1: 世界@名無史さん 2005/06/12(日) 00:18:46 0
国内もOK
12: 世界@名無史さん 2005/06/28(火) 10:10:57 0
14世紀倭寇は元寇の復讐~とかですか?
13: 朱由檢 ◆MfD.4zQt1. 2005/06/28(火) 20:02:45 0
>>12
“明月記”1226年には松浦党が数十隻の軍船で高麗の別島を襲撃し、“吾妻鏡”1232年には肥前国上松浦鏡社の住人が高麗を襲撃した記述があり、元寇以前から高麗での私掠行為はあったの。
“明月記”1226年には松浦党が数十隻の軍船で高麗の別島を襲撃し、“吾妻鏡”1232年には肥前国上松浦鏡社の住人が高麗を襲撃した記述があり、元寇以前から高麗での私掠行為はあったの。
14: 世界@名無史さん 2005/06/28(火) 20:14:35 0
剣豪の愛洲移香斎も倭寇だったそうだな
愛洲 久忠
愛洲 久忠(あいす ひさただ、享徳元年(1452年) - 天文7年(1538年))は、室町・戦国時代の兵法家。陰流の始祖。
平澤家が伝えていた「平沢氏家伝文書」によると、久忠は若い頃に九州や関東、明まで渡航したという。36歳のとき日向国鵜戸の岩屋(現・宮崎県日南市鵜戸村)に参籠して霊験により開眼し、陰流を開いた。晩年は日向守と称し日向に住み、天文7年(1538年)、87歳で死去した。
一説には久忠は若いときに各地へ渡航し、明にまで行ったとされる。このことに対し、『武芸流派大事典』(綿谷雪編、1978年)では、海外での貿易・略奪にかかわるものではないかとしている。
愛洲 久忠(あいす ひさただ、享徳元年(1452年) - 天文7年(1538年))は、室町・戦国時代の兵法家。陰流の始祖。
平澤家が伝えていた「平沢氏家伝文書」によると、久忠は若い頃に九州や関東、明まで渡航したという。36歳のとき日向国鵜戸の岩屋(現・宮崎県日南市鵜戸村)に参籠して霊験により開眼し、陰流を開いた。晩年は日向守と称し日向に住み、天文7年(1538年)、87歳で死去した。
一説には久忠は若いときに各地へ渡航し、明にまで行ったとされる。このことに対し、『武芸流派大事典』(綿谷雪編、1978年)では、海外での貿易・略奪にかかわるものではないかとしている。
15: 世界@名無史さん 2005/07/01(金) 00:19:06 0
平安時代初期にも新羅の賊が九州を襲ったんでしたっけ?
16: 世界@名無史さん 2005/07/01(金) 01:19:40 0
朱印船は日本が作り上げた最高性能の帆船だった。東シナ海など庭のようなものだ。
洋船、中船にもタメをはれる
それが千石船みたいな”帆掛け船”に後退しやがるとは
洋船、中船にもタメをはれる
それが千石船みたいな”帆掛け船”に後退しやがるとは
18: 世界@名無史さん 2005/07/01(金) 07:55:33 0
>>16
一応、帆掛け船でもある程度(70度)の切り上がり性能はあったらしいよ。
あんまり慰めにはならないだろうけど。
一応、帆掛け船でもある程度(70度)の切り上がり性能はあったらしいよ。
あんまり慰めにはならないだろうけど。
37: 世界@名無史さん 2005/08/01(月) 01:28:17 0
>>16
必ずしも後退とは言えないよ。
千石船はとにかく作るのも動かすのも安く済んだらしいから。
鎖国時代に国内の限られた物品を運ぶには丁度よかったんでそ。
朱印船は喫水深いだろうから千石船みたく浅瀬には入れないし、竹の横骨びっしり入っているから帆柱太い=高価。帆も重いから人手がかかる。
必ずしも後退とは言えないよ。
千石船はとにかく作るのも動かすのも安く済んだらしいから。
鎖国時代に国内の限られた物品を運ぶには丁度よかったんでそ。
朱印船は喫水深いだろうから千石船みたく浅瀬には入れないし、竹の横骨びっしり入っているから帆柱太い=高価。帆も重いから人手がかかる。
17: 世界@名無史さん 2005/07/01(金) 04:50:55 0
>>洋船、中船にもタメをはれる
だってその二つくっつけたのに性能低下だったらアホウ以外の何者でも(ry
だってその二つくっつけたのに性能低下だったらアホウ以外の何者でも(ry
21: 世界@名無史さん 2005/07/01(金) 22:42:25 0
>>17
西洋にはガレーとガレオンの良いとこ取りしようとして結局どっちにも及ばなかった「ガレアス」なんて代物もあったガナー
西洋にはガレーとガレオンの良いとこ取りしようとして結局どっちにも及ばなかった「ガレアス」なんて代物もあったガナー
19: 朱由檢 ◆MfD.4zQt1. 2005/07/01(金) 20:03:02 0
ガレオン自体がイスラム船のパクり折衷船なのに…。
交易ではなく、純粋な軍船なら家光の“安宅丸”に、光圀の“快風丸”なんかもあるのに…知名度低いよね。“西山遺聞”によれば、光圀は“快風丸”を『鉄砲いかほどありても船やぶることなき也』…って、豪語するほどの重装戦艦だったのに。
漫遊記どころか北方を支配しようとしたご老公。
う~ん、ダークなお方。
交易ではなく、純粋な軍船なら家光の“安宅丸”に、光圀の“快風丸”なんかもあるのに…知名度低いよね。“西山遺聞”によれば、光圀は“快風丸”を『鉄砲いかほどありても船やぶることなき也』…って、豪語するほどの重装戦艦だったのに。
漫遊記どころか北方を支配しようとしたご老公。
う~ん、ダークなお方。
22: 世界@名無史さん 2005/07/04(月) 15:02:00 0
>>19
そんな船を蝦夷地にやってもそもそも鉄砲撃ってくる敵いるのかよ!って感じがする。
そんな船を蝦夷地にやってもそもそも鉄砲撃ってくる敵いるのかよ!って感じがする。
23: 世界@名無史さん 2005/07/04(月) 23:25:14 0
>>22
え~、冗長設計というのがありまして。
安全性を高めようと思うと設計に冗長性を持たせることが有効なわけです。
むろん、それによりコストアップはいたしますが。
蝦夷征伐のコストがもはや不明でありますので、収支計算は致しかねます。
え~、冗長設計というのがありまして。
安全性を高めようと思うと設計に冗長性を持たせることが有効なわけです。
むろん、それによりコストアップはいたしますが。
蝦夷征伐のコストがもはや不明でありますので、収支計算は致しかねます。
64: 世界@名無史さん 2005/12/16(金) 21:34:43 0
日本が鎖国しなかったら、和船はどんな進化をとげていったかな?
明治初期に流行した、船体だけは伝統的な千石船で帆装だけ洋式という「相の子船」のようなものが主流になるんだろうか?
明治初期に流行した、船体だけは伝統的な千石船で帆装だけ洋式という「相の子船」のようなものが主流になるんだろうか?
65: 世界@名無史さん 2006/01/02(月) 19:08:38 0
ジャンクの構造も採り入れてたかも知れん。
琉球では実際琉中折衷の船があったかもね。
琉球では実際琉中折衷の船があったかもね。
66: 世界@名無史さん 2006/01/02(月) 23:35:42 0
田沼時代に船底がジャンク+西洋船の折衷型ってのがあったらしいね。
確か蝦夷交易を見込んで作った実験船で帆装は和風。
確か蝦夷交易を見込んで作った実験船で帆装は和風。
24: 世界@名無史さん 2005/07/05(火) 17:40:36 0
韓国ドラマに出てきたらしい倭寇は見逃したなぁ。。
26: 世界@名無史さん 2005/07/07(木) 17:34:41 0
中国映画では倭寇と戦う武侠モノは結構ポピュラー
ジェット・リーの東方不敗シリーズとかね。
なぜか唱歌「村祭り」を酔って歌う倭寇たち
ジェット・リーの東方不敗シリーズとかね。
なぜか唱歌「村祭り」を酔って歌う倭寇たち
27: あやめ ◆C0.O2CxIMg 2005/07/07(木) 18:56:09 0
香港映画の「忠烈圖」に出てきた倭寇は着流しに講武所髷、時代背景は明代なのに。
28: 世界@名無史さん 2005/07/08(金) 18:38:24 0
いわゆる「真倭」をリアルに描くとどんな感じだろう?
中国側の文献では落ち武者ヘアで上半身裸というのが定番らしいが。
中国側の文献では落ち武者ヘアで上半身裸というのが定番らしいが。
29: あやめ ◆C0.O2CxIMg 2005/07/08(金) 18:54:06 0
やはり頭髪の月代がもっとも特異に感じられたようです。
30: 世界@名無史さん 2005/07/08(金) 19:07:44 0
「中国劇画 孫子の兵法」に出てた倭寇は、頭は月代なのに護心鏡つきの中国風甲冑を着て、怪獣の顔をペイントした中国風丸盾をもってて、武器は日本刀。かなり笑えた。
33: 世界@名無史さん 2005/07/11(月) 14:01:37 0
>>30
実際にはそんな格好だったのかもな。
実際にはそんな格好だったのかもな。
34: 世界@名無史さん 2005/07/11(月) 15:01:31 0
>>33
略奪品や戦利品を流用してても、確かに不思議じゃないかも。
略奪品や戦利品を流用してても、確かに不思議じゃないかも。
31: 世界@名無史さん 2005/07/08(金) 22:32:30 0
そういや、陳瞬臣さんが「月代+丁髷は辮髪の一種?」とか言ってたけど、あっちの人からはそんな感じに見えるのかも。
35: 世界@名無史さん 2005/07/15(金) 20:53:04 0
日本の水軍は実際になりふり構わない格好だったらしいな。
フンドシ一丁で兜をかぶってたりとか。
フンドシ一丁で兜をかぶってたりとか。
37: 世界@名無史さん 2005/08/01(月) 01:28:17 0
>>35
当時東シナ海域で傭兵してた日本人も褌一丁。
当時の沿岸部の人達にとっては武闘派日本人=半裸のイメージだったかもね。
当時東シナ海域で傭兵してた日本人も褌一丁。
当時の沿岸部の人達にとっては武闘派日本人=半裸のイメージだったかもね。
38: 世界@名無史さん 2005/08/13(土) 15:13:48 0
>>37
現代でも韓国の歴史漫画や中国の歴史ものドラマで登場する倭寇のステレオタイプが「(志村のバカ殿ばりの)茶筅髷+下半身フンドシだけ+無精ヒゲ」だものね・・・
現代でも韓国の歴史漫画や中国の歴史ものドラマで登場する倭寇のステレオタイプが「(志村のバカ殿ばりの)茶筅髷+下半身フンドシだけ+無精ヒゲ」だものね・・・
36: 世界@名無史さん 2005/07/15(金) 22:56:58 0
服着たまま海に入ってしまったら泳ぐの大変だからね。
41: 世界@名無史さん 2005/09/06(火) 23:50:10 0
李氏朝鮮を襲っていた倭寇は騎馬の大集団ですが?
42: 世界@名無史さん 2005/09/07(水) 00:11:26 0
>>41
阿只抜都か。
済州島にいたモンゴルの残党とかいわれてるらしいな。
いわゆるマージナル・マンの一部だったんだろうか。
阿只抜都か。
済州島にいたモンゴルの残党とかいわれてるらしいな。
いわゆるマージナル・マンの一部だったんだろうか。
阿只抜都(あきばつ)は、『高麗史』および『朝鮮王朝実録』に登場する14世紀の倭寇の首領の名前。李成桂に討たれたとされるが、正体や出自等は不明。
43: 世界@名無史さん 2005/09/07(水) 00:14:47 0
>>42
済州島の住民は倭服を着て倭語を話すとありますが?
済州島の住民は倭服を着て倭語を話すとありますが?
44: 世界@名無史さん 2005/09/07(水) 00:21:25 0
>>43
当時の彼らのアイデンティティはどんな感じだったんだろう?
当時の彼らのアイデンティティはどんな感じだったんだろう?
45: 世界@名無史さん 2005/09/07(水) 00:28:01 0
そういえば済州島には明軍に捕虜になったモンゴルの王子が島流しにされてるんだよな。
李朝の権威が初期は及んでなかったらしいし外国の流刑地にされてるあたり複雑なものを感じる。
李朝の権威が初期は及んでなかったらしいし外国の流刑地にされてるあたり複雑なものを感じる。
46: 世界@名無史さん 2005/09/07(水) 00:38:49 0
検索したら地保奴が流されたのは琉球だったorz
でも元代に流刑地になってたのは確か。
でも元代に流刑地になってたのは確か。
50: 世界@名無史さん 2005/09/07(水) 01:20:05 0
明なら島流しにする手間を惜しんで処刑してそうなのにな
51: 世界@名無史さん 2005/09/07(水) 01:26:38 0
>>50
地保奴は別に悪事を犯してないから。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%8D%E7%8E%89_(%E6%98%8E)
>ブイル・ノールの戦いでトグス・テムルの軍を撃破した。トグス・テムルは逃したものの、彼の妃や次男の地保奴を捕らえ、太子妃・公主などの皇女100人超、頭目3,000人超、捕虜77,000人、軍馬・家畜150,000匹を得て凱旋した。藍玉がトグス・テムルの妃と姦通した噂が流れ、恥じた妃は自害する事件が起きた。地保奴は別に悪事を犯してないから。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%8D%E7%8E%89_(%E6%98%8E)
地保奴がこの件を深く恨んでいて、首都に置いとくのは危険だというので仕方なく流刑にされた。
56: 世界@名無史さん 2005/10/12(水) 17:23:17 0
元の王族で済州島に流された人は実際にいる。
雲南の梁王家が明軍に敗北したあとでそこの王子が配流された。
そのときに同行してきた従者を通じて済州島民には苗族の血が流れてるのだとか。
雲南の梁王家が明軍に敗北したあとでそこの王子が配流された。
そのときに同行してきた従者を通じて済州島民には苗族の血が流れてるのだとか。
57: 世界@名無史さん 2005/10/30(日) 17:06:49 0
済州島は東シナ海の海運の要衝としていい立地だと思うんだがなあ・・・本土の海禁が許さなかったせいか。
半島に従属せず独立を保っていたらけっこう栄えたのでは、とIF想像してみる。
半島に従属せず独立を保っていたらけっこう栄えたのでは、とIF想像してみる。
58: 世界@名無史さん 2005/10/30(日) 17:13:55 0
>>57
高麗が元の附馬国だったころに一時期「耽羅国」として「星主」と呼ばれる元首をもっていた。
高麗が元の附馬国だったころに一時期「耽羅国」として「星主」と呼ばれる元首をもっていた。
59: 世界@名無史さん 2005/10/30(日) 21:50:33 0
>「星主」
また…天皇なみに大仰な名前だな
また…天皇なみに大仰な名前だな
60: 世界@名無史さん 2005/11/02(水) 14:45:37 0
>>59
星を祀る祭主ていどの意味
星を祀る祭主ていどの意味
67: 世界@名無史さん 2006/01/12(木) 12:10:37 0
林鳳についておせーて。
71: あやめ ◆C0.O2CxIMg 2006/01/30(月) 22:10:49 0
嘉靖中に浙閩の海上を跳梁していた巨寇の林道乾は、嘉靖四十二年に福建總兵の兪大猷により本拠の澎湖を逐われ、東番(臺灣西部)に逃竄し更に南海に向かって消息を絶ってしまいました。踵を接するようにこれに代わって現われたのが林鳳でした。
林鳳は「萬暦實録」には「林鳳鳴」として記載されていますが、一般には「林鳳」で通行しています。スペイン側の史料では"Limahong"で出てきます。これは恐らくLim(林)a(阿)hong(鳳)であろうと推定されていますが、昔は余り支那の海寇について情報が乏しかったためか「李馬奔」という字が宛てられることが多かったようです。
八幡船の話を好んで小説にする某作家は「李馬恭」なんて書いて「リマーコン」とか振り仮名してましたが、全く無根拠のデタラメです。この人は八幡船は「バハンセン」と読むのは間違いで「ハチマンブネ」と読むのが正しいとか怪説を唱えてました。
それはさておき「アホン」という名からイスラムの宗教指導者の称号が連想されてしまいますが、林鳳がムスリムだったという伝承は見当たらないので恐らく関係はないでしょう。
アホンは阿衡・阿洪・阿渾・阿訇などと書き、アラブ文の原スペルからのラテン翻字は"akhun"となります。また英語の"hong"は「商館」という意味らしい(語源不明)のですが多分これも無関係でしょう。
ということで今晩はここまでとして続きは明日。
林鳳は「萬暦實録」には「林鳳鳴」として記載されていますが、一般には「林鳳」で通行しています。スペイン側の史料では"Limahong"で出てきます。これは恐らくLim(林)a(阿)hong(鳳)であろうと推定されていますが、昔は余り支那の海寇について情報が乏しかったためか「李馬奔」という字が宛てられることが多かったようです。
八幡船の話を好んで小説にする某作家は「李馬恭」なんて書いて「リマーコン」とか振り仮名してましたが、全く無根拠のデタラメです。この人は八幡船は「バハンセン」と読むのは間違いで「ハチマンブネ」と読むのが正しいとか怪説を唱えてました。
それはさておき「アホン」という名からイスラムの宗教指導者の称号が連想されてしまいますが、林鳳がムスリムだったという伝承は見当たらないので恐らく関係はないでしょう。
アホンは阿衡・阿洪・阿渾・阿訇などと書き、アラブ文の原スペルからのラテン翻字は"akhun"となります。また英語の"hong"は「商館」という意味らしい(語源不明)のですが多分これも無関係でしょう。
ということで今晩はここまでとして続きは明日。
73: あやめ ◆C0.O2CxIMg 2006/01/31(火) 21:58:14 0
林鳳は潮州の饒平縣の出身です。饒平という土地は当時は海賊を輩出しています。李大用・林國顯・許棟・許朝光・張璉などですが、林道乾の出身地の海澄縣も饒平と同じく潮州府に属しています。そして上記の林國顯は林鳳の族祖に当ります。
林國顯は「小尾老」と綽名され同郷の沈門や田浪廣と李大用の子分になり、大用が暴風で溺死すると代って「饒平賊」を統率して海賊を継続しました。官府では國顯の実子を牢獄に繋ぎやがて釈放して、國顯を招降しようと謀ったのですが彼は拒絶しました。そして沈門に海上活動を委ね、自身は日本に渡航し五島に居住していました。
そのうち沈門は澎湖でトラブルに巻き込まれ、五島に来て國顯に遇い浙江の黄岩を攻略して占拠する謀略を立て、國顯の義子の徐碧溪の手引で南澳と黄岩に入寇します。南澳に拠った碧溪は明の游撃の黒孟陽に討たれてしまいます。
國顯は倭人を呼び込んで諸方を抄掠してましたが、福建の詔安縣の梅嶺に家族を住まわせていました。梅嶺はそのころ南海貿易の自由港として賑い、國顯はここを根拠地として日本の海商を招きよせ私貿易を営ませていました。しかし嘉靖四十四年に朝陽の海上で活動中に官兵に遭遇し、交戦の末に敗亡しました。林國顯の事業を継承したのが林鳳です。
林國顯は「小尾老」と綽名され同郷の沈門や田浪廣と李大用の子分になり、大用が暴風で溺死すると代って「饒平賊」を統率して海賊を継続しました。官府では國顯の実子を牢獄に繋ぎやがて釈放して、國顯を招降しようと謀ったのですが彼は拒絶しました。そして沈門に海上活動を委ね、自身は日本に渡航し五島に居住していました。
そのうち沈門は澎湖でトラブルに巻き込まれ、五島に来て國顯に遇い浙江の黄岩を攻略して占拠する謀略を立て、國顯の義子の徐碧溪の手引で南澳と黄岩に入寇します。南澳に拠った碧溪は明の游撃の黒孟陽に討たれてしまいます。
國顯は倭人を呼び込んで諸方を抄掠してましたが、福建の詔安縣の梅嶺に家族を住まわせていました。梅嶺はそのころ南海貿易の自由港として賑い、國顯はここを根拠地として日本の海商を招きよせ私貿易を営ませていました。しかし嘉靖四十四年に朝陽の海上で活動中に官兵に遭遇し、交戦の末に敗亡しました。林國顯の事業を継承したのが林鳳です。
90: 世界@名無史さん 2006/04/02(日) 05:51:27 0
江戸時代、長崎に来航していた中国船は清船だけでなく、清が母港でない華僑の船も含まれていた。
なんで許されていたのだろうか?--清と国交、通商航海条約があったわけでないから、船頭が中国人でさえあったらよかったのか?しかし、「中国人」というのも「中国人らしく見える人」ということだったろうし、船乗りというのはいまもそうだが、多民族構成だ。
キリシタンさえ居なければ、船員に白人黒人みたいな人間が居ても入港OKだったのだろうか?
なんで許されていたのだろうか?--清と国交、通商航海条約があったわけでないから、船頭が中国人でさえあったらよかったのか?しかし、「中国人」というのも「中国人らしく見える人」ということだったろうし、船乗りというのはいまもそうだが、多民族構成だ。
キリシタンさえ居なければ、船員に白人黒人みたいな人間が居ても入港OKだったのだろうか?
92: 世界@名無史さん 2006/04/02(日) 23:36:49 0
>>90
オランダの国旗掲げたアメリカの船が来たこともありますが。
オランダの国旗掲げたアメリカの船が来たこともありますが。
91: 世界@名無史さん 2006/04/02(日) 12:50:41 0
中国語を話し、漢字を読み書きでき、中国の行儀作法が身に付いていれば、肌の色なんか無関係に中国人だろう。
宗教も無関係だ。
仏教、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教なんて西から来た宗教を信じる信じないは関係ない。
既成権威に立ち向かうために、中国の権力者がそれらの外国宗教やマルキズムを使うことは過去に何度かあったが、信じてるワケじゃない。
宗教も無関係だ。
仏教、イスラム教、キリスト教、ユダヤ教なんて西から来た宗教を信じる信じないは関係ない。
既成権威に立ち向かうために、中国の権力者がそれらの外国宗教やマルキズムを使うことは過去に何度かあったが、信じてるワケじゃない。
93: 世界@名無史さん 2006/04/03(月) 03:49:20 0
信牌持ってるか否かだと思うけど>許可不許可の基準
ある特定の人種がNGなだけで、それほど人種は気にしてないだろ。
いわゆる奥船にはタイだかどこだかの官営船もあったそうだし。
長崎にはイスラム系言語用の通詞もいたらしい。
アルメニア人あたり、普通に入ってきてたんじゃないか。
逆に何ももたない中国人がやってきたら強制唐町送りだろ。
ある特定の人種がNGなだけで、それほど人種は気にしてないだろ。
いわゆる奥船にはタイだかどこだかの官営船もあったそうだし。
長崎にはイスラム系言語用の通詞もいたらしい。
アルメニア人あたり、普通に入ってきてたんじゃないか。
逆に何ももたない中国人がやってきたら強制唐町送りだろ。
94: 世界@名無史さん 2006/04/03(月) 10:39:27 0
信牌は清領発の船しか関係ないと思うけど。
タイから来る船など奥船は多分持ってない。
タイから来る船など奥船は多分持ってない。
96: 世界@名無史さん 2006/04/06(木) 17:04:25 0
倭寇に拉致られる・・・いつのまにか一員になってるよOrz、ってことが多いと思われ。それに実態はほとんど中国人だし
97: 世界@名無史さん 2006/04/15(土) 13:33:16 0
海賊船に襲われて殺されなかった場合でも、海賊の仲間にならないんだったら、操船できる船長、上級船員が居なくなった船にそのまま放り出されるだけ
111: 世界@名無史さん 2006/05/31(水) 21:02:50 0
ムスリム商人との交流は無かったの?
112: 世界@名無史さん 2006/05/31(水) 21:05:04 0
>>111
楠葉西忍の親父とか
楠葉西忍の親父とか
楠葉 西忍
楠葉 西忍(くすば さいにん、応永2年(1395年) - 文明18年2月13日(1486年3月18日))は、室町時代の商人。父は天竺人の「ヒジリ」。
父の天竺人(この天竺がどこを指すかは不明。インド、ジャワもしくはアラビアの可能性もあり)の商人・ヒジリは足利義満の時代に来日し、京都の相国寺に居住して絶海中津の庇護を受けていた。
楠葉 西忍(くすば さいにん、応永2年(1395年) - 文明18年2月13日(1486年3月18日))は、室町時代の商人。父は天竺人の「ヒジリ」。
父の天竺人(この天竺がどこを指すかは不明。インド、ジャワもしくはアラビアの可能性もあり)の商人・ヒジリは足利義満の時代に来日し、京都の相国寺に居住して絶海中津の庇護を受けていた。
113: 世界@名無史さん 2006/05/31(水) 21:20:43 0
マラッカのイスラム化が1414年頃だけど倭寇がイスラム化する可能性は無かったのかな?
114: 世界@名無史さん 2006/06/01(木) 01:10:18 0
九世紀ごろから、イスラムの文献に「ワクワク」という土地が登場するが、これが日本のことらしい。
「倭国」の音を、当時のムスリム商人がこう聞いたのだとか。
黄金を大量に産出する土地とえがかれており、このイメージが「ジパング」に引き継がれたのでしょう。
「倭国」の音を、当時のムスリム商人がこう聞いたのだとか。
黄金を大量に産出する土地とえがかれており、このイメージが「ジパング」に引き継がれたのでしょう。
ワクワクは、中世アラブ世界で、東方の彼方にあると考えられていた土地である。ワクワクに関する現存最古の文献は、9世紀半ばに著されたイブン・フルダーズベのアラビア語最古の地誌『諸道と諸国の書』、およびイスタフリーの同名の地理書『諸道と諸国の書』である。それによると、ワクワクはスィーン(al-Ṣīn、支那 = 中国)の東方にある。黄金に富み、犬の鎖や猿の首輪、衣服まで黄金でできている。
イブン・フルダーズベの『諸道と諸国の書』をヨーロッパに紹介したオランダのミヒール・ヤン・ド・フーイェは、広東語で日本の古名「倭国(わこく)」の発音 wo-kwok が、ワクワクの語源だとした。また、シーラは新羅(しんら/しらぎ)だとした。それに対しフランスのガブリエル・フェランは、ワクワクはスマトラとマダガスカルだとした。このほか、オットー・ダール によるボルネオ説、的場節子によるフィリピン説などがある。
倭国説はガブリエル・フェランが論文で批判しているが、日本では批判説の紹介が遅かったことから浸透しており、一般の書籍[や地理関係の啓蒙書にも記載されている。
イブン・フルダーズベの『諸道と諸国の書』をヨーロッパに紹介したオランダのミヒール・ヤン・ド・フーイェは、広東語で日本の古名「倭国(わこく)」の発音 wo-kwok が、ワクワクの語源だとした。また、シーラは新羅(しんら/しらぎ)だとした。それに対しフランスのガブリエル・フェランは、ワクワクはスマトラとマダガスカルだとした。このほか、オットー・ダール によるボルネオ説、的場節子によるフィリピン説などがある。
倭国説はガブリエル・フェランが論文で批判しているが、日本では批判説の紹介が遅かったことから浸透しており、一般の書籍[や地理関係の啓蒙書にも記載されている。
118: 世界@名無史さん 2006/06/18(日) 17:35:58 0
このような軍事的背景とは別に日本は朱印船貿易により、貿易面においてもアユタヤ日本人町は多くの発展を遂げた。まずアユタヤ君主・エーカートッサロットの時代には日本人町に比較的規模の大きい港が建設されている。その後、前述のようにアユタヤはタウングー王朝に対する防衛力を高めるため多くの武器を必要としていたので、刃物の生産で有名な堺からは多くの刀が輸出された。これらは、タイ風の刀や槍の先端に使われるなどして改造され流用された。 17世紀初頭におけるアユタヤの武器の多くはむしろ国内生産の刀よりも日本製のものが多かったとも言われる。
これらの刀の一部は現在でもバンコクの王宮武器博物館などで見ることが出来る。
一方、日本はその豊富な銀を背景にアユタヤから陶器、皮革製品(主にシカ、サメなど)、 キンマ塗りなどを買った。特に皮革製品のタイから日本への輸入量はずば抜けており、江戸初期のアユタヤから日本への皮革製品の数は20万枚以上にも昇った。一方でこのような商業的発展は他の国の商人を脅かすようになった。1620年代の日本人による貿易量は他の国からやって来た貿易商の合計よりもずば抜けて多かったともいわれる。
この動きをもっとも懸念したのは華僑商人であった。
また、他の国の貿易商も日本人によって自分のなわばりにこれ以上踏み込まれることを恐れて日本人の動きを華僑と同様に警戒した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A6%E3%82%BF%E3%83%A4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E7%94%BA
これらの根拠となる文献とかってあるのかな
これらの刀の一部は現在でもバンコクの王宮武器博物館などで見ることが出来る。
一方、日本はその豊富な銀を背景にアユタヤから陶器、皮革製品(主にシカ、サメなど)、 キンマ塗りなどを買った。特に皮革製品のタイから日本への輸入量はずば抜けており、江戸初期のアユタヤから日本への皮革製品の数は20万枚以上にも昇った。一方でこのような商業的発展は他の国の商人を脅かすようになった。1620年代の日本人による貿易量は他の国からやって来た貿易商の合計よりもずば抜けて多かったともいわれる。
この動きをもっとも懸念したのは華僑商人であった。
また、他の国の貿易商も日本人によって自分のなわばりにこれ以上踏み込まれることを恐れて日本人の動きを華僑と同様に警戒した。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A6%E3%82%BF%E3%83%A4%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E7%94%BA
これらの根拠となる文献とかってあるのかな
129: 世界@名無史さん 2006/08/04(金) 00:40:13 0
>>118
サメ皮は日本刀のグリップの部分に使われてる。
サメ皮は日本刀のグリップの部分に使われてる。
119: 世界@名無史さん 2006/06/18(日) 20:10:44 0
日本の商人が鹿の皮を求めすぎたために鹿が絶滅しそうになった、という記録があるとか
127: 世界@名無史さん 2006/07/20(木) 23:23:13 0
「日本刀歌」
北宋・歐陽脩
昆夷道遠不復通,
世傳切玉誰能窮。
寶刀近出日本國,
越賈得之滄海東。
魚皮裝貼香木鞘,
黄白間雜鍮與銅。
百金傳入好事手,
佩服可以禳妖凶。
昆夷 道 遠ければ 復た通ぜず,
世に傳ふ 切玉 誰か能く 窮めんや。
寶刀 近く 日本國に 出で,
越賈 之(これ)を 得(う) 滄海の東に。
魚皮 裝ひ貼る 香木の鞘,
黄白 間に雜(まず)る 鍮 と 銅。
百金にて 傳へ入る 好事の手に,
佩服せば 以って 妖凶を 禳(はら)ふ 可(べ)し。
ttp://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/fusang08.htm
北宋・歐陽脩
昆夷道遠不復通,
世傳切玉誰能窮。
寶刀近出日本國,
越賈得之滄海東。
魚皮裝貼香木鞘,
黄白間雜鍮與銅。
百金傳入好事手,
佩服可以禳妖凶。
昆夷 道 遠ければ 復た通ぜず,
世に傳ふ 切玉 誰か能く 窮めんや。
寶刀 近く 日本國に 出で,
越賈 之(これ)を 得(う) 滄海の東に。
魚皮 裝ひ貼る 香木の鞘,
黄白 間に雜(まず)る 鍮 と 銅。
百金にて 傳へ入る 好事の手に,
佩服せば 以って 妖凶を 禳(はら)ふ 可(べ)し。
ttp://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/fusang08.htm
引用元: ・【朱印船】日本の海上交易【倭寇】
なお実際大航海時代当時、東アジアで外洋船の主流は唐船のジャンク船であった。欧州船は少数で、日本船は耐洋性不足と思われていた。
一例として、三浦按針がイギリス東インド会社の仕事で琉球やベトナムに行った時にも、ジャンク船を使った。東インド会社から退職した後も自費で自前の中古ジャンク船を買ったのだ。
記録残した日本製朱印船はまあまあ使えると思うが、なにせ数は数艘しかないから、実際の朱印船活動は普通に唐船が主流のはず。