七四年 2007/11/04(日) 03:42:17 ID:s4Q+VV19
>>55
「悪党」と言われる連中が出現するまでは。
それ以後は惣村を支配する地侍がウジャウジャと乱立。
「悪党」と言われる連中が出現するまでは。
それ以後は惣村を支配する地侍がウジャウジャと乱立。
62: 人間七七四年 2007/10/19(金) 13:05:45 ID:jmqfbEgR
半蔵正成が実際に統率してた伊賀同心て江戸以前は何やってた連中なの?
63: 人間七七四年 2007/10/19(金) 14:49:49 ID:g/tbUtcZ
ふつうに物見だったのではないかな?
65: 人間七七四年 2007/10/20(土) 22:52:12 ID:KT9jlTwS
諜報活動とかするわけじゃなく普通の武士と変わらなかったのかな
66: 人間七七四年 2007/10/22(月) 03:20:45 ID:G6oXl52q
>>65
国内での豪族間の話じゃないの?
伊賀国内ですら六角派、仁木派、北畠派、独立派に割拠していたわけで。
国内での豪族間の話じゃないの?
伊賀国内ですら六角派、仁木派、北畠派、独立派に割拠していたわけで。
67: 人間七七四年 2007/10/23(火) 21:53:51 ID:ecR+RGdv
>>66
仁木派って実態がよく分からん・・・
仁木派って実態がよく分からん・・・
68: 人間七七四年 2007/10/26(金) 22:12:42 ID:Yls4GbIH
高倉神社【たかくら】(三重県伊賀市西高倉)
本社祭神
高倉下命【たかくらじのみこと】
倭得玉彦命【やまとえたまひこのみこと】
境内看板
高倉神社略記
祭神 高倉下命【たかくらじのみこと】
神武天皇東征の功神にして倉庫守護 延命長寿の霊験あり 七代の孫 倭得玉彦命この地に
移り住んで祖神を祀るを最初とする 東、西高倉地区の氏神なり
創建は古く垂仁天皇のころと伝え貞観三年(八六一年)従五位下の神階をうけ 国史見在社で
あります
現社殿は 天正二年(一五七四年)に伊賀国守護職仁木長政の造営
一間社流造りで桧皮葺の本殿を中央に右に八幡社 左に春日社と三社信仰を今に伝える古社
日本最古の補陀落寺町石の補陀落寺は 当社の別当寺であります
http://www.geocities.jp/miniuzi0502/near-j/takakkura.htm
本社祭神
高倉下命【たかくらじのみこと】
倭得玉彦命【やまとえたまひこのみこと】
境内看板
高倉神社略記
祭神 高倉下命【たかくらじのみこと】
神武天皇東征の功神にして倉庫守護 延命長寿の霊験あり 七代の孫 倭得玉彦命この地に
移り住んで祖神を祀るを最初とする 東、西高倉地区の氏神なり
創建は古く垂仁天皇のころと伝え貞観三年(八六一年)従五位下の神階をうけ 国史見在社で
あります
現社殿は 天正二年(一五七四年)に伊賀国守護職仁木長政の造営
一間社流造りで桧皮葺の本殿を中央に右に八幡社 左に春日社と三社信仰を今に伝える古社
日本最古の補陀落寺町石の補陀落寺は 当社の別当寺であります
69: 人間七七四年 2007/10/28(日) 22:26:44 ID:KLlZDbs4
>>68
>伊賀国守護職仁木長政
仁木義視と同一人物?
--------------------------------------------------------------------------------
仁木義視(にき よしみ) ????~????
○友梅
伊賀守護として、1571年織田信長の支援を受け、伊賀に入国。
しかし、国内に割拠する土豪をまとめきれずに、その反抗に遭い、1578年伊賀を追放され
甲賀に逃れた。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/sn-dos/sengoku/l_ni.htm
--------------------------------------------------------------------------------
>伊賀国守護職仁木長政
仁木義視と同一人物?
--------------------------------------------------------------------------------
仁木義視(にき よしみ) ????~????
○友梅
伊賀守護として、1571年織田信長の支援を受け、伊賀に入国。
しかし、国内に割拠する土豪をまとめきれずに、その反抗に遭い、1578年伊賀を追放され
甲賀に逃れた。
--------------------------------------------------------------------------------
70: 人間七七四年 2007/10/29(月) 06:18:08 ID:6B1zTdfJ
信長の家臣団には「長政」の名があるね。
71: 人間七七四年 2007/11/01(木) 06:16:15 ID:feGrzqCf
前々からの謎。
資料とか無いのかな?
資料とか無いのかな?
72: 人間七七四年 2007/11/02(金) 01:36:44 ID:ih3i+fLd
仁木 長政 (にき ながまさ)
生没年不詳。
入道号友梅。いの「長政」は、「高倉神社棟礼」による。
伊賀の国中に威を振るい、阿べ郡・山田郡あたりを支配していたらしい(勢州軍記)。
永禄十二年(1569)七月、信長の北畠攻めに先んじ、滝川一益を介して信長に降る(新津秀三朗氏文書)。
次第に伊賀において力を失ったか。
伊賀国衆の一揆を押さえ切れず、伊賀は信長の手を離れる。
天正九年(1581)九月の信雄による伊賀攻めにより、伊賀はようやく信長の下に属した。
同十年六月、本能寺の変直後後に、伊賀で一揆が蜂起すると、これに対抗。。
早飛脚を立てて信雄に注進し、加勢を求めた(勢州軍記)。
生没年不詳。
入道号友梅。いの「長政」は、「高倉神社棟礼」による。
伊賀の国中に威を振るい、阿べ郡・山田郡あたりを支配していたらしい(勢州軍記)。
永禄十二年(1569)七月、信長の北畠攻めに先んじ、滝川一益を介して信長に降る(新津秀三朗氏文書)。
次第に伊賀において力を失ったか。
伊賀国衆の一揆を押さえ切れず、伊賀は信長の手を離れる。
天正九年(1581)九月の信雄による伊賀攻めにより、伊賀はようやく信長の下に属した。
同十年六月、本能寺の変直後後に、伊賀で一揆が蜂起すると、これに対抗。。
早飛脚を立てて信雄に注進し、加勢を求めた(勢州軍記)。
89: 人間七七四年 2008/03/07(金) 14:18:44 ID:IaJB1n9M
旗本に仁木家があったけど、綱吉が将軍に就任した際に館林藩士から取り立てられた家柄。
伊賀仁木氏と関係があるかは不明。
伊賀仁木氏と関係があるかは不明。
90: 人間七七四年 2008/03/08(土) 04:35:17 ID:1l6EeZqh
館林の仁木氏ということは榊原氏の絡みでしょう。
榊原氏は仁木氏に系図を繋げているので。
榊原氏は仁木氏に系図を繋げているので。
91: 人間七七四年 2008/03/20(木) 18:22:27 ID:KQuhXRqb
>>90
ということはご本家さんはどこに行っちゃったんでしょうね?
現地に資料は残っているのかな。
ということはご本家さんはどこに行っちゃったんでしょうね?
現地に資料は残っているのかな。
102: 人間七七四年 2008/06/16(月) 12:41:22 ID:6egX5DNI
秀吉による惣国一揆の解体と地侍の追放で、大量に出た伊賀甲賀の浪人の多くが後に大阪の陣で豊臣方として大阪城に入っているのはいろいろ面白い。
103: 人間七七四年 2008/06/20(金) 01:54:46 ID:NxQqKpgv
結果を知っている側からすると「何故、豊臣方に?」という目線で見てしまうけど、浪人衆の数が、腐っても豊臣家という風潮を物語っている。
104: 人間七七四年 2008/06/20(金) 02:01:03 ID:cA0x6aWy
>>103
つーか、伊賀甲賀の連中なんてかつて討ち取った豊臣家からすれば潜在的敵対者以外の何者でもないだろw
実際大阪の陣の期間を通して、大阪城の内情は徳川方に筒抜けだったらしいし。それにはこういう連中の働きもかなりあったんじゃなかろうか?
つーか、伊賀甲賀の連中なんてかつて討ち取った豊臣家からすれば潜在的敵対者以外の何者でもないだろw
実際大阪の陣の期間を通して、大阪城の内情は徳川方に筒抜けだったらしいし。それにはこういう連中の働きもかなりあったんじゃなかろうか?
106: 人間七七四年 2008/06/21(土) 22:26:52 ID:sbkjU1oS
>>104
しかし、敵味方言ってられないほど困窮していた下っ端もいるでしょ。
都なんかでも「ひょっとしたら大坂方が勝つかも」なんて噂が流れるほどだったし、恩賞にありつこうという連中がいてもおかしくない。
しかし、敵味方言ってられないほど困窮していた下っ端もいるでしょ。
都なんかでも「ひょっとしたら大坂方が勝つかも」なんて噂が流れるほどだったし、恩賞にありつこうという連中がいてもおかしくない。
107: 人間七七四年 2008/06/23(月) 15:53:04 ID:ZknS5CwN
勝った時のリターンを考えて形勢不利な側につく一山的なのが多かったんじゃね?
108: 人間七七四年 2008/07/02(水) 04:10:01 ID:S8rEVCU+
結果を知っている側からすればハイリスクに映るんだろうけど、当時は徳川政権だってまだ盤石ではなかったのでは?
109: 人間七七四年 2008/07/02(水) 12:12:13 ID:9H4fJ14t
>>108
冬の陣まではそう言う妄想が出来たとしても、夏の陣にいたっては。
冬の陣まではそう言う妄想が出来たとしても、夏の陣にいたっては。
110: 人間七七四年 2008/07/02(水) 17:20:19 ID:Y6FBX2O4
>>109
でも、浪人は大坂しか居場所無かったよね。
だから抗戦を唱えてたんだろうし。
でも、浪人は大坂しか居場所無かったよね。
だから抗戦を唱えてたんだろうし。
111: 人間七七四年 2008/07/02(水) 18:35:19 ID:9xMeYvov
夢見る少女だったんだよ>浪人たち
一発逆転できれば俺も大名だぜ!と妄想してるような奴らだから浪人だったんだね
一発逆転できれば俺も大名だぜ!と妄想してるような奴らだから浪人だったんだね
112: 人間七七四年 2008/07/03(木) 03:13:16 ID:GLym0Sgv
>>111
ま、徳川に与したところでどこぞの大名家に仕官できるわけでもないし。
武士なんて既に飽和状態だったわけで。
ま、徳川に与したところでどこぞの大名家に仕官できるわけでもないし。
武士なんて既に飽和状態だったわけで。
113: 人間七七四年 2008/07/15(火) 05:22:18 ID:LXto4UcS
>>112
結局、彼らの末路はどんなものだったんだろうか?
結局、彼らの末路はどんなものだったんだろうか?
114: 人間七七四年 2008/07/15(火) 15:15:09 ID:AlKY6CLr
>>113
在地に戻って帰農するか、都市に出て商工業者になるか、徳川の時代になって猛烈に推し進められた開墾事業(50年で東海道の沿岸地域は地形が変わったそうな)に参加するか。
在地に戻って帰農するか、都市に出て商工業者になるか、徳川の時代になって猛烈に推し進められた開墾事業(50年で東海道の沿岸地域は地形が変わったそうな)に参加するか。
122: 人間七七四年 2008/09/19(金) 19:34:01 ID:LS7TnCBc
>>114
甲賀衆の中には製薬業などに転身した者もいますね。
甲賀衆の中には製薬業などに転身した者もいますね。
123: 人間七七四年 2008/09/19(金) 20:04:40 ID:3vafLjj0
御近所同士仲の良かった伊賀と甲賀。
講談や小説などで、あたかもライバル、酷いのになると不倶戴天の敵であったかのように描かれるのはどういう理由からなんだろ?
講談や小説などで、あたかもライバル、酷いのになると不倶戴天の敵であったかのように描かれるのはどういう理由からなんだろ?
125: 人間七七四年 2008/09/20(土) 16:06:33 ID:qot11TNd
>>123
天正伊賀の乱において甲賀衆や、一部の伊賀衆が織田軍の先鋒を務めた経緯があるからでしょう。
天正伊賀の乱において甲賀衆や、一部の伊賀衆が織田軍の先鋒を務めた経緯があるからでしょう。
126: 人間七七四年 2008/09/23(火) 03:35:04 ID:nCR+AyEC
柘植や福地か。
対立と言えば、家康の伊賀越えでは伊賀衆同士が親家康、反家康に分かれているね。
対立と言えば、家康の伊賀越えでは伊賀衆同士が親家康、反家康に分かれているね。
128: 人間七七四年 2008/10/05(日) 05:55:54 ID:ByVI+pDC
>>126
そりゃ信長の同盟者だものね。
恨みを抱いている勢力がいたっておかしくはない。
落ち武者狩りというよりはそっちでしょ、家康が恐れていたのは。
そりゃ信長の同盟者だものね。
恨みを抱いている勢力がいたっておかしくはない。
落ち武者狩りというよりはそっちでしょ、家康が恐れていたのは。
130: 人間七七四年 2008/10/08(水) 11:22:08 ID:/p88S2Je
>>128
最大の功労者を服部半蔵とする説もあれば、茶屋四郎次郎とする説もありますね。
結局、どちらなのでしょうか。
最大の功労者を服部半蔵とする説もあれば、茶屋四郎次郎とする説もありますね。
結局、どちらなのでしょうか。
131: 人間七七四年 2008/10/08(水) 11:39:55 ID:/o7fKIwi
結局は、家康の有能な主力武将が揃っていた事による、その場その場での状況判断の的確さと、ある程度の落ち武者狩りくらいなら跳ね返せる戦闘力が、伊賀越えを成功させた一番の要因だと思うよ。
132: 人間七七四年 2008/10/09(木) 13:07:26 ID:dCtDM6Lp
>>131
俄か従者になってくれた地侍たちの功績も認めてやらんと。
俄か従者になってくれた地侍たちの功績も認めてやらんと。
145: 人間七七四年 2008/12/17(水) 02:02:38 ID:026bTT0+
ほとんどは江戸時代に出来上がったものでしょ?
甲賀はそれぞれの家ごとの独立体制
うーん
合議制の自治ってのを理解できない人かな
アメリカインディアンの合議制を理解できなかった白人さんと同じや