
1: 日本@名無史さん 2008/11/13(木) 12:18:29
徳川将軍家は三代・十五代除いてかなり身分が低い人が多かった。
下級藩士でも良い方、八百屋の娘というのも諸侯の中でも庶民出身側室の娘ってのは珍しくないが徳川将軍家は突出している。
その出身の低さ故、幕臣や大奥とはかなり色々あったはず
それらについて語ろう。
下級藩士でも良い方、八百屋の娘というのも諸侯の中でも庶民出身側室の娘ってのは珍しくないが徳川将軍家は突出している。
その出身の低さ故、幕臣や大奥とはかなり色々あったはず
それらについて語ろう。
2: 日本@名無史さん 2008/11/13(木) 12:48:23
生母一覧 三代以降
家光 お江与(言うまでも無し)
家綱 宝樹院(農民の娘)
綱吉 桂昌院(西陣織屋・八百屋の娘説あり)
家宣 長昌院(魚屋の娘)
家継 月光院(住職の娘、諸説あり)
吉宗 浄円院(百姓の娘)
家重 深徳院(紀伊藩家臣の娘)
家治 至心院(公家梅渓通条の娘)
家斉 お富の方(紀伊藩家臣の娘)
家慶 香琳院(小姓の娘)
家定 本寿院(旗本の娘)
家茂 実成院(紀州藩高家の娘)
慶喜 吉子女王(有栖川宮織仁親王の九女)
家光 お江与(言うまでも無し)
家綱 宝樹院(農民の娘)
綱吉 桂昌院(西陣織屋・八百屋の娘説あり)
家宣 長昌院(魚屋の娘)
家継 月光院(住職の娘、諸説あり)
吉宗 浄円院(百姓の娘)
家重 深徳院(紀伊藩家臣の娘)
家治 至心院(公家梅渓通条の娘)
家斉 お富の方(紀伊藩家臣の娘)
家慶 香琳院(小姓の娘)
家定 本寿院(旗本の娘)
家茂 実成院(紀州藩高家の娘)
慶喜 吉子女王(有栖川宮織仁親王の九女)
8: 日本@名無史さん 2008/11/14(金) 08:49:52
>>2
後半はわりとまともだな
後半はわりとまともだな
4: 日本@名無史さん 2008/11/13(木) 18:29:02
家継の時代幕府の最高権力は、猿楽師と出自もはっきりしない娘が握っていたのだから
そりゃ幕閣や天英院は怒るわな。
もっとも徳川よりはるかに歴史のある外様から見たら滑稽だっかも知れないが
そりゃ幕閣や天英院は怒るわな。
もっとも徳川よりはるかに歴史のある外様から見たら滑稽だっかも知れないが
間部 詮房(まなべ あきふさ)は、江戸時代中期の大名。相模厚木藩主、上野高崎藩主、越後村上藩間部氏初代藩主。側用人、老中格。徳川家宣・家継の2代にわたり、将軍の側近として幕政を主導した。
日本の歴史上において、猿楽師であった者が大名になった例は他にない。また、家継時代の詮房を実質的な国政の最高責任者(執政、首相)と位置付けた場合、日本史上で芸能出身者がこの地位にのぼった唯一の例である。
日本の歴史上において、猿楽師であった者が大名になった例は他にない。また、家継時代の詮房を実質的な国政の最高責任者(執政、首相)と位置付けた場合、日本史上で芸能出身者がこの地位にのぼった唯一の例である。
月光院(げっこういん、貞享2年(1685年) - 宝暦2年9月19日(1752年10月25日))は、江戸幕府6代将軍・徳川家宣の側室で、7代将軍徳川家継の生母。本名は勝田輝子(かつたてるこ)で、家宣が死去してから月光院と呼ばれる。
「徳川実紀」に記載はないが、「三王外記」には「章王(家継)幼く、月光夫人の所に在り。即ち昼夜無く詮房(間部詮房)独り之に従う、因りて夫人と通ず」とあり、間部詮房との艶聞が記載されている。
「徳川実紀」に記載はないが、「三王外記」には「章王(家継)幼く、月光夫人の所に在り。即ち昼夜無く詮房(間部詮房)独り之に従う、因りて夫人と通ず」とあり、間部詮房との艶聞が記載されている。
5: 日本@名無史さん 2008/11/13(木) 21:36:54
側室候補となる女官は公家の姫と決まっていた皇室と異なり大奥女中には百姓の娘でも町人の娘でもなることができたから将軍生母に身分の低い娘がいることは当たり前といえば当たり前
それより側用人が猿楽師っていうほうがすごいな
将軍家宣の大のお気に入りで甲府から連れてきたらしいが家宣は男色でもあったのだろうか
それがいつのまにか自分の側室と噂になろうとはな
それより側用人が猿楽師っていうほうがすごいな
将軍家宣の大のお気に入りで甲府から連れてきたらしいが家宣は男色でもあったのだろうか
それがいつのまにか自分の側室と噂になろうとはな
7: 日本@名無史さん 2008/11/14(金) 02:00:19
月光院や桂昌院の悪行は俗説に過ぎないよな。
身分が低くて出自も不確かな者へのやっかみか、将軍家や幕政への不満の裏返しなんかね。
身分が低くて出自も不確かな者へのやっかみか、将軍家や幕政への不満の裏返しなんかね。
桂昌院(寛永4年(1627年) - 宝永2年6月22日(1705年8月11日))は、江戸幕府3代将軍・徳川家光の側室で、5代将軍・綱吉の生母。寛永16年(1639年)に部屋子として家光の側室・お万の方に仕え、後に春日局の目にとまり、「秋野」という候名で、局の指導を受けるようになる。長じて将軍付き御中臈となり、家光に見初められて側室となり、正保3年(1646年)1月に綱吉を産んだ。
9: 日本@名無史さん 2008/11/14(金) 09:14:40
お江与、桂昌院、月光院、本寿院以外はあんまり目立った行動はしてないな。
大抵息子の将軍就任前に死去してる。
大抵息子の将軍就任前に死去してる。
13: 日本@名無史さん 2008/11/14(金) 12:42:47
家慶と家定の生母の押田氏と跡部氏の家柄は悪くない。
15: 日本@名無史さん 2008/11/14(金) 18:58:20
>>13
押田氏は清和源氏の家柄だっけ。跡部氏は甲斐源氏庶流の跡部氏?
だったら両家とも徳川家より家柄いいんじゃないか。
押田氏は清和源氏の家柄だっけ。跡部氏は甲斐源氏庶流の跡部氏?
だったら両家とも徳川家より家柄いいんじゃないか。
14: 日本@名無史さん 2008/11/14(金) 13:55:20
家治のママンは婚期逃して家重正室の付き人として江戸に上がった(下った?)のに何故か家重に見初められ世継ぎを産んだから実家もびっくりだったろうなw
16: 日本@名無史さん 2008/11/14(金) 20:24:57
>>14
その至心院も家治を産んだ後は、安祥院に寵愛を奪われたな
その至心院も家治を産んだ後は、安祥院に寵愛を奪われたな
17: 日本@名無史さん 2008/11/14(金) 20:53:31
>>14
至心院は生年不詳じゃなかったっけ?
何歳で家治に召されたのかわからず、婚期を逃したかどうかわからない。
大奥のしきたりに従えば若くない女性は将軍に侍ることができなかったはずだし。
大名家はこの限りじゃなかったと思うけどね。
最後の将軍慶喜の母有栖川宮吉子女王は当時としては遅い27歳初婚で徳川斉昭に嫁ぎ、慶喜を産んだ時は35歳だったから。
至心院は生年不詳じゃなかったっけ?
何歳で家治に召されたのかわからず、婚期を逃したかどうかわからない。
大奥のしきたりに従えば若くない女性は将軍に侍ることができなかったはずだし。
大名家はこの限りじゃなかったと思うけどね。
最後の将軍慶喜の母有栖川宮吉子女王は当時としては遅い27歳初婚で徳川斉昭に嫁ぎ、慶喜を産んだ時は35歳だったから。
18: 日本@名無史さん 2008/11/15(土) 01:11:25
御台所で生んだのは3代15代だけか
よく俗説で「朝廷の影響力拡大を恐れて御台所に子供は作らせない」ってのは本当だろうか?
その割には天英院の影響力は強かったが
よく俗説で「朝廷の影響力拡大を恐れて御台所に子供は作らせない」ってのは本当だろうか?
その割には天英院の影響力は強かったが
29: 日本@名無史さん 2008/11/15(土) 20:42:08
>>18
御台所を生母とする将軍は3代家光だけだよ
将軍慶喜の父斉昭は水戸藩主であって将軍ではない
当然母吉子女王も水戸藩主の室にすぎず御台所ではないから
御台所を生母とする将軍は3代家光だけだよ
将軍慶喜の父斉昭は水戸藩主であって将軍ではない
当然母吉子女王も水戸藩主の室にすぎず御台所ではないから
21: 日本@名無史さん 2008/11/15(土) 06:18:48
身分が低くてかつ影響力があったのは桂昌院、月光院、浄円院だけじゃない?
浄円院(じょうえんいん、明暦元年(1655年) - 享保11年6月9日(1726年7月8日))は、紀州藩主徳川光貞の側室で、江戸幕府8代将軍徳川吉宗の生母。
27: 日本@名無史さん 2008/11/15(土) 15:03:35
>>21
浄圓院って影響力があるの?
本寿院や慈徳院も権勢を振るったね。
浄圓院って影響力があるの?
本寿院や慈徳院も権勢を振るったね。
22: 日本@名無史さん 2008/11/15(土) 10:16:04
家重生母、宗武生母、宗尹生母、家治生母と悉く短命。
吉宗は将軍になった経緯も胡散臭いものがあるし、外戚を影響を排除する為に暗殺したんじゃないかとも思えてくる。
吉宗は将軍になった経緯も胡散臭いものがあるし、外戚を影響を排除する為に暗殺したんじゃないかとも思えてくる。
23: 日本@名無史さん 2008/11/15(土) 11:43:59
西国大名と東北の佐竹あたりはあまり身分の低すぎる側室は避ける傾向があるね。
伝統からくるプライドだろうか
伝統からくるプライドだろうか
25: 日本@名無史さん 2008/11/15(土) 12:46:01
まぁ身分が高い出の側室だったら安全というわけじゃないけどね
前田家の息のかかっている側室が何度か前田家から将軍だそうとしているし
まぁこれは前田家が実質準親藩化していたってのもあるけど
前田家の息のかかっている側室が何度か前田家から将軍だそうとしているし
まぁこれは前田家が実質準親藩化していたってのもあるけど
26: 日本@名無史さん 2008/11/15(土) 14:01:56
前田から将軍を出そうとした側室ってのは専行院の事を言ってんの?他にいたっけ?
専行院は身分低いな
専行院は身分低いな
31: 日本@名無史さん 2008/11/17(月) 16:12:08
近世以降は、どこの家でも身分の高い女性が子供を産まなくなってる気がする
32: 日本@名無史さん 2008/11/17(月) 22:53:44
確か、家綱生母の宝樹院、お楽の方は死刑人の娘だったという記憶があるが、本当のところは?
死刑人の娘ってことは、部落(士農工商の下)身分だったってことだよね。個人的には全く何も思わないが、今でも何かと差別があるのに、当時はどんなだったのだろうか?
死刑人の娘ってことは、部落(士農工商の下)身分だったってことだよね。個人的には全く何も思わないが、今でも何かと差別があるのに、当時はどんなだったのだろうか?
宝樹院(ほうじゅいん、1621年(元和7年) - 1653年1月1日(承応元年12月2日))は、江戸幕府3代将軍徳川家光の側室、4代将軍徳川家綱の生母。下野国都賀郡高島村(現・栃木県栃木市大平地域)の農民(後に下級武士)青木三太郎利長の娘(朝倉惣兵衛の子とも)。父は江戸に出て旗本の朝倉家に仕官するが、主君の金を使い込み江戸を追われ鹿麻村で蟄居となり、のち禁猟とされていた鶴を撃ったため死罪となる。
51: 日本@名無史さん 2008/11/20(木) 10:54:39
>>32
宝樹院の妹も高家の品川高如に嫁いでるしそこまで低い身分じゃないだろう
宝樹院の妹も高家の品川高如に嫁いでるしそこまで低い身分じゃないだろう
33: 日本@名無史さん 2008/11/18(火) 02:52:33
足利将軍家の生母達はどうなの?
34: 日本@名無史さん 2008/11/18(火) 03:52:44
大半が日野か近衛家から
少なくとも下級武士や庶民出身のはない>足利将軍家
少なくとも下級武士や庶民出身のはない>足利将軍家
35: 日本@名無史さん 2008/11/18(火) 12:35:46
参考までに
尊氏 上杉清子(上杉頼重の娘)
義詮 赤橋登子(北条久時の娘)
義満 紀良子(紀通清の娘)
義持 藤原慶子(安芸法眼の娘)
義量 日野栄子(日野資康の娘)
義教 藤原慶子(安芸法眼の娘)
義勝 日野重子(日野重光の娘)
義政 日野重子(日野重光の娘)
義尚 日野富子(日野重政の娘)
義稙 日野重政の娘
義澄 武者小路隆光の娘
義晴 日野永俊の娘
義輝 慶寿院(近衛尚通の娘)
義栄 大内義興の娘
義昭 慶寿院(近衛尚通の娘)
尊氏 上杉清子(上杉頼重の娘)
義詮 赤橋登子(北条久時の娘)
義満 紀良子(紀通清の娘)
義持 藤原慶子(安芸法眼の娘)
義量 日野栄子(日野資康の娘)
義教 藤原慶子(安芸法眼の娘)
義勝 日野重子(日野重光の娘)
義政 日野重子(日野重光の娘)
義尚 日野富子(日野重政の娘)
義稙 日野重政の娘
義澄 武者小路隆光の娘
義晴 日野永俊の娘
義輝 慶寿院(近衛尚通の娘)
義栄 大内義興の娘
義昭 慶寿院(近衛尚通の娘)
36: 日本@名無史さん 2008/11/18(火) 23:13:48
室町将軍家の場合は、側室でもそこそこの出自だしね。
義満などは人妻を召し上げたりもしてるし。
たしか、母親の身分が低いのは足利義維だったような。
家康も、側室の出自は結構有力な家や、良い血筋の女子が多い。
家光以降だよね、側室の出自が明らかに下がり始めるのは
義満などは人妻を召し上げたりもしてるし。
たしか、母親の身分が低いのは足利義維だったような。
家康も、側室の出自は結構有力な家や、良い血筋の女子が多い。
家光以降だよね、側室の出自が明らかに下がり始めるのは
39: 日本@名無史さん 2008/11/19(水) 00:19:03
家光以降というか家光からその孫までが下層の側室が多い。
吉宗生母の巨勢氏はお風呂番だった説があるが自称古代豪族の巨勢氏の末裔。
桂昌院は八百屋の娘だが、母親が二条家の家司に再嫁できたことを考えてもそうとう有力な商人の家柄だったのではないか?
吉宗生母の巨勢氏はお風呂番だった説があるが自称古代豪族の巨勢氏の末裔。
桂昌院は八百屋の娘だが、母親が二条家の家司に再嫁できたことを考えてもそうとう有力な商人の家柄だったのではないか?
55: 日本@名無史さん 2008/11/21(金) 20:50:58
>>39
「徳川実記」によれば桂昌院の父は二条家の家士・北小路太郎兵衛宗正、母は鍋田氏。
ただ桂昌院が従一位になったときに都に落書が立てられ北大路は桂昌院の養父であり実父は八百屋だの畳屋だのいろんな説が流れたという
もっとも桂昌院の実父が名乗り出たわけでも特定された記述があるわけでもない
「徳川実記」には北大路を養父だとは書いておらず一次史料で桂昌院の母が再婚だということ(桂昌院の父はほかにいる)を裏付けるものは残っていない
「徳川実記」によれば桂昌院の父は二条家の家士・北小路太郎兵衛宗正、母は鍋田氏。
ただ桂昌院が従一位になったときに都に落書が立てられ北大路は桂昌院の養父であり実父は八百屋だの畳屋だのいろんな説が流れたという
もっとも桂昌院の実父が名乗り出たわけでも特定された記述があるわけでもない
「徳川実記」には北大路を養父だとは書いておらず一次史料で桂昌院の母が再婚だということ(桂昌院の父はほかにいる)を裏付けるものは残っていない
42: 日本@名無史さん 2008/11/19(水) 00:34:54
「実は○○の武士でした」って説がある場合はむしろ身分が低くて後付けしているっていう見方も
58: 日本@名無史さん 2008/11/21(金) 21:53:24
将軍の側室にすぎない桂昌院が従一位になるのは異例の事態。
八百屋の娘だというのが本当なら桂昌院はさながら女太閤。
八百屋の娘だというのが本当なら桂昌院はさながら女太閤。
59: 日本@名無史さん 2008/11/21(金) 22:00:00
綱吉がいかに自分の母親の出自にコンプレックスを持っていたかということの裏返しでもあるわけだが。
綱吉は元々出自がいい摂家出身の自分の御台所鷹司信子なんかには従一位を求めていないわけだから。
綱吉は元々出自がいい摂家出身の自分の御台所鷹司信子なんかには従一位を求めていないわけだから。
70: 日本@名無史さん 2008/11/25(火) 21:59:03
>>59
けど家綱も生母に従一位を贈ろうとはしてないし、宝樹院と桂昌院の身分にそれほど差があるとは思えない。
けど家綱も生母に従一位を贈ろうとはしてないし、宝樹院と桂昌院の身分にそれほど差があるとは思えない。
71: 日本@名無史さん 2008/11/26(水) 21:38:46
>>70
家綱は常識的な将軍だったからだろ。家光が30半ばになってからようやく儲けた長男で、幼いころから厳しい教育も受けていたし。子女に恵まれなかったが。
綱吉はまさか将軍になるとは思わなかった三男坊。
綱吉に決まるまでには紆余曲折もあったし、そういうことを吹っ飛ばさせるのが生母の従一位だったりするわけだろ。
桂昌院は京の生まれだし、父(あるいは養父)は二条家の家司、当然、朝廷にかなりの崇拝はもっていただろうし。
家綱は常識的な将軍だったからだろ。家光が30半ばになってからようやく儲けた長男で、幼いころから厳しい教育も受けていたし。子女に恵まれなかったが。
綱吉はまさか将軍になるとは思わなかった三男坊。
綱吉に決まるまでには紆余曲折もあったし、そういうことを吹っ飛ばさせるのが生母の従一位だったりするわけだろ。
桂昌院は京の生まれだし、父(あるいは養父)は二条家の家司、当然、朝廷にかなりの崇拝はもっていただろうし。
43: 日本@名無史さん 2008/11/19(水) 00:46:43
家光の側室で出身がはっきりしてるのってお万とお振だけ?
44: 日本@名無史さん 2008/11/19(水) 07:30:51
>>43
お振の方も出自ははっきりしていない。
お振の方も出自ははっきりしていない。
50: 日本@名無史さん 2008/11/19(水) 21:16:27
>>44
お振の出自、実家は蒲生氏家臣の岡氏、母方の祖父は元蒲生氏家臣の旗本・町野幸和、k同祖母は牧村利貞の娘・祖心尼でははっきりしてるとはいえないのかな?
もっと遡ったらという話だろうか…
お振の出自、実家は蒲生氏家臣の岡氏、母方の祖父は元蒲生氏家臣の旗本・町野幸和、k同祖母は牧村利貞の娘・祖心尼でははっきりしてるとはいえないのかな?
もっと遡ったらという話だろうか…
52: 日本@名無史さん 2008/11/20(木) 11:13:05
徳川家ってこんなにいろいろな血が入ってるのになんであんなに虚弱が多かったんだろうな
足利の方が問題ありそうなレベルの血の濃さなのにな
足利の方が問題ありそうなレベルの血の濃さなのにな
53: 日本@名無史さん 2008/11/20(木) 11:59:07
>>52
白粉に鉛が入っていて鉛中毒になったとか、ビタミン不足とか色々言われているけどしらねー。
でも子供の成人率は当時にしても異様に低いよなあ・・・・
庶民でも成人したら60位まで生きたらしいけど60突破した将軍って希だろ。
白粉に鉛が入っていて鉛中毒になったとか、ビタミン不足とか色々言われているけどしらねー。
でも子供の成人率は当時にしても異様に低いよなあ・・・・
庶民でも成人したら60位まで生きたらしいけど60突破した将軍って希だろ。
65: 日本@名無史さん 2008/11/23(日) 03:16:58
大河ドラマだとみんな美人だけど正室は家柄重視だから実際はとんでも不細工の可能性も高かったろうな
それに比べて側室は自分のお気に入りを選べるわけだから美人が多かったんだろうな
それに比べて側室は自分のお気に入りを選べるわけだから美人が多かったんだろうな
69: 日本@名無史さん 2008/11/25(火) 21:32:13
>>65
でも写真が残っている御台所を見ると、最後の将軍徳川慶喜の御台所だった一条美賀子は美人だし、14代将軍徳川家茂の御台所だった和宮も割と顔立ちは綺麗。

一条美賀子
特権階級が美女を得やすいとすれば究極の特権階級のDNAを受け継ぐ公家や皇族の姫宮たちがそれほど醜かったとも言えないんじゃ?
そうそう、今一番有名な御台所であろう篤姫の写真、この人は賢女だったかもしれないが、正直、美人とは言い難い。でも篤姫は島津の出で将軍御台所の中では11代に続き異質だった上に将軍家定にとっては3回目の妻だったからね。
でも写真が残っている御台所を見ると、最後の将軍徳川慶喜の御台所だった一条美賀子は美人だし、14代将軍徳川家茂の御台所だった和宮も割と顔立ちは綺麗。

一条美賀子
特権階級が美女を得やすいとすれば究極の特権階級のDNAを受け継ぐ公家や皇族の姫宮たちがそれほど醜かったとも言えないんじゃ?
そうそう、今一番有名な御台所であろう篤姫の写真、この人は賢女だったかもしれないが、正直、美人とは言い難い。でも篤姫は島津の出で将軍御台所の中では11代に続き異質だった上に将軍家定にとっては3回目の妻だったからね。
72: 日本@名無史さん 2008/11/26(水) 22:44:51
>>69
美賀子はとても美人には思えない。
まあ個人の審美眼の問題だけど、あの写真は美醜を判断しづらい状態だとも思う。
慶喜の側室・信と幸、そして(実は男女関係ありとも言われる)慶喜家老女の一色須賀の写真を見ると、自分的に一番綺麗なのは須賀。
美賀子はとても美人には思えない。
まあ個人の審美眼の問題だけど、あの写真は美醜を判断しづらい状態だとも思う。
慶喜の側室・信と幸、そして(実は男女関係ありとも言われる)慶喜家老女の一色須賀の写真を見ると、自分的に一番綺麗なのは須賀。
66: 日本@名無史さん 2008/11/23(日) 03:25:26
>>65
吉宗を見て見ろw
吉宗を見て見ろw
67: 日本@名無史さん 2008/11/23(日) 04:13:04
ああ、不細工好きもいたかw
68: 日本@名無史さん 2008/11/23(日) 11:28:14
あと家柄重視でも当人は側室の娘ってことも多かっただろうから、それを言えば必ずしも不細工とは限らない。
ついでに大奥は、美人だからって言う理由で集められていたわけでもないから・・・
ついでに大奥は、美人だからって言う理由で集められていたわけでもないから・・・
76: 日本@名無史さん 2008/12/10(水) 17:31:26
桂昌院・月光院あたりが権勢をふるって面倒なことも多かったから大奥の制度が整備され、本寿院の頃には上臈年寄格とはいえ使用人扱いになった、でおK?
77: 日本@名無史さん 2008/12/13(土) 16:55:16
>>76
将軍生母≠上臈御年寄格
世子生母が上臈御年寄格に任じられ、世子が将軍になった後は将軍生母として御上並になる。
桂昌院も月光院も、他家から将軍となった者の母や側妾であり、奥女中ではない。
将軍生母≠上臈御年寄格
世子生母が上臈御年寄格に任じられ、世子が将軍になった後は将軍生母として御上並になる。
桂昌院も月光院も、他家から将軍となった者の母や側妾であり、奥女中ではない。
78: 日本@名無史さん 2008/12/13(土) 23:36:15
>桂昌院も月光院も、他家から将軍となった者の母や側妾であり、奥女中ではない
桂昌院は家光の側室だよ?
桂昌院は家光の側室だよ?
79: 日本@名無史さん 2008/12/14(日) 00:27:53
>>78
宗家→館林→宗家 って事なのかな?
綱吉の館林時代は大奥にいたのか館林の江戸屋敷にいたのかは知らないが
大奥にいたとしたら上記の推論は間違いだよね?
宗家→館林→宗家 って事なのかな?
綱吉の館林時代は大奥にいたのか館林の江戸屋敷にいたのかは知らないが
大奥にいたとしたら上記の推論は間違いだよね?
80: 77 2008/12/14(日) 08:14:19
桂昌院は大奥を出ている。
綱吉が将軍になった後に館林藩邸から三の丸に引き移った。
あと、訂正ね。
世子生母は御年寄格に任じられてる。
上臈御年寄格は将軍没後に家斉側室や家慶側室に与えられた待遇。
綱吉が将軍になった後に館林藩邸から三の丸に引き移った。
あと、訂正ね。
世子生母は御年寄格に任じられてる。
上臈御年寄格は将軍没後に家斉側室や家慶側室に与えられた待遇。
81: 日本@名無史さん 2008/12/25(木) 21:36:41
桂昌院を三の丸に住まわせたのは、大奥に居ると鷹司信子に頭を下げなきゃならなかったから?
(従一位を貰うまでは)
(従一位を貰うまでは)
82: 日本@名無史さん 2008/12/26(金) 07:30:50
従一位を賜るまでは信子に頭を下げていたとでも?
桂昌院は御台所よりも奥内の地位が高かった唯一の将軍生母だけど。
そこらへんの順位付は徳川実紀に詳しい。
桂昌院は御台所よりも奥内の地位が高かった唯一の将軍生母だけど。
そこらへんの順位付は徳川実紀に詳しい。
83: 82 2008/12/26(金) 14:22:24
あ、ごめんなさい。大御台所の崇源院がいたね。
84: 日本@名無史さん 2008/12/27(土) 19:26:05
位階などなくとも将軍生母はないがしろにされないよ
将軍御台所に将軍生母は仕えなければならなかったとか将軍生母の地位を軽く見すぎなんじゃない?将軍ですら生母を母上と呼んで敬うというのに嫁が将軍が敬う人をこきつかうなんて
将軍御台所に将軍生母は仕えなければならなかったとか将軍生母の地位を軽く見すぎなんじゃない?将軍ですら生母を母上と呼んで敬うというのに嫁が将軍が敬う人をこきつかうなんて
85: 日本@名無史さん 2008/12/28(日) 03:01:57
こき使われることも蔑ろにされることもないが、将軍家内の順位付としては、将軍・御台所≠大御所・大御台所、将軍継嗣・御簾中、将軍子女、将軍生母。
側室上がりだと、桂昌院以外は末席。
本来であれば御台所がそこまで気を遣う相手ではない。
それと大奥内での権勢・勢力の有無は別問題。
側室上がりだと、桂昌院以外は末席。
本来であれば御台所がそこまで気を遣う相手ではない。
それと大奥内での権勢・勢力の有無は別問題。
87: 日本@名無史さん 2008/12/28(日) 11:13:08
男の子供は母親が大好きだからね、いつの時代も。
将軍が妻よりも母親を大事にし、母親の意見を尊重するのはいつの時代もおなじ。
生母が将軍にたいして絶大な発言力を持つ以上、幕閣が勝手に決めた大奥の序列などまったく意味をなさない。将軍生母はどの将軍の代も相応の権力を有していたよ。
発言を控えたのは江戸城に最後まで住まなかった吉宗生母くらいじゃないか。
将軍が妻よりも母親を大事にし、母親の意見を尊重するのはいつの時代もおなじ。
生母が将軍にたいして絶大な発言力を持つ以上、幕閣が勝手に決めた大奥の序列などまったく意味をなさない。将軍生母はどの将軍の代も相応の権力を有していたよ。
発言を控えたのは江戸城に最後まで住まなかった吉宗生母くらいじゃないか。
90: 日本@名無史さん 2008/12/28(日) 21:58:23
>>87
大奥確立以降、桂昌院、月光院、本寿院、実成院を除くと、四代、六代、九代、十代の生母は我が子が将軍になる前に没。
八代、十一代は隠居同然。
大奥確立以降、桂昌院、月光院、本寿院、実成院を除くと、四代、六代、九代、十代の生母は我が子が将軍になる前に没。
八代、十一代は隠居同然。
89: 日本@名無史さん 2008/12/28(日) 18:28:36
将軍生母はともかく御台所でそれなりに力を発揮したのは天璋院と天英院かな。
90: 日本@名無史さん 2008/12/28(日) 21:58:23
>>89
広大院もね。
広大院もね。
92: 日本@名無史さん 2008/12/28(日) 22:55:59
偉大な御台所は天璋院ただ一人。
94: 日本@名無史さん 2008/12/29(月) 04:24:32
どの将軍生母も権力をふるってたというのは、どうもTVドラマじみた空想っぽいような気がする
息子である将軍が綱吉みたいに親孝行(てかマザコン?)ででもないと実際は中々厳しかったんじゃないか?
軽んじられてたとは思わないけどね
実際、家定時代の大奥では本寿院自身より乳母だった歌橋の方が力持ってたんだよね、大河ドラマなんかと違って
てか生前に位を賜った将軍生母って、桂昌院の従一位・月光院の従三位ぐらいなのか?
息子である将軍が綱吉みたいに親孝行(てかマザコン?)ででもないと実際は中々厳しかったんじゃないか?
軽んじられてたとは思わないけどね
実際、家定時代の大奥では本寿院自身より乳母だった歌橋の方が力持ってたんだよね、大河ドラマなんかと違って
てか生前に位を賜った将軍生母って、桂昌院の従一位・月光院の従三位ぐらいなのか?
96: 日本@名無史さん 2008/12/30(火) 18:11:04
>>94
実成院みたいな外様だと奥女中の支持を得られず、立場弱かったでしょうね。
月光院なんかは奥女中とコネがあり、幼君の生母という最も権力を握りやすい環境だったのは確か。
実成院みたいな外様だと奥女中の支持を得られず、立場弱かったでしょうね。
月光院なんかは奥女中とコネがあり、幼君の生母という最も権力を握りやすい環境だったのは確か。
95: 日本@名無史さん 2008/12/30(火) 17:46:48
TVドラマのようだといえば実際には大奥自体がたいして権力をもっていなかっただろう江戸幕府は大奥制度を作り上げ、これまで武家女性が相当政治に口出ししていたのを改め政治は「表」で男のみが行う、女は「大奥」に住み表への出入り一切禁止、としたのだから。
将軍生母、乳母はおろか、御台所ですら政治への口出しは原則厳禁だっただろう。
歌橋だってたいして権限は持ってないよ。
あくまでも「大奥の中で」どの女が主導権を握るかという争いはあっただろうがね。
将軍生母、乳母はおろか、御台所ですら政治への口出しは原則厳禁だっただろう。
歌橋だってたいして権限は持ってないよ。
あくまでも「大奥の中で」どの女が主導権を握るかという争いはあっただろうがね。
97: 日本@名無史さん 2008/12/30(火) 18:14:33
生母の権力がそこまでなかったってのには同意。
ただ、大奥自体が権力を持っていなかったってのはどうかな。
表向に介在した事実はいくらでもあるし、幕臣や商人や寺社が利権を求めて奥女中に取り入るのもよくある事。
政治不介入はあくまで建前だし。
ただ、大奥自体が権力を持っていなかったってのはどうかな。
表向に介在した事実はいくらでもあるし、幕臣や商人や寺社が利権を求めて奥女中に取り入るのもよくある事。
政治不介入はあくまで建前だし。
98: 日本@名無史さん 2008/12/30(火) 18:32:33
>>97
商人が奥女中に取り入るのは、豪華絢爛な生活を維持するための注文品で潤っていたからだろう。政治に介入したいために取り入ったのではなく大奥が商人たちの最上のお客様だったから。
武家に育った西郷隆盛は維新時に明治天皇が京都から引き連れてきた女官たちを見て天皇の伝奏をすべて女官がつかさどり常に天皇や大臣たちの傍らにあって女官が政治に介入するのに肝をつぶし、急いで宮中改革をして従来の女官をすべて罷免したほど。
江戸時代の武家では女が表に堂々と出入りし政治に意見する公家社会は予想外の世界だったから。
商人が奥女中に取り入るのは、豪華絢爛な生活を維持するための注文品で潤っていたからだろう。政治に介入したいために取り入ったのではなく大奥が商人たちの最上のお客様だったから。
武家に育った西郷隆盛は維新時に明治天皇が京都から引き連れてきた女官たちを見て天皇の伝奏をすべて女官がつかさどり常に天皇や大臣たちの傍らにあって女官が政治に介入するのに肝をつぶし、急いで宮中改革をして従来の女官をすべて罷免したほど。
江戸時代の武家では女が表に堂々と出入りし政治に意見する公家社会は予想外の世界だったから。
99: 日本@名無史さん 2008/12/30(火) 18:45:33
うん、大奥と宮中じゃ違うだろうし、西郷を出したのも大奥とは関連性がない。
武家の奥向と大奥もスケールが違いすぎるよね。
武家の奥向と大奥もスケールが違いすぎるよね。
100: 日本@名無史さん 2008/12/31(水) 19:45:30
表へ影響持ってたのって江戸時代通してもほんの数人かな?
実成院は権力なかっただろうなあ
和宮をイビったのなんて、それこそ身分違いであり得なかっただろうし
実成院は権力なかっただろうなあ
和宮をイビったのなんて、それこそ身分違いであり得なかっただろうし
102: 日本@名無史さん 2009/01/31(土) 19:44:13
>>100
民放テレビの「大奥」では天璋院役の管野美穂にいびり役をさせられないもんだから天璋院と和宮の間に起こった問題の数々を実成院の野際陽子にやらせている。
実際の衝突は大御台天璋院と御台所和宮の間で起こっている。
もっとも、実成院が家茂の側室を選んでいたというのだけは事実らしい。
和宮に実子が誕生しようがしなかろうが、将軍家に側室はつきもので、側室のいなかった将軍など8歳で死んだ家継ぐらいのもんだったから。
民放テレビの「大奥」では天璋院役の管野美穂にいびり役をさせられないもんだから天璋院と和宮の間に起こった問題の数々を実成院の野際陽子にやらせている。
実際の衝突は大御台天璋院と御台所和宮の間で起こっている。
もっとも、実成院が家茂の側室を選んでいたというのだけは事実らしい。
和宮に実子が誕生しようがしなかろうが、将軍家に側室はつきもので、側室のいなかった将軍など8歳で死んだ家継ぐらいのもんだったから。
111: 日本@名無史さん 2009/02/03(火) 23:44:31
新政府になってから、箱根で静養している和宮が危篤になったとき、篤姫は何日もかけて、人力を乗り継いで会いに行ったらしいよ。
記録が残ってる。
いがみあった時もあったろうけど、徳川が実質滅びて(天下を失って)から、色々思うことがあったんじゃないかな。よくわかってる、賢い人だと思う。
記録が残ってる。
いがみあった時もあったろうけど、徳川が実質滅びて(天下を失って)から、色々思うことがあったんじゃないかな。よくわかってる、賢い人だと思う。
104: 日本@名無史さん 2009/01/31(土) 19:59:09
秀忠も正式な側室はいなくないか?
一応長丸生母や保科正之生母はいるけど。
一応長丸生母や保科正之生母はいるけど。
105: 日本@名無史さん 2009/01/31(土) 20:46:20
>>104
秀忠の時代は奥がまだ未整備だから側室=政治的な戦国時代の価値観が残っていたのかもしれんね。家光の頃からは側室=御手付き中臈。
保科正之生母は今じゃ側室とされてるが、実際は側室として扱われてない。
奥に局すら与えられてないし、正式な側室ではないね。あくまで御手付き。
秀忠の時代は奥がまだ未整備だから側室=政治的な戦国時代の価値観が残っていたのかもしれんね。家光の頃からは側室=御手付き中臈。
保科正之生母は今じゃ側室とされてるが、実際は側室として扱われてない。
奥に局すら与えられてないし、正式な側室ではないね。あくまで御手付き。
106: 日本@名無史さん 2009/01/31(土) 20:58:48
戦国大名はほぼ一夫一妻を通した大名も多かったからね
戦国時代はまだ妻が一家の主婦として夫を支えることが重視された時代
武将が死ねばその後家が一家を取り仕切ったように妻の地位も高かった
家光以降の大奥成立により女は政治から締め出され妻は一家を取り仕切ることがなくなった
結果、夜だけ将軍の相手をする側室が大量に大奥から供給されることになったんだけど
戦国時代はまだ妻が一家の主婦として夫を支えることが重視された時代
武将が死ねばその後家が一家を取り仕切ったように妻の地位も高かった
家光以降の大奥成立により女は政治から締め出され妻は一家を取り仕切ることがなくなった
結果、夜だけ将軍の相手をする側室が大量に大奥から供給されることになったんだけど
108: 日本@名無史さん 2009/02/01(日) 03:10:14
>>106
>戦国大名はほぼ一夫一妻を通した大名も多かったからね
ええっ?
正室ひとりを守ったような大名も居るが、それはごく少数だろう。
>戦国大名はほぼ一夫一妻を通した大名も多かったからね
ええっ?
正室ひとりを守ったような大名も居るが、それはごく少数だろう。
109: 日本@名無史さん 2009/02/01(日) 09:09:21
>>108
正室の地位が高く、正室腹の子が跡をつぐ場合が多かったってことだろ
正室の地位が高く、正室腹の子が跡をつぐ場合が多かったってことだろ
114: 日本@名無史さん 2009/03/12(木) 23:49:19
>>109
むしろ側室の子が正室の子を差し置いて跡目を継ぐ事なんてほとんどない
むしろ側室の子が正室の子を差し置いて跡目を継ぐ事なんてほとんどない
110: 日本@名無史さん 2009/02/01(日) 10:08:29
>>108
側室がいなかった主な著名人
山内一豊、直江兼続、柴田勝家など
正室が更年期となりセッ〇スを拒絶するまで側室を置かなかった大名
毛利元就、前田利家
豊臣秀吉、徳川家康なども初期のころは側室を置いていない
初めて側室を持ったのは30過ぎ
この時代の大名は大奥のような側室あてがい機関を持たず(そんな金もなかったし)
妻がいれば側室を持つことを義務付けられてはいなかった
後継ぎがなければ養子をとればよかったし
側室がいなかった主な著名人
山内一豊、直江兼続、柴田勝家など
正室が更年期となりセッ〇スを拒絶するまで側室を置かなかった大名
毛利元就、前田利家
豊臣秀吉、徳川家康なども初期のころは側室を置いていない
初めて側室を持ったのは30過ぎ
この時代の大名は大奥のような側室あてがい機関を持たず(そんな金もなかったし)
妻がいれば側室を持つことを義務付けられてはいなかった
後継ぎがなければ養子をとればよかったし
118: 日本@名無史さん 2009/06/03(水) 23:46:23
>>110
家康は最初の側室西郡局を20代の時には既に迎えてるし、二女督姫も生まれている。
西郡局も今川家家臣の子で、今川義元の妹の血を引いてるらしいので、正室築山殿との格の違いもさほどじゃない。(築山殿の実家関口氏/瀬名氏は今川一門なので、同じ家臣とはいえ格は上だろうけど。)
黒田官兵衛なんかは側室を生涯持たなかった。(キリシタンだったから?)
家康は最初の側室西郡局を20代の時には既に迎えてるし、二女督姫も生まれている。
西郡局も今川家家臣の子で、今川義元の妹の血を引いてるらしいので、正室築山殿との格の違いもさほどじゃない。(築山殿の実家関口氏/瀬名氏は今川一門なので、同じ家臣とはいえ格は上だろうけど。)
黒田官兵衛なんかは側室を生涯持たなかった。(キリシタンだったから?)
119: 日本@名無史さん 2009/06/06(土) 19:07:19
>>118
家康は15歳で正室築山殿を娶っている。
西郡局は、1562年、家康が西郡城を攻めた際、城主鵜飼氏の娘を戦利品として連れ帰り側室としたもの。
西郡局はかなり長生きしたが子は督姫のみ。
確認できる限りは家康最初の側室だがあんまりぱっとしなかったみたいだ。
続く側室は30代後半になってから迎えた未亡人の西郷氏(秀忠らの母)。
築山殿存命中に家康の側室として知られるのはこの2名のみ。
築山殿がいなくなってからはやりたい放題だったが。
家康は15歳で正室築山殿を娶っている。
西郡局は、1562年、家康が西郡城を攻めた際、城主鵜飼氏の娘を戦利品として連れ帰り側室としたもの。
西郡局はかなり長生きしたが子は督姫のみ。
確認できる限りは家康最初の側室だがあんまりぱっとしなかったみたいだ。
続く側室は30代後半になってから迎えた未亡人の西郷氏(秀忠らの母)。
築山殿存命中に家康の側室として知られるのはこの2名のみ。
築山殿がいなくなってからはやりたい放題だったが。
120: 日本@名無史さん 2009/06/06(土) 22:22:16
>>110
柴田勝家って側室はいなかったの?初耳だったので。
戦国は分からんが、室町時代は嫡子以外は寺に入れられたりして、後継ぎの層が薄いよね。
柴田勝家って側室はいなかったの?初耳だったので。
戦国は分からんが、室町時代は嫡子以外は寺に入れられたりして、後継ぎの層が薄いよね。
121: 日本@名無史さん 2009/06/07(日) 16:20:16
>>120
柴田勝家は若い頃に主筋織田氏の娘を正室にしている。
そのためかどうか、側室を置かなかったと聞いたことがある。
この正室は勝家より先に死に、その後、お市を後妻にしている。
お市は正室ではなく側室だったと騒いでる人を以前この板で見たが。
それはともかく、柴田勝家には子がなく甥を養子に迎えている。
(秀吉同様落胤説は多いみたいだが一次史料で実在が確実な子は全くいない)
側室が大勢いたのに子がなければ秀吉のように子胤なし説が出そうなものだが
勝家に関してはそれもないところを見るとそもそも側室の存在がなかったのかもしれない。
柴田勝家は若い頃に主筋織田氏の娘を正室にしている。
そのためかどうか、側室を置かなかったと聞いたことがある。
この正室は勝家より先に死に、その後、お市を後妻にしている。
お市は正室ではなく側室だったと騒いでる人を以前この板で見たが。
それはともかく、柴田勝家には子がなく甥を養子に迎えている。
(秀吉同様落胤説は多いみたいだが一次史料で実在が確実な子は全くいない)
側室が大勢いたのに子がなければ秀吉のように子胤なし説が出そうなものだが
勝家に関してはそれもないところを見るとそもそも側室の存在がなかったのかもしれない。
引用元: ・徳川将軍生母の身分と葛藤