1: 日本@名無史さん 2012/01/06(金) 09:43:43.30
児玉党とそれ以外の方々について語ろう。
武蔵七党(むさししちとう)は、平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて、武蔵国を中心として下野、上野、相模といった近隣諸国にまで勢力を伸ばしていた同族的武士団の総称である。
「七党」を構成する氏族は文献によって異なる。
三説の異同を整理すると横山党(八王子市)、猪俣党(児玉郡美里町)、児玉党(本庄市児玉郡)、村山党(多摩郡村山郷)、野与党(加須市野与庄)、丹党(丹治党)(入間郡・秩父郡・児玉郡)、西党(西野党)(日野市)、綴党(横浜市都筑区)、私市党(加須市騎西)となり、全部で九党あることがわかる。七党という表現は鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡』にはないことから南北朝時代以降の呼び方と考えられている。
「七党」を構成する氏族は文献によって異なる。
三説の異同を整理すると横山党(八王子市)、猪俣党(児玉郡美里町)、児玉党(本庄市児玉郡)、村山党(多摩郡村山郷)、野与党(加須市野与庄)、丹党(丹治党)(入間郡・秩父郡・児玉郡)、西党(西野党)(日野市)、綴党(横浜市都筑区)、私市党(加須市騎西)となり、全部で九党あることがわかる。七党という表現は鎌倉時代末期に成立した『吾妻鏡』にはないことから南北朝時代以降の呼び方と考えられている。
5: 日本@名無史さん 2012/01/07(土) 21:01:12.60
武蔵7党っつっても同盟組んでたわけでもなんでもないんだよな。
2: 日本@名無史さん 2012/01/07(土) 09:11:43.17
名字と在地武士の研究にはよく登場するね
マイナーだけど
マイナーだけど
3: 日本@名無史さん 2012/01/07(土) 10:00:22.89
横山党の地元に住んでいます。
今でも普通に横山さんとか近所にいるから驚きです。
あとは何故か近所に大庭さんが多いですw
今でも普通に横山さんとか近所にいるから驚きです。
あとは何故か近所に大庭さんが多いですw
4: 日本@名無史さん 2012/01/07(土) 20:13:00.77
野与党が勢力あるとこら
今も昔も水田あまり無いですが陸稲だっただろうか
旧入間川方面は条里の痕跡がある
今も昔も水田あまり無いですが陸稲だっただろうか
旧入間川方面は条里の痕跡がある
6: 日本@名無史さん 2012/01/07(土) 22:36:02.08
地元は西党だな。平山さんが有名
8: 日本@名無史さん 2012/01/09(月) 10:48:53.55
武蔵七党が出自の名字を名乗ってる人多いはず
21: 日本@名無史さん 2012/03/20(火) 18:20:25.33
七党っていっても実際は九つあるんだよな
22: 日本@名無史さん 2012/03/20(火) 18:52:56.39
坂東八平氏とか由利十二頭とかもそうだね。
北海道の道南十二館はドンピシャらしいが。
北海道の道南十二館はドンピシャらしいが。
23: 日本@名無史さん 2012/04/10(火) 08:56:08.59
北条に家を則られて強制隠居させられるも、最後まで秩序のために上杉謙信に味方し北条氏邦に毒殺された鉢形城主「用土新左衛門」(藤田康邦)。
猪俣党は小野妹子の子孫だけあって、生き様は格好良い人が多い。
猪俣党は小野妹子の子孫だけあって、生き様は格好良い人が多い。
25: 日本@名無史さん 2012/06/17(日) 14:44:45.33
>>23
武蔵七党の横山氏・猪俣氏の出自が、中央豪族小野氏というのはお決まりの仮冒だろ。
武蔵七党の横山氏・猪俣氏の出自が、中央豪族小野氏というのはお決まりの仮冒だろ。
27: 日本@名無史さん 2012/06/17(日) 21:17:25.51
>>25
武州多摩郡における小野氏の足跡を見ると決してそうとも言い切れない。
武州多摩郡における小野氏の足跡を見ると決してそうとも言い切れない。
28: 日本@名無史さん 2012/06/17(日) 22:20:28.00
小野姓も篁や好古とかが有名だけど、分家や支流が多くあっただろうしな
29: 日本@名無史さん 2012/06/17(日) 22:52:01.54
>>28
町田市の小野路にはその小野篁を祭る小野神社がある。
武蔵国司で篁の7代子孫の小野孝泰が建立したと言われる。
「小野路」は「小野へ向かう道」の意味。
武蔵国府の置かれた多摩郡域は古くは「小野県」「小野郷」などと呼ばれた。
そこへ向かう道筋の意味。
他にも古代には勅旨牧であった「小野牧」「小野馬牧」もあった。
国司としては孝泰のほか、武蔵掾→武蔵介→武蔵守と武蔵の国司を18年間にも渡って勤めあげた小野(高向)利春などがいる。
これだけ同地の歴史に小野氏が絡んでいながら現地豪族として根を下ろしていない(現地豪族と姻戚関係を結んで婿入りしていない)と考える方が逆に不自然。
町田市の小野路にはその小野篁を祭る小野神社がある。
武蔵国司で篁の7代子孫の小野孝泰が建立したと言われる。
「小野路」は「小野へ向かう道」の意味。
武蔵国府の置かれた多摩郡域は古くは「小野県」「小野郷」などと呼ばれた。
そこへ向かう道筋の意味。
他にも古代には勅旨牧であった「小野牧」「小野馬牧」もあった。
国司としては孝泰のほか、武蔵掾→武蔵介→武蔵守と武蔵の国司を18年間にも渡って勤めあげた小野(高向)利春などがいる。
これだけ同地の歴史に小野氏が絡んでいながら現地豪族として根を下ろしていない(現地豪族と姻戚関係を結んで婿入りしていない)と考える方が逆に不自然。
30: 日本@名無史さん 2012/06/18(月) 20:59:46.84
小野氏は公家として生き残った家がないのが哀愁を感じるな
大伴氏とかもそうだけどほとんどが藤原北家
大伴氏とかもそうだけどほとんどが藤原北家
31: 日本@名無史さん 2012/06/20(水) 14:11:09.56
千葉、児玉ってまだ普通にいるからね。
武蔵、秩父、千葉、方面は普通にまだ当時のままで残ってる。
農家、旧家はほぼそっち計なんだよ。
だから彼らに話を聞き、考古額的にしらべればいいかも。千葉、武蔵、秩父はまだ存命なんだよね。
武蔵、秩父、千葉、方面は普通にまだ当時のままで残ってる。
農家、旧家はほぼそっち計なんだよ。
だから彼らに話を聞き、考古額的にしらべればいいかも。千葉、武蔵、秩父はまだ存命なんだよね。
32: 日本@名無史さん 2012/06/20(水) 21:06:10.43
小野姓や横山姓も旧多摩郡の中部、南部あたりに今でも多いよ。
うちの鎮守神社の氏子世話役は小野姓だし、武蔵総社大國魂神社の世襲の神職には横山姓の人がいる。
ちなみにうちの近くの商店街の会長も横山さん。
うちの鎮守神社の氏子世話役は小野姓だし、武蔵総社大國魂神社の世襲の神職には横山姓の人がいる。
ちなみにうちの近くの商店街の会長も横山さん。
33: 日本@名無史さん 2012/07/31(火) 19:40:40.61
武蔵総社・六所宮(現大國魂神社)の宮司職を鎌倉時代以来世襲する猿渡氏(秀郷流藤原氏)は、元々は都の武官(軍事貴族)から鎌倉御家人になった家柄なのだが、頼朝から平賀氏が武蔵国司に任じられた時、同時にその猿渡氏は武蔵総社神職に任じられている。
吾妻鏡によるとこの猿渡氏は、この時期横山氏と行動を共にしていたことが分かっている。
多摩横山荘(現八王子市横山と言われるが異説もあり)を本拠地に持つ多摩郡の有力豪族・横山氏は、おそらく平安末期頃の武蔵総社宮司職を勤めていた可能性が高い。
武蔵総社宮司職に任命された猿渡氏は実際には、代々同総社宮司職を世襲していたこの横山氏に婿に入ったと見るのが妥当だろう。
その横山氏も同様に中央貴族・小野氏が多摩郡の有力豪族に婿入りしたものだろう。
その有力氏族とは、おそらく出雲氏族で初代武蔵国造・兄多毛比命(天穂日命の後裔・出雲国造氏同族)の末裔である笠原氏だと思われる。
しかし調べてみるとどうもその笠原氏にも更に前身氏族があって、どうやらそれは物部(ry
吾妻鏡によるとこの猿渡氏は、この時期横山氏と行動を共にしていたことが分かっている。
多摩横山荘(現八王子市横山と言われるが異説もあり)を本拠地に持つ多摩郡の有力豪族・横山氏は、おそらく平安末期頃の武蔵総社宮司職を勤めていた可能性が高い。
武蔵総社宮司職に任命された猿渡氏は実際には、代々同総社宮司職を世襲していたこの横山氏に婿に入ったと見るのが妥当だろう。
その横山氏も同様に中央貴族・小野氏が多摩郡の有力豪族に婿入りしたものだろう。
その有力氏族とは、おそらく出雲氏族で初代武蔵国造・兄多毛比命(天穂日命の後裔・出雲国造氏同族)の末裔である笠原氏だと思われる。
しかし調べてみるとどうもその笠原氏にも更に前身氏族があって、どうやらそれは物部(ry
37: 日本@名無史さん 2013/01/11(金) 00:13:36.01
彼女の地元が丹荘安保領で、いまちょうど徹底的に安保氏を調べているところ
武蔵七党としたらちと異端かもしれんが中々面白い
結構な勢力だったのにパッタリといなくなり、以降一切無名となったナゾの幻の一族だよね
武蔵七党としたらちと異端かもしれんが中々面白い
結構な勢力だったのにパッタリといなくなり、以降一切無名となったナゾの幻の一族だよね
安保氏/阿保氏(あぼし)は、武蔵七党の一角を占める武士団である丹党を構成する氏族。
62: 日本@名無史さん 2015/09/27(日) 13:08:42.47
>>37
丹党の一族は、丹党加治支族の中山氏が水戸徳川家の家臣になり、常陸松岡で二万石を領す大身中の大身として残っているよ。
そしてこの中山氏の女が第三代水戸藩主の側室に入り、生まれた男子が第四代藩主を継いだため、徳川一門にも列せられた。
また、明治に手綱藩として立藩して男爵にも列している。
↑の経緯から徳川会にも所属している。
実は子孫がちょっとした知り合いなんだ。
そして小野(神社)に関連して出会った。
丹党の一族は、丹党加治支族の中山氏が水戸徳川家の家臣になり、常陸松岡で二万石を領す大身中の大身として残っているよ。
そしてこの中山氏の女が第三代水戸藩主の側室に入り、生まれた男子が第四代藩主を継いだため、徳川一門にも列せられた。
また、明治に手綱藩として立藩して男爵にも列している。
↑の経緯から徳川会にも所属している。
実は子孫がちょっとした知り合いなんだ。
そして小野(神社)に関連して出会った。
41: 日本@名無史さん 2013/10/17(木) 03:13:11.82
実はネタ豊富でおもしろいよな、武蔵七党。地味で知られてないが
43: 日本@名無史さん 2015/02/28(土) 15:09:58.87
尾張の支配者変遷
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び
南北朝以降は土岐、足利、今川、一色・・・と移り変わり、織田氏の登場を待つ。
長秀の剣法中条流は、中条氏の祖小野氏時代より刺撃の術を伝え、中条頼平に至り特に精妙となり。
これを平法とも中条流ともいった。これが長秀に伝わり、長秀が念流系の中条流の中興の祖といわれた。
(『豊田市史』より抜粋、『大日本剣道史』)
尾張氏 熱田大宮司。尾張国造、つまり尾張の古代豪族。
藤原氏 尾張氏の婿となり大宮司職を継承。初代は三河四郎大夫季範(源頼朝の外祖父)。
小野氏 武蔵国多摩郡(東京都)出身、横山党。平氏追討戦で活躍。尾張国守護として3代任じられる。
中条氏 武蔵国北埼玉郡中条発祥の横山党小野氏族。小野氏に代り尾張守護に任じられる。頼平(神奈川県)ら剣の中条流で知られる一族。基本的に鎌倉在住。
名越氏 北条氏族(神奈川県)。鎌倉末期の守護。
中条氏 再び
南北朝以降は土岐、足利、今川、一色・・・と移り変わり、織田氏の登場を待つ。
長秀の剣法中条流は、中条氏の祖小野氏時代より刺撃の術を伝え、中条頼平に至り特に精妙となり。
これを平法とも中条流ともいった。これが長秀に伝わり、長秀が念流系の中条流の中興の祖といわれた。
(『豊田市史』より抜粋、『大日本剣道史』)
47: 日本@名無史さん 2015/08/20(木) 00:57:56.45
横山党の進出先は甲斐国都留郡がその西限かと思っていたら、尾張国まで進出していたのか。
あと東限(北限)は出羽(羽前)のどこかにも地頭職を与えられて進出してなかったか。
あと東限(北限)は出羽(羽前)のどこかにも地頭職を与えられて進出してなかったか。
48: 日本@名無史さん 2015/08/23(日) 15:10:56.03
中条氏の祖である中条家長は横山党出身だが、鎌倉幕府の有力者である八田知家(宇都宮氏の一族で小田氏の祖)の養子となり、藤原姓を名乗っている。
本拠地も埼玉北部の熊谷周辺で、横山党の本拠の多摩や相模北部からは随分離れている。
だから、厳密な意味では横山党の武士とは言えんね。出自は確かに横山党なんだけど。
本拠地も埼玉北部の熊谷周辺で、横山党の本拠の多摩や相模北部からは随分離れている。
だから、厳密な意味では横山党の武士とは言えんね。出自は確かに横山党なんだけど。
65: 日本@名無史さん 2015/09/27(日) 18:46:53.27
猪俣一門の子孫です。詳しく書くと出自がばれちゃうんで。
68: 日本@名無史さん 2015/09/28(月) 18:04:14.44
>>65
多摩郡の府中に人見神社(人見稲荷神社)が鎮座していて、これが猪俣党人見氏の奉祭社であった可能性があり興味深い。
本来の人見氏の本拠地は深谷の人見だが、この人見氏の一族がなぜ本拠地から遥か南の多摩郡に飛び地を有していたのかは謎。
だが、その理由は多摩郡を本拠地とする、猪俣党の同族である横山党に実質婿入りしてきたということなのだと思う。
その証拠に、人見稲荷神社の祭神は、後世に合祀された稲荷神を除くと、一宮である小野神社の祭神と完全に一致するから。
付近には武将・人見四郎の墓がある。
この多摩の人見氏は、姓は人見(猪俣党)でも、実質は横山党の一員だったのだろう。
また、この人見神社の後方に浅間山と呼ばれる標高80Mほどの丘があって山頂には木花咲耶姫を祀る祠が鎮座しているのがこれまた大変興味深い。
人見神社とちょうど里宮と奥津宮のような関係になっているから。
全国の浅間神社系の総本宮である富士山本宮浅間大社の宮司家は富士氏だが、この富士氏の本姓は、猪俣党や横山党と同じ和邇氏である。
多摩郡の府中に人見神社(人見稲荷神社)が鎮座していて、これが猪俣党人見氏の奉祭社であった可能性があり興味深い。
本来の人見氏の本拠地は深谷の人見だが、この人見氏の一族がなぜ本拠地から遥か南の多摩郡に飛び地を有していたのかは謎。
だが、その理由は多摩郡を本拠地とする、猪俣党の同族である横山党に実質婿入りしてきたということなのだと思う。
その証拠に、人見稲荷神社の祭神は、後世に合祀された稲荷神を除くと、一宮である小野神社の祭神と完全に一致するから。
付近には武将・人見四郎の墓がある。
この多摩の人見氏は、姓は人見(猪俣党)でも、実質は横山党の一員だったのだろう。
また、この人見神社の後方に浅間山と呼ばれる標高80Mほどの丘があって山頂には木花咲耶姫を祀る祠が鎮座しているのがこれまた大変興味深い。
人見神社とちょうど里宮と奥津宮のような関係になっているから。
全国の浅間神社系の総本宮である富士山本宮浅間大社の宮司家は富士氏だが、この富士氏の本姓は、猪俣党や横山党と同じ和邇氏である。
70: 65 2015/09/28(月) 21:25:09.67
>>68
いま誰もやる人がいないので家の歴史をまとめていて調査中なんだけど、最近町田の小野神社と八王子の八幡八雲神社に行ってきた。
神社の沿革書きを見ると小野神社と違うことが書いてある。で、横山党の祖先の小野義考は小野考泰の子じゃなく小野妹子の小野氏とは違う土着の豪族である小野諸興の子であるという説があってそれは納得が行って、八王子にある諸興の開発した小野牧場が勅旨牧に指定されている。
もしかすると八幡八雲神社は小野考泰が建てたのではなく諸興か義考が建てた可能性が高いと自分は思ってる。
そうすると猪俣党と横山党は全く別の一派ということになるね。まあ武蔵野武家であることは同じだけどね。
いま誰もやる人がいないので家の歴史をまとめていて調査中なんだけど、最近町田の小野神社と八王子の八幡八雲神社に行ってきた。
神社の沿革書きを見ると小野神社と違うことが書いてある。で、横山党の祖先の小野義考は小野考泰の子じゃなく小野妹子の小野氏とは違う土着の豪族である小野諸興の子であるという説があってそれは納得が行って、八王子にある諸興の開発した小野牧場が勅旨牧に指定されている。
もしかすると八幡八雲神社は小野考泰が建てたのではなく諸興か義考が建てた可能性が高いと自分は思ってる。
そうすると猪俣党と横山党は全く別の一派ということになるね。まあ武蔵野武家であることは同じだけどね。
73: 日本@名無史さん 2015/09/28(月) 22:53:04.30
>>70
その由来書きは私も読んだことがあります。
また中央からの派遣系でない「武蔵土着の小野氏」なるものの存在を説く言説が多く存在していることも知っています。
しかし、その人たちに問いたいのは、ではその「土着系の小野氏」とはそもそも何者なのか?ということです。
その「武蔵土着の小野氏」とは、どこから来たのか?
どこかから降って来たのか?どこかから湧いて来たのか?
そもそも「土着の豪族」の定義とは何なのか?
この問いや疑問に答えている文献やサイトに出会ったことがないのです。
私は小野篁や小野妹子系じゃないから中央小野氏とは無縁の「土着の豪族」と考えるのは早計に過ぎると考えています。
そもそもその「土着豪族」の定義が難しいのです。
小野系図を見ればわかりますが、実際に朝廷は国司に任ずる際、同一氏族の同一人(妹子なら妹子、篁なら篁といった)の直系に限るわけではなく、一族一門の中から広く任じて派遣します。
例えば陸奥における鎮守将軍には安倍氏が歴代多く任ぜられていますが、同一人の子孫に限って任じているわけではなく、広く一門中から任じています。
また、小野氏も陸奥の征蝦夷戦には多く任命されています。
そもそも武蔵に小野氏が多く関わっているのは、この関東の後背地である陸奥の征蝦夷政策があることが大いに関わっているからだと考えています。
小野氏は、坂上氏や文屋氏と並ぶ軍事官僚だったからです。
その由来書きは私も読んだことがあります。
また中央からの派遣系でない「武蔵土着の小野氏」なるものの存在を説く言説が多く存在していることも知っています。
しかし、その人たちに問いたいのは、ではその「土着系の小野氏」とはそもそも何者なのか?ということです。
その「武蔵土着の小野氏」とは、どこから来たのか?
どこかから降って来たのか?どこかから湧いて来たのか?
そもそも「土着の豪族」の定義とは何なのか?
この問いや疑問に答えている文献やサイトに出会ったことがないのです。
私は小野篁や小野妹子系じゃないから中央小野氏とは無縁の「土着の豪族」と考えるのは早計に過ぎると考えています。
そもそもその「土着豪族」の定義が難しいのです。
小野系図を見ればわかりますが、実際に朝廷は国司に任ずる際、同一氏族の同一人(妹子なら妹子、篁なら篁といった)の直系に限るわけではなく、一族一門の中から広く任じて派遣します。
例えば陸奥における鎮守将軍には安倍氏が歴代多く任ぜられていますが、同一人の子孫に限って任じているわけではなく、広く一門中から任じています。
また、小野氏も陸奥の征蝦夷戦には多く任命されています。
そもそも武蔵に小野氏が多く関わっているのは、この関東の後背地である陸奥の征蝦夷政策があることが大いに関わっているからだと考えています。
小野氏は、坂上氏や文屋氏と並ぶ軍事官僚だったからです。
72: 65 2015/09/28(月) 22:18:19.75
またネット検索してたら出てきた。小野諸興は府中市本宿の小野神社出身という説と多摩市一ノ宮の小野神社周辺という説があるが、どちらにしても小野諸興が土着豪族であることは間違いなさそう。
小野牧は非常に大きな規模だったそうで朝廷に回す分だけでなく武家にも回しただろう。相当の財力があったと思える。だから神社を建てられるわけだよ。
小野牧ガ横山に近いところにあることを考えると横山党との関連性が非常にあるね。
小野牧は非常に大きな規模だったそうで朝廷に回す分だけでなく武家にも回しただろう。相当の財力があったと思える。だから神社を建てられるわけだよ。
小野牧ガ横山に近いところにあることを考えると横山党との関連性が非常にあるね。
74: 日本@名無史さん 2015/09/28(月) 23:03:20.32
>>72
古代は祭政一致なので特定豪族が統べる地域には必ず神社を奉祭します。
また、豪族の館や執政府が神社とイコール(含み含まれる)であったりもしますし、新しい館への移転などによって、元館や元執政府を神社に変える場合もあります。
古代は祭政一致なので特定豪族が統べる地域には必ず神社を奉祭します。
また、豪族の館や執政府が神社とイコール(含み含まれる)であったりもしますし、新しい館への移転などによって、元館や元執政府を神社に変える場合もあります。
75: 65 2015/12/08(火) 16:52:55.35
いろいろ調べましたが、徳川光圀著の大日本史の国郡司表に小野氏の系図に乗っていない
小野某の名前を散見されるんですよね。小野諸興も別当になる前は散位だったからもともと都から来た小野氏の子孫かなという気がしてきました。
また、横山党の主な資金源は牧場だったから、小野孝泰の子が小野義孝というのは正しくないかもしれず小野諸奥の子かもしれない。そうすると猪俣党の祖はいったい誰なのかよくわからない。小野孝泰という人物が謎なんですよね。
小野某の名前を散見されるんですよね。小野諸興も別当になる前は散位だったからもともと都から来た小野氏の子孫かなという気がしてきました。
また、横山党の主な資金源は牧場だったから、小野孝泰の子が小野義孝というのは正しくないかもしれず小野諸奥の子かもしれない。そうすると猪俣党の祖はいったい誰なのかよくわからない。小野孝泰という人物が謎なんですよね。
88: 日本@名無史さん 2020/07/22(水) 03:23:36.75
児玉党の末裔ならここにもいますよ。
児玉党といえば源平合戦、いざ鎌倉!で、源頼朝を主君と仰ぎましたが、我が家のご先祖さんは源義仲を主君と仰ぎ、児玉党一族でも兄弟が敵味方となったこともありました。
昨日は小手指ヶ原の古戦場跡に行ってきました。
1333年新田義貞とともに鎌倉幕府軍と30回以上も此処で打ち合ったそうです。
軍配紋の旗印を翻し平安末期から室町時代まで騎馬軍団として駆け抜けた勇敢なご先祖さんに想いを馳せましょう。
児玉党といえば源平合戦、いざ鎌倉!で、源頼朝を主君と仰ぎましたが、我が家のご先祖さんは源義仲を主君と仰ぎ、児玉党一族でも兄弟が敵味方となったこともありました。
昨日は小手指ヶ原の古戦場跡に行ってきました。
1333年新田義貞とともに鎌倉幕府軍と30回以上も此処で打ち合ったそうです。
軍配紋の旗印を翻し平安末期から室町時代まで騎馬軍団として駆け抜けた勇敢なご先祖さんに想いを馳せましょう。
90: 日本@名無史さん 2020/12/07(月) 23:20:05.15
児玉党
三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。
関東衆、馬上の攻め者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たり
信長公記より。
三番に、西上野の小幡一党、赤武者にて、入れ替へ懸かり来たる。
関東衆、馬上の攻め者にて、是れ又、馬入るべき行にて、推し太鼓を打ちて、懸かり来たり
信長公記より。
95: 日本@名無史さん 2021/10/31(日) 10:19:52.34
駒形稲荷 神泉村下阿久原
児玉党の祖となる有道維行の創建と伝えられ、境内には徳川光圀による
「阿久原に遠峰惟行のあとを訪ねて 源 光圀」
との歌碑が建てられている稲荷社です。
「阿久原の牧の稲荷に鈴かけて いななく駒にいさむ武士」元禄8年3月18日
光圀主従7人で児玉党の旧跡、阿久原牧を訪ねて来た時に詠んだ歌だそうです。
児玉党の祖となる有道維行の創建と伝えられ、境内には徳川光圀による
「阿久原に遠峰惟行のあとを訪ねて 源 光圀」
との歌碑が建てられている稲荷社です。
「阿久原の牧の稲荷に鈴かけて いななく駒にいさむ武士」元禄8年3月18日
光圀主従7人で児玉党の旧跡、阿久原牧を訪ねて来た時に詠んだ歌だそうです。
92: 日本@名無史さん 2021/03/28(日) 17:17:17.53
栗本慎一郎が東京の大地主は武蔵七党の末裔がたくさんいるって言ってた
93: 日本@名無史さん 2021/10/15(金) 18:53:09.42
高山彦九郎は平姓児玉党か
94: 日本@名無史さん 2021/10/17(日) 12:06:10.15
幕末の高山彦九郎に武蔵七党の血縁も意識も皆無だろ
むしろ上西入道新田義重に連なる一党としての意識しかなかっただろうよ
むしろ上西入道新田義重に連なる一党としての意識しかなかっただろうよ
96: 日本@名無史さん 2022/03/26(土) 14:14:19.58
武蔵七党の子孫って、武蔵よりも中四国や北部九州に多い感じがする
児玉さんとか阿保さんとか熊谷さんとか
特に大分県なんて七党に限らず関東・東国の武士団の苗字が多い
大友や宇都宮もそうだが、例えば梶原とか三浦とか和田とか佐竹とか佐藤とか首藤、新田、川越等々
おそらくは元寇の影響なんだろうけど
児玉さんとか阿保さんとか熊谷さんとか
特に大分県なんて七党に限らず関東・東国の武士団の苗字が多い
大友や宇都宮もそうだが、例えば梶原とか三浦とか和田とか佐竹とか佐藤とか首藤、新田、川越等々
おそらくは元寇の影響なんだろうけど
引用元: ・武蔵七党
武蔵七党も先祖をたどると小野妹子に関係するとか聞いたことあるけど難しくてさっぱりや