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1: 日本@名無史さん 2007/12/28(金) 21:15:55
三楽斎について語ろう








太田資正

没年:天正19.9.8(1591.10.25)
生年:大永2(1522)

戦国・安土桃山時代の武将。道灌の孫資頼の次男。美濃守。入道して道誉,三楽斎と称した。

天文15(1546)年の主家扇谷上杉氏滅亡後も北条氏に反抗。同年10月,病死した兄資時の跡を継いで武蔵岩槻城主となった。

永禄4(1561)年,長尾景虎が北条氏を小田原城に攻めた際はその主力として活躍したが,同7年の第2次国府台の戦で敗れ,同年7月長子氏資が北条氏に帰属し,岩槻城を失う。このころ入道。のち次子梶原政景と共に佐竹義重に属し,常陸片野城に拠って武蔵奪回を窺う。

天正18(1590)年には豊臣秀吉の小田原攻めに参陣。
生涯,北条氏に抵抗した扇谷上杉氏の遺臣。

<参考文献>前島康彦『太田氏の研究』
朝日日本歴史人物事典





7: 日本@名無史さん 2007/12/29(土) 11:50:18
北条の滅亡もちゃんと見届けてから死去するあたりチャッカリもん。
秀吉も「関東には不思議な事がある。三楽斎ほどの人物が一国も得られないって事が非常に不思議だ」なんて語ってる。
芦名に佐竹義広を養子に送りこんだのも三楽斎の外交力だし。
大河で太田物語とかやって欲しいね。


4: 日本@名無史さん 2007/12/29(土) 11:12:48
松山から岩槻まで密書を届けた犬の話は本当なのか?

太田資正

『甲陽軍鑑』によると、資正は軍用犬を飼いならして活用しており。城に訓練させた犬を数匹飼い、敵が攻め寄せてきた場合には書状を入れた竹筒を犬の首に結び付けて城外に放ち、味方と連絡を取り合い、北条勢を撃退していたとする逸話を記している。
資正の伝令犬戦術は「三楽犬の入替え」として知られており、北条側が配下の風魔一党に命じて人間の使者を捕殺しても、犬の使者までは完全に捕殺できず、常にその軍事行動が太田側に筒抜けになり、「資正は曽祖父・道灌に劣らない名将ぶりを見せた」と人々も褒め称えたという。
また、『関八州古戦録』によると三楽犬の密書は「白文の陰書」と呼ばれる、水に漬ける事で文字が浮かび上がる書状であったとも伝わる。



8: 日本@名無史さん 2007/12/29(土) 11:52:25
北条氏政・氏照・綱成ら三万余騎の来襲を、首の竹筒に密書を入れた犬が松山城から三十里離れた岩築へ一時で知らせたというが、結局大軍を前に後詰めにも出れず、安房の里見に救援を依頼するも三崎表に在陣中の左馬頭義弘と連絡とれず、越後へ早馬を出すも雪に阻まれ・・・
松山城(まつやまじょう)は、埼玉県比企郡吉見町大字南吉見字城山(武蔵国横見郡松山)にあった日本の城。

北条氏の勢力が相模国から武蔵国に伸張してくると、扇谷上杉氏と山内上杉氏・古河公方の三勢力の間で和睦が成立し、南方より侵攻してくる北条氏に対する拠点となった。天文6年(1537年)には河越城が北条氏綱によって攻め落とされ、さらにその余勢を駆った北条勢によって松山城も攻撃を受けたが、城主難波田憲重らの活躍で撃退に成功した(松山城風流合戦)。この結果、松山城は河越城を失った上杉朝定の居城となり、威信をかけた拡張工事が行われた。
しかし天文14年(1545年)、河越夜戦での河越城奪還の失敗と朝定および難波田憲重の敗死によって扇谷上杉氏が滅亡すると、松山城は北条氏康の手に渡った。

同年に難波田憲重の婿であった上杉方の太田資正が奪回し、同じく縁戚であった上田朝直が城代になるものの、その上田朝直が北条氏に寝返ったため再び北条方の城になった。なお、太田資正は北条方との戦いで実子を失っていた難波田憲重の婿養子として松山城主の地位を継承していたとする説があり、その後実家の太田氏の家督を継いで岩槻城に帰還したものの、引き続き松山城の城主としての立場を主張することになったとされている。

永禄4年(1561年)、上杉謙信が奪取して岩槻城主の太田資正を城代にする。しかし、永禄6年(1563年)に北条氏康と武田信玄の連合軍の攻撃の前に再び陥落、北条氏のもとに戻った(生野山の戦い)。この合戦の影響が房総にも飛び火して第二次国府台合戦へと発展した。


9: 日本@名無史さん 2007/12/29(土) 11:59:44
関東経略上で松山城落城は致命傷。

10: 日本@名無史さん 2007/12/29(土) 12:07:39
松山には武田信玄が2万500も出馬してきたからなぁ

11: 日本@名無史さん 2007/12/29(土) 12:12:44
松山城もあと三日我慢してたら・・・
安房と越後の両家が動いたのに

13: 日本@名無史さん 2007/12/29(土) 13:22:36
何度敗れてもしぶとく反撃する三楽斉すごすぎ

14: 日本@名無史さん 2007/12/29(土) 16:11:06
太田資正の子孫は佐竹の家臣になったの?

15: 日本@名無史さん 2007/12/29(土) 16:43:56
佐竹→結城(松平)→断絶

16: 日本@名無史さん 2007/12/29(土) 17:26:02
太田資正の四男潮田資忠の子孫が古河の土井大炊頭の家老やってる

19: 日本@名無史さん 2007/12/30(日) 03:13:59
しかし息子に岩槻城を追放されても北条に挑みつづける三楽はすげーよ
武田信虎とは雲泥の差だな
太田 氏資(おおた うじすけ)は、戦国時代の武将。太田資正の嫡男。武蔵国岩付城(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)城主。

永禄6年(1563年)、氏資は父とともに朝廷からの任官を受け、従五位下大膳大夫に任ぜられるが、反北条氏方の父とは次第に不仲になり、資正が弟の梶原政景に家督を譲ろうとしているのを知ると、一時出家して「道也」と名乗った。

永禄7年(1564年)、父が第2次国府台合戦で氏康と戦って敗退すると、秘かに還俗して父と弟を居城の岩付城から追放して家督を継ぎ、以後は北条氏の家臣として仕えた。

永禄10年(1567年)、三船山合戦で北条軍が里見氏に大敗したとき、殿軍を務めて戦死した。

27: 日本@名無史さん 2008/01/01(火) 02:18:48
武田信虎も訳の分からん所で戦っている。
志摩とか・・・

29: 日本@名無史さん 2008/01/01(火) 10:59:28
信虎は息子が偉大すぎ
三楽は自身が英雄的で息子は里見との船いくさで意地はって討ち死

20: 日本@名無史さん 2007/12/31(月) 04:59:04
三楽斎の北条への不屈の闘志がスゴ過ぎる。
つかこの人は何歳で往生したんかな。遺言とかあったんかな?

37: 日本@名無史さん 2008/01/03(木) 09:52:49
>>20
天正十九年
関東各地で戦いに明け暮れた生涯を閉じた
享年七十歳


21: 日本@名無史さん 2007/12/31(月) 07:32:19
国府台の合戦で太田三楽が南方の武士に組伏せられて首を取られそうになった時、喉輪が邪魔になってなかなか首を切れない相手に
「喉輪をはずさないと上手く切れないからまずはこの喉輪をはずしてして手柄にせよ」
としんみりと語りかけて、相手が「さすがは関八州にかくれなき名将。天晴れな最期の覚悟」と感心して油断した隙に逆に相手の首を取ったらしいが、戦国の世とはいえちょっと汚くないか?


24: 日本@名無史さん 2007/12/31(月) 21:16:45
出家して道誉なんて名前になるなんてよほど自分に自信があったんだろうな

38: 日本@名無史さん 2008/01/03(木) 13:59:38
三楽斎の考える理想って何だったんだろうね。
関東をこうしたいとか。
やっぱり大田氏を相模守護代であった道灌時代の力に戻したいって思ってたんかな。

40: 日本@名無史さん 2008/01/03(木) 15:32:18
三楽の理想=上杉(前期・扇谷、後期・越後)による関東支配?

44: 日本@名無史さん 2008/01/04(金) 13:54:03
太田資正の地元は岩槻!
資正も岩槻奪還が夢だったと思う

47: 日本@名無史さん 2008/01/04(金) 20:17:02
太田三楽斎が生涯合戦すること七十余度ってホントかよ?
普通にスゲーよ!三楽斎

51: 日本@名無史さん 2008/01/04(金) 21:17:10
緊張状態が続く下野沼尻合戦時とかの梶原政景の小田原への内応も興味深いよな

56: 日本@名無史さん 2008/01/05(土) 22:33:13
北条が圧倒する関八州
逆境にあって古今無双の武勇を示す三楽斎資正カッコいい!!!


58: 日本@名無史さん 2008/01/08(火) 10:34:55
正月休みに岩槻、川越、東松山、行田、つくば、国府台、鎌倉、小田原と三楽斎の夢の跡を巡ってきた。
岩槻の北はずれの黒浜という所で道に迷ったのだが、城を追放された三楽が岩槻奪還を狙って身を潜めていたという伝承があるとのことで感動。

66: 日本@名無史さん 2008/01/15(火) 11:44:57
氏康と三楽斉ではどちらが名将?
大敵を恐れず小敵を侮らない大将の氏康の方が強いし規模がでかいだろうけど

67: 日本@名無史さん 2008/01/16(水) 02:36:58
まあ、そら氏康だろう。

68: sage 2008/01/16(水) 15:12:23
普通に氏康だろ!
資正は別タイプの英雄

70: 日本@名無史さん 2008/01/16(水) 20:11:04
太田三楽はきっと関東に号令をかけるのは自分だと思っていたのだろうな

71: 日本@名無史さん 2008/01/18(金) 10:02:28
>>70
いや、彼は上杉・佐竹らの名門には敬意を払っていたよ

72: 日本@名無史さん 2008/01/21(月) 10:22:00
太田資正は長生きしたけど滅びゆく北条氏をどんな思いで見ていたのかな?

73: 日本@名無史さん 2008/01/22(火) 02:42:35
溜飲を下げたんじゃないか

75: 日本@名無史さん 2008/01/22(火) 08:35:17
太田資正の全盛期の勢力ってどのくらいだったんだ?

79: 梶原政景ってどお? 2008/01/26(土) 18:24:07 BE:1068931049-2BP(1)
>>75
岩付・松山周辺じゃないの?

80: 日本@名無史さん 2008/01/26(土) 18:48:51
大雑把だけど東は春日部市、西は松山及び比企郡川島町、南は東京都北区、北は上尾市
これくらいじゃないかな

78: 日本@名無史さん 2008/01/25(金) 10:39:20
息子に城を追い出され浪々の身となったと思えば人の城を奪い取り何度も北条に仕掛ける逞しさ。
太田三楽斎かっこよすぎる

87: 日本@名無史さん 2008/02/12(火) 13:08:54
名将なんて言われてるが負け戦ばかりだろ?
めざましい武功たてたことあるの?

89: 日本@名無史さん 2008/02/12(火) 14:00:42
秀吉が三楽齊を非常に高く買ってるね。
「関東には不思議な事がある。太田殿ほどの才覚がありながら一国を得られないとは!」
胆力や武力や知力だけでなく外交力もやたらあったしな。
例えば代々伊達から嫁をもらってた芦名氏で三代続けて当主が早世し伊達出未亡人と家臣団が養子で争った時、伊達と佐竹が芦名氏の養子選考で混乱した中で三楽齊が活躍して佐竹義広が芦名世継ぎになったしな。
大河独眼竜政宗で芦名の世継ぎ争いに敗退した片倉景綱に「小十郎ちゃんとカラクリいたしたのか!」と政宗が激怒してたな~。

90: 日本@名無史さん 2008/02/12(火) 15:28:31
三楽斎からしたら芦名が親北条の伊達についたらやばいもんな。

94: 日本@名無史さん 2008/02/19(火) 13:36:29
三楽斎が小田原で秀吉に謁した時に生意気言って機嫌を損ねたらしいが、その時に秀吉を持ち上げていれば独立大名に復帰できたのかな?

96: 日本@名無史さん 2008/02/20(水) 13:54:11
それは関東古戦禄の創作ではないのか?
いくら太田三楽斎でも豊臣秀吉に意見なんかしないだろう。

103: 日本@名無史さん 2008/02/29(金) 00:46:10
>>96
関八州古戦録は間違いが多いらしいからね。
でも創作だとしてもそのエピソードを捏造するメリットが無い気が…
意見っても小田原城に力攻めは難いよ的な事でしょ。
>>89みたいに褒められて調子乗って言っててもおかしくはない、かな。
とか勝手に思ってる俺。


104: 日本@名無史さん 2008/02/29(金) 02:22:57
関八州古戦禄の創作っていうか伝承を検討なしで採用してるね。
注意深く読むと作者の先祖のちっちゃい手柄話なんかも書いてて面白い。

105: 日本@名無史さん 2008/02/29(金) 03:29:09
今まさに小田原を落とし絶頂の極みにいる秀吉に謁した三楽斎の胸に、合戦すること70余度という己れの苛烈な歩みががまざまざと去来して思わず口がすべったんでないの?

111: 日本@名無史さん 2008/03/11(火) 23:55:16
松山城を死守しなかったのが大減点だな~。謙信も激怒したらしいし。

113: 日本@名無史さん 2008/03/12(水) 04:45:43
まー足利藤氏や近衛らがいた古河城も北条軍の前に簡単に落城したしな…松山城は北条&武田協同軍だしやむを得ない部分あるかもな。
もちろんあと少し粘れば上杉本軍が到着し里見や太田らを糾合する予定だったんだが。
この落城により今後は小田原方面の北条本領への侵攻ではなく、不毛な両毛地区での消耗戦になっちまいやがったターニングポイントだな。
言ってみれば

小田原包囲→ハワイ奇襲
松山城落城→ミッドウェイの敗戦
由良や佐野の攻城戦→ソロモン・ラバウル方面の大消耗戦
簗田氏の関宿城陥落→マリアナ海戦

完全に越山の労苦が無駄になっちまったな。

120: 日本@名無史さん 2008/03/16(日) 15:17:33
太田資正は氏康の計らいで美濃守になったらしいね。

121: 日本@名無史さん 2008/03/20(木) 18:04:56
氏康の資正取り込みの懐柔策

161: 日本@名無史さん 2008/07/13(日) 19:23:05
この人って名前は有名だけど有名な家臣とかいないよね…

162: 日本@名無史さん 2008/07/15(火) 14:26:30
賢い犬達がいるじゃん

163: 日本@名無史さん 2008/07/17(木) 01:17:52
犬は家臣じゃないだろー
春日しかわからないけど

164: 日本@名無史さん 2008/07/18(金) 00:36:24
妹婿の三戸くんってのはどうなの?
立ち位置的には家臣とは違うのかな。

180: 日本@名無史さん 2009/04/26(日) 00:39:42
岩槻城を築城したのが道灌でないのが有力になった今
岩槻区役所の銅像に上野の西郷さんの銅像のように、犬をつないで三楽斎像にすべきだ

181: 日本@名無史さん 2009/04/27(月) 10:31:11
六匹くらいの犬に犬艝を引かせて乗ってる三楽斎像を希望

183: 日本@名無史さん 2009/07/19(日) 22:02:10
岩槻住民だが、市民にとって道灌公は誰でも知ってる有名人だが、三楽斎はほとんど知られてないんです。
もっと三楽に光を。

185: 日本@名無史さん 2009/07/19(日) 22:29:56
岩槻では太田三楽と太田十郎氏房のどちらが人気・知名度高い?
江戸時代の大岡忠光の方が知名度高いか?

186: 日本@名無史さん 2009/07/19(日) 22:42:44
>>185
残念ながら三楽も氏房も知名度はかなり低い。戦国マニアくらいしか知らない。
大岡の方がまだ知られてる。
小学校の郷土史の教科書にも道灌公、大岡は出てきたが三楽は出てこなかった気がする。

188: 日本@名無史さん 2009/07/20(月) 13:34:53
この人のエピソードでは密書を携えた犬の話が一番有名?

203: 日本@名無史さん 2010/05/28(金) 11:54:11
北条についたこともあるのに何がそんなに反北条に向かわせたんだろう
キッチリ傘下に入れば岩付城もらえたんじゃね?とも思うわ
やっぱ北条バックの実の息子におん出されたがトラウマになったんかいな


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