1: 人間七七四年 2009/06/20(土) 00:46:21 ID:QhsHcNGr
というか森家のスレが無いので








190: 人間七七四年 2009/08/21(金) 22:29:02 ID:g/3JFsqI
長可は間違いなく悪辣な人間だが、その悪辣な事をしてもいいわけもなく後悔もない一種の潔さがあるが、忠政は同じく悪辣な人間ながら、自分を良く見せようとする小癪さがあるからな。

191: 人間七七四年 2009/08/21(金) 22:39:19 ID:seriTl+K
あの遺書のせいもあるのかな

193: 人間七七四年 2009/08/23(日) 06:07:36 ID:7Jfxttid
ifな話だけど長可が小牧長久手で戦死しなかったとしたらどうなっていたかな?

処世術に長けた感じには感じないし無謀な突撃癖があったからどっちみちどこかで戦死かもしれんが…

194: 人間七七四年 2009/08/23(日) 09:16:56 ID:/PL57dEK
義父の池田恒興が生きてれば安泰
豊臣治世でもかなりの地位が約束されたはず
一説では三法師の外戚だって話もあるし

202: 人間七七四年 2009/08/24(月) 23:46:13 ID:13FAkmRU
長可は信長が若手武将の中でも特に抜擢していた人物だ。
性格はともかく、織田家の中でもかなり優秀な武将だったことは間違いない。

204: 人間七七四年 2009/08/25(火) 22:54:48 ID:2p6VoedQ
可成の嫡男可隆が長生きしてたら長可も少しは大人しくしてたかな?
あの長可、忠政の兄貴だから可隆も相当の曲者になっていただろう。

205: 人間七七四年 2009/08/25(火) 23:19:19 ID:8kb8s4um
長可が長生きして出家でもしたら高名な僧になりそう。
良くも悪くも尋常じゃなさそうな。

206: 人間七七四年 2009/08/25(火) 23:53:22 ID:A5Ngxi1C
若い頃かっ飛ばして奴は高齢になると良い感じに落ち着・・くかなぁ、この人

210: 人間七七四年 2009/08/26(水) 07:53:04 ID:51UMn6Z7
室町の礼法では、上位の者から何かを勧められても、ホイホイと受けてはダメだった。二回までは断り、三度目にはじめて、これ以上断るのは失礼にあたる、と受けるのが礼にかなったやりかただった。
そこで、長可の例の遺書のことになる。あのなかで千(のちの忠政)に自分の跡目をとらせるのはいやだ、と二回書いているのに注目。
あの部分を文字通りに受け取ってはいけない。最初に二回断っているんだから、もし秀吉が跡目のことを持ち出したら、受けてよい、と言っているんだ。

212: 人間七七四年 2009/08/29(土) 18:00:54 ID:YyAzOM6y
「金山は要衝ゆえに信頼できる人間にお任せください」とかも書いてるけどこれも金山から追い出されないようにする為の書き回しなんだろうか。

213: 人間七七四年 2009/08/29(土) 22:30:43 ID:FZuyiOmG
忠政をよそへ転封させるには加増が必要だから、遠回しに加増の要求をしているのではないか?

214: 人間七七四年 2009/08/29(土) 22:43:31 ID:YyAzOM6y
それは無いと思う。

金山って今でこそ寂れてるが当時は物流の交差点みたいな所でかなり旨味のある土地。
忠政も久々利の窯で作られた美濃焼を河港経由で尾張に売りさばいて儲けてた。
ぶっちゃけ川中島移転後の方が金欠。

215: 人間七七四年 2009/08/30(日) 02:18:25 ID:LaEyzXHz
金欠という事で金を掻き集めるために「右近検地」で無理やり5万石以上増やして搾り取った忠政。

でもこのやり口、後年で問題になるんよ。
津山藩の改易直前の石高が3万3000石分地して減ってるはずなのに26万石にまで膨れ上がってしまってる。(元は18万6500石)
金が欲しくなると基準を弄った検地で石高を水増しするという安易な手段に走る悪しき伝統を作ってしまったので右近検地はある意味、森家の「負の遺産」。

216: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2009/08/30(日) 04:32:25 ID:LGAis/2H
忠政はずいぶんと領民を処刑したようだな。
小姓も早々とクビになったし長可の遺書はガチで継がせたくなかったんじゃないかと思えてきたw

217: 人間七七四年 2009/08/31(月) 01:47:11 ID:LTy3NCo3
一般的には森忠政って名君のカテゴリーに入るみたいね。

219: 人間七七四年 2009/08/31(月) 02:25:01 ID:AQ59sVYD
>>217
信濃領主時代のやりたい放題っぷりは擁護のしようも無いが美作行ってからはそこそこ仕事してる。

河港を使う事にこだわって吉井川の工事から始めたり津山、林田辺りの商人優遇策は何となく兼山を髣髴とさせる街づくり。
そう考えると兄貴は政務に関していい発想出したと思う。

あとは兼山から商魂逞しい連中がツテを頼って美作へと流れ込んで商人街がまんま出来た。
お陰で未だにこれにちなんだ「津山市美濃町」なんて場違いな名前が付いております。

225: 人間七七四年 2009/09/02(水) 00:47:51 ID:JClX25I5
忠政って秀吉没後、徳川側についたって事だが一応兄の仇なわけですよね?
領地の恨みや天下の状勢もあると思うけどスンナリ徳川側に就けるもんなんですかね?
逆に家康とかも警戒とかしなかったんだろうか。

226: 人間七七四年 2009/09/02(水) 00:59:08 ID:F463SO3F
もう叔父の可政が秀吉存命時から縁を固めてる。
娘婿の関武兵衛を榊原家に送り込んだり次男の可澄を徳川に入れたりで信任はそこそこ厚い。

後は忠政が可政と仲直りして仲介なりなんなり頼めばどうとでも。
敵とかそういうのはあんま拘り無いんじゃないかな。兄も蘭丸討ち取った男を「武功は武功」で雇っちゃう人だし。

227: 人間七七四年 2009/09/02(水) 01:06:47 ID:Lud+i24J
>>226
まあ長可は秀吉の「武将」として参戦しただけで、別に森家が徳川家に恨みがあって戦ったわけじゃないしね。
家康だって三河一向一揆で自分には向かった連中すら、普通に参加に納めてしまうような武将だし。

229: 人間七七四年 2009/09/03(木) 17:56:01 ID:fCJz30Gu
可成と可政の間に兄弟はいなかったのか?
37歳差もあるんだからいない方が不自然だ。
単に夭折して記録に残ってないだけなのだろうか。

230: 人間七七四年 2009/09/04(金) 01:34:28 ID:QUUPx7t8
寛永諸家系図伝(1643年完成)には無い。これは諸大名家から提出された系図を元に作ってる。

という事は当時の森家的には「そんなのは居ない」って認識だったって訳だな。

231: 人間七七四年 2009/09/04(金) 02:09:03 ID:bKTamUps
虎の穴みたいな所を生きて出て来ないと兄弟と認めてくれないとかw

232: 人間七七四年 2009/09/04(金) 23:27:00 ID:x6gHaxgu
森一族って一癖も二癖もある連中ばっかりだな。
可行爺さんも飯の前に汁粉出したり、60代後半で子供(可政)作ってるし。

242: 人間七七四年 2009/09/12(土) 07:30:25 ID:W3T8TEcv
藤原忠政と彫られた灯篭が残ってたりなんちゃって源氏の可能性があるらしいな。

243: 人間七七四年 2009/09/12(土) 21:59:31 ID:QKTF90M5
でも徳川家に提出した家系図はきちんと源氏姓になってるよ

244: 人間七七四年 2009/09/12(土) 23:02:57 ID:W3T8TEcv
だからインチキの可能性があるって話。

まぁ、島津とかもなんちゃって源氏っぽいので別に恥じる事でもない。

245: 人間七七四年 2009/09/13(日) 01:47:24 ID:5vueZ4uJ
http://ameblo.jp/maurice/entry-10153017207.html

森家子孫の冷静な考察

247: 人間七七四年 2009/09/13(日) 20:59:24 ID:5vueZ4uJ
関さん家の長継くんの代から源氏になったって事で・・・

ちなみに関家も自称源氏なのでそこら辺を合わせたのかもね。

248: 人間七七四年 2009/09/13(日) 22:11:47 ID:NszJa/cx
長継の系統も断絶して森家は各務元正の系統になった

249: 人間七七四年 2009/09/13(日) 22:37:48 ID:5vueZ4uJ
更に赤穂藩主を輩出した各務元直は実は本多家に移籍してる林家からの養子っていう。

250: 人間七七四年 2009/09/13(日) 23:06:47 ID:5vueZ4uJ
津山森家→忠政の代で断絶。関氏からの養子の長継で繋ぐ。

赤穂森家→子が絶えたので林家から各務家に入った各務元直の子たちが藩主に。
三日月森家→森俊韶の代で子が絶える。安芸広島藩、浅野家の出の森快温が藩主に。
新見関家→関成煥の代で子が絶える。浅野家の血が入った後の三日月森家からの養子で繋ぐ。


だいだいこんな感じ。

252: 人間七七四年 2009/09/15(火) 22:38:38 ID:pjGhZXgB
長可ってもしかしてチビ?

254: 人間七七四年 2009/09/15(火) 23:47:00 ID:Q4rDB7ML
小柄で華奢説がある

258: 人間七七四年 2009/09/20(日) 01:28:42 ID:LaAD4J6O
長可の小柄説って根拠は現存されている具足のサイズからだよね?
ただ首無しの死体の山から探して拾ってきたって事みたいだから信憑性は薄いかもという話を聞いた事がある。

294: 人間七七四年 2009/10/08(木) 16:40:56 ID:ZjpHSf1h
>>258
大石神社蔵の伊予札胴、長可討ち死時のものではないのでは、との疑問が生じている一因は、森家系譜記載の装束と違っているため。
森家系譜には、長久手合戦当日の長可の服装は、「御甲御具足御鎧佩盾、何れも総銀萌黄糸威」とあり、黒の伊予札胴の大石神社のものとは異なる。
だが、首とともに井伊家の手の者に持ち去られた冑が現存しており、こちらは銀ではなく、黒漆の筋兜で、大石神社の胴と組み合わせるのに相応しいもの。
系譜の記述の方が誤りと思われる。

260: 人間七七四年 2009/09/20(日) 14:01:11 ID:ZX4qsczh
赤穂の大石神社に所蔵されている伝森長可着用の胴、無駄な装飾がない伊予札胴だが、胸の部分に桐紋の金具がついている高級品。長可着用としても全く不思議はない。
信憑性云々に関しては、松浦静山(まつらせいざん・平戸城主)著 甲子夜話(かっしやわ)の中にある。忠政の子孫の大名が、この胴を着てみようとしてところ、小さすぎてあわなかった。見かけも粗末なものだった。といった記述が根拠。
サイズに関しては、同じ場所に展示してある可成のそれや、忠政のそれより明らかに小さい。
見かけについては、江戸時代の豪華華麗な大名鎧を見慣れていた殿様が、戦国期の実戦的な鎧を知らなかったためと考えることが出来る。

263: 人間七七四年 2009/09/20(日) 23:16:47 ID:0lNHOh7z
このスレ見てからのぶやぼで重用するようになった。
でももう少し強くてもいいよな。

266: 人間七七四年 2009/09/22(火) 06:09:48 ID:ap50sTEZ
評価が確定する前に死んじまったからな
死に方も雑魚みたいな哀れな最後だったしな

268: 人間七七四年 2009/09/23(水) 01:52:29 ID:15Ta3zcP
>>266
まぁ確かに誰からも語り継がれる様な見事な死に様だったらもうちょっとメジャーになれたよなぁ…
多分、信長の野望でも数値が良くなるはずw

269: 人間七七四年 2009/09/24(木) 16:25:53 ID:qkjuJk9L
そうか?十分派手な死に方だと思うけど

272: 人間七七四年 2009/09/24(木) 20:10:41 ID:8m+Zszv4
>>269
派手っちゃ派手なんだけど見事な感じじゃないんだよなぁ

真田幸村みたいに華々しく散るか、やりたい放題生きて最期は畳で大往生!とかだったらよかったのに。

277: 人間七七四年 2009/09/24(木) 23:08:13 ID:K2pSn0ts
どっかの小説なりマンガなりで、大きく取り上げないと再評価は難しいだろうな。

301: 人間七七四年 2009/10/20(火) 16:01:47 ID:HnIDwfdJ
質問なんですが

森一族の本能寺変後の行動なんですが

東美濃で独立勢力化(岩村遠山氏を攻める)→小牧長久手で秀吉に属す、という経緯だと思うんですが、森重臣として知られる関共成なんかは尾張にいたので、清洲会議後は一時、信雄に属して津川義冬と一緒に茶会に出たりしてて、その後、信雄と秀吉が対立すると、秀吉に属した、という感じのようです。

となると、森家も清洲会議後は美濃の支配者たる信孝に属し、秀吉との対立後に秀吉に近づいたのかな?と思うわけなのですが、この辺どうなんでしょうか?
変直後から森家は秀吉に属してたんでしょうか?それとも一時的にせよ織田家に属していたのでしょうか?
それとも秀吉に小牧辺りで属すまでは独立を保っていたんでしょうか?

独立or一時織田家に属す説を採るなら、小牧・長久手で必要以上に頑張っちゃって戦死した経緯もなんとなく合点がいくんですが。

302: 人間七七四年 2009/10/20(火) 17:05:30 ID:MvQOQF3R
>>301
> 森家も清洲会議後は美濃の支配者たる信孝に属し、秀吉との対立後に秀吉に近づいたのかな?

その通りです。長可は弟の仙千代(後の忠政)を、信孝の下に人質として送っています。
賤ヶ岳の前に、信孝を離れ秀吉につきました。

304: 人間七七四年 2009/10/20(火) 18:31:52 ID:nrLFwQdE
いや、違うんじゃね?

人質の忠政なら本能寺から2日後に伴惟安が奪還してるので信孝を見限ったのはそれこそ本能寺直後。
賤ヶ岳前に信孝家臣の斎藤利堯の加治田城なんかも攻略して信孝の勢力を圧迫してる。

305: 人間七七四年 2009/10/23(金) 02:12:10 ID:eZuiXNPh
忠政の救出はどう考えても越後の長可に報が届く前に行われてるので伴の独断専行。

これはどういう事なのかと思ったら「林家覚書」によれば長可は信孝と折り合いがあまりよろしくなかったらしい。

306: 人間七七四年 2009/10/24(土) 15:35:06 ID:h7cIQ739
伴が長可その後の動き予想して動いてたともいえるし、その行動によって大きな方向性決まったとも言える。

まぁどっちにしろ間違った方向に動いちゃいなかったからいいんだろうけど。

307: 人間七七四年 2009/10/24(土) 15:53:33 ID:VE4b07xf
心置きなく信孝の領地を分捕ったかえらなw

引用元: ・【DQN】森長可【鬼武蔵】