1: 人間七七四年 2007/09/13(木) 19:25:52 ID:0lLKBmx9
名前が紛らわしすぎる
2: 人間七七四年 2007/09/13(木) 19:32:07 ID:0lLKBmx9
北条 高広(きたじょう たかひろ、永正14年(1517年?) - 天正15年(1587年?))は、戦国時代の武将。長尾氏(上杉氏)に仕えた。北条広春(安田広春)の子(養子で実父は北条高定とも)。北条景広・北条高広(父と同名)・女子(沼田朝憲妻)の父。丹後守・安芸守。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%AB%98%E5%BA%83
始めは後北条家の一族と思ってました。
同名の息子がいたり、かなり紛らわしい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E6%9D%A1%E9%AB%98%E5%BA%83
始めは後北条家の一族と思ってました。
同名の息子がいたり、かなり紛らわしい。
高広は越後国の戦国大名である長尾氏に仕え、戦功を積んでいたが、天文23年(1554年)、長尾氏に敵対する甲斐国の武田信玄と通じ、居城の北条城において主君・長尾景虎(上杉謙信)に対し反乱を起こした。しかし翌年、長尾軍の反攻を受け高広は降伏した。その後は景虎に再び仕え、奉行として活躍した。
永禄10年(1567年)、今度は北条氏康に通じて再び謙信に背く。この際、同姓で一族と紛らわしいため北条氏の側は高広の姓を「喜多条」と呼び区別した。高広側は元の姓である「毛利[3]」を用いた。しかし翌年、上杉氏と後北条氏との間で越相同盟が結ばれ両勢力が和解した。宙に浮いた立場となった高広は北条氏政の仲介の下、再び上杉氏に帰参し、以後は厩橋城主として上杉氏に仕えた。
御館の乱に際し、子の景広と共に上杉景虎を支持する側となり、越後国内で上杉景勝と戦う。本拠の北条城などを落とされ景広は戦死。越後での勢力を失った高広は天正7年(1579年)8月、武田勝頼の傘下に入った。実父ともされる北条高定も、景勝に殺害されたと伝わる。
天正10年(1582年)3月に武田氏が滅亡すると、高広は替わって武田領の大半を支配した織田氏(織田信長)の配下で関東方面を任された滝川一益に仕え、滝川に厩橋城を明け渡し、次男を人質として差し出した。だが直後の6月に織田信長が本能寺の変で横死したため、滝川一益は神流川の戦いを経て中央に帰還する。空白地となった上州は再度北条氏の支配下となり、高広もこれに一旦服属した。しかし同年12月沼田城の真田昌幸が北条氏を離反し上杉氏へ帰順したため、北条氏は真田氏および上杉氏に対し出兵を行い、周辺諸将に動員をかけるも、高広はこれを拒否して上杉氏に帰順。
上州の動きに対し北条氏も大軍を動かし、箕輪城を占拠した。この方面を任されていた北条氏邦だけでなく、当主である北条氏直まで出陣し、厩橋城を攻めたてた。高広は耐え切れず降伏、天正11年(1583年)9月に厩橋城は氏直の手に渡っている。
景広の死後、勝広が後継であったが、まもなく同名の「北条高広」が継承者となった。彼は上杉氏に帰参したものの、北条氏の越後国の本領を取り戻すことはできず没落した。
永禄10年(1567年)、今度は北条氏康に通じて再び謙信に背く。この際、同姓で一族と紛らわしいため北条氏の側は高広の姓を「喜多条」と呼び区別した。高広側は元の姓である「毛利[3]」を用いた。しかし翌年、上杉氏と後北条氏との間で越相同盟が結ばれ両勢力が和解した。宙に浮いた立場となった高広は北条氏政の仲介の下、再び上杉氏に帰参し、以後は厩橋城主として上杉氏に仕えた。
御館の乱に際し、子の景広と共に上杉景虎を支持する側となり、越後国内で上杉景勝と戦う。本拠の北条城などを落とされ景広は戦死。越後での勢力を失った高広は天正7年(1579年)8月、武田勝頼の傘下に入った。実父ともされる北条高定も、景勝に殺害されたと伝わる。
天正10年(1582年)3月に武田氏が滅亡すると、高広は替わって武田領の大半を支配した織田氏(織田信長)の配下で関東方面を任された滝川一益に仕え、滝川に厩橋城を明け渡し、次男を人質として差し出した。だが直後の6月に織田信長が本能寺の変で横死したため、滝川一益は神流川の戦いを経て中央に帰還する。空白地となった上州は再度北条氏の支配下となり、高広もこれに一旦服属した。しかし同年12月沼田城の真田昌幸が北条氏を離反し上杉氏へ帰順したため、北条氏は真田氏および上杉氏に対し出兵を行い、周辺諸将に動員をかけるも、高広はこれを拒否して上杉氏に帰順。
上州の動きに対し北条氏も大軍を動かし、箕輪城を占拠した。この方面を任されていた北条氏邦だけでなく、当主である北条氏直まで出陣し、厩橋城を攻めたてた。高広は耐え切れず降伏、天正11年(1583年)9月に厩橋城は氏直の手に渡っている。
景広の死後、勝広が後継であったが、まもなく同名の「北条高広」が継承者となった。彼は上杉氏に帰参したものの、北条氏の越後国の本領を取り戻すことはできず没落した。
3: 人間七七四年 2007/09/13(木) 19:35:43 ID:3bMixeeZ
後北条に寝返ったりしてるから奸臣かと思いきや、謙信が死んだ時には入道してたりする。
5: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/09/14(金) 00:06:22 ID:HFlojYUs
江氏四族では毛利より上位だったりするよな。
6: 人間七七四年 2007/09/14(金) 10:08:34 ID:wVv8aCO7
家紋は一文字三つ星。毛利と同族。
7: 人間七七四年 2007/09/14(金) 10:37:44 ID:PtguZ9jR
大江氏と言えば越後に移った北条氏の他に河内国で若き楠木正成を教育してたと言う伝説あるね。その後に南北朝の争乱で河内を捨てて安芸国にいき毛利氏になったみたいな。
武田一族も安芸守護になったり上総の武田信長が有名だったり若狭にもいたりするね。
大内や山名、大友とかみたいに集中せずに領土がエラい飛び地っぷりだよな。
もっとも山名を追討した後の大内氏も最盛期には和泉・紀伊にも領土があって堺に要塞を築き拠点にし幕府軍を引きつけておいて、軍船で尼崎に迂回上陸して京を目指して義満と決戦しようとしたがな。
武田一族も安芸守護になったり上総の武田信長が有名だったり若狭にもいたりするね。
大内や山名、大友とかみたいに集中せずに領土がエラい飛び地っぷりだよな。
もっとも山名を追討した後の大内氏も最盛期には和泉・紀伊にも領土があって堺に要塞を築き拠点にし幕府軍を引きつけておいて、軍船で尼崎に迂回上陸して京を目指して義満と決戦しようとしたがな。
9: 人間七七四年 2007/09/15(土) 21:36:47 ID:nPIu6dOW
御館の乱では、北条家から入嗣してた上杉景虎側に味方したんだっけ?
10: 人間七七四年 2007/09/16(日) 08:07:41 ID:StMlEpz4
武田方に寝返ったこともある。節操はあまりない
14: 人間七七四年 2007/09/30(日) 14:04:09 ID:G6ovF6FR
おお、郷土武将の単独スレが・・・
近くを走る信越線から見ると結構北条城って急峻だよ。
築城技術とか詳しくないからよくわからないけど、要害と言って差し支えないんじゃないかと思う。
ちなみに近くの斎藤朝信の赤田城はゆるやかな山地にある。
宇佐美爺の枇杷島城はいわずもがな。
近くを走る信越線から見ると結構北条城って急峻だよ。
築城技術とか詳しくないからよくわからないけど、要害と言って差し支えないんじゃないかと思う。
ちなみに近くの斎藤朝信の赤田城はゆるやかな山地にある。
宇佐美爺の枇杷島城はいわずもがな。
15: 人間七七四年 2007/09/30(日) 21:55:58 ID:CMrEB1+j
御館の乱では息子が討ち死に、さらに天正11年には北条に厩橋城を包囲され、援軍も来ずについに開城…
ちょっと晩年がかわいそうな北条どののその後をご存知な方はいらっしゃいますか?
ちょっと晩年がかわいそうな北条どののその後をご存知な方はいらっしゃいますか?
16: 北条景広ってどう? 2007/10/05(金) 16:07:39 ID:t7yZekRj
>>5
確か、息子の大胡城に移ったはずだよ!! 北条に憚って「毛利」と改姓したとか…
天正十五年に厩橋八幡宮に納めた永代守護不入の書状を最期に消息は途絶えている。
確か、息子の大胡城に移ったはずだよ!! 北条に憚って「毛利」と改姓したとか…
天正十五年に厩橋八幡宮に納めた永代守護不入の書状を最期に消息は途絶えている。
31: 人間七七四年 2007/12/06(木) 13:50:41 ID:k2WZqGT4
高広が石曾根毛利氏の高定の子 というのはどうなの?
33: 人間七七四年 2007/12/29(土) 14:23:10 ID:iTVAc39b
>>31
北条広春の嫡子説より高定の子説の方が有力みたいですよ。
北条広春の嫡子説より高定の子説の方が有力みたいですよ。
34: 人間七七四年 2008/01/15(火) 17:06:32 ID:pO0cY4FS
この人の子も高広と言うらしいけど、父の死後はどうしたのだろう?
36: 人間七七四年 2008/01/23(水) 16:25:18 ID:d/QAOI0N
こいつなんでこんなに裏切っても許されてんの?
40: 人間七七四年 2008/01/29(火) 21:51:33 ID:pYNe/BTJ
よく勘違いされるけど戦国時代の裏切りは恥でも不徳でも何でもない。
日本中で日常的に起こっていた事で何も越後だけが多いわけじゃないんだよ。
全国的な統計で見れば越後はむしろ忠臣揃いといえるほど裏切り頻度は少ない。
一般的な戦国武将が生涯に主君を裏切る頻度は3.9回。
越後では1.2回と格段に低いことを覚えておいて欲しい。
日本中で日常的に起こっていた事で何も越後だけが多いわけじゃないんだよ。
全国的な統計で見れば越後はむしろ忠臣揃いといえるほど裏切り頻度は少ない。
一般的な戦国武将が生涯に主君を裏切る頻度は3.9回。
越後では1.2回と格段に低いことを覚えておいて欲しい。
48: 人間七七四年 2008/02/20(水) 20:18:45 ID:mnP8FXgl
>>40
>一般的な戦国武将が生涯に主君を裏切る頻度は3.9回。
>越後では1.2回と格段に低いことを覚えておいて欲しい。
ネタじゃないならソースが欲しいな。
ネタとしてはすばらしくおもしろい。
>一般的な戦国武将が生涯に主君を裏切る頻度は3.9回。
>越後では1.2回と格段に低いことを覚えておいて欲しい。
ネタじゃないならソースが欲しいな。
ネタとしてはすばらしくおもしろい。
41: 奇矯屋onぷらっと ◆JUU/.JUU/. 2008/01/29(火) 22:33:17 ID:veUeS50r
3.9回という統計に関心。
それはさておき両属とか複数に本領安堵されるとか普通なのにな。
一主一従(んな語句ないけど)なんてほうが珍しいよな。
それはさておき両属とか複数に本領安堵されるとか普通なのにな。
一主一従(んな語句ないけど)なんてほうが珍しいよな。
42: 人間七七四年 2008/01/29(火) 22:41:23 ID:MqUzN7cM
方便として裏切りじゃなくて、返り忠と言うんだっけ?
46: 人間七七四年 2008/02/18(月) 16:52:58 ID:QQoFmhHK
返り忠なんて不思議な言葉いつから使われてるんだろか?
平治物語や平家物語にはあるらしいが。
平治物語や平家物語にはあるらしいが。
47: 人間七七四年 2008/02/19(火) 18:19:12 ID:4jSrI5wL
北条は上杉の家臣じゃないから、裏切りや謀反って感じがあまりしない。
55: 人間七七四年 2008/03/07(金) 14:25:49 ID:Miu05pdc
高広だけじゃなく政景やら朝秀やらよく謀反してますな
もしや土地柄?
もしや土地柄?
56: 人間七七四年 2008/03/09(日) 19:07:16 ID:ywOKQjoS
>>55
家臣じゃないから、独自行動もあるでよ。
家臣じゃないから、独自行動もあるでよ。
57: 人間七七四年 2008/03/16(日) 17:11:01 ID:JTdrurWp
厩橋時代に後北条にイチャモンつけられて漢字変えたのって本当の話?
58: 人間七七四年 2008/03/22(土) 13:46:14 ID:7GGqYE/m
変えたんじゃなくて、勝手にそう記されたらしい
喜多条
喜多条
60: 人間七七四年 2008/03/27(木) 01:08:58 ID:afBvL1c+
それでも卑しい字とか、遠回しな嫌味とかのある表現ではないんだな。
63: 人間七七四年 2008/04/13(日) 12:06:14 ID:ZkohYG6Z
過疎ってるので今更な話を…
天文二十四年の善根での騒乱は北条高広が武田に通じて起こったのではありません。
根拠とされる越佐史料の武田晴信書状が、新潟県史編纂時の原本調査で"信玄"と署名されていることが判明したからです。
御存知の通り武田晴信が信玄と名乗るのは永禄期であるので、安田氏宛の文書で確認される騒乱と、北条高広が信玄と内通していたことを示す書状とは結びつかないのです。
天文二十四年の善根での騒乱は北条高広が武田に通じて起こったのではありません。
根拠とされる越佐史料の武田晴信書状が、新潟県史編纂時の原本調査で"信玄"と署名されていることが判明したからです。
御存知の通り武田晴信が信玄と名乗るのは永禄期であるので、安田氏宛の文書で確認される騒乱と、北条高広が信玄と内通していたことを示す書状とは結びつかないのです。
68: 人間七七四年 2008/04/15(火) 19:52:12 ID:TKWL+j68
>>63
偽書ってこと?
偽書ってこと?
71: 人間七七四年 2008/04/15(火) 21:19:11 ID:jfMPzNEc
525 名前: 515 投稿日: 02/03/15 15:03
なお、それなら武田信玄書状はいつ頃のものかというのははっきりしませんが、信玄時代なら、北条高広が厩橋城代になってからのことではないでしょうか。謀反であるかどうかも書状だけからは断定できませんが、厩橋城代になったあとで一時高広が謙信に背いたのは事実なので、そのときのものかもしれません。
―ここまでコピペ―
>>68
偽書じゃなくて今まで写しでしか伝わっていなかった書状の原本が見つかっただけ。
で、写しには差出人の花押しか記されていなかったのが、原本では花押に加えて「信玄」という
署名がされていたので年次比定が間違っていることが分かったと。
あと上記の柏崎市史資料集306号信玄書状は新潟県史研究No.20の資料編補遺が初出だと思われる。
なお、それなら武田信玄書状はいつ頃のものかというのははっきりしませんが、信玄時代なら、北条高広が厩橋城代になってからのことではないでしょうか。謀反であるかどうかも書状だけからは断定できませんが、厩橋城代になったあとで一時高広が謙信に背いたのは事実なので、そのときのものかもしれません。
―ここまでコピペ―
>>68
偽書じゃなくて今まで写しでしか伝わっていなかった書状の原本が見つかっただけ。
で、写しには差出人の花押しか記されていなかったのが、原本では花押に加えて「信玄」という
署名がされていたので年次比定が間違っていることが分かったと。
あと上記の柏崎市史資料集306号信玄書状は新潟県史研究No.20の資料編補遺が初出だと思われる。
69: 人間七七四年 2008/04/15(火) 21:10:10 ID:jfMPzNEc
>>63について既に上杉家過去スレに分かりやすいレスがあったのでコピペ↓
【毘】上杉家を、普通に語りましょう。【毘】
522 名前: 515 投稿日: 02/03/15 14:54
あと、北条高広が何度も謀反したという定説についてですが、最初の天文23年(1554)12月の謀反というのはどうも怪しいんです。ちょっと煩雑ですが詳しく述べますと……。
この謀反は「越佐史料」が最初に書いたようで、花ヶ前先生が何度も 書かれて(笑)定着しましたが、根拠となる史料は、一つは天文24年 2月3日に本庄宗緩(実乃)ら3人が安田景元に対して出した起請文です。これは「今度、善根(ぜごん)の一件で(殿が)出陣されたが、あなた(安田景元)は、(敵が自分の)骨肉であるにもかかわらず、殿に異心なく働くと誓われた。われわれも決して景元父子を見放すようなことはしないことを神に誓う」というもの。
この史料からは、善根という場所で何かあったこと、そこで景虎に攻められたのは安田景元の一族だったことはわかりますが、北条高広かどうかはわかりません。
もう一つの史料は、書状なので年が書かれていませんが、某年12月5日付けの武田晴信書状(北条丹後守あて)で、これに「先日聞いた話が事実なら大慶です」とか書いてあるので、越佐史料編者はこれを上の起請文と結びつけて、天文23年12月の北条高広謀反説を立てたようです。しかし「先日の話」が何かは書いてないので、そもそも根拠が薄い議論ではあります。
【毘】上杉家を、普通に語りましょう。【毘】
522 名前: 515 投稿日: 02/03/15 14:54
あと、北条高広が何度も謀反したという定説についてですが、最初の天文23年(1554)12月の謀反というのはどうも怪しいんです。ちょっと煩雑ですが詳しく述べますと……。
この謀反は「越佐史料」が最初に書いたようで、花ヶ前先生が何度も 書かれて(笑)定着しましたが、根拠となる史料は、一つは天文24年 2月3日に本庄宗緩(実乃)ら3人が安田景元に対して出した起請文です。これは「今度、善根(ぜごん)の一件で(殿が)出陣されたが、あなた(安田景元)は、(敵が自分の)骨肉であるにもかかわらず、殿に異心なく働くと誓われた。われわれも決して景元父子を見放すようなことはしないことを神に誓う」というもの。
この史料からは、善根という場所で何かあったこと、そこで景虎に攻められたのは安田景元の一族だったことはわかりますが、北条高広かどうかはわかりません。
もう一つの史料は、書状なので年が書かれていませんが、某年12月5日付けの武田晴信書状(北条丹後守あて)で、これに「先日聞いた話が事実なら大慶です」とか書いてあるので、越佐史料編者はこれを上の起請文と結びつけて、天文23年12月の北条高広謀反説を立てたようです。しかし「先日の話」が何かは書いてないので、そもそも根拠が薄い議論ではあります。
70: 人間七七四年 2008/04/15(火) 21:10:52 ID:jfMPzNEc
523 名前: 515 投稿日: 02/03/15 14:55
(つづき)
ところが、この12月5日の晴信書状は、まったく同文のものが茨城県江口氏所蔵北条文書という史料の中にあって、「柏崎市史資料集」に収録されていますが(306号)、それは差出人が「信玄」なのです。
天文23年にはまだ晴信は信玄と名のっていませんから、この書状を天文23年に当てるのは間違い。
では、はじめの史料(善根うんぬんの史料)だけで北条高広の謀反が言えるかというと、これは疑わしい。善根(ぜごん)というのは柏崎市の南の方にある八石山(はちこくさん)という山の麓にある地名で、ここに善根城という城がありました。
しかしこの城主は北条高広ではなく、地元の伝説では毛利大万助(だいまんのすけ)という城主で、北条丹後守の謀略で滅ぼされたとされています。
この伝説は全部真実ではないかもしれませんが、景虎が出陣した善根の一件と関係があるなら、北条丹後守ではなく一族の毛利某が討たれたとみるべきでしょう。
なお「柏崎市史」では、この理由からだと思いますが、天文23年の高広謀反説は無視しています。
(つづき)
ところが、この12月5日の晴信書状は、まったく同文のものが茨城県江口氏所蔵北条文書という史料の中にあって、「柏崎市史資料集」に収録されていますが(306号)、それは差出人が「信玄」なのです。
天文23年にはまだ晴信は信玄と名のっていませんから、この書状を天文23年に当てるのは間違い。
では、はじめの史料(善根うんぬんの史料)だけで北条高広の謀反が言えるかというと、これは疑わしい。善根(ぜごん)というのは柏崎市の南の方にある八石山(はちこくさん)という山の麓にある地名で、ここに善根城という城がありました。
しかしこの城主は北条高広ではなく、地元の伝説では毛利大万助(だいまんのすけ)という城主で、北条丹後守の謀略で滅ぼされたとされています。
この伝説は全部真実ではないかもしれませんが、景虎が出陣した善根の一件と関係があるなら、北条丹後守ではなく一族の毛利某が討たれたとみるべきでしょう。
なお「柏崎市史」では、この理由からだと思いますが、天文23年の高広謀反説は無視しています。
72: 北条景広ってどぉ? 2008/04/21(月) 11:14:28 ID:Hxzvjp03 BE:712621038-2BP(1)
>>69-71さんへ
その信玄書状ってこれのこと?
・元亀二年(1571)12月5日付、信玄→高広あて書状で、信玄は
「…(略)…先日承った事が、真実ならば大満足です。今後は他の武将よりも優先して仲良くしようね。(この同盟は)私の望みなので同意するよ…以下略」
と書いていますし…
その信玄書状ってこれのこと?
・元亀二年(1571)12月5日付、信玄→高広あて書状で、信玄は
「…(略)…先日承った事が、真実ならば大満足です。今後は他の武将よりも優先して仲良くしようね。(この同盟は)私の望みなので同意するよ…以下略」
と書いていますし…
73: 人間七七四年 2008/04/21(月) 15:39:36 ID:gc8cG2mx
>>72
それで合ってると思います。
ちなみに善根の武将ですが、延徳年間の上杉家臣に毛利左近将監定広という人がいるので、安田らに鎮圧された同族はこの人の子孫である可能性が高いかと…
それで合ってると思います。
ちなみに善根の武将ですが、延徳年間の上杉家臣に毛利左近将監定広という人がいるので、安田らに鎮圧された同族はこの人の子孫である可能性が高いかと…
74: 人間七七四年 2008/04/21(月) 16:00:41 ID:gc8cG2mx
>>73に追記
延徳年間に毛利定広が善根を拠点にしていることが分かる、という意味です。
誤解を招きそうだったので一応…。
延徳年間に毛利定広が善根を拠点にしていることが分かる、という意味です。
誤解を招きそうだったので一応…。
76: 人間七七四年 2008/05/08(木) 17:21:06 ID:hS7Dp1Tk
毛利と名乗っていたのは何時頃まで?
77: 人間七七四年 2008/05/22(木) 16:02:46 ID:+coJM8/y
室町初期かな
79: (´ω`) 2008/05/28(水) 11:37:11 ID:/5R7Ij1u
一応可能性の高そうな系図を書いてみた。ずれてもご愛嬌(´ω`)

・広春は元々安田の庶子で北条を継いだが、安田のほうが何かの事情で継ぐ人がいなくなってしまったので、同時に安田も継いだ?
・ところがその広春も子供ひとりしかいなかったので、それには安田を継がせ、北条の方には石曾根の高定を連れて来て養子にした?(高定は『前橋八幡宮文書』の寄進状によると北条下総守を名乗っていたらしいから、多分北条は高定から継いでいたと思われる)
・北条一族には安芸入道芳林よりやや年下と思われる「長門守」という人物がいて、これは芳林の弟の高政か?
・芳林と同名の毛利弥五郎高広はひょっとしたら高明とも名乗っていたのかもしれん。
・大胡常陸守(常陸介)高繁は芳林の実子か養子か判らんが、とにかく大胡を継いだ。
この人物はことによると上泉家ともつながりがある、というのは考えすぎか。

・広春は元々安田の庶子で北条を継いだが、安田のほうが何かの事情で継ぐ人がいなくなってしまったので、同時に安田も継いだ?
・ところがその広春も子供ひとりしかいなかったので、それには安田を継がせ、北条の方には石曾根の高定を連れて来て養子にした?(高定は『前橋八幡宮文書』の寄進状によると北条下総守を名乗っていたらしいから、多分北条は高定から継いでいたと思われる)
・北条一族には安芸入道芳林よりやや年下と思われる「長門守」という人物がいて、これは芳林の弟の高政か?
・芳林と同名の毛利弥五郎高広はひょっとしたら高明とも名乗っていたのかもしれん。
・大胡常陸守(常陸介)高繁は芳林の実子か養子か判らんが、とにかく大胡を継いだ。
この人物はことによると上泉家ともつながりがある、というのは考えすぎか。
81: 人間七七四年 2008/05/28(水) 13:41:49 ID:+c/Yl1qx
>>79
ありがとう
北条毛利と安田毛利の関係はややこしいから前からちゃんとした家系図を見たいと思ってた
しかし天文23年に(北条高広ではないと判明した)反乱を起こした善根城の毛利大万助って家系図に入ってこないのかな?
ありがとう
北条毛利と安田毛利の関係はややこしいから前からちゃんとした家系図を見たいと思ってた
しかし天文23年に(北条高広ではないと判明した)反乱を起こした善根城の毛利大万助って家系図に入ってこないのかな?
85: 人間七七四年 2008/06/18(水) 02:21:54 ID:CeN6lpHi
>>79
北条長門守って年齢推定可能な史料あったんだ?
御館の乱関係の書状に出てくるのは知ってるが、年齢は全然わかんなかった。
確か景勝方だったよね、長門守って。
北条長門守って年齢推定可能な史料あったんだ?
御館の乱関係の書状に出てくるのは知ってるが、年齢は全然わかんなかった。
確か景勝方だったよね、長門守って。
83: 人間七七四年 2008/06/16(月) 15:50:23 ID:uQWzF3dG
北条は広春→高広という説もあるね
98: 人間七七四年 2008/11/05(水) 18:43:52 ID:YdiYHQ7S
敵中に切り込み易いよう自分の旗指物を小さくしてたとか何かで読んだ
101: 人間七七四年 2008/11/06(木) 17:11:27 ID:ZM6rgdei
高広の祖父は旗指物を木の枝にひっかけて宙吊りになってるところを無様に突き殺された。
それ以来北条家では旗指物をなるべく小さくすることが通例になった。
現存する最小のものでは縦10センチ、横3センチのものがある。
それ以来北条家では旗指物をなるべく小さくすることが通例になった。
現存する最小のものでは縦10センチ、横3センチのものがある。
105: 人間七七四年 2008/11/12(水) 14:09:00 ID:BY3kUQVq
>>101
そこまで小さいとわざわざ旗にする必要がないな。鎧に縫い込んどけばいい。
もっとも何のための旗印がわからなくなるがw
そこまで小さいとわざわざ旗にする必要がないな。鎧に縫い込んどけばいい。
もっとも何のための旗印がわからなくなるがw
147: 人間七七四年 2009/08/02(日) 01:25:32 ID:I5Hb0fij
末裔は江戸時代まで残ってないの?
148: 人間七七四年 2009/08/05(水) 00:20:56 ID:DqHWIW+6
上条の息子に畠山弥五郎景広ってのがいるようだが、北条弥五郎景広と輩行・諱が被ってる。
しかも北条は謙信から畠山の未亡人を押し付けられるし。
何か関係が…?
高広は御館の乱後も生存したと言われるが、同名の息子の事だという説もあるらしいな。
しかも北条は謙信から畠山の未亡人を押し付けられるし。
何か関係が…?
高広は御館の乱後も生存したと言われるが、同名の息子の事だという説もあるらしいな。
154: 人間七七四年 2010/12/03(金) 11:50:29 ID:ylZ22B4W
御館の乱以降、どうなったか詳しくは分からないままなんだな。
生死不詳が一番悲しい。
生死不詳が一番悲しい。
163: 人間七七四年 2012/06/03(日) 14:56:24.06 ID:4OmaneKu
天正10年(1582年)3月武田氏の滅亡後、北条高広は滝川一益に仕え、一益の没落後は北条氏に服属するが、同年12月沼田城の真田昌幸の離反に対する出兵を拒否し、上杉氏に帰順、北条方である那波顕宗を攻めている。
164: 人間七七四年 2012/06/11(月) 04:36:58.92 ID:fvxs281x
上杉家の関東最前線に配されながら、情勢次第の行動をとった北条高広。
謙信死後の御館の乱で景虎=北条派に属したものの、景虎が自害すると武田勝頼に臣従し、織田がくれば滝川一益に従った。
ところが本能寺の変で織田までがいなくなると、後北条と徳川の同盟が成立、後北条の北関東侵略にさらされるようになる。
天正十一年。
後北条氏は真田領を奪取すべく、高広にも出兵を命じた。
明らかな踏み絵だが、高広はこれを拒否し、抗戦の道を選ぶ。
そして、援軍を頼んだ先は、上杉景勝。
真田昌幸がどうこう言われるが、こいつも相当なタマだ。
どうせ北関東死守のために景勝は動かざるをえないし、そうすれば佐竹や宇都宮ら、反北条勢も動くだろうとたかをくくっていたらしい。
ところが、領内すら不安定な景勝の動きは鈍く、数ヶ月たっても牽制すらしてくれない。
焦った高広は、直江兼続らに長々と書状を送って援軍を懇望したが、たいした効果はなかった。
高広は半年以上も孤立した戦いを繰り広げ、ついに降伏した。
その後の彼の人生については、よくわかっていない。
謙信死後の御館の乱で景虎=北条派に属したものの、景虎が自害すると武田勝頼に臣従し、織田がくれば滝川一益に従った。
ところが本能寺の変で織田までがいなくなると、後北条と徳川の同盟が成立、後北条の北関東侵略にさらされるようになる。
天正十一年。
後北条氏は真田領を奪取すべく、高広にも出兵を命じた。
明らかな踏み絵だが、高広はこれを拒否し、抗戦の道を選ぶ。
そして、援軍を頼んだ先は、上杉景勝。
真田昌幸がどうこう言われるが、こいつも相当なタマだ。
どうせ北関東死守のために景勝は動かざるをえないし、そうすれば佐竹や宇都宮ら、反北条勢も動くだろうとたかをくくっていたらしい。
ところが、領内すら不安定な景勝の動きは鈍く、数ヶ月たっても牽制すらしてくれない。
焦った高広は、直江兼続らに長々と書状を送って援軍を懇望したが、たいした効果はなかった。
高広は半年以上も孤立した戦いを繰り広げ、ついに降伏した。
その後の彼の人生については、よくわかっていない。
165: 人間七七四年 2012/06/14(木) 16:14:45.88 ID:BQ1uAtf3
上杉氏に帰参したものの越後の所領を取り戻すことはできず没落した
170: 人間七七四年 2012/12/12(水) 17:44:22.05 ID:TODkgDDX
那波俊広って北条高広の孫とかなんだろうか
娘だか妹だかを那波氏に嫁に出してるんだよな?
通字見ると高広の血を継いでると思うんだが、この人が安田能元の跡を継いだって事は、北条安田の対立って、北条高広と安田景元との個人的対立のみで終わったのかね
娘だか妹だかを那波氏に嫁に出してるんだよな?
通字見ると高広の血を継いでると思うんだが、この人が安田能元の跡を継いだって事は、北条安田の対立って、北条高広と安田景元との個人的対立のみで終わったのかね
171: 人間七七四年 2012/12/24(月) 21:55:01.05 ID:kOP7Nkwb
>>170
那波、安田、越後北条や安芸毛利氏は大江氏で同族なので大江広元の広と元をよく使っている。
安田氏を継いだのもその縁だろう。もちろん高広と縁戚だったかもしれないけど。
那波、安田、越後北条や安芸毛利氏は大江氏で同族なので大江広元の広と元をよく使っている。
安田氏を継いだのもその縁だろう。もちろん高広と縁戚だったかもしれないけど。
173: 人間七七四年 2012/12/25(火) 18:29:36.35 ID:9MHuMr4q
一応那波俊広の実父とされてる人は北条高広の所から嫁もらった人みたいだね
武田に行った名和無理之助の弟っぽい人で、一時期上杉の人質だった人
那波氏は家系図がめちゃくちゃらしいから訳解らんことになってるw
武田に行った名和無理之助の弟っぽい人で、一時期上杉の人質だった人
那波氏は家系図がめちゃくちゃらしいから訳解らんことになってるw
184: 人間七七四年 2013/02/02(土) 20:43:36.38 ID:neQBSZBF
まとめると、
北条高広は、毛利氏と同じ大江氏の一族です。
通名の「広」は家祖の大江広元からきてると思われます。
ちなみに、毛利氏の通名は「元」です。
大江氏は、宮廷貴族(最高位は三位?)だったのが、源頼朝の時に幕府に仕えて幕府の要人になった家系です。
北条高広は、毛利氏と同じ大江氏の一族です。
通名の「広」は家祖の大江広元からきてると思われます。
ちなみに、毛利氏の通名は「元」です。
大江氏は、宮廷貴族(最高位は三位?)だったのが、源頼朝の時に幕府に仕えて幕府の要人になった家系です。
185: 人間七七四年 2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:O+J1NNp6
北条高能って人物が直江兼続の与力でいたらしいが、縁者?
186: 人間七七四年 2013/08/28(水) NY:AN:NY.AN ID:X4hzKPZb
一族の端くれ
本流はずれの分家筋の次男のそのまた次男
本流はずれの分家筋の次男のそのまた次男
196: 人間七七四年 2015/10/30(金) 07:43:53.62 ID:nodrSqh3
同族の毛利安田氏は、江戸時代も上杉家の重臣として続いたんだよね。
少し前にNHKで前田慶次のドラマがあったけど、そこでも安田氏は上杉家重臣として出てた。
長州藩の毛利家の本家筋みたいだけど、交流はあったのかな?
少し前にNHKで前田慶次のドラマがあったけど、そこでも安田氏は上杉家重臣として出てた。
長州藩の毛利家の本家筋みたいだけど、交流はあったのかな?
201: 人間七七四年 2016/12/29(木) 18:07:13.76 ID:Hm+l0nua
真田昌幸のすぐ南にこんなのがいたとは…
裏切りのペースが凄まじい昌幸と
キャリアが長い北条
しかもこっちは流れ者の上、名前まで紛らわしいとか
裏切りのペースが凄まじい昌幸と
キャリアが長い北条
しかもこっちは流れ者の上、名前まで紛らわしいとか
207: 人間七七四年 2020/02/01(土) 09:21:11.85 ID:SWgetXv3
>>201
2回離反したのに謙信に許されて家臣に復帰出来て謙信の死の直前まで実務を任せてたということは実力があったということや。
2回離反したのに謙信に許されて家臣に復帰出来て謙信の死の直前まで実務を任せてたということは実力があったということや。
204: 人間七七四年 2020/01/31(金) 18:11:13.52 ID:IOBMQLh4
210: 人間七七四年 2022/10/06(木) 23:59:33.04 ID:iI7gXwV/
>>204
一応繋いでるのか
一応繋いでるのか
213: 人間七七四年 2024/08/15(木) 18:58:40.95 ID:KcYDqg6R
北条にきたじょ
引用元: ・北条高広




あと「風林火山」か「天地人」にもいた気がする…