ハンザ同盟

13世紀から17世紀にかけて北海・バルト海沿岸に成立した中世ドイツの都市同盟。ハンザHanse(Hansa)は本来〈商人の仲間〉の意味。1241年リューベック,ハンブルク間に結ばれたのが初めとされるが異論もある。

リューベックを盟主とし,14―15世紀ころの最盛期には加盟都市約200。ただしその各加盟都市に対する規制力は弱く,共通する利害感覚によって支えられていた。ノブゴロド,ベルゲン,ブリュージュ,ロンドンなどに在外商館を置いて北方貿易を独占した。15世紀以降,同盟内の対立,ドイツ諸領邦の成長による圧迫,地理上の発見に伴う商業中心地の移動,重商主義の発展などで衰退。16世紀末に事実上活動停止。




2: 世界@名無史さん 2010/09/12(日) 14:01:11 0
17 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2010/08/13(金) 15:39:59 0
中世フランスでは定期的に大きな市が開かれていたようだが。


18 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2010/08/21(土) 21:58:46 P
シャンパーニュ大市とかね
「中世ヨーロッパの都市の生活」は読みやすかったけど、他に何か良い本あるかな?


19 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2010/08/22(日) 06:19:53 0
シャンパーニュは交通の要衝だったからなあ。

11: 世界@名無史さん 2010/09/19(日) 23:18:39 0
シャンパーニュ大市は年4回くらいの開催だっけ?

13: 世界@名無史さん 2010/09/21(火) 22:19:07 0
6回だね
1~2月ラニーの大市
3~4月バール・シュル・オーブの大市
5~6月プロヴァンの大市
7~8月トロワの夏市(サン・ジャンの大市)
9~10月サン・テイユルの大市(プロヴァン)
11~12月トロワの冬市(サン・レミの多い地)

16: 世界@名無史さん 2010/09/22(水) 16:03:28 0
他の大市(「図説 交易のヨーロッパ史」より) 補完頼む

・ランデの大市
サン=ドニ修道院の近くで開催。7c

・フランドルの大市
ヘント、リール、イープル、トゥルーなど。11c

・プロヴァンスの大市
ボケール、アヴィニョンなど。11c

45: 世界@名無史さん 2010/12/14(火) 18:26:22 P
>>16
アウクスブルクの大市
年2回 春の復活祭と秋のミカエル祭

17: 世界@名無史さん 2010/09/22(水) 16:41:24 0
>ランデの大市 サン=ドニ修道院の近くで開催。

京都の東寺とか浅草の浅草寺でも似たようなイベントあるな。

18: 世界@名無史さん 2010/09/25(土) 13:52:35 0
その地にゆかりの聖人の記念祭とかは市を盛り上げるイベントでもあったろう

23: 世界@名無史さん 2010/10/12(火) 21:24:43 0
お勧めの書籍でも書いていくとか

27: 世界@名無史さん 2010/10/30(土) 05:51:09 0
「中世の商業革命」(ロバート・S・ロペス)
「長篠合戦の世界史」(ジェフリー・パーカー)
「戦争と資本主義」(ヴェルナー・ゾンバルト)
あたりかな?

230: 世界@名無史さん 2015/12/21(月) 22:44:54.38 0
ハンザ「同盟」の歴史: 中世ヨーロッパの都市と商業 創元世界史ライブラリー

世界史上最大かつ最も長期にわたって存続した都市連合体「ハンザ」は、中世の商業発展と都市の役割を知る上で格好のテーマである。
彼らはいかにして独立性を保ちつつ、ヨーロッパ北部の経済活動を支配するに至ったのか。
本書ではハンザ商業展開の前夜から説き起こし、盟主リューベクを中心にやがて絶頂を迎えるハンザ諸都市の興隆、その終焉までの数百年間の歴史をみる。
ハンザ史研究の泰斗による好個の通史。

231: 世界@名無史さん 2015/12/21(月) 22:45:20.67 0
北海・バルト海の商業世界 斯波 照雄 (編集), 玉木 俊明 (編集)

中世盛期から近世にかけて、広大なヒンターランドと豊かな森林資源を有するがゆえに、北海・バルト海に囲まれた北方ヨーロッパは、一見、華やかに見える地中海世界以上に繁栄を誇った。
ハンザ都市を中心とした交易ネットワークをフルに活用し、やがては資本主義を生みだすことになる地域の歴史を、海洋・陸上双方の側面から多角的に論じた、わが国初めての試み。

232: 世界@名無史さん 2015/12/21(月) 22:47:07.99 0
ヨーロッパの北の海―北海・バルト海の歴史 デヴィド・カービー

ヨーロッパの北に広がる北海・バルト海の歴史。
今、注目されるこの地域は太古から現代まで、どのような文化・社会・経済・政治を辿ってきたのか?
この1冊が語るすべて! マリタイム・ヒストリー(本来の意味での海事史!)初めて、日本に登場!

233: 世界@名無史さん 2015/12/21(月) 22:48:19.50 0
北方ヨーロッパの商業と経済―1550‐1815年 玉木 俊明 (著)

食料供給をはじめ毛織物や東方物産の取引などヨーロッパ世界で中心的な役割を担ってきた地中海貿易は、16世紀の人口増加に伴い食料の安定供給が困難となり、東欧の穀物貿易を展開させたオランダを中心とするバルト海貿易にその地育を譲り渡した。
本書は近世になり経済の中心がアルプスの南から北へ移り、バルト海を中心とする広域経済圏が交易ネットワークを通して北方ヨーロッパに拡大していく過程を、商人の活動とそれを保護する国家の役割に視点をすえて解明する

39: 世界@名無史さん 2010/11/10(水) 03:45:32 0
日本ハンザ史研究会のサイト
https://hansegroup.blogspot.com/
邦文文献目録が充実しています

33: 世界@名無史さん 2010/11/07(日) 20:26:43 0
かつて一橋の問題に、ハンザ同盟の衰退の状況を論ぜよってのがあったけど、いくら教科書読んでもわからんかった。

34: 世界@名無史さん 2010/11/08(月) 21:23:39 0
衰退した理由は「各地の王権の伸張」でいいの?

35: 世界@名無史さん 2010/11/10(水) 02:19:21 0
オスマンがビザンツ滅ぼしたからだと思ったけどその頃ポーランドとリトアニアが拡張しててバルト海の商業権が小さくなったわけでは決してないのね。
全然分からん・・・

37: 世界@名無史さん 2010/11/10(水) 02:53:19 0
簡潔に言うなら「ポーランド・リトアニアが強大になり、ドイツ騎士団が弱体化したから」でいいのかな~

67: 世界@名無史さん 2011/05/30(月) 16:55:51.54 0
フランドルに凌駕されてしまうのは、防げなかったのだろうか。

68: 世界@名無史さん 2011/05/30(月) 17:26:41.74 0
地理的・交通的な不利さはあったのだろうなあ。

69: 世界@名無史さん 2011/06/03(金) 23:17:43.47 0
デンマークとの戦いで消耗したのも痛かった
ズント海峡押さえられたら終わりだしなぁ


220px-Carte-Danemark-Suède-Øresundsbron


エーレスンド海峡
 は、デンマークとスウェーデンの国境の海峡。ドイツ語では単に Der Sund とも言うのでズント海峡、あるいは英語 The Sound からサウンド海峡ともいう。最も狭い所では7kmしかなく、近代までは海峡が凍結し徒歩で渡る事も出来た。


71: 世界@名無史さん 2011/06/04(土) 12:09:28.79 0
ふ・・・・む。
まー、フランドルの方も、片割れのオランダについては、後に英国に押さえつけられたんだから似たようなもんか。
領域国家が力をつけると商業パワーは劣勢にたたざるをえんな。

73: 世界@名無史さん 2011/06/04(土) 19:26:47.51 0
>>71
> 領域国家が力をつけると商業パワーは劣勢にたたざるをえんな。

まあ限界ではあったんだろうな。

72: 世界@名無史さん 2011/06/04(土) 15:36:25.40 0
長期的対立ともなると、どうしても地力のあるなしが勝敗に影響してくるからな

84: 世界@名無史さん 2011/09/17(土) 10:27:14.67 0
ズント海峡って昔は冬に凍結してたそうだけどバルト海沿岸のハンザ同盟都市って、冬にはバルト海の外に交易船を出せなかったのかな?

85: 世界@名無史さん 2011/09/17(土) 15:13:05.13 0
海が荒れるのではなかったか?

147: 世界@名無史さん 2013/04/21(日) 08:34:59.64 0
デンマークとスウェーデンの間のズント海峡を通らず、ハンブルク・リューベク間を陸路で輸送なんだね。
今知った。

148: 世界@名無史さん 2013/04/21(日) 09:04:03.90 0
だから>>84のような、ズント海峡の凍結は関係なかった。
もっとも冬期渡航を慣習的に禁止していた。

149: 世界@名無史さん 2013/04/23(火) 22:01:28.32 0
>>148
>冬期渡航を慣習的に禁止していた。

よくわからん慣習だな。

150: 世界@名無史さん 2013/04/23(火) 23:21:30.99 0
冬期の気象条件が過酷で航海が危険だったためらしい。

航海をしていなかったのが慣習となり、14世紀には総会で法律上禁止とした。
ズント海峡が危険で横断できなかったりして、航海技術が低かったと思われる。さらにレベルアップするための経験値を稼ぐ要素もない。

その一方で、14世紀からオランダが台頭し始めて、イングランドとハンブルクに市場を開拓。15世紀に、オランダ人によってズント海峡を通ってダンツィヒに直結しバルト海に進出。ズント海峡を通過されるとリューベックの中継都市の役割が不要となり、衰退の危険が予見。
もちろん、15世紀になると矢継ぎ早に対オランダ封じ込め経済政策をつぎつきに総会で可決する。
そしてお約束の私掠船合戦。

ハンザより前の時代、フリーゼン人の貿易活動、ゴートラント貿易が冬に航海をしていなかったかどうかはよくわからん。

オランダ人の航海技術がハンザを追い越したことがうかがえる。

151: 世界@名無史さん 2013/04/25(木) 00:31:34.67 0
当時のハンザ同盟の主要荷物は、ニシン、塩、木材、麦類というところか。
そうなるとあまり冬に航海する必要もないわけで。

166: 世界@名無史さん 2013/09/20(金) 11:09:12.58 0
>>151
ドイツ騎士団は琥珀と穀物も多く取引してた。バルト海近隣の琥珀は今でも有名だね。

175: 世界@名無史さん 2013/11/07(木) 08:46:26.44 0
>>166
ドイツ騎士団は取引なぞしていない。
北部ポーランドにあるドイツ人の多い商業都市がそういった取引を行い、それを支配していたドイツ騎士団が税金で上前をはねていた。
それに耐えきれなくなり、諸都市は民主的なポーランド王国に援助を頼るようになり、ゲバルト連合を結成、ポーランド王国と共に戦いドイツ騎士団を滅ぼした。

104: 世界@名無史さん 2012/01/23(月) 22:51:14.33 0
ハンザ同盟に加入するとどんなメリットがあるの?
・同盟内では関税廃止?
・他の商人より優先的に取引ができるとか?

105: 世界@名無史さん 2012/01/24(火) 16:49:21.30 0
土地の王侯貴族や教区と租税についての団交ができる。
ドイツ騎士団があこぎな取り立てをしたから起こったダンチヒがトルンなどと組んでドイツ騎士団に反乱、リベラルなポーランドへの集団加盟に成功した事件もある。(その名も「ゲバルト連合」)
14-15世紀。

109: 世界@名無史さん 2012/01/24(火) 21:12:08.81 0
>>105
王侯へは、自分たちの都市の自治権の承認のため、お金を納めていたのは知っているけど、それを都市同盟によって、王侯への承認の不要を主張したの?

117: 世界@名無史さん 2012/03/01(木) 17:02:13.97 0
>>109
ポーランド王はプロイセンの自治都市たちに別にそんなにたくさんの上納金払わなくていいよとずっと言ったわけだな。
ところがドイツ騎士団は自分たちのプロイセン支配を確たるものにしたかったから自分たちで統治して、しかも無駄な戦争ばかりするから予算足りなくなって上納金の値上げ続き。
それでふざけんなって話になって大揉めした末、同盟都市群がプロイセンゲバルト連合を結成してポーランド王の直接の庇護を求めた。

110: 世界@名無史さん 2012/01/24(火) 23:55:54.66 0
英語wikiのまとめ:
ドイツ騎士団がポーランドに賠償金を払うのに領内の都市に増税したら、プロイセンの複数の都市が「ポーランドとはおまえらが勝手に戦争したんだろ、自分らで節約してポーランドへの賠償金払えよ馬鹿」と税の支払いを拒否
30年間揉めた末にダンチヒとトルンを盟主として19都市と53人の貴族と僧侶(荘園付)が同盟したのがゲバルト連合だろ
15世紀半ばに総長になったエルリッチシャウゼンが神聖ローマの裁判所にゲバルト連合を提訴、裁判所はゲバルト連合を違法とする判決を下す
ゲバルト連合は判決を不服としてドイツ騎士団との戦争を決意、1454年ついに十三年戦争が開始
ゲバルト連合の代表をやっていたガブリエルとヨハネスのフォン・ヴァイゼン兄弟(実はフランドルから移住してきた家系のポーランド人でポーランド名はガブリエル&ヤン・バジンスキ、一時ドイツ騎士団員でもあった騎士で兄のヤンはエルブロンクの城代も務めた)がポーランド王カジミェシュ4世のもとに赴いて事情を説明、ポーランド王の庇護をとりつける
ポーランドの全面的な支援を受けたゲバルト連合はドイツ騎士団に圧勝、第二次トルンの和約が交わされ、西プロイセンはすべてポーランド王領プロイセンになり、あとは日本語wikiの「第二次トルンの和約」の記事に書かれている

ドイツの王侯貴族はだいぶ好き勝手やったからたとえドイツ系でもプロイセンの市民はみんな自由主義のポーランドになびいたみたい
現代までずっと同じこと(王侯貴族vs市民、黒白赤vs黒赤金)を繰り返してるなドイツ社会は

後に東プロイセンにプロイセン公国を作ったアルブレヒト・フォン・ブランデンブルクも時のポーランド王ジグムント1世の甥っ子だから、世俗国家になってドイツ騎士団を追い出した後もアルブレヒトは伯父さんに臣従を誓ったということになる

118: 世界@名無史さん 2012/03/02(金) 21:26:43.73 0
ドイツ騎士団は表面上は博愛団体みたいなもんだが実態はひどいのなw

119: 世界@名無史さん 2012/03/04(日) 23:04:09.50 0
当時のポーランドは善政を敷いたうえで多くの国家群を従えた実質上の帝国だったし、コンスタンツ公会議でのドイツ騎士団とポーランド王国の言論対決は凄まじかったしな

137: 世界@名無史さん 2013/04/10(水) 21:21:59.54 0
同盟条約があったわけじゃないから、ハンザ同盟というのはいかがなものだろう。

138: 世界@名無史さん 2013/04/10(水) 22:01:33.90 0
>>137
通称として定着してしまっているから、いまさら変えるわけにいかない。

140: 世界@名無史さん 2013/04/13(土) 23:00:28.79 0
17都市ハンザやロンドン・フランドル・ハンザといった都市間合同ギルド(ハンザ)がハンザ(同盟)の母体になったとする説があるみたいだね。

144: 世界@名無史さん 2013/04/18(木) 23:20:03.27 0
ハンザ総会について

・ハンザ同盟都市かの判別方法は、ハンザ総会に関与しているかしかない。
・はっきりとした同盟が分かるのは、対デンマーク戦争時のケルン同盟しかないが、一時的なもので、原理嬢別物である。
・ハンザ自体が自然発生で、起源ははっきりしない。
・ハンザ総会の母体は、リューベックを中心とするヴェント系都市の会議で、リューベックとロストクの争いに、ヴィスマルが調停した、三市のヴィスマル会議である(1256年)。
・ハンザ総会は不定期で、会議に都度参加都市数がまちまちで、特定の地域に偏りが見られる。
開催地はリューベックが多く、ヴェント系都市がほとんどで、西方都市はケルン会議のみである。
・不参加理由は、派遣費用がないという理由である。当時の派遣者=市参事会員=有力商人=上級ギルドの幹部で、基本給料がなく、出張費もないので自腹となるため。不参加都市は、総会に任せるという態度をとるとが多かった。
・ハンザ総会の席次から、リューベック、ケルン、ブレーメンの順が上位3都市。ケルンは二位では納得せず、しばしば一位を要求した。四位以下は、三位の地位を要求した。
参加数が安定しないので、中・下位層も揉めた。
・席次以外も、総会の入場の順番でも揉めた。
・ハンザ総会以外にも局地的な会議をしばしば開いているが。特にリューベックが参加している会議は、総会と区別がつきにくい場合もある。
・ハンザ総会の前に、地域ごとにまとまって会議を開き、総会にどう臨むか話し合ったりしている。

高橋理『ハンザ「同盟」の歴史』創元社 より

145: 世界@名無史さん 2013/04/19(金) 22:44:50.35 0
ドイツ・ハンザと、しばしば呼ばれるのは、ハンザ総会がドイツ系に固まっていることからだろうか?
商業の中心はフランドル系なのに。

146: 世界@名無史さん 2013/04/20(土) 08:04:17.25 0
>>145
参加都市はドイツの都市が多かったからだろうか?

167: 世界@名無史さん 2013/10/25(金) 18:18:21.35 0
軍事力は実際どれくらいあったんだ?

168: 世界@名無史さん 2013/10/29(火) 17:55:00.06 0
防衛戦限定で、各都市のその時の都合によって軍事力は変化するけど、安定してくっそ強い
没落する前の(全盛期でもないけど)デンマークがガチで攻めたのに完全に敗北し全面的にハンザの要求のんだし100年戦争中に英仏それぞれに攻め込まれたけど全部撃退

各都市の援軍+都市の市民兵のコンボで兵力もけっこうある

191: 世界@名無史さん 2014/05/05(月) 20:50:54.39 0
ハンザは海上交易の共栄圏が基本なの?
河川を通じた内陸との繋がりはどうだったんだろう
ヨーロッパの分水嶺間の運河開通が進んだのはずっと後みたいだけど

192: 世界@名無史さん 2014/05/05(月) 22:04:16.63 0
こんな感じで、ハンザ都市は河川沿い中心に内陸にも沢山あるよ
http://german.lss.wisc.edu/~smoedersheim/gr601/stadt/hanse/11_hanse-1400_large.gif

194: 世界@名無史さん 2014/05/06(火) 01:37:30.52 0
沿岸部じゃなくてちょっと河口をさかのぼったとこに都市を建設した理由は、大潮とか嵐とかで都市が海から直接被害を受けるのを避けるためとか聞いたけどそうなの?

196: 世界@名無史さん 2014/05/06(火) 02:03:58.76 0
>>194
船底がフジツボで痛むのを避けるため、海港じゃなく河港が選好されたというのも大きな要因かと

210: 世界@名無史さん 2014/08/31(日) 19:42:33.04 0
リューベック・ハンブルク間の中継都市オルデスローは、1255年に両都市と同盟を結んでいるけどハンザ都市とは見なされていない。総会に出ないからか?

211: 世界@名無史さん 2014/08/31(日) 20:19:27.20 0
よく知らんが、これ読むかぎり両都市の保護下にある状態っぽくみえる
独立したハンザ都市と見なしてはもらえない感じだったんじゃないかなぁ


97 名前:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2013/10/24(木) 06:55:18.69 0
ハンザ同盟のリューベック・ハンブルク間の陸運もよくわからないよね。


100 自分:世界@名無史さん[sage] 投稿日:2013/10/29(火) 14:14:57.89 0
>>97
リューベックから川舟でトラヴェ川を約20km遡ってオルデスローまで→簡易クレーンで陸揚げ後に陸路約40kmを荷車でハンブルクへ
盗賊からの防衛のため各荷車は二都市の組織する護衛団に護衛料を支払った上で、10台以上まとまって運行することとされた
シュテクニッツ運河の竣工(1398年)以降は、リューベックから運河でエルベ川に繋がり、そこから下流のハンブルクへ抜けるルートも
ただし、メインはあいかわらずオルデスロー経由だった模様・・・運河はリューネベルクの塩運搬が主目的だったそうだ

212: 世界@名無史さん 2014/09/01(月) 21:59:11.32 0
1226年にリューベック市民はオルデスローで税免除になっているので、リューベックの傘下扱いかも?

217: 世界@名無史さん 2014/11/28(金) 13:06:57.45 0
リューネブルクの塩って8-10月のスコーネ地方のニシンと連動してるんだね。
塩漬けにしてヨーロッパに輸出。

219: 世界@名無史さん 2015/02/28(土) 19:46:27.20 0
その後オランダがニシンの塩漬け産業の大国になって、スコットランドがニシンの塩漬けをオランダに学び挑戦する流れになる

221: 世界@名無史さん 2015/02/28(土) 21:17:43.70 0
イングランドとの合同(1707)後、18世紀中頃奨励金の効果もあってニシン産業が成功。
それ以前にも何度か試みているけど失敗。
一方、二番煎じを狙ったアイルランドは失敗。

224: 世界@名無史さん 2015/03/09(月) 08:07:04.37 0
アイルランドは、ニシン用の樽の木材供給に始まり、のちにニシンの塩漬け業に転換を試みるが内蔵の取り出しが不十分で質が悪く、補助金打ち切りで、先行投資がむだになり、混乱を招く。
これがアイルランド飢饉前夜の時代背景という。

引用元: ・ハンザ同盟や交易や市場を語ろう