1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/03(土) 23:55:50 ID:CHJwzLBs0
なんか春秋時代って日本の中世(平安末期~安土桃山)に似ている気がしますが?
2: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/04(日) 15:57:25 ID:0qadWPfZ0
呉越の時代劇、中国で多いけど、呉越の抗争はやっぱり人気のある歴史分野なのかな。
3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/04(日) 20:16:52 ID:MJgHOuXu0
呉越春秋は三国志演義に匹敵する人気だよ
4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 15:59:41 ID:3XMnymf40
呉と越って、今の蘇州と紹興だし、かなり近いな。
5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/07(水) 21:08:15 ID:rLMEKwiG0
>>4
呉越同舟とは、そこから来ている
両方とも喧嘩して溺死しちゃうけど
呉越同舟とは、そこから来ている
両方とも喧嘩して溺死しちゃうけど
6: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/02/07(水) 23:12:49 ID:yz9jZmTH0
実際は隣町どうしの喧嘩レベルなんだろうな。
9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 23:30:40 ID:O4XqRUOO0
>>6
さすがに隣町とまではいかないだろうけど、日本の戦国大名ぐらいの規模の争いだったかもね。
さすがに隣町とまではいかないだろうけど、日本の戦国大名ぐらいの規模の争いだったかもね。
7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/08(木) 00:22:57 ID:iW2T6XsU0
確か呉楚越あたりの国で、庶民の桑の葉の取り合いから戦争にまでエスカレートしたケースがあった気がする
11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/09(金) 23:05:15 ID:3L4oO4az0
>>7
それは呉と楚だな
それは呉と楚だな
13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/10(土) 00:51:55 ID:RMDfrmcq0
この時代の英雄はみんな悲惨な末路だな
讒言と裏切りばっか
讒言と裏切りばっか
14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/15(木) 20:45:59 ID:10nuf/iv0
孫武なんかは政争に巻き込まれる前に引退したから伍子胥とかと違い、穏やかな最後だったとみたいだね。
15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/15(木) 20:59:25 ID:E/efF/uc0
孫武は司馬遷から300年前の人物、呉が滅んでしまったので、既に伝説的人物だったと思われる。
20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/06(火) 07:55:30 ID:GHa/Ww0b0
一人の力で国ががらっと変わるよなこの時代は
諸侯もぽっと出の人間をいきなり重用するし
なんか後世の時代よりもロマンを感じる
諸侯もぽっと出の人間をいきなり重用するし
なんか後世の時代よりもロマンを感じる
255: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/01/18(水) 20:42:56.07 ID:P0hAmRKh0
>>20
確かにロマンはあるが、無能には容赦ないのが乱世だから生き抜くのが大変そう
確かにロマンはあるが、無能には容赦ないのが乱世だから生き抜くのが大変そう
257: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/01/19(木) 20:51:25.64 ID:prI8atFZ0
>>255
無能にも有能にも一般人にも厳しい時代だな
>>20の意見には同意できない、特に一行目と二行目
人材抜擢は身分の垣根が低い後世(現代含む)の方が盛んだろう
無能にも有能にも一般人にも厳しい時代だな
>>20の意見には同意できない、特に一行目と二行目
人材抜擢は身分の垣根が低い後世(現代含む)の方が盛んだろう
258: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/01/19(木) 22:29:19.06 ID:XAC/ODpN0
ぽっと出の人間をいきなり重用って、どっちかというと戦国なイメージ
259: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/01/19(木) 22:55:18.36 ID:QZEqCxMG0
曹沫「マジで」
管仲「マジで」
百里奚「マジで」
伍子胥「マジで」
范蠡「マジd……というか俺ら学説によると戦国時代か?」
管仲「マジで」
百里奚「マジで」
伍子胥「マジで」
范蠡「マジd……というか俺ら学説によると戦国時代か?」
261: 258 2017/01/19(木) 23:04:58.80 ID:XAC/ODpN0
>>259
伍子胥はさほどぽっと出でもないけど、曹沫管仲百里奚は春秋前期でぽっと出が続いた感じか。
これは前言するわ撤回
伍子胥はさほどぽっと出でもないけど、曹沫管仲百里奚は春秋前期でぽっと出が続いた感じか。
これは前言するわ撤回
260: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/01/19(木) 22:57:28.36 ID:QZEqCxMG0
たしかに晋楚の覇者体制が確立されてくるとぽっと出の人物がいきなり政柄を握るのはぐっと少なくなるな
社会秩序を維持するための覇者体制という学説があるくらいだから、秩序をわざわざ崩すような振る舞いはやらんだろうし
社会秩序を維持するための覇者体制という学説があるくらいだから、秩序をわざわざ崩すような振る舞いはやらんだろうし
262: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/01/20(金) 02:02:06.19 ID:YlDBizPr0
・有力公子に付いてる管仲はコネ十分
・伍子胥は超大国の有力貴族
・史実性低い范蠡
・百里奚の出身が士以下なら伝説を割り引いても凄いけどよくわからん
・曹沫は仮に左伝のインテリ曹沫を史実とするなら、ぽっと出→そこそこ重用なので該当する
多くは資料の貧困を主要な原因とする「ポッと出」なので実際の出自は悪くないと思われる
恐らくポッと出→いきなり重用は春秋の時代的特徴ではないでしょう
・伍子胥は超大国の有力貴族
・史実性低い范蠡
・百里奚の出身が士以下なら伝説を割り引いても凄いけどよくわからん
・曹沫は仮に左伝のインテリ曹沫を史実とするなら、ぽっと出→そこそこ重用なので該当する
多くは資料の貧困を主要な原因とする「ポッと出」なので実際の出自は悪くないと思われる
恐らくポッと出→いきなり重用は春秋の時代的特徴ではないでしょう
361: 名無しさん@お腹いっぱい。 2020/04/11(土) 16:16:53.01 ID:KZb1Hgah0
范 蠡は後の世でもよく名が挙げられるけど、実際に范蠡ほど主君のために功績を上げながら、完全に綺麗に姿を消した人はいないんだよな
363: 名無しさん@お腹いっぱい。 2020/08/30(日) 15:03:49.15 ID:CMJhzpGM0
>>361
頭首工が嘘かもしれないしね
頭首工が嘘かもしれないしね
297: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/21(火) 01:05:06.82 ID:tXGd9FRq0
おまいら五覇の中で誰が一番好き?
298: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/21(火) 02:20:51.62 ID:8AAHe6yfO
春秋五覇のメンツって諸説あって確定されてないよね?
秦穆
秦穆
299: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/21(火) 07:26:18.93 ID:MyEYpWzc0
楚の荘王と言いたい所だが晋の文公
晋以外に覇者なし!
晋以外に覇者なし!
302: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/23(木) 11:56:18.12 ID:7u2+Ev6E0
やはり晋の文公かなあ
303: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/23(木) 13:36:26.89 ID:qgGqzF6Q0
斉桓は個人的に好きだけど、晩年と死後の後継者争いのせいで評価され難いだろうな
管仲がいてこその桓公って感じもするし
管仲がいてこその桓公って感じもするし
304: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/23(木) 19:38:33.06 ID:eZrSnxHP0
古代中国は(時代を区切ると)これという候補者の数は少ないし、好みの一等賞は比較的決めやすい気がするけど人物評価は逆に難しいかな
それぞれの具体的な政策や行動の詳細が不明すぎる
それぞれの具体的な政策や行動の詳細が不明すぎる
305: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/23(木) 22:31:57.95 ID:kdFdDHst0
春秋に限るなら斉桓・管仲ペア時代の斉の作戦範囲が頭おかしいレベルで広いからねえ
楚の勃興期だったんだろうとはいえ郢の近くまで攻め込んでたり、遠く晋の内紛にまで介入してたりするし
楚の勃興期だったんだろうとはいえ郢の近くまで攻め込んでたり、遠く晋の内紛にまで介入してたりするし
306: 邯鄲人 2017/02/23(木) 22:57:38.69 ID:Av9HqOXc0
左伝「晋覇>>>越えられない壁>>>斉桓」
307: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/25(土) 08:01:50.20 ID:OKeXL7dr0
晋の文公は直接交戦して楚を破ったからねえ・・
斉は大軍を見せつけて威圧した感じでしょ?
(それはそれで小さくないことだけど城濮ほど偉いわけではない)
斉は大軍を見せつけて威圧した感じでしょ?
(それはそれで小さくないことだけど城濮ほど偉いわけではない)
308: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/25(土) 14:18:03.94 ID:UXORoqqO0
>>307
斉も晋も戦う前から勝っていた
楚成王もそれを分かっていた
違ったのは子玉みたいな阿呆が戦端を開いたかそうでないかでしかない
斉も晋も戦う前から勝っていた
楚成王もそれを分かっていた
違ったのは子玉みたいな阿呆が戦端を開いたかそうでないかでしかない
成 得臣(せい とくしん、? - 紀元前632年)は、中国春秋時代の楚の将軍・政治家。令尹。字は子玉。成王に仕えた。猛将として知られる。
成王39年(紀元前633年)、楚の成王は宋を討伐するために兵を集め、子玉と子文に命じて演習を行った。子文は子玉の面目を立てるために、朝食前に演習を終わらせ、一人の兵士も罰しなかった。それに対して子玉は、一日中かけて演習を行い、7人の兵士を鞭打ち、3人を殺した。貴族たちは子玉の有能さを讃え、次々と子文に祝いを言いに訪れた。ただ一人、蔿賈だけは祝いを述べなかった。子文が理由を尋ねると、「何を祝うことがありましょう。子玉が軍事で失敗すれば推挙した貴方の責任です。子玉は気が強く、礼儀知らずで民を治めることが出来ません。300乗以上の軍を率いたら無事に帰ることは出来ないでしょう」と言った。
成王40年(紀元前632年)、成王は再び中原に軍を進め、諸国を討伐した。しかし、帰国して即位し晋の文公となっていた重耳が援軍を送って来たため、成王は本国へ引き上げようとした。蔿賈の予言を伝え聞いていた子玉はそれを押しとどめ、文公と戦うように勧めたが成王はこれを聞き入れなかった。すると「功を立てたいわけではありません。私を謗る者(蔿賈)の口を塞ぎたいのです。」と子玉は自身の配下の兵のみを引き連れてでも文公と戦うと言った。成王はこれを不快に思い、子玉を残して楚へと帰還した。
子玉は城濮で晋軍と激突した(城濮の戦い)が文公に敗れ、楚に帰還した後に敗戦の責任を問われて自殺した。戦いで勝利を収めたものの、子玉を取り逃がしてしまった文公は、「追い詰められた鼠ですら必死に猫に立ち向かう。まして一国の宰相ともなれば必ずや復讐を果たすであろう」と言って、勝利を喜ぶ様子を見せなかったが、子玉の死を知ると「これで私を害する者はいなくなった」と言って大いに喜んだという(窮鼠猫を噛むの故事)。
成王39年(紀元前633年)、楚の成王は宋を討伐するために兵を集め、子玉と子文に命じて演習を行った。子文は子玉の面目を立てるために、朝食前に演習を終わらせ、一人の兵士も罰しなかった。それに対して子玉は、一日中かけて演習を行い、7人の兵士を鞭打ち、3人を殺した。貴族たちは子玉の有能さを讃え、次々と子文に祝いを言いに訪れた。ただ一人、蔿賈だけは祝いを述べなかった。子文が理由を尋ねると、「何を祝うことがありましょう。子玉が軍事で失敗すれば推挙した貴方の責任です。子玉は気が強く、礼儀知らずで民を治めることが出来ません。300乗以上の軍を率いたら無事に帰ることは出来ないでしょう」と言った。
成王40年(紀元前632年)、成王は再び中原に軍を進め、諸国を討伐した。しかし、帰国して即位し晋の文公となっていた重耳が援軍を送って来たため、成王は本国へ引き上げようとした。蔿賈の予言を伝え聞いていた子玉はそれを押しとどめ、文公と戦うように勧めたが成王はこれを聞き入れなかった。すると「功を立てたいわけではありません。私を謗る者(蔿賈)の口を塞ぎたいのです。」と子玉は自身の配下の兵のみを引き連れてでも文公と戦うと言った。成王はこれを不快に思い、子玉を残して楚へと帰還した。
子玉は城濮で晋軍と激突した(城濮の戦い)が文公に敗れ、楚に帰還した後に敗戦の責任を問われて自殺した。戦いで勝利を収めたものの、子玉を取り逃がしてしまった文公は、「追い詰められた鼠ですら必死に猫に立ち向かう。まして一国の宰相ともなれば必ずや復讐を果たすであろう」と言って、勝利を喜ぶ様子を見せなかったが、子玉の死を知ると「これで私を害する者はいなくなった」と言って大いに喜んだという(窮鼠猫を噛むの故事)。
311: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/26(日) 21:03:44.98 ID:gJ7A5rKnO
子玉が阿呆呼ばわりされてるけど、一方で子玉の死を聞いて文公は初めて喜びをあらわにしたというエピソードもあるよね。
312: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/26(日) 23:36:09.08 ID:xWvsVXlh0
>>311
才幹云々は別として、大国楚の晋を敵視する猛々しい令尹の存在は文公も脅威を感じていたからね
成王自身は晋と敢えて事を構える考えは薄かったのもあるし
この敗戦国の将(子玉)が死んで戦勝国(晋文公)が喜んだという一件がひとつの故事として後代まで折につけ引き合いに出される様になるね
一例として楚に大敗した晋の将帥の荀林父を弁護する際とか
才幹云々は別として、大国楚の晋を敵視する猛々しい令尹の存在は文公も脅威を感じていたからね
成王自身は晋と敢えて事を構える考えは薄かったのもあるし
この敗戦国の将(子玉)が死んで戦勝国(晋文公)が喜んだという一件がひとつの故事として後代まで折につけ引き合いに出される様になるね
一例として楚に大敗した晋の将帥の荀林父を弁護する際とか
313: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/27(月) 01:35:18.26 ID:tAtP/P//0
実際、城ボクの戦いだと他の軍兵が敗退してる中で子玉が率いる兵だけは負けてなかったんだから将軍としてのは才能はあったんだろうな
まあ、総大将の器ではなかったが
まあ、総大将の器ではなかったが
323: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/05/02(火) 07:53:29.99 ID:flcsjRcX0
>>313
一軍の将ならよかったのかな
一軍の将ならよかったのかな
324: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/05/15(月) 22:42:11.58 ID:WzWG7xr80
三軍の将にしたら普通に勝ちそうだから困るw
314: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/27(月) 07:29:46.59 ID:/txN0Z/z0
大軍を率いさせるのは云々って言われてたっけな
325: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/05/17(水) 21:42:32.75 ID:dmFsQx9D0
蔿賈の予言って創作か否か
315: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/28(火) 00:30:14.84 ID:fYsniwEO0
城ボクの戦いは戦いが始まる前から晋軍の勝ちが決まっていたかのような戦いに思えるな
そういった状態に持って行くまでの晋の動きが凄い
そういった状態に持って行くまでの晋の動きが凄い
城濮の戦いは、中国春秋時代の紀元前632年に晋と楚とが、城濮にて激突した戦い。晋の文公が覇者としての地位を確立した戦いである。
紀元前632年、晋軍はまず楚の盟下にある曹を攻めようとし、衛の成公に領内の通過許可を求めた所、断られた。かつて放浪時代に先代である衛の文公に侮辱を受けていたこともあり、怒った文公(重耳)は衛を攻めて五鹿と言う土地を奪った。この後で郤縠が急死したので代わって先軫を中軍の将に抜擢した。
衛国内で斉の昭公と会盟し、今後のことを話し合った。晋に攻められて恐れていた成公がこれに参加したいと申し出てきたが、文公はこれを撥ね付け、成公は更に楚に和親しようとしたがこれも断られ、成公は臣下により追放され、衛は晋に降った。その後で曹を攻めて、これも降す。
この戦果を元に、先軫の進言により、「衛と曹の土地を宋に与え、その土地を斉と秦に割譲する。その上で宋から斉・秦に宋包囲を止めるようにと楚へ言ってもらう。盟下にある衛と曹を守らねばならない楚はこれを断るに違いない。そうすれば斉・秦は楚を恨むようになるだろうし、楚の方も宋を攻めるよりも衛・曹の方へと意識が向くだろう。」という策を実行し、思い通りになった。
戦況が不利になったと見た成王は本国へと引き上げていった。しかし子玉は成王の怒りを買いながらも残留し、晋に対して「晋が衛と曹を許すなら楚も宋を許す」と申し入れてきた。晋はこれを逆手に取り、衛と曹を寛大に許してやり、衛と曹は楚との盟約を破棄し、晋に親しむようになった。
このことに怒った子玉は晋軍を攻撃する。
4月己巳の日に両軍は城濮で激突。晋の大勝に終わり、晋は践土と言う所に王宮を作り、ここに周の襄王を招いて、諸侯と会盟した。この時に楚の盟下にあった鄭も晋の盟下に移った。文公は襄王からのもてなしを受け、覇者と認められた。
紀元前632年、晋軍はまず楚の盟下にある曹を攻めようとし、衛の成公に領内の通過許可を求めた所、断られた。かつて放浪時代に先代である衛の文公に侮辱を受けていたこともあり、怒った文公(重耳)は衛を攻めて五鹿と言う土地を奪った。この後で郤縠が急死したので代わって先軫を中軍の将に抜擢した。
衛国内で斉の昭公と会盟し、今後のことを話し合った。晋に攻められて恐れていた成公がこれに参加したいと申し出てきたが、文公はこれを撥ね付け、成公は更に楚に和親しようとしたがこれも断られ、成公は臣下により追放され、衛は晋に降った。その後で曹を攻めて、これも降す。
この戦果を元に、先軫の進言により、「衛と曹の土地を宋に与え、その土地を斉と秦に割譲する。その上で宋から斉・秦に宋包囲を止めるようにと楚へ言ってもらう。盟下にある衛と曹を守らねばならない楚はこれを断るに違いない。そうすれば斉・秦は楚を恨むようになるだろうし、楚の方も宋を攻めるよりも衛・曹の方へと意識が向くだろう。」という策を実行し、思い通りになった。
戦況が不利になったと見た成王は本国へと引き上げていった。しかし子玉は成王の怒りを買いながらも残留し、晋に対して「晋が衛と曹を許すなら楚も宋を許す」と申し入れてきた。晋はこれを逆手に取り、衛と曹を寛大に許してやり、衛と曹は楚との盟約を破棄し、晋に親しむようになった。
このことに怒った子玉は晋軍を攻撃する。
4月己巳の日に両軍は城濮で激突。晋の大勝に終わり、晋は践土と言う所に王宮を作り、ここに周の襄王を招いて、諸侯と会盟した。この時に楚の盟下にあった鄭も晋の盟下に移った。文公は襄王からのもてなしを受け、覇者と認められた。
316: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/02/28(火) 16:27:02.92 ID:Uwko9tiY0
先畛の謀略は天才だったと
317: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/03/05(日) 20:27:22.77 ID:v39nsmrn0
別板の中国史の名将がどうたらってスレで、先畛の話を誰もしてなくてええってなったことがある
318: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/03/05(日) 23:52:08.52 ID:48QSuwQB0
>>317
先シンは春秋時代を代表する名将だと思うけど、やっぱマイナーである事は否めないから仕方が無い
先シンは春秋時代を代表する名将だと思うけど、やっぱマイナーである事は否めないから仕方が無い
319: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/03/10(金) 09:08:49.57 ID:q0bS74410
これでマイナーならほとんどこの時代について知られてないも同然じゃ・・
320: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/03/11(土) 03:37:33.00 ID:UNbha20R0
>>319
先シンは史記に列伝も無いし晋世家でも記述が少ないからね
この時代、史記は読んでても左伝は読んでない人ってのは結構多い
先シンを宮城谷氏の小説って知ったって人が日本では多そう
先シンは史記に列伝も無いし晋世家でも記述が少ないからね
この時代、史記は読んでても左伝は読んでない人ってのは結構多い
先シンを宮城谷氏の小説って知ったって人が日本では多そう
引用元: ・【呉越】 春秋 【五覇】
まあそこまで持って行った晋軍の戦略的勝利なんだろうけど