1: 人間七七四年 2012/04/23(月) 18:05:31.52 ID:ynbmYmXw
まったり語れ








3: 人間七七四年 2012/04/24(火) 22:18:59.18 ID:cFONKxwB
現代でも名士として在り続けるのは島津だけ

6: 人間七七四年 2012/05/08(火) 18:22:48.70 ID:dS1USgvV
薩摩藩て華があるよな

26: 人間七七四年 2012/06/10(日) 16:49:58.63 ID:gb3OiS9F
歳久の関係史料探してるんだけど先達の方々教えて下さい
尚古集成館紀要6号絶版だし……

28: 人間七七四年 2012/06/11(月) 19:50:06.80 ID:u1K+/fSj
歳久の直筆の書とか残ってないのかなー見たいなー

29: 人間七七四年 2012/06/13(水) 03:30:05.04 ID:4DIHI3ox
>>28
歳ぼんの直筆の書は残ってなかったような・・・

509: 人間七七四年 2015/10/20(火) 23:49:38.35 ID:IrTHWvj+
>>28,29

島津金吾歳久公400祭志なる冊子の寄稿文によると「島津歳久」名義の書はないことは確実だけど、永禄12年10月に弓馬の師範を勤めた川上経久に宛てた起請文などで「藤原朝臣年久」名義の書が花押付きで数点残っているらしい

起請文には「大隈正八幡宮に誓って…」とあり松尾城(吉田城)の城主を勤めていた頃とタイミングも一致するので間違いないともあるが、その真贋については議論の余地は大いにあると思う

30: 人間七七四年 2012/06/13(水) 21:57:00.59 ID:AkszVzvh
島津は源頼朝の子孫てマジすか?

31: 人間七七四年 2012/06/15(金) 22:24:14.67 ID:hgb3cdqP
戦国大名の頼朝由来はテンプレだから
そう言えば歳久の血筋って絶えてるんだっけ?
家久の血筋は東郷家系列に残ってそうだけども

32: 人間七七四年 2012/06/18(月) 20:24:54.90 ID:QvNsai5X
薩摩隼人最強

34: 人間七七四年 2012/06/23(土) 07:27:12.98 ID:GlBrYSCd
信長の野望覇王伝の不敵な笑みを浮かべる義久が印象的だった

35: 人間七七四年 2012/06/23(土) 14:24:24.13 ID:ag/Adrq/
薩摩隼人最強

36: 人間七七四年 2012/06/24(日) 03:42:34.06 ID:eLfR1Fp3
最強最強っていうけど、立花宗茂に一敗地にまみれてなかったっけ?
あれは負けに入らないの?

37: 人間七七四年 2012/06/24(日) 16:53:25.65 ID:YgJEYaVq
最終的には島津が勝っているから最強

41: 人間七七四年 2012/06/24(日) 18:30:45.04 ID:sHJCK5Kb
最強ではない
石高も77万石と称しているがモミ申告だから実質48万石
辺境の地にあり家臣の人材に恵まれた時期があったに過ぎず、幕末の斉彬公と久光公が優秀で戦国時代に美濃か近江を所領していたら滅んでただろう

42: 人間七七四年 2012/06/24(日) 18:47:06.79 ID:8+ApcE49
島津は戦国時代も今も全国に知られた名家だからな
琉球王国支配、九州統一、関ヶ原の合戦、朝鮮出兵などなど

関ヶ原では本陣突破と壮絶な捨て奸で東軍総大将家康と側近を驚かせ、朝鮮出兵では明・朝鮮連合軍をフルボッコにし、九州では秀吉が島津を恐れるあまり、かの黒田や細川を警戒して置くぐらいだ

最終的に島津が九州最大勢力であった事は史実

43: 人間七七四年 2012/06/24(日) 18:47:38.45 ID:8+ApcE49
名家島津氏も凄いが鹿児島(薩摩)の歴史と人物自体が凄すぎる
「超簡単」に書いただけでもこれだけあります

●日本でも特に歴史が古く、名家である名門島津一族
島津氏は鎌倉時代以来の名族で、初代忠久が元暦2年(1185年)に、源頼朝から島津荘の 下司職 ( げししき ) (荘園の管理責任者)に任命されている。

●戦国時代から現在でも有名な親と優秀な息子4兄弟とその一族
島津貴久(父)と息子達 (義久、義弘、歳久、家久) そして関ヶ原でも有名の家久の嫡男、豊久

●戦国時代の島津家の最終勢力分布
九州統一(琉球王国含む)

●関ヶ原の合戦
島津軍は関が原の戦いで、わずか数百人で家康の本陣目掛けて敵の大軍の中を敵中突破を決行。豊久は壮絶な死を遂げ家康や全国の大名らに「島津ここに有り」を認めさせた

●我々日本人が誇る「日本国旗」にも大きく関係していた名家島津氏
後に船印として「薩摩藩に服属していた琉球王国」が中国への進貢船に日章旗(現日本国旗)を用いており、江戸時代後期からは「薩摩藩の船印」としても用いられるようになった。
開国後は幕府が日本国共通の船舶旗(船印)を制定する必要が生じたときに薩摩藩からの進言(進言したのは薩摩藩主、島津斉彬)で 日章旗を用いることになった。
島津氏の日本への影響力がいかに凄かったか伺える。

44: 人間七七四年 2012/06/24(日) 18:48:48.14 ID:8+ApcE49
●薩摩島津家から将軍に嫁いだ歴史的にも有名の天璋院(てんしょういん)篤姫

天璋院(てんしょういん)篤姫 13代将軍徳川家定の正室の島津家出身
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%92%8B%E9%99%A2

●鹿児島(薩摩)は日本で唯一、当時世界最強とされたイギリス軍と戦争決断。世界を驚愕させた

薩英戦争 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89

●世界史に残る島津の伝説の戦い

薩摩島津軍わずか7千、明・朝鮮連合軍3万7千~20万(8万~20万という説があり)と圧倒的な戦力差があるにもかかわらず、劣勢な島津軍が大勝利した
世界の歴史にも残る伝説の戦いと知られる

また島津氏の言葉に、「この戦いに敗れれば日本軍の連携が崩壊する」と後の日本国を全て背負って戦った

泗川の戦い 島津軍vs明・朝鮮連合軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%97%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

●島津が主人公の超人気漫画
発売早々、圧倒的に売り上げ1位独走
作者は前作のヘルシングで一役トップの知る人ぞ知る有名人

ドリフターズ
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%95%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA-1%E5%B7%BB-%E3%83%A4%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%B3%E3%83%9F%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E5%B9%B3%E9%87%8E-%E8%80%95%E5%A4%AA/dp/4785934077

45: 人間七七四年 2012/06/24(日) 18:49:49.93 ID:8+ApcE49
●維新三傑(明治維新)

鹿児島(薩摩出身)西南戦争の有 西郷隆盛
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E9%83%B7%E9%9A%86%E7%9B%9B

鹿児島(薩摩出身)当時の日本のトップである内務卿 大久保利通
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E5%88%A9%E9%80%9A
 
●当時、どの国も勝てないと思われたロシア艦隊を撃破

日露戦争を勝利に導いた
鹿児島(薩摩出身) 元帥海軍大将 東郷平八郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%83%B7%E5%B9%B3%E5%85%AB%E9%83%8E

●戦国時代、明治維新、倒幕、薩長同盟など、薩摩鹿児島は古くから現在まで物凄い歴史をもっている
*過去レスから抜粋

少なくとも九州においては最強の部類に属するし、豊臣が滅びた後徳川が開いた幕府を滅ぼしている

捏造じゃない本当の名族で、負けてもしぶとく交渉して次世代も生き残り……を繰り返してきたからな。
真髄はこの生命力の気がする。

元寇の時代にも島津一族は活躍して歴史に名が残っているんだな。
同じように活躍した小弐・河野らの没落っぷりを見ると、歴史通じて名を残すっていうのがどれほど大変かわかる

勢力分布図を見れば、島津がそこを最後に支配して、かつ九州最大勢力であったのは一目瞭然だな。
島津氏が、鎌倉時代に薩摩に守護として派遣されて、16代に渡って戦国時代を戦い抜いた結果だ。

島津の退き口とか武勇伝すぎる現在でも有名
他の大名や家臣は島津の退き口を真似ようとしても怖くて出来なかったらしい
よほどの信頼関係と武士道精神(薩摩の精神)が無いと出来ない
本当に島津の薩摩武士は凄いと思う

天下分け目の関ヶ原で徳川が島津を恐れて、島津には最大警戒して黒田や細川を九州に置いていたぐらいだからな

46: 人間七七四年 2012/06/24(日) 20:40:58.94 ID:rJzMCwpe
島津が大河にならんのはやっぱ、現皇室に血が近すぎるせいかな?おっと!天璋院は典型的な姫様大河な。
飛ぶが如くは西郷のキャラでごまかしがきいた。
でも戦国島津を本格的の大河にするとなると、島津のかなりダークな部分にもメスをいれなければならない。もちろん朝鮮も含めてのこと。

48: 人間七七四年 2012/06/28(木) 18:59:32.01 ID:x8YXpZRE
関ヶ原で西軍だった島津と毛利の子孫が関ヶ原で東軍だった
徳川の子孫を倒す明治維新

これだけでも島津は凄すぎる

56: 人間七七四年 2012/08/01(水) 19:44:13.33 ID:aD7JTQ1/
島津と大友の死闘は歴史上もう少しクローズアップされてもいいと思う。

57: 人間七七四年 2012/08/02(木) 06:06:56.19 ID:W86+RBhn
島津は日本国内と世界的にも有名だが(特にイギリス、中国、朝鮮半島)
大友は地味だからメディアが取り上げてくれない

58: 人間七七四年 2012/08/04(土) 20:09:30.29 ID:sZswGTcG
何を以って最強とするか知らんが、戦歴で言えば結構負けてるからなあ。
外交面でもイマイチだし。

70: 人間七七四年 2012/08/30(木) 23:11:27.20 ID:wWqpz8mK
>>58
外交がイマイチ?
豊臣政権で本領安堵、しかも関ヶ原で敗北してなお領地の加増があったのは島津だけなんだが。
最南の地の利と朝鮮、関ヶ原退き口で見せつけた武威を徹底的に利用し駆使した見事な外交だろ。

73: 人間七七四年 2012/08/31(金) 00:45:45.27 ID:InjvkkRF
>>70
九州征伐の際に交渉の機会があったに関わらず戦力差も考えず抗戦してボロボロにされて降伏した挙句、関ヶ原ではどっちつかずで何の功もあげられず、これまたボロボロで命からがら九州に逃げ帰り家康の怒りを買った島津が外交上手?
贔屓目に見ても無いわ。

75: 人間七七四年 2012/08/31(金) 11:29:20.00 ID:+AAdJajo
>>73
外交はしたたかだよ。特に義久は異常な位。
あの家康でさえ、賞賛してるから。

78: 人間七七四年 2012/08/31(金) 16:56:35.71 ID:uN5ZMSvw
>>75
義久が云々と言うより義弘がアホ過ぎる、という印象。
ただそれを加味しても外交「上手」は無いわ。

76: 人間七七四年 2012/08/31(金) 12:35:49.50 ID:2lWVQycA
>>73
九州征伐では中央の情勢に疎い島津家が秀吉の速度を見誤り九州統一してから交渉に当たろうとしたこと。全面降伏したにも関わらずあの秀吉から僅かな蔵入り地以外、寸土も領地を削られなかったことは異常。

絶妙なタイミングで降伏したからこそできたこと。

関ヶ原にしてもその後の経過から近年では義久、義弘、家久、三人の合意によって自国保全のために始めから義弘に援兵を送らないことは決まっていたという説も多い。
いわば敗戦後の交渉を念頭に置いてた訳だ。

結局、家康は降伏勧告から和睦、領地の加増、更には琉球一国を与える条件を飲まされてやっと臣従させれた。

どこをどう見て政治力がないんだ?

82: 人間七七四年 2012/09/01(土) 17:44:23.23 ID:blYwlpT2
横だが島津家同様、同じ地にずっと土着し続けた南部辺りが外交上手だったんじゃね。
あんな遠くに居たのにいち早く豊臣に擦り寄ってたし、反乱を鎮圧出来なかったにも関わらず何の御咎めもなし。
極めつけは散々、豊臣の世話になった事を忘れたのように家康に尻尾振ってたしな。

83: 人間七七四年 2012/09/01(土) 23:55:51.39 ID:vlhRoyBR
>>82
南部も島津も日本の末端にそれぞれ土着した大名だったね。
中央の政権から見れば、脅かす存在では無い。そして、南部も島津も当主や兄弟や家臣団が優秀だったから外交もそつなく出来たって感じかな。

93: 人間七七四年 2012/09/02(日) 18:20:20.53 ID:wqSkjfuQ
敗戦により多くの大名が残党狩りやお家取り潰しの目にあった
島津は極限の状況下で犠牲を払いながらも最善を尽くして全滅の危機を脱している
不本意な参戦を強いられた義弘の武将としての武勇は敗戦後の対応にも影響を与えた
義久の政治的駆け引きだけでは片手落ちだろう

97: 人間七七四年 2012/09/03(月) 00:58:13.66 ID:rmCwrHcQ
もし戦になれば追随して他に反旗を翻す者が出ることを警戒していたのは確かだが、家康は島津そのものの兵力を過小評価しておらず、なによりも兵力が温存されていたのも大きかったと思う

98: 人間七七四年 2012/09/03(月) 02:37:44.65 ID:y8rDAb0A
ただ単に遠いからだよ

99: 人間七七四年 2012/09/03(月) 06:37:10.30 ID:JeuCkl0i
>>98
それも大きいね。
九州最南端の地なんて秀吉も家康もどうでもよかったんだろ。

100: 人間七七四年 2012/09/03(月) 08:09:11.38 ID:rmCwrHcQ
秀吉が九州をほぼ制圧した薩摩を野放しにしていたか?
家康も幕府を開いた後も、最大の仮想敵国になり得る存在として死ぬ間際まで警戒していた
実際、取り潰せなかった事が仇となって倒幕されとるが

101: 人間七七四年 2012/09/03(月) 09:09:44.46 ID:gyELOqw2
>>100
秀吉は野放し、っつーか普通に臣下として扱ってたかと。
家康も成敗はしたいけど他にやる事が山ほどあって、身も蓋もない言い方すると優先順位としては下だったと。

104: 人間七七四年 2012/09/03(月) 10:24:32.51 ID:rmCwrHcQ
優先順位はどうか知らんが、島津に大幅な譲歩をしてみせたのは、あのまま膠着状態が続けば、間隙を縫って各地で反乱が起きたり、外交面(明との貿易等)にも支障をきたすおそれがあったのだろう。

117: 人間七七四年 2012/12/15(土) 05:22:59.43 ID:QGs/Y1um
秀吉に降伏した時よりも朝鮮征伐で強兵になったから徳川も躊躇したんじゃないかな
九州北上の時より強くなり小西の残党を吸収すればかなりの戦力で徳川に長期戦を挑めば勝機もあっただろう。

118: 人間七七四年 2012/12/16(日) 04:09:26.43 ID:7A+CIrOZ
ないない

119: 人間七七四年 2012/12/17(月) 08:07:06.32 ID:kd0Egvah
少なくとも経済的には疲弊してそうだしな
島津氏の懐状況が気になる
米は取れないし、この時期に産業いろいろ起こしてるけど、資料読んでも基本的にいつも困窮してる雰囲気がある

120: 人間七七四年 2012/12/19(水) 00:42:42.98 ID:wa+xdVeb
もともと薩摩・大隅は生産力が低かった。
戦国時代は、両国合わせて30万石もなかった。
日向の庄内は、割りと生産力はあったみたいだが。
日向も低い。

ちなみに豊後は、一国でも40万国弱あった。

121: 人間七七四年 2012/12/19(水) 03:04:15.49 ID:VrV+0v2a
日向なんで低いんだろうね。
平地も多くて、今じゃ九州の米どころの一つなのに

126: 人間七七四年 2012/12/21(金) 02:05:26.41 ID:gEemqq+M
>>121
日向が石高を大きく伸ばしたのは、江戸時代になってから。
戦国時代は、北部と南部は高かったが、中部は開発が低かった。
今の延岡のあたりと都城・宮崎市のあたりは生産高が高かった。

色々と理由はあるけど、人口の大小、政治(領主である大名)の安定感、自然環境で左右されるよ。

江戸時代、日向・豊前の3、4倍をはじめ、豊後以外の九州の各国は、2倍以上に石高を伸ばしている。
逆に豊後だけが江戸時代、ほとんど石高を伸ばすことができなかった。
(1.3倍程度)

これは中世の未熟な土木技術でも安定的に生産高を確保できる土地が、豊後には多くて、開発され尽くしていたことを表している。

122: 人間七七四年 2012/12/19(水) 19:30:05.43 ID:8ELvZjMC
土地さえあればいくらでも水田作れる現代と感慨設備が貧弱な当時を同列に比べちゃいかん
というか現代でも1aあたりの収穫量は下位だから稲作に適していないのは変わらないみたいだ

128: 人間七七四年 2012/12/21(金) 10:46:41.71 ID:HygrHRrx
黒田氏が筑前へ『御討入』した途端に筑前の石高が二倍近く上方修正されたから
石高というのは技術云々より政治的調整が占める割合が高い、外様大藩がひしめいてる九州は特に

130: 人間七七四年 2012/12/24(月) 15:02:58.17 ID:0xrOwyM0
薩英戦争後の英国との交渉の方が見事
幕府目付役の前で英国と薩摩藩との直接武器売買決めたんだから。

薩摩の外交は秀吉・家康・幕末とも見事ですわ。

131: 人間七七四年 2012/12/24(月) 22:00:54.65 ID:tHQeD2Bs
時の朝廷が薩摩藩の攘夷実行を称えて褒賞を下したぐらいだからね
当時としては世界最強と言われた英国連合と戦争を決意する
薩摩武士の武士道精神は天晴れ
しかし薩摩は島津、西郷、東郷、大久保と歴史が凄い

引用元: ・薩摩島津家総合スレッド その3