1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/03(月) 23:00:21.35 ID:nRxjTbGR0
語り合おうぜよ!!








2: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/05(水) 00:17:52.78 ID:3BuuFuTt0
土佐勤王党盟約文

堂々たる神州、戎狄の辱しめを受け、古より伝はれる大和魂も今は既に絶えなんと、帝は深く歎き玉ふ。
しかれども久しく治まれる御代の因循委惰といふ俗に習ひて、独りもこの心を振ひ挙げて皇国の禍を攘ふひとなし。
かしこくもわが老公つとに此事を憂ひ玉ひて、有司の人々に言ひ争ひ玉へども、かえってその為めに罪を得玉ひぬ。
かくありがたき御心におはしますを、などこの罪には落入り玉ひぬる。君辱めを受くる時は臣死すと。
いわんや皇国の今にも衽を左にせんとするを他にや見るべき。
彼の大和魂を奮ひ起し、異姓兄弟の結びをなし、一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の萬一に裨補せんとす。
錦旗若し一たび揚らば、団結して水火をも踏むと、爰に神明に誓ひ、上は帝の大御心をやすめ奉り、我が老公の御志を継ぎ、下は萬民の患をも払はんとす。
されば此中に私もて何にかくに争ふものあらば、神の怒り罪玉ふをも待たで、人々寄つどひて腹かき切らせんと、おのれおのれが名を書き記し、おさめ置きぬ。

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/18(火) 23:54:38.00 ID:uetmk0hm0
盟約文は大石弥太郎に加え同じく鹿持雅澄門下で武市の学問の師だった徳永千規も起草に加わってるそうだね。

4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/05(水) 12:07:49.97 ID:NV8HPgu5O
下士と上士の軋轢を必要以上に重大に捉えて、下士は土佐では犬猫以下の扱いだった~みたいな話を信じてる奴は司馬と坂崎紫欄に騙され過ぎ
自由民権史観プッシュする坂崎の手に掛かると容堂の維新後の放蕩ですら「封建性の打破」になるんだから恐れ入る
それはともかく瑞山&土佐勤王党と山内容堂はセットで調べた方がいいと思う

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/06(木) 23:53:27.16 ID:0E5s1H0mO
>>4
260年もの長い間の激しい差別に晒して今日までなんの謝罪もしてない(しても山内家のように儀式的)のだから、そういう認識を持つ人がいてもやむを得ないと思う
少なくとも、そういう歴史ではあった

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/07(金) 01:30:15.57 ID:m/Odyeyn0
>>9
いや当時は人間序列があるのが当たり前の時代だったし階級差があるのはどこの藩も同じ。
長い間の激しい差別って何を指してるんだ?
大体龍馬達郷士だって国民の大多数が農民の時代に代々藩から禄もらってる特権階級だし封建社会への恨みって言われても。

そんな了見だから「井口村刃傷事件が土佐勤王党結成の切欠」みたいな根拠のない俗説を龍馬記念館の学芸員までまことしやかに吹聴することになるのだよ。

36: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/19(水) 23:27:30.09 ID:alk+oRJXO
>>4
まあ関ヶ原以来の土佐の階級差への反発が皆無だったかといえばそんな事も無い訳で。
被差別意識が創作で強調され過ぎてるきらいはあるが
例えば瑞山釈放嘆願運動に関しても党員によって対応に差が出たが、野根山23士などは土佐藩上層部への反発心を露わにした集団だった。
安芸郡志士の育ての親である高松順蔵などは容堂からの出仕の話を断り、一方門田為之助は容堂の覚えもよく和歌を下賜されている。
階級に対する意識は地域また個人によって差があったとみるべきだろう。

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/06(木) 01:24:37.10 ID:zjX5W+Tr0
武市先生と樋口真吉って史料上の接点あったっけ?

6: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/06(木) 11:38:11.80 ID:6qaEk1zh0
>>5
「遣倦録」の冒頭から何度か出てきたりしますやん。
http://books.google.co.jp/books?id=XWYS-rezzRAC&dq=editions%3AGYBFIRdGb9kC&pg=PT176#v=onepage&q&f=false

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/06(木) 20:08:31.63 ID:zjX5W+Tr0
>>6
ホントだ
どうもすいません。
『武氏』も武市先生のことだよね多分。
雨の日によく武市先生が訪ねて来てるようだ。
1ページ目の有名な『坂龍飛騰』に続く『武楯出風憲』はどういう意味に受け取ったらいいんだろう?

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/07(金) 11:26:15.00 ID:qvaHogU+0
>>7
>『武楯出風憲』はどういう意味に受け取ったらいいんだろう?

目付役場に出頭って感じだったかと。
ほれ、あの書生論だとかなんとか言われた時の事。

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/06(木) 22:34:54.97 ID:eZ3Z5DDbO
武市さんは年長者とよく相談してたらしい。横田氏の本に書いてあった。
直接指揮を採るのは最初だけで途中から割とおまかせモードになってた気がする。

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/11(火) 12:33:36.32 ID:CoRay0DH0

1835年(天保五年) 竹村東野、江ノ口村に成美塾を開く。門弟の数は一千余人。同塾は多くの土佐勤王党志士を育成した。
1837年(天保八年) 樋口真吉、筑州柳河の大石神影流大石道場に入門する。
1841年(天保十二年) 土佐三郡の郷分庄屋が中心になり秘密の庄屋同盟を結ぶ。
1842年(天保十三年) 庄屋同盟に触発された吾川郡の領民三百数十名が松山藩領へ逃散する。
1843年(天保十四年) 三月七日、第十二代藩主山内豊資公、吾川郡の集団逃散事件の責任を負い隠退する。
1843年(天保十四年) 同日、山内豊資公長男“豊熈”が第十三代藩主になる。
1844年(天保十五年) 試通馬禁止令に怒った郷士六百名が城下に集結し、不当な階級差別だと藩庁に対して猛抗議を行う。
※[藩庁記録] 是より先、郷士連署して馭初式試乗規定に異議を陳情することあり。
是日、手書を有司に下して慰撫の策を講ぜじむ。紛紜年を越えて尚、決せず。
1848年(嘉永元年) 吉村虎太郎、庄屋職に就任する。
1848年(嘉永元年) 七月、山内豊熈公、三四歳で病没する。
1848年(嘉永元年) 九月六日、山内豊資公次男“豊惇”が第十四代藩主になる。
1848年(嘉永元年) 同年九月十八日、山内豊惇公、二五歳で病没する。
1848年(嘉永元年) 同年十二月、分家の山内容堂、応急措置として条件付きながら第十五代藩主となる。
1850年(嘉永三年) 北添佶磨、庄屋職に就任する。
1853年(嘉永六年) 四月、坂本龍馬 江戸に出て北辰一刀流千葉道場に入門する。
1853年(嘉永六年) 七月、ペリー提督率いる米国艦隊が浦賀沖に来航する。
1854年(嘉永七年) 武市半平太、城下新町田淵に剣術道場を開く。
1854年(安政元年) 十一月、巨大地震と大津波が土佐を襲い、沿岸諸浦が壊滅的被害を受ける。
1856年(安政三年) 武市半平太、江戸に出て鏡心明智流桃井塾士学館に入門する。
1857年(安政四年) 中岡慎太郎、安芸郡北川郷大庄屋見習になる。
1858年(安政五年) 山内容堂公、幕府に隠退届を提出する。
1859年(安政六年) 二月、容堂公の隠退に伴い、山内豊資公末子“豊範”が第十六代藩主になる。
1859年(安政六年) 十月、容堂公、幕府から謹慎を命じられる。
1860年(万延元年) 三月、江戸城桜田門外で大老井伊直弼が暗殺される。
1860年(万延元年) 七月、武市半平太、岡田以蔵らを伴い、西国へ情勢探索の旅に出る。
1860年(万延元年) 十月、和宮親子内親王の御降嫁が決定される。
1861年(文久元年) 三月、永福寺門前事件が発生。藩庁による捜査は執拗で、事件に関与した軽格側への追及は一月程続く。
1861年(文久元年) 四月、大石弥太郎、江戸から武市半平太に宛て、江戸招請を要請する旨の書簡を送る。
1861年(文久元年) 同月、武市半平太は義甥の小笠原保馬を伴い土佐を出立。諸国探索を終えた六月、江戸に到着する。
1861年(文久元年) 八月、武市半平太、江戸で薩長勤王志士らと三藩連合による勤王運動を約し、土佐勤王党を結成する。

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/11(火) 23:42:43.65 ID:JQ4ttmKvO
>>19
瑞山の三藩主同時入京提案はあんまり注目されないよね。
というより文久年間の動き自体あんまり注目されてないのか。

ちなみにこの頃交流のあった薩摩の樺山三円はいつの間にか史料から消えて行方不明らしい。
薩摩人はあまり史料残さないとも言われているけれど…。

28: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/17(月) 19:52:34.02 ID:iLWbf8NR0
よう分からんのは山内家でも前藩主の容堂と違って現藩主の豊範、容堂の実弟の山内兵之助、山内民部らは勤王派に協力的だった事だ
山内なら佐幕>勤王ってわけでもないし、土佐の佐幕派は佐幕派内でまたバリエーションがある

31: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/17(月) 23:00:07.98 ID:RRNOirIsO
>>28
「尊皇」にはそれだけの重みがあるってことかな。
山内民部などは山内家一門にも関わらず討幕論に賛同してたらしい。
そういえば山内豊範は長州藩主の養女と結婚してたね。
政変後泣く泣く離婚させられてたみたいだけどその後はどうなったんだろう?再婚したのか?

武市瑞山といえば志士を糾合した功績ばかり注目されるけど、この辺の人達の助力を引き出し土佐を中央政局に担ぎ出したあたりはもっと評価されていいと思う。

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/22(土) 11:43:10.41 ID:3eslMuDEO
>>31
瑞山が大久保っぽいと言われるのはその辺の働きを指してるんだろうな。
土佐勤王党の活動というと、本来オマケ要素である筈の天誅しか注目されないのが悲しい所だ。
朝廷復権が主な活動目的だったと思うんだが。

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/18(火) 11:34:28.69 ID:LNGXQ5CFO
・土佐の志士を政治的に覚醒させる導火線の役割
・薩長土連携の先駆け
明治維新と言う結果に直結する武市の歴史的存在意義は、この辺だろう。
「土佐の吉田松陰」と言った所か。

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/18(火) 12:51:42.56 ID:KD5fKglxO
瑞山の政治上の実績といえば朝廷復権運動に関する部分じゃね。

49: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/22(土) 23:59:30.95 ID:Nku0A+dG0
一党意識が強くて協調性のない土佐っぽが団体行動出来てたのも、藩主含め土佐藩上層部に協力者が出来たのも、そんな武市さんの人徳があればこそという側面があるわけよ。

51: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/23(日) 00:20:19.49 ID:koY7QgPd0
長州でも土佐でも当時藩論は公武合体だから、草莽義挙で時勢を動かすしかないと見たわけだろう
武市は最終的に暗殺と言う非常手段で動かしたが

66: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/24(月) 17:39:22.15 ID:bjyT3yyFO
容堂の事と言い、以蔵の事と言い、武市は人を見る目が無かったな。
これが命取りになった。

68: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/24(月) 19:43:29.35 ID:jA3wX08Y0
>>66
以蔵は武市の死因には関係ないだろ

69: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/24(月) 22:31:38.77 ID:bNRD8P7K0
以蔵のせいで死んだのは同日斬首になった村田忠三郎・岡本次郎・久松喜代馬
あと拷問死した島村衛吉とか服毒自害した田内衛吉とか
久松なんて武市門下で一緒に剣術修行にも行った仲なのに拷問で売っちゃうんだもんなあ以蔵。
暗殺の時、田内衛吉に手を踏まれましたーみたいな事まで洗いざらいベラベラ喋ったんだっけ

78: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/26(水) 12:54:26.49 ID:DqbeI14R0
>>69
岡田以蔵は、よく志士的な節操を喪失したとか、拷問の場で醜態を曝したと非難される事が多いが、本人の自白で直接迷惑を被ったのは四人の同志だけで、肝心な所は吐いてない。此処は一応、評価すべきだろう。
道連れにされた三人の同志は憤懣遣る方なかったろうが…。

79: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/26(水) 13:59:06.24 ID:5IUdqWEaO
>>78
岡田は節操を無くし自分から捕縛される事態を招いたのがまず駄目だ。
そのため岡田の自白が勤王党の獄崩壊の端緒となった。評価すべき点じゃないよ。
天誅に積極的だった割に拷問で泣き叫び出すとか、他人を痛め付けるのは好きでも自分が痛め付けられるのには殊更弱いタイプだろ。
人間的にも嫌悪感しか感じないね。

80: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/26(水) 19:22:02.35 ID:DqbeI14R0
>>79
>岡田の自白が勤王党の獄崩壊の端緒となった。

それ以降も、土佐勤王党は崩壊・壊滅していない。
中岡慎太郎が在国土佐勤王党同志へ宛てた手紙

天下の勢かく相成り候ては 各国俗論と相成り致し方もこれなく
何卒同志中此の上は脱走これなき様 精々御慎制願上奉り候

天下挽回再挙なきにあらず 然りながら今暫く時を見るべし
依て沸騰及び脱藩は甚だ無益也
涙をかゝへて沈黙すべし
外に策なし

85: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/26(水) 22:15:29.15 ID:MlYwQbGH0
>>78
他の同志の説得で後から自白を撤回したけど、以蔵は東洋暗殺の件も吐いてるよ。
手を踏まれた件とか田内衛吉含め天誅の件で細かい供述もしてる。
「以蔵が武市に尽くした」なんてのは創作の中だけの話。現実にそんな要素は一切無い。
まあ女性も耐えた拷問で泣き喚くような人間なので尋問されるがままにハイハイ答えたんだろうけどw
横田氏の推測では拷問一回目で挫けて、あとは拷問に掛ける必要もなくバンバン自白していったんじゃない?って感じだった。
遊郭楽しいお!もう国事なんてどうでもいいお!な人間性の奴に何期待してるんだか…。
捕縛されるぐらいならと潔く自害した勤王党員もいるというのに。

88: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/27(木) 12:03:00.93 ID:5igzWUYz0
>>85
>他の同志の説得で後から自白を撤回したけど、以蔵は東洋暗殺の件も吐いてるよ。

岡田に対して説得を行った同志の氏名と、岡田の自白内容(東洋暗殺の件)に関する具体的な典拠をご教示下さい。

89: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/27(木) 12:42:05.49 ID:hNFBE4d/O
>>88
散々既出だが
つ横田達雄『武市半平太と土佐勤王党』

90: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/27(木) 14:43:30.11 ID:Y7hH2h5d0
>>89
その本は今じゃほとんど手に入らないんだから、読んでない人が居ても仕方なくね?
当然のように言うのはどうよ

91: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/27(木) 16:49:18.74 ID:hNFBE4d/O
>>90
暇な時にでも図書館で読んだらいいじゃないか。
色々と捗るぞ。
しかし瑞山関係文書の精読と併せて「在京日記」「隈山春秋」「遣倦録」「江月斎日乗」等を照らし合わせて勤王党研究する人間なんて今後当分現れないだろうなあ。
この時期の日記が残ってる勤王党関係者って他には居ないのかな?

97: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/28(金) 01:09:36.35 ID:FtRrynHz0
>>91
過去スレにあった
中岡慎太郎 海西雑記・行行筆記
上岡胆治 憤余管見録
土方久元 回天実記
島村衛吉 道中記
大石弥太郎 獄中記・戊辰戦争従軍日記
坂本龍馬手帳摘要
田中顕助 丁卯日記
南部興夫 七生日録
伊藤甲之助 時々日記
薩摩藩の関係者の日記の話とかあんまり聞かないね。

99: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/29(土) 18:48:37.96 ID:zr+mbQdE0
>>97
東大史料編纂所のデータベースで「樺山資之日記」を見る事が出来る。

松岡司『定本坂本龍馬伝』p.140で、池内蔵太・岡田以蔵の名前を削って門田為之助・間崎哲馬と入れ替えたためこの二人が血盟書上位に来ているのではないかと指摘されていたが出典無し。研究者がみな横田氏の様な書き方してくれると助かるのだが…。

98: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/28(金) 02:40:20.28 ID:EEp2ExL/O
上士入れると佐々木高行、寺村左膳、寺田左右馬の日記は必須だな
小原与一郎雑記抄や福岡孝弟、吉田東洋、小笠原唯八も活字で読める

101: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/30(日) 11:49:02.90 ID:T/6eWlS5O
武市の弱点はあまりにも原理主義者過ぎた事と人を見る目があまり無かった事かな?

906: 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/09/26(木) 09:39:38.31 ID:GYswMtQR0
>>101
武市ってもし生きて明治維新を迎える事ができたら桂、西郷と並ぶ大物になっただろうと言われているけど、馬関戦争の後で攘夷が不可能と誰の目から見ても明らかになった後も武市は攘夷を捨てることできるかな

武市は政治家というよりは思想家という感じだし、京で開国派に対して天誅繰り返した過去も有るし上手く思想転向出来ずに埋もれてしまうんじゃなかろうか

103: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/30(日) 14:26:50.89 ID:vWa7f7ST0
強烈なカリスマ性と人望、至誠を兼ね備えた武市がリーダーだったからこそ、土佐勤王党に多くの人材が終結し、志士として羽ばたき、それぞれが維新に大きく貢献した。
そんな武市は言わば土佐における維新の父。その功績は偉大だと思う。
武市の存在が無ければ、龍馬や中岡らの存在も無かっただろう。

だが、藩への忠誠心(それが朝廷への忠誠に繋がると考えていたようだが)に拘り過ぎるあまり、京都の政変が起きてからも土佐に留まり続けると言う選択ミスを冒し、武市に従って土佐に留まっていた同志もろとも勤王党大獄に巻き込まれた事、入獄後、かなりの期間が経過してから獄中書簡で「ご隠居様(容堂)は我々をお憎み」とこぼしたり、京都で刺客として用いた以蔵が勤王党の獄でバンバン自白しまくる等のような人を見る目の無さが、土佐勤王党の壊滅・武市自身の切腹に繋がったとも思っている。(ただ、尋問・拷問による自白者を何人か出しながらも、土佐勤王党の獄の犠牲者が何とか少数に留まったのも武市らの力が大きかったとも思うが)

功績は偉大だけど、リーダーとしては疑問符がつく場面もチラホラ見受けられる。

105: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/30(日) 14:57:11.88 ID:TytVFgsx0
まぁ、勤王党の真のリーダーは平井真の盟主は大石だから、実際の武市はお飾り同然だったんだけどね。
大石が盟主やれば良かったのにね
そうすれば、土佐勤王党の悲劇も起きなかったんじゃない?

106: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/30(日) 15:04:13.62 ID:vWa7f7ST0
ま、平井や大石が盟主ではあれほど多くの人材は土佐勤王党に集まらず、ひいては彼らや武市の働きで土佐が維新に貢献する事もなかったかもしれないけどね。

108: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/10/30(日) 15:32:42.41 ID:vWa7f7ST0
平井は青蓮院宮令旨事件でしくじって武市より先に死んだくらいだから、そんな平井がリーダーだったとしても、武市がリーダーであるよりも犠牲者が出なかったなんて保障は無いけどね。
大石に関しては文久年間に目立った活動が無く、判断のしようがありませんな。

143: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/05(土) 01:44:58.30 ID:cLV6wpneO
武市は吉田東洋暗殺に踏み切るまではテロは極力避けようとしていたのに、京に出てからは本間暗殺、文吉絞殺、石部宿事件とコンスタントにテロを実行してるのが、
よく分からん。

結局テロ嫌いなのかそうでも無かったのか。

144: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/05(土) 01:50:03.32 ID:FJodvvIL0
>>143
そいつら全員他藩の攘夷派からも嫌われてる連中だし、お付き合い的な部分も多少有ったんじゃね?
天誅は基本他藩との共謀による安政の大獄関係者の集団リンチだから

145: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/05(土) 22:54:46.21 ID:wzr4+U3uO
高杉晋作の言によると「武市はいつも権道(テロ)を嫌っていた」そうだが、暗殺者達や武市や龍馬が人命の軽重に対して持ってる感覚にそれ程の相違があったわけではないだろう
テロが嫌いというか、余計なトラブルが嫌いだし避けるべきで、やむにやまれる大和魂に駆り立てられての行動、心意気自体は否定しないが、ムダに面倒な事になりそうな件は差し止めさせていただくと、こういう考えだったんじゃないか武市は

147: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/06(日) 13:49:42.15 ID:v/B7YBb1O
もともとブラッディ武市先生格好いいよねーって印象だったけどこれってマイナーかな。
本人史料から意外な逸話を色々知って別に過激でも冷血でもないってわかって、大分当初の人物像とはイメージ変わったけど、それはそれで良かったけどね。

148: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/06(日) 23:34:32.24 ID:q57sNRSk0
テロがーとか言論の自由や民主主義がある前提の現代の価値観だしなあ
大体桜田門外から倒幕始まってる

152: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/09(水) 16:38:20.02 ID:wKId0HijO
獄中書簡見るに脱藩する人の気持ちは武市さんも分かってたよ。

ところで武市さんが在京時に寝泊まりに使ってた茶室って、今でも料亭の一部として残ってるみたいだけど普通に見学出来るのかなあ。
茶室自体は三畳一間らしいけど狭くない?他にもスペースあったんだっけ。
何か横田氏の本で住居の様子が書かれた手紙を解説してたけど詳細は忘れちゃった。

157: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/13(日) 22:08:35.99 ID:hj9tARHP0
>>152
「金茶寮」って料亭な。
http://r.gnavi.co.jp/ka10600/custom2.html
武市瑞山縁の部屋は今では南天の床柱と紅葉の床板のみ現存との事。
茶室とはまた違うんじゃないかね。

154: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/10(木) 14:40:48.35 ID:Cxo+NAlEO
勤王党幹部は木屋町に住居を構えてたけど、他の党員は妙心寺に住んでたんだよね。
『官武通紀』の「松平土佐守殿始末」によると山内豊範も同じ宿所だったんだっけ。
藩主と党員がそんなに直接接点があったとも思えないけど、それでも勤王党の獄の際、豊範が容堂に瑞山達は真実忠義の者ですと釈放を嘆願してくれたのは、この時期の事も影響してるんじゃないかと思ってる。

161: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/16(水) 14:54:30.71 ID:v90j8YSB0
ところで、武市の例の獄中漢詩だが、どうやら恨みの詩ですら無いようだぞ
一般的に漢詩で恨という文字は、無念さを表す時に使い、恨みを表す時には怨という文字を使うのだそうだ。
よって、この漢詩は、恨みではなく無念さを表した漢詩であるという方が正しいのではないかな

163: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/16(水) 18:05:54.72 ID:rOU2SWbjO
そもそも恨みの漢詩と解釈するにしても、松岡さんが「容堂への恨み」と解釈した事に疑問を感じていた。

165: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/19(土) 17:37:43.89 ID:0+yMMt0UO
>>22の講演に行ってきたが
例の漢詩は歴史民俗資料館の学芸員による解説でも「容堂への恨み」ではなく公武合体派への恨みではないかという説明だった。
一般的に恨=無念ってのはソース何?

166: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/19(土) 20:17:14.69 ID:Ctwqacl+0
>>165
スマンそれは、中国漢詩だったらの話だわ
でも平井の獄中漢詩と比べて見ると、平井の方にはばっちり、怨恨と書かれてたけど、武市の漢詩には恨無限だけで、怨の文字は入ってなくて、それが少し気になったもので
ちなみに一応見つけたもの。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_08/jpn240.htm

引用元: ・武市瑞山&土佐勤王党について4