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1: 日本@名無史さん 2024/02/17(土) 20:10:52.65
かたれる奴はいるか






享徳の乱(享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。

第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に拡大した。現代の歴史研究において、享徳の乱は、関東地方における戦国時代の始まりと位置付けられている。




165: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 01:59:27.50
義教の時は皆従ったのにね
義政ではダメだったか

166: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 02:01:26.53
義政は義満の真似事で慈照寺建てたり、義教の真似事で関東対策をやったりと、一応方針らしきものはあるがオリジナリティは無かったか

167: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 03:34:26.95 BE:412670722-2BP(1000)
義教が殺されたときにすでに幕府の権威と力は落ちていたとか
本当に享徳の乱のときの大名は内部抗争や疲弊で動けないところが多かったとかあるかもしれない
斯波は論外だが

168: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 07:51:43.17
だが義教生存のころ、特に永享の乱鎮圧直後幕府権力は相当高かったはず
将軍の死は権威を下げる一因にはなっただろうが、何故次世代はそうならなかったのか

169: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 12:01:50.83
他ならぬ足利義教将軍期の幕政そのものが将軍権威失墜の種を蒔いた。
どの大名領国の在地も災害・飢饉に喘ぐ時代、中央権力がやらなければならなかったのは窮民救済と防災対策だったのに、実際にやったのは度重なる遠方への動員命令と恐怖政治。
その政策がもたらしたのは在地の更なる疲弊・荒廃だった。
誰が将軍の命令なんぞ聞くかよ馬鹿馬鹿しい、ということになる。
 
義教が殺されたから失墜したのではなくて、失墜が進行していたから殺された。
次代以下はそのツケを払わされたと云うのが真実だろう。
 

170: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 13:50:30.56
義政期の諸勢力の動静は完全に「利になりそうなら動く」なので、指摘は正しいと言うならそうだが、義満期でさえ動員&討伐の動乱は繰り返していたはず
義詮以前は動乱が常態だったし
義教期と義満期でやってることにそう差は無いようにも見えるが、これは義満の守護大名の操縦が上手かったのか?

171: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 19:44:32.44
>>170
> 義満の守護大名の操縦が上手かったのか?
 

義教の粗雑、義政の拙劣と比べればそれは慥かにあるかもしれない。
力づくで叩き潰したり人の神経を逆撫でしたりすれば収まるものも収まらない。
 
その他、
在地の疲弊荒廃の進行度が累積的に作用したこと、荒廃の強度そのものが亢進して行ったこと、等に注目している。

『日本中世気象災害史年表稿』に拠りつつ義満から義尚までの各将軍在位期間中に於ける気象災害記事件数と年平均件数を算出すると以下の通り。
・義満:37件 年平均1.37件
・義持:51件 年平均1.75件
・義量:02件 年平均0.67件
・空位:09件 年平均1.50件
・義教:39件 年平均3.00件
・空位:03件 年平均0.50件
・義勝:11件 年平均5.50件
・空位:26件 年平均4.33件
・義政:63件 年平均2.42件

172: 日本@名無史さん 2024/03/31(日) 20:19:03.66
まー豊かだったら分家作って分割相続出来たものが継承戦争だらけだもんなあ
それだけ土地が荒廃していたことの裏返しと取れなくもないか
江戸期も普通に宗家争いあるけど分家作るか幕府に裁定してもらっているけどそれが無くなったか

173: 日本@名無史さん 2024/04/04(木) 15:20:05.29
影響はありそうだが

小氷期(しょうひょうき、英:Little Ice Age, LIA)とは、ほぼ14世紀半ばから19世紀半ばにかけて続いた寒冷な期間のことである。小氷河時代、ミニ氷河期ともいう。この気候の寒冷化により、「中世の温暖期」として知られる温和な時代は終止符を打たれた。

日本においても東日本を中心にたびたび飢饉が発生し、これを原因とする農村での一揆の頻発は幕藩体制を揺るがした。

174: 日本@名無史さん 2024/04/04(木) 20:43:37.39
>>173
影響と云うか、何と云うか…。
鎌倉幕府倒壊~南北朝動乱~戦国争乱は「小氷期」に規定された一連の社会運動だった。
従って影響などという水準に非ずして時代の本体・根源そのものだったと云える。

その中で戦国時代或いは享徳ノ乱に画期性を認める理由は、遅きに過ぎたとはいえ「小氷期」に適応した社会構造モデルを提示し得たという点に在る。
本来なら建武政権なり室町幕府が為すべき仕事を為さなかったそのツケをあまりにも陰惨な形で払わされた時代とも位置付けられる。

178: 日本@名無史さん 2024/04/06(土) 20:49:17.90
谷口雄太は
足利氏は上からの改革
血統でなく力があれば、本来は足利一門でなければ就けられなかった地位にも就けるような改革によってかえって足利氏の貴種性を失った
足利氏の権威をなくしていったと言う説だしてるけど、災害や飢餓の多発する世の中とそれへの対応不足も足利氏のイメージや貴種性を落としていっただろうな

179: 日本@名無史さん 2024/04/07(日) 06:28:44.77
足利氏自体が象徴に収まらずに執行者としての意識を持ち続けたことが逆に権威の失墜をもたらしたという説も
つまり斯波氏なら朝倉、甲斐氏、細川氏なら三好氏、赤松氏なら浦上氏などと接触を持ったことにより下剋上を推進したとも

181: 日本@名無史さん 2024/04/07(日) 18:12:53.32
権威の失墜を招いたていう以前に何で足利一門は弱くなったんだろ
権威はあるけど力は他の大名系のほうが上なんてことになったんだろう

183: 日本@名無史さん 2024/04/07(日) 19:28:08.43
>>181
関東は持氏期よりもむしろ成氏期や政氏期の方が実体権力としては強化された。
何度も書いてきたように、自然環境条件や社会状況に曲がりなりにも適応したからだろう。
 
京都の方はそもそも実体が貧弱。
直轄領や暴力装置が諸大名に比べて圧倒的に大きいわけでもないし、在地性がゼロだから戦争についても災害についても即応機動機能が低い。
安全保障も災害対策も碌にしない権力体は信頼も威信も喪って行くしかない。

182: 日本@名無史さん 2024/04/07(日) 18:21:42.37
享徳の乱で足利氏の支配範囲は縮まった
権威的影響範囲は関東全域に及んでいたが関東諸侯は「邪魔じゃなければ尊重しよう」という宗教的存在は認めていた
公方の量産(堀越、小弓)によって権威は低下し、完全に崩壊したのは河越夜戦で北条包囲網が崩壊した時か

184: 日本@名無史さん 2024/04/07(日) 19:37:55.48
>>182
> 享徳の乱で足利氏の支配範囲は縮まった
 

実体規模としてはむしろ拡大したと見ている。
鎌倉に鎮座していた時期は制度として関東全域を所掌していただけで、実体としては山内、扇谷、長尾一族、小山、…等の支配地域が過半を占めていた。
改めて「鎌倉殿」の支配地域は?と問えば実に稀薄なものでしかなかったろう。

古河に移ってからは
一円的に集中する直轄領、簗田や野田等の奉公衆、股肱の臣たる小山、千葉、武田、里見等の所領等、利根川左岸一帯が実効勢力範囲として確立されたと云えるのではないか。
 

185: 日本@名無史さん 2024/04/08(月) 07:10:13.93
>>184
遵行を執行できずに要請レベルに留まったところに権力の低下が見られる
関東諸侯は「意見は尊重しよう」という認識はあったが紛争で利害が相反した場合は別の大義名分を使って実力で解決する選択肢を持っていた
永享の乱期は幕府/関東管領/鎌倉公方のどれかから大義名分を獲得でき、その後は内紛で分裂した各鎌倉公方から相反する大義名分を獲得できた

189: 日本@名無史さん 2024/04/10(水) 19:46:56.21
>>185
見解の相違かな…。
 
室町幕府制度下の遵行と云うシステムは「権威という虚妄のコード」を共有するサークル内に於いてのみ成立する、謂わばゴッコ遊びだろう。
落語の『だくだく』みたいなものだ。
それこそが共同幻想と云うものではあるのだが。
その虚妄のサイズが即ち権力の規模だと解釈するならば、鎌倉殿が古河の戦国大名に遷移したことで慥かにそれは縮小した。

小生は「権力」≒「暴力」との見解を採る。
共同幻想は実体無き虚妄だ、王様は裸だと喝破してしまった者たちに対して共同幻想はもはや権力(強制力)たり得ない。
幻想が有効だろうが無効だろうが常に「対手の同意無く我が意志の達成を強要」出来るチカラは物理実体としての暴力以外には無い。
 
古河一帯の直轄地に蟠踞しつつ隣接地域を直臣で固めることによって、御所の即時機動可能な暴力装置は質量とも明らかに鎌倉時代より増強された。
鎌倉殿は裸の王様であることを已めて重武装した戦士になった。
持氏期に数箇月しか闘えなかった虚妄の権力体は、成氏期には二十九年間闘い抜ける戦国大名と化した。
鎌倉放棄・古河移座によって実質ある権力の規模はむしろ拡大したと考える所以である。

190: 日本@名無史さん 2024/04/10(水) 22:21:21.64
>>189について誤解を招きかねない文言があったので訂正。
 
「鎌倉時代」とあるが、これは鎌倉幕府時代のことではない。
「御所が鎌倉に在った時代」即ち基氏期から持氏期を意味する。
念の為。

187: 日本@名無史さん 2024/04/10(水) 14:05:48.32
足利氏に反抗する勢力は神輿として別の足利氏の一族を担いで反抗するが、神輿として使われて内乱がおこるたびに権威に疑いを持つ人間が増えていっただろうね

188: 日本@名無史さん 2024/04/10(水) 14:37:53.32
>>187
内紛が片付いて1つになればまだ遵行も要請だけとは言えある程度の強制力はあるんだけど内紛が長期化して公方が2人になったままだと自分が有利な方に付くでしょうね

192: 日本@名無史さん 2024/04/11(木) 07:12:41.02
つまり「初めから小さい天皇になりきる」という選択肢もあった
成氏が1番嫌がる選択肢だろうけど

他の守護大名と同じく大きな権力を有しそれを維持しようとする戦略は結果だけを知る我々にとっては時勢に抗ったが時勢に乗れなかったように見える

193: 日本@名無史さん 2024/04/11(木) 15:47:58.79 BE:977062469-2BP(1000)
実力ないけど権威はあるという枠ならすでに天皇家があるからなあ
経済力、武力で成り上がった勢力の実力なくなった時点で滅びたり他の家の家臣になったりするのは避けられないのでは
平家や鎌倉幕府や豊臣や徳川も

197: 日本@名無史さん 2024/04/13(土) 21:06:00.47 BE:977062469-2BP(1000)
上杉政真の戦死の状況が気になる
野戦とかでなく一応陣で防戦中での死なんだよね
けど五十子そのものが崩壊したわけでなく
実は陣中での病死とかそういう物なんじゃないの

198: 日本@名無史さん 2024/04/13(土) 21:39:29.03
扨又五十子へ御勢をむけられ合戦やむ時なかりければ文明五年十一月廿四日、上杉扇の谷の大将修理大夫政真も打死なり。行年廿四歳。
此人いまだ子なかりしかば一家の老臣ども評定して故持朝の三男定政を修理大夫に任じ扇の谷の家督となす。
 
『鎌倉大草紙』 

199: 日本@名無史さん 2024/04/13(土) 22:35:41.93
『鎌倉大草紙』は一応は史料価値の高い文献とされている。
今の所、同書の記す扇谷政真の「打死」を疑う材料は無い。
とは云え、政真戦死に関わる記述は上掲の如く簡素に過ぎる。
政真戦死の具体的状況は不明と云うしかない。

200: 日本@名無史さん 2024/04/13(土) 23:27:28.61
と云うわけでこの先は純然たる想像・憶測になる。
 
【五十子陣所の特性】
あくまでも本陣兼利根川渡河拠点として構築されたもので、後世描かれた『五十子古城図』を見ても戦国後期の強固な城郭等とは比ぶべくもない。
攻防戦に及べば防衛側も籠城よりは出戦するのが前提だったのではないか。
文明五年十一月の戦に於いても五十子陣所前面で野戦が行われたかと思われる。
政真率いる扇谷勢は実働部隊だからその乱戦の中で…とも考えられる。
 
【扇谷或いは関東の戦術】
扇谷は政真の父・顕房も享徳ノ乱で戦死している(分倍河原合戦)。
享徳ノ乱から離れるが遙か後年の河越合戦では当時の当主朝定が戦死、扇谷家そのものが滅亡した。
どうも大将が激戦の最前線で実際に争闘するのが扇谷の家風だったかの如き印象を受ける。
或いは、関東では扇谷以外にも山内顕定や小弓義明等の「大将」「貴種」が戦場で首級を挙げられている。
北條氏康にも「氏康疵」があった。
戦国時代とは云え将帥自らがこれほど前線突出する事例は関東と九州(少弐氏だけか?)以外にあまり聞かない。
関東平野という地理条件--複雑な戦術を行い難い--が育んだ地域的戦術特性があったのかもしれない。

202: 日本@名無史さん 2024/04/17(水) 03:54:36.47
鎌倉を占領して大きな転換をもたらしたのは今川だが、そのまま今川に鎌倉を恩賞として与え
斯波が守護となっていた遠江はあきらめさせて、公方領はもちろん太田や長尾が仕掛けて始まったのだから開戦責任を取らせて、上杉の領地も少し恩賞として今川に与えてそのまま東国にとどまらせて今川に関東戦線ずっと担当させれば公方方に勝てたかもな

205: 日本@名無史さん 2024/04/17(水) 22:00:29.50
>>202
鎌倉占領は明らかに「今川の無駄遣い」だろう。
古河の戦争体制は全く打撃を受けていない。
戦略的には殆ど意味が無かった。
北條氏康ではないが、
東常縁を無理矢理にでも引き留めた上で今川も投入して関宿に向かわなければならなかった。

203: 日本@名無史さん 2024/04/17(水) 15:02:07.97
終始上杉方が有利だったような
今川に利益与えたら今度は上杉と公方が組んで今川追い出すために反乱起こしそう

204: 日本@名無史さん 2024/04/17(水) 21:54:00.46
>>203
> 終始上杉方が有利だったような
 

とてもそうは思えないが…。
慥かに状況構造としては常に管領方有利であって不思議の無い筈が、戦争運営体制の欠陥と度重なる戦略ミスでそれを全く活かせなかったように見える。
現に最終決戦(未遂)の広馬場段階ではむしろ御所方有利の戦況を招いてしまっていた。

206: 日本@名無史さん 2024/04/18(木) 07:15:59.08
あの動画では古河に押し込めたから諸大名は興味を失い以降積極的に参戦しなくなったと指摘してるね

207: 日本@名無史さん 2024/04/18(木) 08:27:23.24
一時古河まで落とされたからなぁ
結局白紙和平だし公方の粘り勝ちだけど
粘り勝ったということなら畠山総州家も同じような気がする

208: 日本@名無史さん 2024/04/20(土) 13:51:20.52
根拠地から追いやるなど追い込めるが自害まで追い込めるには一押し足りない
やはり参戦してる大名家が足りない

209: 日本@名無史さん 2024/04/20(土) 16:44:28.25
>>208
足りないことはないだろう。
関東の全上杉勢に加えて三浦、越後上杉、今川、東常縁、…、
御所方の戦力が減ることはあっても増えることはないのを考えたら、管領方は申し分の無い巨大戦力。
その戦力の運用を、或いは戦略そのものを間違えたのが管領方苦戦の(軍事面の)原因。

210: 日本@名無史さん 2024/04/20(土) 16:54:35.12
ついでに云うと、御所方も享徳四年(1455)前半までの圧倒的優勢期に「やらかして」いる。

山内は房顕が着任するかしないかでガタガタ。
扇谷も顕房戦死で政真はガキ、持朝も伊豆に逃げて不在。
江戸城も未だ構築されていない。
ここで全戦力を投入して上野・武蔵を総攻撃すべき所、肝腎の古河成氏直率軍は奇怪な経路で逃げ惑う長尾景仲を追うことに血道を上げるだけだった。
これもまた絶好の勝機を逃す行動だったと云える。

211: 日本@名無史さん 2024/04/21(日) 16:45:55.75
江の島の戦いの首謀者
長尾景仲と太田道真を討てば乱はどうにかなると思ってた説

212: 日本@名無史さん 2024/04/21(日) 22:24:50.81
日本では圧倒的戦術勝利は首を絞める
何故なら情勢がコロコロ変わり敵対方と手を組むのも頻繁にある
後年上杉も公方と組んでもう片方の上杉と戦ってたりするし、公方殺しの悪名を背負った場合必ず後に降り掛かってくる

逆に言えば血筋に宗教的権威が残されていた

213: 日本@名無史さん 2024/04/21(日) 22:45:13.29
>>212
> 公方殺しの悪名を背負った場合
 

いや、後に降り掛かるも何も、既に管領が御所を殺し御所が管領を殺して享徳ノ乱が始まったわけだが。

戦国争乱は縮減して行くパイを奪い合う文字通りの「生存」闘争だ。
ただその為に利有れば組んで害有れば叛く。
「権威」とやらも使えれば崇め奉るが使えなければ地に棄てて踏み躙る。
長享ノ乱から永正ノ乱にかけての無節操な離合は正にそれだけのリアリズムだろう。
そこに宗教的などと云うロマンは無い。

214: 日本@名無史さん 2024/04/22(月) 09:08:16.72
それは現代だから言える理論だと思うよ
血統>法律の時代、
戦っている貴族たちも足利氏の貴種性を利用して地位に付いていることを考えた方が良いかと
上杉憲実の頃でも相当逡巡したようだし
足利氏の貴種性は利用した方が遥かに有益だろうと思う
織田信長でさえ追放に留めた

215: 日本@名無史さん 2024/04/22(月) 21:34:03.70
>>214
「血統>法律の時代」ではあるが、
「『喰うこと』>血統>法律の時代」であることを忘れてはいけない。

> 足利氏の貴種性は利用した方が遥かに有益だろうと思う
> 織田信長でさえ追放に留めた
 

北條氏康は古河義氏を利用するだけし尽くした果て、もはや利無しと見るや殺害したとも謂われている。

220: 日本@名無史さん 2024/04/24(水) 12:02:27.99
何より幕府が真っ先に堀越公方を立てている
これは足利の貴種性が保たれていないとこうはならない
まあ対立候補を立て過ぎた結果権威がどんどん落ち込んでいくことになったんだが

222: 日本@名無史さん 2024/04/24(水) 14:54:31.02
権威はある
だけど乱がおきて担がれたり、乱で自害とかしたりするのが続いて、権威はあるが神聖ニシテ冒スベカラズと言うほどでもなくなっていく

223: 日本@名無史さん 2024/04/24(水) 16:40:20.41
基本関東も関西も権威が2つに分かれたからなぁ(管領の内紛も絡むから4つか)
有難みも1/2になるだろう
情勢によって有利不利がコロコロと変わるし

224: 日本@名無史さん 2024/04/25(木) 15:40:43.97
結城合戦で負けた側の家や関係者が新しくできた公方に近づいたり、そもそも一族の後継者争いで分裂してるところもいて、乱がおきたら即戦いが起きるという不安定な状況な家も多かった

226: 日本@名無史さん 2024/04/26(金) 14:43:06.56 BE:148037625-2BP(1000)
江戸時代のように家の取りつぶしとかって室町はあんまりしないね

228: 日本@名無史さん 2024/04/26(金) 20:22:34.78
>>226
余所の地域は詳らかにしないが、関東は各々の家中の「縮減して行くパイの奪い合い」即ち分裂内訌に上位権力体の対立図式を引き込むと云う構造があった。
南北朝、観応擾乱、犬懸禅秀ノ乱、永享ノ乱、結城合戦、そして享徳ノ大乱まで全てこの構造。

従って何れが勝利した場合でも族滅は生じ難い。
戦国末期の真田でもあるまいに、彼等がそこまで計算していた筈も無いが結果として家は生き残って行くことになる。
個人の意志を超えた生物種ヒトとしての系統遺伝子保存本能か。

227: 日本@名無史さん 2024/04/26(金) 16:46:33.15
関東じゃ豊島氏とか三浦氏とかかな
それも敗北して滅亡といった感じで改易は無しかな
ああ、あと赤松氏

230: 日本@名無史さん 2024/04/27(土) 05:14:55.69
養子相続を繰り返して家は残すからな
斯波武衛家も庶流や渋川氏から拝借してたり
享徳の乱の頃は扇ヶ谷上杉氏と対立したり

引用元: ・戦国時代の始まり?享徳の乱について


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享徳の乱と戦国時代 (1) (列島の戦国史 1) 単行本 – 2020/5/29 久保 健一郎 (著)