389: 世界@名無史さん 2019/04/03(水) 10:46:59.97 0
明・清の時代(1368~1911年)の500年あまりの時期は、中国の封建社会が没落していった時期である。
この時代の封建政権は、政治的には非常に専制的な形を取り、意識形態に関しては仏教と道教を融合した儒家道学(理学や心学を含む)を尊重し、外交に関しては鎖国の政策を取った。
鎖国・愚民の政策をとる強権政治の下では、国内に新しい階級が起こることもなく、国外から異文化を導入することも難しかった。
だから、この閉鎖的な社会体制には停滞と腐敗の趨勢が現れた。
明代の市民社会はにぎやかで、ある程度の商品経済の発達やいわゆる資本主義の芽生えが見られたが、階級による搾取や圧迫はかなり酷で、人民は屈辱や困苦の中であがくばかりだった。
清帝国の建国は中国の歴史的な進展を遅れさせた。統治者は儒家の思想によって専制政権を強化し、民族間の対立や階級の矛盾を調整しなければならなかった。
この時期は、保守的な動きによって社会の文化を損なった時期である。
かくして、明・清の時代には道教や仏教は急速に衰退し、教団も発展せず腐敗した。
この時代の封建政権は、政治的には非常に専制的な形を取り、意識形態に関しては仏教と道教を融合した儒家道学(理学や心学を含む)を尊重し、外交に関しては鎖国の政策を取った。
鎖国・愚民の政策をとる強権政治の下では、国内に新しい階級が起こることもなく、国外から異文化を導入することも難しかった。
だから、この閉鎖的な社会体制には停滞と腐敗の趨勢が現れた。
明代の市民社会はにぎやかで、ある程度の商品経済の発達やいわゆる資本主義の芽生えが見られたが、階級による搾取や圧迫はかなり酷で、人民は屈辱や困苦の中であがくばかりだった。
清帝国の建国は中国の歴史的な進展を遅れさせた。統治者は儒家の思想によって専制政権を強化し、民族間の対立や階級の矛盾を調整しなければならなかった。
この時期は、保守的な動きによって社会の文化を損なった時期である。
かくして、明・清の時代には道教や仏教は急速に衰退し、教団も発展せず腐敗した。
390: 世界@名無史さん 2019/04/03(水) 14:40:07.86 0
皇帝専制の官僚国家、明
遊蕩にふける引きこもり皇帝でさえ、その気になればいつでも大臣を罷免できるほどの絶対的な存在
フランスに先んじること2百年、15世紀に早くも絶対主義を実現した
遊蕩にふける引きこもり皇帝でさえ、その気になればいつでも大臣を罷免できるほどの絶対的な存在
フランスに先んじること2百年、15世紀に早くも絶対主義を実現した
391: 世界@名無史さん 2019/04/03(水) 14:47:32.13 0
「1人だけが自由人であり、あとの全員が奴隷」という社会
ヘーゲルも強い影響を受けた
ヘーゲルも強い影響を受けた
392: 世界@名無史さん 2019/04/03(水) 17:52:31.11 0
イメージとしては、明はフランスのブルボン王朝
清はドイツ帝国に似ている
清はドイツ帝国に似ている
393: 世界@名無史さん 2019/04/03(水) 17:55:04.68 0
ロシア帝国も、農奴制の国
アメリカ合衆国はアフリカから黒人を連れてきて奴隷にしたが、ロシア帝国は自国の国民を白人奴隷にした
中国とロシアで、何か相通じるものがある
モンゴル帝国の支配を受けると、そういう社会になるのだろうか
アメリカ合衆国はアフリカから黒人を連れてきて奴隷にしたが、ロシア帝国は自国の国民を白人奴隷にした
中国とロシアで、何か相通じるものがある
モンゴル帝国の支配を受けると、そういう社会になるのだろうか
397: 世界@名無史さん 2019/04/03(水) 18:12:47.72 0
>>393
明清の士大夫地主階層のもとで働く小作人ってのは、移動の自由のない農奴とは違うだろ。
小作人でも商売などで巧みに小金を貯めて、一族の優秀な若者を私塾に通わせて科挙官僚を出すのに成功すれば、士大夫地主階層にのし上がることができたし、逆に士大夫地主階層でも何代にもわたって一族から科挙官僚を出すことに失敗し続ければ、没落して小作人に転落しかねなかった。
また、ロシア帝国での「農奴制」ってのも、むしろ15世紀以降の「脱モンゴル化」の時代に進行したもので、ロシア帝国支配の残滓とはいいがたい。
ポストモンゴル時代の内陸ユーラシア世界で発展した中型帝国、特にオスマン帝国、サファビー朝、ムガル帝国、明清帝国を火器武装の充実のために中央集権化と中央財政の強化を極度に進めた、という観点から最近は「火薬帝国」という観点で分析する見方が出ているが、モスクワ大公国の中央集権化、徴税強化、農奴制の強化、というのも、この「火薬帝国」の観点で解釈できるんじゃなかろうか。
明清の士大夫地主階層のもとで働く小作人ってのは、移動の自由のない農奴とは違うだろ。
小作人でも商売などで巧みに小金を貯めて、一族の優秀な若者を私塾に通わせて科挙官僚を出すのに成功すれば、士大夫地主階層にのし上がることができたし、逆に士大夫地主階層でも何代にもわたって一族から科挙官僚を出すことに失敗し続ければ、没落して小作人に転落しかねなかった。
また、ロシア帝国での「農奴制」ってのも、むしろ15世紀以降の「脱モンゴル化」の時代に進行したもので、ロシア帝国支配の残滓とはいいがたい。
ポストモンゴル時代の内陸ユーラシア世界で発展した中型帝国、特にオスマン帝国、サファビー朝、ムガル帝国、明清帝国を火器武装の充実のために中央集権化と中央財政の強化を極度に進めた、という観点から最近は「火薬帝国」という観点で分析する見方が出ているが、モスクワ大公国の中央集権化、徴税強化、農奴制の強化、というのも、この「火薬帝国」の観点で解釈できるんじゃなかろうか。
394: 世界@名無史さん 2019/04/03(水) 17:58:03.36 0
でも、フランス王国ブルボン朝の「絶対王政」ってのは、あくまでも各種社団・身分団体間の絶妙なバランスの上に成立していたんであって、決して明朝の皇帝のような真の絶対権力などではなかった。
明朝の皇帝の絶対権力ってのは、やっぱり政権を支える士大夫地主層の身分としての不安定さが背景になっているんだろうな。
明朝の皇帝の絶対権力ってのは、やっぱり政権を支える士大夫地主層の身分としての不安定さが背景になっているんだろうな。
396: 世界@名無史さん 2019/04/03(水) 18:12:00.61 0
>>394
士大夫地主層は、「三代つづけて科挙に不合格だと、その家は没落する」とまで言われるほど、官職が必須だったからな
おそらく、官職につかないと、官僚に搾取され放題で身を守れなかったのだろう
皇帝とは運命共同体だ
士大夫地主層は、「三代つづけて科挙に不合格だと、その家は没落する」とまで言われるほど、官職が必須だったからな
おそらく、官職につかないと、官僚に搾取され放題で身を守れなかったのだろう
皇帝とは運命共同体だ
400: 世界@名無史さん 2019/04/03(水) 18:18:39.66 0
>小作人でも商売などで巧みに小金を貯めて、一族の優秀な若者を私塾に通わせて科挙官僚を出すのに成功すれば、士大夫地主階層にのし上がることができたし
それもそうだな
実際、ブルボン王朝時代のフランス知識人は、「身分が固定されていない。下層民でも出世できる」と、清の社会制度を称賛していた
それもそうだな
実際、ブルボン王朝時代のフランス知識人は、「身分が固定されていない。下層民でも出世できる」と、清の社会制度を称賛していた
401: 世界@名無史さん 2019/04/03(水) 18:26:45.86 0
「三代つづけて科挙に合格しない」、つまり、一族の誰も官職についていない状態だと、いくら地主でも財産を守れないほど社会的に弱い立場に立たされた
地主にとっては厳しい社会だ
漢の豪族なら、そんなことなかっただろう
明では、「民間は弱く、官吏は強し」の社会が定着した
地主にとっては厳しい社会だ
漢の豪族なら、そんなことなかっただろう
明では、「民間は弱く、官吏は強し」の社会が定着した
402: 世界@名無史さん 2019/04/03(水) 18:40:00.99 0
郷里社会で指導的な立場にある士大夫地主階層ですら、身内から官僚を出して自己防衛しないと国家による激しい収奪にさらされてしまう。
しかも、同じ身分で団結して「社団」を形成し、自らの権益を守るというルートが遮断されている。
これは、ある意味小作人より地主階層に厳しいというか、彼らが皇帝権力に強力な発言権を持つ団体を形成しないように仕向けている国家制度だよね。
ここら辺の国家制度の分析に「火薬帝国」の視点が援用できないかと考えているんだが、実は明朝の軍用火薬の原料の硫黄の巨大な供給源だったのが、日本や琉球王国との交易だったんだな。ここら辺で、明朝の専制支配と日本史がリンクしてくる。
しかも、同じ身分で団結して「社団」を形成し、自らの権益を守るというルートが遮断されている。
これは、ある意味小作人より地主階層に厳しいというか、彼らが皇帝権力に強力な発言権を持つ団体を形成しないように仕向けている国家制度だよね。
ここら辺の国家制度の分析に「火薬帝国」の視点が援用できないかと考えているんだが、実は明朝の軍用火薬の原料の硫黄の巨大な供給源だったのが、日本や琉球王国との交易だったんだな。ここら辺で、明朝の専制支配と日本史がリンクしてくる。
409: 世界@名無史さん 2019/04/03(水) 22:15:52.04 0
国家権力は、まさにリヴァイアサンと化した
官製学問を勉強して官吏登用試験に合格しなければ、国家に収奪されて、大地主でも没落する
現代の税制と違って、明清の税制は、地主への資産課税
ボヤボヤしてたら、国家に身ぐるみ剥がれる
官製学問を勉強して官吏登用試験に合格しなければ、国家に収奪されて、大地主でも没落する
現代の税制と違って、明清の税制は、地主への資産課税
ボヤボヤしてたら、国家に身ぐるみ剥がれる
410: 世界@名無史さん 2019/04/03(水) 22:18:13.93 0
それを防ぐための唯一の手段は、自分も官僚になって、収奪する側に回ること
「官僚になって蓄財すれば、孫の代まで困らない」と言われた
逆にいえば、子供や孫が科挙に合格できないと、せっかくの蓄財も食い潰すことになる
「官僚になって蓄財すれば、孫の代まで困らない」と言われた
逆にいえば、子供や孫が科挙に合格できないと、せっかくの蓄財も食い潰すことになる
411: 世界@名無史さん 2019/04/04(木) 06:59:15.53 0
いや、「清官三代」だ
孫子の代で使い果たしてしまう程度の財産しか残せないのは、賄賂を積極的に取らない清廉潔白な「清官」の場合
腐敗官僚の蓄財は、とてもそんなものではなかった
孫子の代で使い果たしてしまう程度の財産しか残せないのは、賄賂を積極的に取らない清廉潔白な「清官」の場合
腐敗官僚の蓄財は、とてもそんなものではなかった
456: 世界@名無史さん 2019/04/10(水) 20:10:06.89 0
官僚国家で学歴社会の明では、「三代つづけて科挙に不合格だと、その家は没落する」と言われた
その代わり、科挙に合格すれば、「清官三代」(清廉潔白な官僚でさえ、孫の代まで困らないほど蓄財できる)と言われるほど儲かった
官僚が儲かるということは、そのぶん、官位のない地主が収奪され、身ぐるみ剥がれて、官僚に所得移転するということ
三代で没落しないためには、一族の誰かが科挙に合格するしかなかった
その代わり、科挙に合格すれば、「清官三代」(清廉潔白な官僚でさえ、孫の代まで困らないほど蓄財できる)と言われるほど儲かった
官僚が儲かるということは、そのぶん、官位のない地主が収奪され、身ぐるみ剥がれて、官僚に所得移転するということ
三代で没落しないためには、一族の誰かが科挙に合格するしかなかった
458: 世界@名無史さん 2019/04/10(水) 20:23:30.79 0
財産は世襲できるが、官位は世襲できず一代限り
このため、科挙は熾烈な競争となった
このため、科挙は熾烈な競争となった
468: 世界@名無史さん 2019/04/11(木) 06:09:19.60 0
469: 世界@名無史さん 2019/04/11(木) 06:10:36.00 0
科挙が本格化したのは宋だが、まったくの科挙社会と化したのは明
学歴至上主義の弊害を絵にかいたような社会になった
学歴至上主義の弊害を絵にかいたような社会になった
470: 世界@名無史さん 2019/04/11(木) 06:12:55.09 0
科挙にもいろんなグレードがある
合格者が数十人しかいない「進士」は特別
もっと下のランクでも、合格する価値は十分に大きい
合格者が数十人しかいない「進士」は特別
もっと下のランクでも、合格する価値は十分に大きい
471: 世界@名無史さん 2019/04/11(木) 06:27:17.18 0
会試(中央でやる本試験)まで行けなくても郷試(各地の地元でやる予備試験)に合格しただけ(挙人)でも村の名士くらいにはなれた
474: 世界@名無史さん 2019/04/11(木) 10:07:42.58 0
科挙でまがりなりにも優秀な人材を獲得できたのは宋代までだな。
明代の科挙官僚の劣化は否めない。
科挙を受けない宦官の方が優秀じゃないか。
明代の科挙官僚の劣化は否めない。
科挙を受けない宦官の方が優秀じゃないか。
476: 世界@名無史さん 2019/04/11(木) 10:59:32.30 0
>>474
明代は官僚受難の時代
独裁者と化した皇帝にシゴかれ、命がけの宮仕えだった
宦官のほうが元気があった
明代は官僚受難の時代
独裁者と化した皇帝にシゴかれ、命がけの宮仕えだった
宦官のほうが元気があった
475: 世界@名無史さん 2019/04/11(木) 10:50:49.48 0
でも腐敗で王朝を潰したのは明の宦官
477: 世界@名無史さん 2019/04/11(木) 11:16:00.29 0
>>475
能力的に腐敗宦官に敵わないのが科挙官僚であることを証明してるだけでは?
もちろん腐敗宦官の弊害もあるが、一方で王朝が長期存続できたこと自体は宦官の働きが大きいと思うよ。科挙人は現実対応力がなく、実務に役立たない。宦官の方がマシだから。
ある意味、宦官組織からの掣肘があって初めて、科挙官僚が機能できた。
ついでに崇禎帝に殉じたのは宦官だけ。
官僚は全員、李自成に尻尾振る裏切り者。
信頼性、信用度でも疑問。
能力的に腐敗宦官に敵わないのが科挙官僚であることを証明してるだけでは?
もちろん腐敗宦官の弊害もあるが、一方で王朝が長期存続できたこと自体は宦官の働きが大きいと思うよ。科挙人は現実対応力がなく、実務に役立たない。宦官の方がマシだから。
ある意味、宦官組織からの掣肘があって初めて、科挙官僚が機能できた。
ついでに崇禎帝に殉じたのは宦官だけ。
官僚は全員、李自成に尻尾振る裏切り者。
信頼性、信用度でも疑問。
492: 世界@名無史さん 2019/04/11(木) 19:33:23.50 0
>>477
あのさぁ・・2万人いた宦官の中で殉じたのが王承恩だけってどこが義理堅いんですかねぇ
後金と内通して袁崇煥を刑死に追いやって明滅亡の遠因を作ったのも宦官連中なんだが
あのさぁ・・2万人いた宦官の中で殉じたのが王承恩だけってどこが義理堅いんですかねぇ
後金と内通して袁崇煥を刑死に追いやって明滅亡の遠因を作ったのも宦官連中なんだが
479: 世界@名無史さん 2019/04/11(木) 12:21:38.21 0
明で有名な宦官と言えば鄭和、王振、劉瑾、魏忠賢
立派な人物は鄭和くらいで、王振は帝をそそのかしてモンゴルへ親征させ、結果として大敗した。
劉瑾は正徳帝を遊び漬けにして賄賂を溜めこんだ挙句皇位簒奪を企み、魏忠賢は天啓帝が趣味の日曜大工に熱中している間にまたも賄賂を溜めこみ明を滅亡に追い込んだ。
心ある官僚は魏忠賢の息のかかった錦衣衛にみな拷問されて殺されている。
立派な人物は鄭和くらいで、王振は帝をそそのかしてモンゴルへ親征させ、結果として大敗した。
劉瑾は正徳帝を遊び漬けにして賄賂を溜めこんだ挙句皇位簒奪を企み、魏忠賢は天啓帝が趣味の日曜大工に熱中している間にまたも賄賂を溜めこみ明を滅亡に追い込んだ。
心ある官僚は魏忠賢の息のかかった錦衣衛にみな拷問されて殺されている。
480: 世界@名無史さん 2019/04/11(木) 12:40:28.26 0
明の科挙官僚としては、張居正が断トツで有名だな
あとは楊士奇・楊栄・楊溥の「三楊」あたりか。
ちょうど、江戸幕府の保科正之、大老・酒井忠勝、老中・松平信綱、阿部忠秋、酒井忠清ら「寛永の遺老」みたいな感じで、明の全盛期を支えた
あとは楊士奇・楊栄・楊溥の「三楊」あたりか。
ちょうど、江戸幕府の保科正之、大老・酒井忠勝、老中・松平信綱、阿部忠秋、酒井忠清ら「寛永の遺老」みたいな感じで、明の全盛期を支えた
481: 世界@名無史さん 2019/04/11(木) 12:56:04.74 0
科挙に理系科目が無いのが痛いな
土木に農学、天文学、化け学、経済を教える学校はなかったのか
土木に農学、天文学、化け学、経済を教える学校はなかったのか
483: 世界@名無史さん 2019/04/11(木) 13:08:26.12 0
>>481
昔は「明算科」ってのがあって、算術の試験をやってたんだが
王安石の改革で進士科に一本化されて、なくなった
昔は「明算科」ってのがあって、算術の試験をやってたんだが
王安石の改革で進士科に一本化されて、なくなった
484: 世界@名無史さん 2019/04/11(木) 13:13:31.43 0
唐の最高学府・国子監では、算術もやっていた
それに習って作られた平安時代の大学寮にも、算術の科目はあった。
平安時代の貴族は、意外なほど算術の勉強してた
それに習って作られた平安時代の大学寮にも、算術の科目はあった。
平安時代の貴族は、意外なほど算術の勉強してた
491: 世界@名無史さん 2019/04/11(木) 18:51:54.97 0
明の末期に書かれた産業の科学学術書「天工開物」、筆者の宋応星は、郷試に受かって地方役人を歴任していた。だが明の滅亡に殉じて職を辞し、清には仕えなかった
調べてみたら、マテオ・リッチと親交のあった明末期の数学者、天文学者の徐光啓は
進士に及第してるんだね。
科挙に理系科目が無くとも、能力があれば自分で学べばいいわけだ
調べてみたら、マテオ・リッチと親交のあった明末期の数学者、天文学者の徐光啓は
進士に及第してるんだね。
科挙に理系科目が無くとも、能力があれば自分で学べばいいわけだ
501: 世界@名無史さん 2019/04/12(金) 03:58:19.60 0
>>491
徐光啓は、マテオ・リッチと親交というより、志願して弟子入りしたんじゃなかったっけ?
ユークリッドの「原論」を漢訳した。
杉田玄白の「解体新書」は18世紀の後半だから、二世紀ほど先んじている。
徐光啓みたいな人がもっといたら、明清は日本よりずっと早く西洋文明を取り入れていただろうが、
幼少の頃から四書五経で脳ミソをガチガチに固めてる連中じゃ、普通は無理。
徐光啓は、マテオ・リッチと親交というより、志願して弟子入りしたんじゃなかったっけ?
ユークリッドの「原論」を漢訳した。
杉田玄白の「解体新書」は18世紀の後半だから、二世紀ほど先んじている。
徐光啓みたいな人がもっといたら、明清は日本よりずっと早く西洋文明を取り入れていただろうが、
幼少の頃から四書五経で脳ミソをガチガチに固めてる連中じゃ、普通は無理。
514: 世界@名無史さん 2019/04/12(金) 10:14:49.15 0
>>501
モンゴル帝国の王侯は、教養としてユークリッド幾何学をたしなんでいたらしいね。
モンゴル帝国の王侯は、教養としてユークリッド幾何学をたしなんでいたらしいね。
518: 世界@名無史さん 2019/04/12(金) 17:09:38.98 0
朱元璋は成功し、李自成や洪秀全はなぜ失敗したのか?
520: 世界@名無史さん 2019/04/12(金) 20:10:27.88 0
>>518
失敗するほうが普通で、成功するのは奇跡
ちなみに、永楽帝のクーデターもそう
地方の皇族が反旗を掲げて独立するのはよくあることだが、鎮圧されるのが普通
失敗するほうが普通で、成功するのは奇跡
ちなみに、永楽帝のクーデターもそう
地方の皇族が反旗を掲げて独立するのはよくあることだが、鎮圧されるのが普通
524: 世界@名無史さん 2019/04/13(土) 00:18:57.45 0
>>520
永楽帝の死後には皇子が洪熙帝として即位したが肥満体系のせいで即位後一年で崩御した
あとを受けて洪熙帝の皇子、つまり永楽帝の孫が宣徳帝として即位した。
だが洪熙帝の弟、つまり新帝のおじが皇位簒奪をたくらんだ。
あたかも、かの靖難の役のようなぐあいだ。
しかし宣徳帝は果断に対応して乱を鎮め、叔父を監禁したあげく焼き殺した。
かの靖難の役も、建文帝が果断に対応していればすぐに鎮圧できたのに。
永楽帝の死後には皇子が洪熙帝として即位したが肥満体系のせいで即位後一年で崩御した
あとを受けて洪熙帝の皇子、つまり永楽帝の孫が宣徳帝として即位した。
だが洪熙帝の弟、つまり新帝のおじが皇位簒奪をたくらんだ。
あたかも、かの靖難の役のようなぐあいだ。
しかし宣徳帝は果断に対応して乱を鎮め、叔父を監禁したあげく焼き殺した。
かの靖難の役も、建文帝が果断に対応していればすぐに鎮圧できたのに。
525: 世界@名無史さん 2019/04/13(土) 01:17:11.67 0
>>524
靖難の変も、結果を見れば、なんだか歴史の必然みたいに思えるが、まったくそんなことはなくて奇跡の勝利。
南京政府の中央権力は強大で、必敗の戦だった。
四年にわたって粘り抜き、奇跡の逆転勝利。
永楽帝が何度も絶体絶命の危機を切り抜けたため、「建文帝が、叔父を殺すなと命じていたのでは」とも言われている。
靖難の変も、結果を見れば、なんだか歴史の必然みたいに思えるが、まったくそんなことはなくて奇跡の勝利。
南京政府の中央権力は強大で、必敗の戦だった。
四年にわたって粘り抜き、奇跡の逆転勝利。
永楽帝が何度も絶体絶命の危機を切り抜けたため、「建文帝が、叔父を殺すなと命じていたのでは」とも言われている。
528: 世界@名無史さん 2019/04/13(土) 08:05:01.72 0
永楽帝個人の強運もさることながら、「首都を王城の地・北京に戻せ」という、天の意思だったのだろう
530: 世界@名無史さん 2019/04/13(土) 10:57:33.11 0
>>528
普通、王朝を支える最強軍団は皇帝のおひざ元に置く。
ところが、大明では中華属領を回復せんとする大元ウルス(北元)と対峙していたために、東モンゴリアに対する前線拠点である北京(燕)の燕王のもとに最強軍団を置かざるを得なかった。
南京の皇帝直属軍と北京の燕王直属軍の倒錯した関係こそが、初期大明の抱えていた最大のひずみだった。
普通、王朝を支える最強軍団は皇帝のおひざ元に置く。
ところが、大明では中華属領を回復せんとする大元ウルス(北元)と対峙していたために、東モンゴリアに対する前線拠点である北京(燕)の燕王のもとに最強軍団を置かざるを得なかった。
南京の皇帝直属軍と北京の燕王直属軍の倒錯した関係こそが、初期大明の抱えていた最大のひずみだった。
536: 世界@名無史さん 2019/04/14(日) 15:08:52.67 0
>>530
藩王の反乱が成功したのは中国史上で燕王だけなのかな?
他は大体みんな最終的に鎮圧されてるよね?
建文帝を支えるべき知恵者、勇者、将士を洪武帝が皆殺しにしちゃうから。
残ったのは雑魚と頭でっかちの儒者だけ。
それでも兵力だけは圧倒的に有利で何度も追い詰めて、燕王自身も観念した場面があったんだよねぇ。
藩王の反乱が成功したのは中国史上で燕王だけなのかな?
他は大体みんな最終的に鎮圧されてるよね?
建文帝を支えるべき知恵者、勇者、将士を洪武帝が皆殺しにしちゃうから。
残ったのは雑魚と頭でっかちの儒者だけ。
それでも兵力だけは圧倒的に有利で何度も追い詰めて、燕王自身も観念した場面があったんだよねぇ。
537: 世界@名無史さん 2019/04/14(日) 17:45:39.80 0
>>536
唯一と言えるのかどうかは分からんけど、似たような事例(地方に封じられた皇族による反乱)思い浮かべると、ことごとく鎮圧されている
永楽帝だけが奇跡の大逆転勝利
唯一と言えるのかどうかは分からんけど、似たような事例(地方に封じられた皇族による反乱)思い浮かべると、ことごとく鎮圧されている
永楽帝だけが奇跡の大逆転勝利
538: 世界@名無史さん 2019/04/14(日) 18:00:10.54 0
>>537
上でもちょっと書いたけど、明では国家の中枢軍事力が近衛軍団と国防軍団に二分されて、
それぞれ南京と北京に配置されていた。
燕王の率いる軍は、他の中華王朝の藩王領国経営に必要とされた軍団の規模をはるかに超えていた。
多くの中華王朝における藩王の反乱は、中央軍と地方軍の抗争に過ぎなかったが、明の場合には国権を代表する二つの軍団がヘゲモニーを奪い合った戦いだった。
国防軍と中央軍の抗争という点でいえば、他の王朝における藩王の反乱と比較するべきものではなく、北魏における六鎮の乱に比肩すべき性格だったと言えるのではないか。
上でもちょっと書いたけど、明では国家の中枢軍事力が近衛軍団と国防軍団に二分されて、
それぞれ南京と北京に配置されていた。
燕王の率いる軍は、他の中華王朝の藩王領国経営に必要とされた軍団の規模をはるかに超えていた。
多くの中華王朝における藩王の反乱は、中央軍と地方軍の抗争に過ぎなかったが、明の場合には国権を代表する二つの軍団がヘゲモニーを奪い合った戦いだった。
国防軍と中央軍の抗争という点でいえば、他の王朝における藩王の反乱と比較するべきものではなく、北魏における六鎮の乱に比肩すべき性格だったと言えるのではないか。
539: 世界@名無史さん 2019/04/14(日) 18:05:48.06 0
ということは、北京と南京の対決だったということか
541: 世界@名無史さん 2019/04/14(日) 18:50:38.37 0
>>539
燕王の配下にモンゴル投降兵も結構いたはず。
南方vsモンゴルかも。
燕王の配下にモンゴル投降兵も結構いたはず。
南方vsモンゴルかも。
542: 世界@名無史さん 2019/04/14(日) 18:58:22.66 0
>>541
原初の大明建国のバックグラウンドになったのは江南人の武装難民軍閥。
明初の南京軍は多分これがベースになっていて、北京軍はこの基幹軍に北元からの投稿騎馬軍団を加えて北元と対峙していた。
つまり、燕王の反乱時の極東の軍事配置は、モンゴリアの北元モンゴル軍、北京の燕王のモンゴル江南混成軍、南京の江南軍、となっていた。
原初の大明建国のバックグラウンドになったのは江南人の武装難民軍閥。
明初の南京軍は多分これがベースになっていて、北京軍はこの基幹軍に北元からの投稿騎馬軍団を加えて北元と対峙していた。
つまり、燕王の反乱時の極東の軍事配置は、モンゴリアの北元モンゴル軍、北京の燕王のモンゴル江南混成軍、南京の江南軍、となっていた。
544: 世界@名無史さん 2019/04/14(日) 20:01:15.27 0
明代の軍戸制ってのがあるのだがこの軍戸ってのは中原に置き去りにされたり投降したモンゴル軍人を中心に編成されたもので燕王勢力も南京の禁軍もこの軍戸が主力
江南にもモンゴル人っていたの?って思うかもしれないが雲南には二小王国の一つの梁王国があった洪武帝の頃に併合されてるから
江南にもモンゴル人っていたの?って思うかもしれないが雲南には二小王国の一つの梁王国があった洪武帝の頃に併合されてるから
545: 世界@名無史さん 2019/04/15(月) 06:20:32.43 0
>>544
南京政府軍側は50万人超の大量動員なんだが、その大半がモンゴル人で編成??
南京政府軍側は50万人超の大量動員なんだが、その大半がモンゴル人で編成??
546: 世界@名無史さん 2019/04/15(月) 09:26:00.95 0
>>545
多分、精鋭騎兵がモンゴル系軍戸で、数で制する歩兵が江南系なんじゃないかなぁ。
明朝では砲兵隊も成立していたから、歩兵の威力もかなり増しているし。
多分、精鋭騎兵がモンゴル系軍戸で、数で制する歩兵が江南系なんじゃないかなぁ。
明朝では砲兵隊も成立していたから、歩兵の威力もかなり増しているし。
548: 世界@名無史さん 2019/04/15(月) 13:02:10.15 0
>>546
15世紀初頭の靖難の変に、砲兵隊がいたのか?
15世紀初頭の靖難の変に、砲兵隊がいたのか?
549: 世界@名無史さん 2019/04/15(月) 14:32:59.32 0
>>548
靖難の変の時点では、中国の砲兵はもっぱらロケット砲や火炎放射器、投石機による炸裂弾投擲。
16世紀に原始的な後装砲のフランキ砲が普及する。
黒色火薬の時代には、ロケット砲や火炎放射器は小銃や大砲のような火薬の燃焼ガスで筒の中の実体弾を押し出して飛ばす火砲に威力が劣ったが、20世紀になって炸薬や焼夷剤の進歩によってふたたび日の目を見るようになる。
靖難の変の時点では、中国の砲兵はもっぱらロケット砲や火炎放射器、投石機による炸裂弾投擲。
16世紀に原始的な後装砲のフランキ砲が普及する。
黒色火薬の時代には、ロケット砲や火炎放射器は小銃や大砲のような火薬の燃焼ガスで筒の中の実体弾を押し出して飛ばす火砲に威力が劣ったが、20世紀になって炸薬や焼夷剤の進歩によってふたたび日の目を見るようになる。
550: 世界@名無史さん 2019/04/15(月) 17:13:21.45 0
明代の戦争は、火薬玉が炸裂しまくって、猛威を振るってたんだな
「やあやあ我こそは、関羽雲長なるぞー!」みたいな古代の戦争とは、まるきり様変わりだ
「やあやあ我こそは、関羽雲長なるぞー!」みたいな古代の戦争とは、まるきり様変わりだ
551: 世界@名無史さん 2019/04/15(月) 17:23:13.51 0
>>550
確かヌルハチは明軍のフランキ砲の砲弾の雨の中で負傷して死んだんじゃなかったっけ。
確かヌルハチは明軍のフランキ砲の砲弾の雨の中で負傷して死んだんじゃなかったっけ。
553: 世界@名無史さん 2019/04/15(月) 17:43:17.28 0
>>551
それは、袁崇煥がポルトガルから輸入した最新鋭の大砲
明にそんな技術があったわけではない
それは、袁崇煥がポルトガルから輸入した最新鋭の大砲
明にそんな技術があったわけではない
554: 世界@名無史さん 2019/04/15(月) 17:53:13.86 0
中国では宋代から明代まで、どちらかというと火薬兵器に焼夷効果、毒ガスの燻蒸剤としての効果に偏って期待を持ってきたきらいがある。そのために、金属の管から実体弾を火薬の燃焼ガスによって発射するタイプの兵器の開発がヨーロッパやイスラーム世界と比べて後れを取ってきた。
宋代に契丹や西夏との国境に大規模配備していた火薬兵器も、どちらかというと火薬の燃焼による火炎放射器みたいな兵器が主体だったみたいだ。
宋代に契丹や西夏との国境に大規模配備していた火薬兵器も、どちらかというと火薬の燃焼による火炎放射器みたいな兵器が主体だったみたいだ。
555: 世界@名無史さん 2019/04/15(月) 19:02:28.44 0
そう、それは言える
宋や明の火器は、「鉄砲」というより「火薬玉」
宋や明の火器は、「鉄砲」というより「火薬玉」
557: 世界@名無史さん 2019/04/16(火) 07:57:53.10 0
しかし、やはり、モンゴル騎馬兵と火器の威力は絶大だった
古代や中世に比べ、正規軍が格段に強くなったおかげで、帝国の強権支配が実現した
古代や中世に比べ、正規軍が格段に強くなったおかげで、帝国の強権支配が実現した
引用元: ・明清帝国 二
今の中国は秦っぽい所がある
明は鎖国的だからある意味、日本とかは楽