1: ハリウッド級 04/06/26 23:58
王玄策 おうげんさく
生没年不明 中国、唐の太宗朝の役人。
641年、インドのマガダ国王シーラディティヤが唐に使節を送ったので、唐は李義表を正使に、王玄策を副使として帰国に祭して随伴させ、643年長安を出発してマガダ国へ。646年に帰国した。
翌年、王玄策は正使として再びインドにむかったが、シーラディティヤ没後の北インドではティラブックティ国王阿羅那順が王位を纂奪しており、王玄策の入国を拒否し、さらに捕えて投獄した。
何とか脱出した王玄策は帰国せず、なんとチベットとネパールから兵を借りて阿羅那順のゾウ軍団を破り、捕えて648年に帰国し、太宗に献じた。
658年にもインドに行き、翌年ヴリジ国に到着。お寺参りをして同年に帰国した。
この人、特に出世したとかそんな事も無いようで・・・。
恐るべき大唐帝国。一国を攻め取ったのに平然としてる。
ということで、詳しい人、語ってくださいな。
生没年不明 中国、唐の太宗朝の役人。
641年、インドのマガダ国王シーラディティヤが唐に使節を送ったので、唐は李義表を正使に、王玄策を副使として帰国に祭して随伴させ、643年長安を出発してマガダ国へ。646年に帰国した。
翌年、王玄策は正使として再びインドにむかったが、シーラディティヤ没後の北インドではティラブックティ国王阿羅那順が王位を纂奪しており、王玄策の入国を拒否し、さらに捕えて投獄した。
何とか脱出した王玄策は帰国せず、なんとチベットとネパールから兵を借りて阿羅那順のゾウ軍団を破り、捕えて648年に帰国し、太宗に献じた。
658年にもインドに行き、翌年ヴリジ国に到着。お寺参りをして同年に帰国した。
この人、特に出世したとかそんな事も無いようで・・・。
恐るべき大唐帝国。一国を攻め取ったのに平然としてる。
ということで、詳しい人、語ってくださいな。
4: ハリウッド級 04/06/27 09:43
この人、なにげにすごくね?
6: 世界@名無史さん 04/06/27 11:58
朝散大夫になったよ
7: 世界@名無史さん 04/06/27 12:04
映画化できそう。
11: 世界@名無史さん 04/06/27 16:41
戦利品を書くときに虜囚の数の次に雑畜の数を書くのって対遊牧民戦の時なんだよね
インドって遊牧国家だったのか?なんかうそ臭い記事だね、こりゃ
インドって遊牧国家だったのか?なんかうそ臭い記事だね、こりゃ
13: 世界@名無史さん 04/06/27 17:01
>>11
王玄策が紀行した北インドは550年頃にクプタ朝インドがグルジャラ族やエフタルの侵入によって滅亡している。
彼らはその後土着化ラージプートを構成する氏族となっている。
王玄策はクプタ朝滅亡後動乱に揺れる北インドを旅するが、この頃はまだ土着化が終了していない。
王玄策が紀行した北インドは550年頃にクプタ朝インドがグルジャラ族やエフタルの侵入によって滅亡している。
彼らはその後土着化ラージプートを構成する氏族となっている。
王玄策はクプタ朝滅亡後動乱に揺れる北インドを旅するが、この頃はまだ土着化が終了していない。
ラージプート(英語:Rajput)は、現在のラージャスターン州に居住する民族であり、クシャトリヤを自称するカースト集団。サンスクリット語のラージャプトラ(王子の意味)からきた言葉で、インド正統的な戦士集団たるクシャトリヤの子孫であることを意味する。
7世紀から13世紀までの、群雄割拠の時代をラージプート時代と呼ぶ。
7世紀から13世紀までの、群雄割拠の時代をラージプート時代と呼ぶ。
12: 世界@名無史さん 04/06/27 16:53
そう言えばインドって当時は何国家なんだろ?
遊牧では無さそうなんだが・・・。
遊牧では無さそうなんだが・・・。
14: 世界@名無史さん 04/06/27 17:29
>>12
アショーカ王の統一以来近代に至るまで統一インドは出現していない
ムガル朝ですら南のラージプートらを完全に屈服できなんだ。
玄策が往来していた頃の北インドはエフタルら遊牧民と仏教国ヴァルダナ朝とヒンズー教国のベンガルの三大勢力が抗争していたが次第にヴァルダナが圧倒し北インドをほぼ制圧する頃だった。玄ちゃんはこのヴァルダナ国にいく途中で捕まってしまうんだな。
ちなみにヴァルダナ国には西遊記で有名な玄奘が訪ねている。
当時の事情については大唐西遊記が詳しいが読みにくかったら玄策より時代は前後するけど井上祐美子さんが書いた玄奘西域記という小説が出ていて面白いよ。
アショーカ王の統一以来近代に至るまで統一インドは出現していない
ムガル朝ですら南のラージプートらを完全に屈服できなんだ。
玄策が往来していた頃の北インドはエフタルら遊牧民と仏教国ヴァルダナ朝とヒンズー教国のベンガルの三大勢力が抗争していたが次第にヴァルダナが圧倒し北インドをほぼ制圧する頃だった。玄ちゃんはこのヴァルダナ国にいく途中で捕まってしまうんだな。
ちなみにヴァルダナ国には西遊記で有名な玄奘が訪ねている。
当時の事情については大唐西遊記が詳しいが読みにくかったら玄策より時代は前後するけど井上祐美子さんが書いた玄奘西域記という小説が出ていて面白いよ。
19: 世界@名無史さん 04/06/27 17:50
エフタル強すぎ。ササーン朝も弱体化させているわな。
ヴァルダナは西のベンガル東のエフタルをよくぞ圧倒したものだと感心するが、当時の会戦の記録は残っているのだろうか。
歴史にIFはないがハルシャ王に嗣子があればヴァルダナ朝が後世のイスラムの進入を防ぎ仏教文化圏が続いただろうか?
ヴァルダナは西のベンガル東のエフタルをよくぞ圧倒したものだと感心するが、当時の会戦の記録は残っているのだろうか。
歴史にIFはないがハルシャ王に嗣子があればヴァルダナ朝が後世のイスラムの進入を防ぎ仏教文化圏が続いただろうか?
38: 世界@名無史さん 04/06/28 23:01
>>19
> ヴァルダナは西のベンガル東のエフタルをよくぞ圧倒したものだと感心するが、当時の会戦の記録は残っているのだろうか。
ハルシャ・ヴァルダナが登場した7世紀初頭には、エフタル(フーナ)勢力はすっかり衰えていて、もはやたいした脅威じゃなかったよ。
5~6世紀に活躍したアフガニスタン方面のエフタルは6世紀後半に西突厥とササン朝の挟み撃ちにあって雲散霧消。
インド方面で活躍したフーナ(アフガニスタン方面のエフタルとは全く別勢力という説がある)のミヒラクラは、530年頃、マールワー王ヤショダルマンに撃退されてカシミールに撤退。カシミールのフーナがいつまで続いたかわからんが、7世紀はじめにはカルコタ朝が立っている。
西インドのフーナ残存勢力はまとまりもなく、そのうち土着民族と同化して後のラージプートになっていく。
> ヴァルダナは西のベンガル東のエフタルをよくぞ圧倒したものだと感心するが、当時の会戦の記録は残っているのだろうか。
ハルシャ・ヴァルダナが登場した7世紀初頭には、エフタル(フーナ)勢力はすっかり衰えていて、もはやたいした脅威じゃなかったよ。
5~6世紀に活躍したアフガニスタン方面のエフタルは6世紀後半に西突厥とササン朝の挟み撃ちにあって雲散霧消。
インド方面で活躍したフーナ(アフガニスタン方面のエフタルとは全く別勢力という説がある)のミヒラクラは、530年頃、マールワー王ヤショダルマンに撃退されてカシミールに撤退。カシミールのフーナがいつまで続いたかわからんが、7世紀はじめにはカルコタ朝が立っている。
西インドのフーナ残存勢力はまとまりもなく、そのうち土着民族と同化して後のラージプートになっていく。
フーナ
インドに侵入したエフタル族の呼称(インド語名)。エフタル族は5世紀半ばに,中央アジアから南下してグプタ朝支配下のインドに迫った。初期の侵略はスカンダグプタSkandagupta(在位455ころ-470ころ)によって撃退されたが,その後も侵略を繰り返し,グプタ朝の衰退をもたらした。
最盛期は5世紀末から6世紀前半に出たトーラマーナToramāṇa,ミヒラクラMihirakula父子の時代であり,その勢力はパンジャーブから中央インドにおよぶ広大なものとなった。しかし530年ごろミヒラクラは西部インドの勇将ヤショーダルマンYaśodarmanに敗れてカシミール方面に退き,フーナの栄光時代は終わった。
インドに侵入したエフタル族の呼称(インド語名)。エフタル族は5世紀半ばに,中央アジアから南下してグプタ朝支配下のインドに迫った。初期の侵略はスカンダグプタSkandagupta(在位455ころ-470ころ)によって撃退されたが,その後も侵略を繰り返し,グプタ朝の衰退をもたらした。
最盛期は5世紀末から6世紀前半に出たトーラマーナToramāṇa,ミヒラクラMihirakula父子の時代であり,その勢力はパンジャーブから中央インドにおよぶ広大なものとなった。しかし530年ごろミヒラクラは西部インドの勇将ヤショーダルマンYaśodarmanに敗れてカシミール方面に退き,フーナの栄光時代は終わった。
39: 世界@名無史さん 04/06/28 23:02
> 歴史にIFはないがハルシャ王に嗣子があればヴァルダナ朝が後世のイスラムの進入を防ぎ仏教文化圏が続いただろうか?
8~9世紀にイスラム勢力の東進を阻んでいたのは、アフガニスタンのテュルク勢力(カーブルのテュルク・シャーとザーブル)。9世紀末以降はカーブル・シャーを滅ぼしたヒンドゥー・シャーが対イスラム最前線で頑張っていた。ヒンドゥー・シャーは11世紀初にガズナ朝に滅ぼされイスラムのインド侵入が始まる。
王玄策とは関係なくてすまん。
8~9世紀にイスラム勢力の東進を阻んでいたのは、アフガニスタンのテュルク勢力(カーブルのテュルク・シャーとザーブル)。9世紀末以降はカーブル・シャーを滅ぼしたヒンドゥー・シャーが対イスラム最前線で頑張っていた。ヒンドゥー・シャーは11世紀初にガズナ朝に滅ぼされイスラムのインド侵入が始まる。
王玄策とは関係なくてすまん。
16: 世界@名無史さん 04/06/27 17:35
玄奘だけじゃなく、慧超、義浄、玄照、玄太なんかのことも知っておいた方がいいぞ。前二者は旅行記(地理書)もあるぞ。
それから文成公主も。吐蕃を何度も通過してる王玄策や玄照はだいぶ文成公主に世話になったらしい。
それから文成公主も。吐蕃を何度も通過してる王玄策や玄照はだいぶ文成公主に世話になったらしい。
17: 世界@名無史さん 04/06/27 17:37
それから1990年代に、王玄策がチベットからネパールへ抜ける途中に残した碑文が発見されてる。これで当時はキーロン・ルートが主要交易路だったことがわかった。
18: 世界@名無史さん 04/06/27 17:43
>>16
地理書の書物名を教えてほしいです。
地理書の書物名を教えてほしいです。
20: 世界@名無史さん 04/06/27 18:08
>>18
慧超のは『往五天竺国伝』。散佚していたが、ペリオが敦煌で発見した。『大唐西域記』よりも約百年後(720年頃)の記録で、『大唐西域記』と並んで、当時のインドに関しては貴重な記録。
桑山正進・編『慧超往五天竺国伝研究』京都大学 1992年 or 臨川書店 1998年で全文読めるし、詳しい解説・研究もある。
慧超のは『往五天竺国伝』。散佚していたが、ペリオが敦煌で発見した。『大唐西域記』よりも約百年後(720年頃)の記録で、『大唐西域記』と並んで、当時のインドに関しては貴重な記録。
桑山正進・編『慧超往五天竺国伝研究』京都大学 1992年 or 臨川書店 1998年で全文読めるし、詳しい解説・研究もある。
21: 世界@名無史さん 04/06/27 18:08
義浄のは『大唐西域求法高僧伝』。作は690年ころ。
この人は往復海路でインドに行ってきた。
自分の旅行記はほんの一部で、有名無名の求法僧約60人のインド行を記録してる。
日本じゃ玄奘ばっかり崇め奉られてるが、立派な坊さんはもっとたくさんいたんだよ。
玄奘が一番きっちり業績(訳経)も記録も残してるから仕方ないんだが。
伊藤丈・章輝玉・訳『大唐西域求法高僧伝・海東高僧伝』大東出版社 1993年で読めるけど、足立喜六・訳注『大唐西域求法高僧伝』岩波書店 1942年の方が解説は断然詳しいよ。
この人は往復海路でインドに行ってきた。
自分の旅行記はほんの一部で、有名無名の求法僧約60人のインド行を記録してる。
日本じゃ玄奘ばっかり崇め奉られてるが、立派な坊さんはもっとたくさんいたんだよ。
玄奘が一番きっちり業績(訳経)も記録も残してるから仕方ないんだが。
伊藤丈・章輝玉・訳『大唐西域求法高僧伝・海東高僧伝』大東出版社 1993年で読めるけど、足立喜六・訳注『大唐西域求法高僧伝』岩波書店 1942年の方が解説は断然詳しいよ。
22: 世界@名無史さん 04/06/27 18:09
玄照という人は、チベット高原を西からラサまで横断した人で、カイラスにも行ってるらしい。
きちんと旅行記を残していれば大変貴重なものになったはずなんだが、インドで亡くなっているので何も書き残していない。義浄が少しでも書き残してくれただけでもよしとしようか。
きちんと旅行記を残していれば大変貴重なものになったはずなんだが、インドで亡くなっているので何も書き残していない。義浄が少しでも書き残してくれただけでもよしとしようか。
25: 世界@名無史さん 04/06/27 23:32
中国じゃ三国志なんかより王玄策の方が人気だとか?
28: 世界@名無史さん 04/06/27 23:42
>>25
本当に演義より人気あるなら古来より京劇で演じられているはず。
未だに北京京劇院で玄策が主人公の劇が捜索されたとは寡聞にして聞かない。
本当に演義より人気あるなら古来より京劇で演じられているはず。
未だに北京京劇院で玄策が主人公の劇が捜索されたとは寡聞にして聞かない。
26: 世界@名無史さん 04/06/27 23:34
岳飛や劉秀や李世民の方が人気あると思うんだけど。
27: 世界@名無史さん 04/06/27 23:38
三国志演義より説岳全伝や東漢十二帝通俗演義とか隋唐演義が人口に膾炙しているとは思えないが、中天竺行記が現存していれば玄策もメジャーだったろうか。
49: 世界@名無史さん 04/07/01 08:47
映画化してほしぃ~!!!
主役の王玄策役は誰が良いかな?
主役の王玄策役は誰が良いかな?
50: 世界@名無史さん 04/07/01 19:42
王玄策のインド行きを小説にするとなると、当時の吐蕃やネパールについてどういう設定にするかで内容がかなり変わってくるだろうね。
諸説あるソンツェン・ガンポの年齢をどうするか?
文成公主はソンツェンに直接嫁いだのか?息子のグンソン・グンツェンに嫁いだのか?
ネパールから嫁いだティツンは、アムシュヴァルマンの娘か?ナレンドラデーヴァの娘か?
アルジュナ退治については、ネタは旧唐書、新唐書など中国側の史料しかないわけだからどうせ「×万人殺した」「580城を占領」なんていう中国側にだけ都合のいい誇大表現をそのまま使うんだろうか?まさかね。
諸説あるソンツェン・ガンポの年齢をどうするか?
文成公主はソンツェンに直接嫁いだのか?息子のグンソン・グンツェンに嫁いだのか?
ネパールから嫁いだティツンは、アムシュヴァルマンの娘か?ナレンドラデーヴァの娘か?
アルジュナ退治については、ネタは旧唐書、新唐書など中国側の史料しかないわけだからどうせ「×万人殺した」「580城を占領」なんていう中国側にだけ都合のいい誇大表現をそのまま使うんだろうか?まさかね。
51: 世界@名無史さん 04/07/02 00:16
>>22の玄照も脇役として絡めれば結構面白い話が作れそうな気がする。
玄照のことを知ってればの話だけど。
玄照・玄恪・恵輪がパミールを越えた時期は、ちょうど王玄策の二度目の訪印(アルジュナ退治)と一致するんだが、この三人はインドへまっすぐ下っていかないで、どういうわけか吐蕃を回って文成公主に会ってからインドへ出ている。謎だ。
この辺の推理なんかも絡めれば面白いエピソードの一つになるかもね。
王玄策は、三度目の訪印(658-661)でも(たぶんブッダガヤーで)玄照に会っていて、帰朝後は高宗に奏上して、玄照を一時帰国させている。何か因縁ありげな二人。
玄照のことを知ってればの話だけど。
玄照・玄恪・恵輪がパミールを越えた時期は、ちょうど王玄策の二度目の訪印(アルジュナ退治)と一致するんだが、この三人はインドへまっすぐ下っていかないで、どういうわけか吐蕃を回って文成公主に会ってからインドへ出ている。謎だ。
この辺の推理なんかも絡めれば面白いエピソードの一つになるかもね。
王玄策は、三度目の訪印(658-661)でも(たぶんブッダガヤーで)玄照に会っていて、帰朝後は高宗に奏上して、玄照を一時帰国させている。何か因縁ありげな二人。
52: 世界@名無史さん 04/07/02 00:17
吐蕃道が中国-インドを直接結ぶ交通路として機能していたのは、640年~660年ころのわずか20年あまり。その短期間に3度もこのルートを往復している王玄策っておもしろい存在ではある。
この期間だけは吐蕃道を通ってインドへ行った坊さんもいた。貞観末(649頃)に通った道生、永徽年間(650~655)に通った玄太なんか。彼らも時期的に王玄策と絡めやすいね(実際関係があったかは別として)。
もう一つ面白いのは、王玄策の甥で智弘律師という人がいて、この人は670年代、海路でインドに行っている。エンディングあたりで登場させてもいいな。
この期間だけは吐蕃道を通ってインドへ行った坊さんもいた。貞観末(649頃)に通った道生、永徽年間(650~655)に通った玄太なんか。彼らも時期的に王玄策と絡めやすいね(実際関係があったかは別として)。
もう一つ面白いのは、王玄策の甥で智弘律師という人がいて、この人は670年代、海路でインドに行っている。エンディングあたりで登場させてもいいな。
54: 世界@名無史さん 04/07/02 20:30
7世紀後半に、海路でインドに向かった遣使に 王玄廓 という人がいる。やっぱり詳しい経歴はわかんないんだけど、この人も王玄策の親戚かもしんないね。
当時のインド政情も記録が残ってないし、いったい誰に遣使を出したのかもわからん。第一
王玄廓 自身、無事に帰ってきたのやら?(同行の彼岸、智岸はインド到着前に亡くなった)
当時のインド政情も記録が残ってないし、いったい誰に遣使を出したのかもわからん。第一
王玄廓 自身、無事に帰ってきたのやら?(同行の彼岸、智岸はインド到着前に亡くなった)
53: 世界@名無史さん 04/07/02 20:15
映画化するなら王玄策ってどんなタイプの人間が良いかな?
私は忠臣蔵の大石内蔵助タイプが希望。
唐の本国ではあんまりうだつのあがらない文官役人だったけど実はすごい知将だったとか。
その方が面白そう。
私は忠臣蔵の大石内蔵助タイプが希望。
唐の本国ではあんまりうだつのあがらない文官役人だったけど実はすごい知将だったとか。
その方が面白そう。
55: 世界@名無史さん 04/07/03 10:15
王玄策の役職名は、
第一次遣使(643-645?)のときは「前・(広西)融州黄水県令」(『法苑珠林』)
第二次遣使(646-648)のときは「右衛率府長史」(『両唐書』)
第三次遣使(658-661)のときは「左驍衛長史」(『大唐天竺出使銘』)
この感じだと武官でしょうね。
ただ、第二次遣使のアルジュナ事件では、率いてきた使節団(数十騎)は全滅しちゃって、吐蕃+ネパールに助けを求めたわけでしょ?言葉も通じない他国の軍隊を自由自在に指揮できたとは思えない。
吐蕃軍がインド平原部に強いとも思えないし、実際指揮をとっていたのはネパールの将軍(無名)だったんじゃないかな。
第一次遣使(643-645?)のときは「前・(広西)融州黄水県令」(『法苑珠林』)
第二次遣使(646-648)のときは「右衛率府長史」(『両唐書』)
第三次遣使(658-661)のときは「左驍衛長史」(『大唐天竺出使銘』)
この感じだと武官でしょうね。
ただ、第二次遣使のアルジュナ事件では、率いてきた使節団(数十騎)は全滅しちゃって、吐蕃+ネパールに助けを求めたわけでしょ?言葉も通じない他国の軍隊を自由自在に指揮できたとは思えない。
吐蕃軍がインド平原部に強いとも思えないし、実際指揮をとっていたのはネパールの将軍(無名)だったんじゃないかな。
58: 世界@名無史さん 04/07/05 20:07
竜門石窟寺院で王玄策が奉納した(銘がある)仏像が発見されたそうだ