
1: 日本@名無史さん 2012/01/16(月) 22:13:52.64
琉球(王)国に征服される以前の沖縄(本)島や他の島々の歴史を語り合いましょう。
346: 日本@名無史さん 2014/09/17(水) 06:38:10.36
オキナワの歴史
629(舒明天皇元)掖玖(屋久島)に大和朝廷から使者を派遣
682(天武天皇11)多禰人・掖玖人・奄美人に禄を与えた
699(文武天皇3)多禰・掖玖・奄美・度感が朝貢
714(和銅7)信覚(石垣島)・球美(久米島)などの人が大和朝廷に朝貢(『続日本紀』)
715(和銅8)信覚・球美・度感・奄美・信覚が朝貢
720(養老8)南島232人に位階を授ける
727(新亀8)南島132人に位階を授ける
→琉球ではなく大和朝廷に服属してる島があることがわかる
古琉球時代
17世紀 流刑となった源為朝が琉球に流れ着き琉球の始祖舜天となったと伝わる(『中山世鑑』『おもろさうし』『椿説弓張月』等)
1422 沖縄本島を統一する(第一尚氏王朝)
1470 クーデターにより重臣金丸即位(第二尚氏王朝)
この頃 八重山を侵略
1524竹富島を強制的に服属させる
1447奄美大島に侵略
1466喜界島に侵略(奄美併合完了)
1571再び奄美を服属させる
→どうみても平穏に南西諸島を統一してない
629(舒明天皇元)掖玖(屋久島)に大和朝廷から使者を派遣
682(天武天皇11)多禰人・掖玖人・奄美人に禄を与えた
699(文武天皇3)多禰・掖玖・奄美・度感が朝貢
714(和銅7)信覚(石垣島)・球美(久米島)などの人が大和朝廷に朝貢(『続日本紀』)
715(和銅8)信覚・球美・度感・奄美・信覚が朝貢
720(養老8)南島232人に位階を授ける
727(新亀8)南島132人に位階を授ける
→琉球ではなく大和朝廷に服属してる島があることがわかる
古琉球時代
17世紀 流刑となった源為朝が琉球に流れ着き琉球の始祖舜天となったと伝わる(『中山世鑑』『おもろさうし』『椿説弓張月』等)
1422 沖縄本島を統一する(第一尚氏王朝)
1470 クーデターにより重臣金丸即位(第二尚氏王朝)
この頃 八重山を侵略
1524竹富島を強制的に服属させる
1447奄美大島に侵略
1466喜界島に侵略(奄美併合完了)
1571再び奄美を服属させる
→どうみても平穏に南西諸島を統一してない
347: 日本@名無史さん 2014/09/17(水) 06:38:43.43
1609 薩摩藩が琉球侵攻のため奄美に立ち寄る。奄美の親方(地主)たちから服属したいとの申し出を受ける
琉球に到着した薩摩藩兵に琉球王国は戦わずに降伏し服属する
1610 尚寧王、徳川家康、秀忠に謁見
薩摩藩領となる。奄美は薩摩藩の直轄となる
明治5 琉球藩となる
明治12 沖縄県となる
明治18 大東諸島を編入
明治27 下関条約で清国日本の主権を認める
明治28 尖閣諸島を編入
→大東と尖閣は琉球の範囲でないことがわかる
昭和20 米国に接収される
昭和27 トカラ列島が返還される
昭和28 残りの奄美群島が返還される
昭和47 沖縄が日本に返還される
→沖縄と奄美はアメリカも別とみなしていたことがわかる
琉球に到着した薩摩藩兵に琉球王国は戦わずに降伏し服属する
1610 尚寧王、徳川家康、秀忠に謁見
薩摩藩領となる。奄美は薩摩藩の直轄となる
明治5 琉球藩となる
明治12 沖縄県となる
明治18 大東諸島を編入
明治27 下関条約で清国日本の主権を認める
明治28 尖閣諸島を編入
→大東と尖閣は琉球の範囲でないことがわかる
昭和20 米国に接収される
昭和27 トカラ列島が返還される
昭和28 残りの奄美群島が返還される
昭和47 沖縄が日本に返還される
→沖縄と奄美はアメリカも別とみなしていたことがわかる
428: 日本@名無史さん 2016/08/07(日) 13:17:40.39
質問なんですが、称号についてです。
琉球国王は明王朝・清王朝から冊封を受けて琉球国王となっています。
ですが国王自身の書状は「琉球王」ではなく「中山王」と署名していたり、羽地朝秀が書いた書物の名前も「中山世鑑」となっていますがなにか意味があるのでしょうか?
もちろん琉球の歴史は凡そは知っております。初めて明に朝貢したのは共に洪武五年ですが、中山の記録が不明なのに対して南山は22回も記録がある事から元は南山が明に認められていた事。南山の一豪族の尚氏が中山を滅ぼして王位に着いた後、北山に続いて南山も滅ぼして本島を統一した事等々
で、明や清の朝廷から「琉球国王」の称号を認められていたので自身が権威付けの為にも積極的に琉球国王を名乗るのが普通なのに、琉球国王という書状が一つも無くもっぱら中山王という一地方政権の王号を名乗っていることが不可解でなりません。
実際日本国も朝鮮国はきちんと○○国王と名乗ってますし、阮朝も印綬と同じ「安南国王」と名乗っています。ところが琉球の書状に至ってはただただ「中山王」なのが不可解なのですが、統一志関連の問題なのでしょうか?
どなたか是非教えてください
431: 日本@名無史さん 2016/08/08(月) 21:03:36.83
>>428
明王朝には琉球国中山王統の正統性をアピールする事が大切だったのかもしれない
第二尚氏王統からは中山「尚」姓の信頼性にも頼った
当時の冊封関係や諸外国との外交をスムーズに行うにはやはり琉球国に突如出現した新興勢力より「中山」という琉球国王の伝統的な正統性や信頼性が重要視されたのはではないか?
高良センセイや上里センセーなら分かりやすく答えてくれるだろう
明王朝には琉球国中山王統の正統性をアピールする事が大切だったのかもしれない
第二尚氏王統からは中山「尚」姓の信頼性にも頼った
当時の冊封関係や諸外国との外交をスムーズに行うにはやはり琉球国に突如出現した新興勢力より「中山」という琉球国王の伝統的な正統性や信頼性が重要視されたのはではないか?
高良センセイや上里センセーなら分かりやすく答えてくれるだろう
446: 日本@名無史さん 2016/08/24(水) 12:16:34.24
>>428
>自身が権威付けの為にも積極的に琉球国王を名乗るのが普通なのに、
この辺が勝手な勘違い、思い込みだね。
日本でも、源頼朝も徳川家康も、日本国王号は使わず征夷大将軍を名乗っている。
秀吉も日本国王は名乗らず関白を名乗っているでしょう。
むしろ伝統的な称号を継承する方が、権威づけとしては普通だよ。
また、征夷大将軍もそうだが、古代ギリシャ語で「王」を示すバシウレウスはミケーネ時代には単なるムラオサ程度の意味だった。ミケーネの「王」はアナクスと呼ばれている。
当初は単なるムラオサだったバシレウスという称号に歴史的経過の中でいろんな権能がくっつけられていき、最後には王として振る舞ってもみんな納得するようになったわけだ。
それで言えば、伝統的な中山王を使っても皆が「中山王ということはこいつがナンバー1なんだな」と納得するのであれば、わざわざ新しい称号を使うのはむしろリスキーでしょう。
>自身が権威付けの為にも積極的に琉球国王を名乗るのが普通なのに、
この辺が勝手な勘違い、思い込みだね。
日本でも、源頼朝も徳川家康も、日本国王号は使わず征夷大将軍を名乗っている。
秀吉も日本国王は名乗らず関白を名乗っているでしょう。
むしろ伝統的な称号を継承する方が、権威づけとしては普通だよ。
また、征夷大将軍もそうだが、古代ギリシャ語で「王」を示すバシウレウスはミケーネ時代には単なるムラオサ程度の意味だった。ミケーネの「王」はアナクスと呼ばれている。
当初は単なるムラオサだったバシレウスという称号に歴史的経過の中でいろんな権能がくっつけられていき、最後には王として振る舞ってもみんな納得するようになったわけだ。
それで言えば、伝統的な中山王を使っても皆が「中山王ということはこいつがナンバー1なんだな」と納得するのであれば、わざわざ新しい称号を使うのはむしろリスキーでしょう。
433: 日本@名無史さん 2016/08/12(金) 20:08:50.28
1426年、琉球中山国は明国に「長至令節」の慶賀使者「宗比結制」と「佳期巴那」を派遣した
名目上は夏至5月の季節を祝う使節団だが目的は朝貢であった
そして中山国は昨年に続き東南アジア暹羅国へ「阿勃馬結制」や「浮那姑是」などの交易使節団を派遣して蘇木、胡椒などの東南アジア産の交易品仕入れにも積極的だった
この頃には中山王巴志が国相「懐機」に命じて進められた首里城外苑の整備工事も完成間近となっていただろう
対して、琉球内ではすっかり小規模となった「他魯毎王」の山南勢力は他魯毎が山南王となって10年余り、山北を平定した巴志の中山勢力に軍事力と外交力で圧倒され明国への進貢回数も減り山南国は衰退の一途をたどっていた
名目上は夏至5月の季節を祝う使節団だが目的は朝貢であった
そして中山国は昨年に続き東南アジア暹羅国へ「阿勃馬結制」や「浮那姑是」などの交易使節団を派遣して蘇木、胡椒などの東南アジア産の交易品仕入れにも積極的だった
この頃には中山王巴志が国相「懐機」に命じて進められた首里城外苑の整備工事も完成間近となっていただろう
対して、琉球内ではすっかり小規模となった「他魯毎王」の山南勢力は他魯毎が山南王となって10年余り、山北を平定した巴志の中山勢力に軍事力と外交力で圧倒され明国への進貢回数も減り山南国は衰退の一途をたどっていた
434: 日本@名無史さん 2016/08/13(土) 18:56:43.70
1427年、明国から宦官の使者柴山が琉球に派遣された。柴山は1425年中山王巴志の冊封使として訪れて以来2度目の来琉となった
用件として琉球中山国に生漆と磨刀石(砥石)の買いつけの依頼であり購入資金として明国側から大量の「銅銭」が支給された
巴志が「中山王の証」として要望していた「皮弁冠服」も明国宣徳帝より勅書と共にこの時に下賜されたのである
そして首里遷都計画整備工事を進めていた首里城外苑もこの年に完成した
国相「懐機」が「風水を取り入れ中国の王宮に倣う」とした王城の北に大きな人工の池を掘り魚を放し「龍潭」とし土を盛り「安国山」を築き樹木と花々を植え庭園を造営した首里城の築城がほぼ現在の形に完成したのもこの頃である
首里城外苑完成を記念して龍潭付近にその経緯を記した「安国山樹華木之記碑(1427年)」が建立された
琉球にはない中国産の「輝緑岩」が使用されたこの石碑は現存する沖縄最古の金石文とされ沖縄県立博物館美術館に所蔵されている
用件として琉球中山国に生漆と磨刀石(砥石)の買いつけの依頼であり購入資金として明国側から大量の「銅銭」が支給された
巴志が「中山王の証」として要望していた「皮弁冠服」も明国宣徳帝より勅書と共にこの時に下賜されたのである
そして首里遷都計画整備工事を進めていた首里城外苑もこの年に完成した
国相「懐機」が「風水を取り入れ中国の王宮に倣う」とした王城の北に大きな人工の池を掘り魚を放し「龍潭」とし土を盛り「安国山」を築き樹木と花々を植え庭園を造営した首里城の築城がほぼ現在の形に完成したのもこの頃である
首里城外苑完成を記念して龍潭付近にその経緯を記した「安国山樹華木之記碑(1427年)」が建立された
琉球にはない中国産の「輝緑岩」が使用されたこの石碑は現存する沖縄最古の金石文とされ沖縄県立博物館美術館に所蔵されている
435: 日本@名無史さん 2016/08/14(日) 09:16:32.96
明国から生漆と磨刀石の買いつけ依頼を受けた琉球中山国はすぐに生漆と磨刀石の調達にかかり翌年1428年2月に明国礼部宛てに返答文書を送っている
「切に坐買せる第六様磨刀石は本国(琉球)の採弁するに縁りて自ら進むるを除くの外、その余の所産も曷ぞあえて違うあらんや
随即に合に的当の頭目を差わし人船を管領して銅銭を装載し隣国(日本)の産有地方に前み去きて収買せんとするも
彼国の争戦に遇い、客路通ぜず。もし完日を候たば誠に用に応ずるに*りあるを恐る
いま時価によりて生漆270斤、銭22万9000貫400文に該る、第五様磨刀石計3855斤、銭53300文に該るを買到して先に欽差内官柴山の来船に付し
装載して京(北京)に赴き進収せしむ
その余の銅銭171万7300文は、続いて後に再買して至るの日、別に進用を行う。咨もて施行せられんことを請う
須く咨に至るべき者なり
右、礼部に咨す
宣徳三年二月十一日 咨す 」
まだ調達できていない品は次回購入分として初回調達分の生漆、琉球産の磨刀石は明国使者柴山の帰国船に積み込み明国へ送られた
「切に坐買せる第六様磨刀石は本国(琉球)の採弁するに縁りて自ら進むるを除くの外、その余の所産も曷ぞあえて違うあらんや
随即に合に的当の頭目を差わし人船を管領して銅銭を装載し隣国(日本)の産有地方に前み去きて収買せんとするも
彼国の争戦に遇い、客路通ぜず。もし完日を候たば誠に用に応ずるに*りあるを恐る
いま時価によりて生漆270斤、銭22万9000貫400文に該る、第五様磨刀石計3855斤、銭53300文に該るを買到して先に欽差内官柴山の来船に付し
装載して京(北京)に赴き進収せしむ
その余の銅銭171万7300文は、続いて後に再買して至るの日、別に進用を行う。咨もて施行せられんことを請う
須く咨に至るべき者なり
右、礼部に咨す
宣徳三年二月十一日 咨す 」
まだ調達できていない品は次回購入分として初回調達分の生漆、琉球産の磨刀石は明国使者柴山の帰国船に積み込み明国へ送られた
436: 日本@名無史さん 2016/08/15(月) 16:10:32.88
首里では1428年、王都入口から首里城まで続く約500mを大手道として整備している
道幅約12mに琉球石灰岩を砕いた白粉を敷き詰め漆喰や御香原料となる香粉(タブ粉)などで固めた白い舗装道路「綾門大道」別名「香粉道(こうぐーみち)」がつくられ、その綾門大道の入口に首里城に続く第一の門「建国門」も創建された
門には明国の使者柴山から贈られた「中山」の額字の扁額が掲げられた事から「中山門」と呼ぶようになった
この約100年後に創建された同形同大の第二の門「守礼門」とは対となり、守礼門を「上の綾門」、そこから約500m下った中山門を「下の綾門」と呼ぶようになっていった
後には首里城に向かう多くの冊封使節や薩摩軍勢や薩摩役人、ペリー提督一行もこの「綾門大道」を通る事となった
入口の「中山門」は琉球処分後の明治時代まで存在し古写真が残るが1908年に民間に売却され老朽化のため取り壊された
現在ではその場所には紅型店と「中山門跡」の説明板がある
綾門大道の舗装は沖縄戦前まで残り記憶に留めている古老も健在だという
道幅約12mに琉球石灰岩を砕いた白粉を敷き詰め漆喰や御香原料となる香粉(タブ粉)などで固めた白い舗装道路「綾門大道」別名「香粉道(こうぐーみち)」がつくられ、その綾門大道の入口に首里城に続く第一の門「建国門」も創建された
門には明国の使者柴山から贈られた「中山」の額字の扁額が掲げられた事から「中山門」と呼ぶようになった
この約100年後に創建された同形同大の第二の門「守礼門」とは対となり、守礼門を「上の綾門」、そこから約500m下った中山門を「下の綾門」と呼ぶようになっていった
後には首里城に向かう多くの冊封使節や薩摩軍勢や薩摩役人、ペリー提督一行もこの「綾門大道」を通る事となった
入口の「中山門」は琉球処分後の明治時代まで存在し古写真が残るが1908年に民間に売却され老朽化のため取り壊された
現在ではその場所には紅型店と「中山門跡」の説明板がある
綾門大道の舗装は沖縄戦前まで残り記憶に留めている古老も健在だという
437: 日本@名無史さん 2016/08/15(月) 22:01:50.80
1428年9月には中山王巴志は東南アジア交易で新たに旧港(パレンバン、現インドネシア)に青磁器類を礼物として使者「実達魯」を派遣した
既にパレンバンは大陸から移住した漢民族の華僑商人集団が交易をしている港市であった
この時から懐機も「琉球国王相 懐機」の名でパレンバンの管事官(華僑)宛てに書簡を送っている
懐機の書簡によると1421年に旧港(パレンバン)から南九州に着岸した南蛮交易船が博多に廻航中に破船してしまい
日本国九州官の源道鎮(九州探題、渋川道鎮)からその南蛮旧港使者20人余りの本国送還を頼まれたが、当時の琉球国中山と旧港との通交はなく、よって暹羅国(シャム)に派遣する琉球使者「闍那結制」の琉球交易船に南蛮旧港の使者を便乗させて暹羅国まで送り、さらに暹羅国経由で本国送還を依頼していた
「あれから未だ到るや否やを知らず」と懐機は気にかけていた事を伝えながら、旧港側に今琉球が派遣した使者「実達魯」の交易使節団とすみやかな通交を要請したのだった
同時に王相懐機からの礼物として摺扇、刀剣と中国製の鎖子甲などを送った
既にパレンバンは大陸から移住した漢民族の華僑商人集団が交易をしている港市であった
この時から懐機も「琉球国王相 懐機」の名でパレンバンの管事官(華僑)宛てに書簡を送っている
懐機の書簡によると1421年に旧港(パレンバン)から南九州に着岸した南蛮交易船が博多に廻航中に破船してしまい
日本国九州官の源道鎮(九州探題、渋川道鎮)からその南蛮旧港使者20人余りの本国送還を頼まれたが、当時の琉球国中山と旧港との通交はなく、よって暹羅国(シャム)に派遣する琉球使者「闍那結制」の琉球交易船に南蛮旧港の使者を便乗させて暹羅国まで送り、さらに暹羅国経由で本国送還を依頼していた
「あれから未だ到るや否やを知らず」と懐機は気にかけていた事を伝えながら、旧港側に今琉球が派遣した使者「実達魯」の交易使節団とすみやかな通交を要請したのだった
同時に王相懐機からの礼物として摺扇、刀剣と中国製の鎖子甲などを送った
438: 432 2016/08/15(月) 22:44:59.26
>>396で1385年には明国皇帝から山北王之印である「駱駝鍍金銀印」を贈られたと書かれていたのですが、それは間違いなく「山北王之印」ですか? それと琉球三王は「琉球国王之印」ではなくそれぞれ三王の印を貰っていたのでしょうか? 何故このような質問をするか? というと、安南国の例から見ても非常に異質で変わっているからです。
冊封国の場合はそれぞれの国の王印というのはありますが、その国の中の一地方の王の印綬を授けるというのはやはり中国史からの観点から見ても変わっているように思えます。
「山北王之印」「中山王之印」?「山南王之印」を授けたとすれば、一体どういう理由だと思われますか?私見でもよろしいのでぜひ意見を聞かせてもらえれば幸いです。
三王の印綬、現物があるのでしょうか?
それとも『明史』の中に記述があるのでしょうか?
三王の印綬、現物があるのでしょうか?
それとも『明史』の中に記述があるのでしょうか?
440: 日本@名無史さん 2016/08/16(火) 08:26:44.68
>>439
現物は見つかっていないが王印である事は確かでおそらく「山〇王之印」と彫られていたかという推測ですね
明側史料の「明実録」に記述があるのは「王」とあるようで、初代皇帝・洪武帝は琉球から帰国した使者からの報告で琉球では三王が互いに争い覇を競っている事を知っていた
最初に鍍金銀印を賜ったのは1383年中山王察度でその皇帝の勅諭では
『「王」、滄溟の中に居り、崇き山環(めぐ)れる海に国を為す。事大の礼行わざるとも亦た何をか患(うれ)えんや
「王」能く天を体して民を育て、事大の礼を行う朕即位してより十有六年、歳ごとに人を遣わして朝貢す
朕、「王」の至誠を嘉し、尚佩監奉御「路謙」に命じて「王」の誠礼に報わしむ何ぞ期せん、「王」復た遣使し来りて謝す。
今内使監丞「梁民」をして前の奉御路謙と同(とも)に符を齎(もたら)して「王」に渡金銀印一を賜わしむ
近ごろ使者帰りて言わく琉球の三王互いに争いて農を廃し民を傷つく、と。
朕甚だ焉(これ)を閔れむ。詩に曰く、天の威を畏(おそ)れ、時(ここ)に于て之を保たん、と。
「王」其れ戦を罷め民を息(やす)ましめよ、務めて爾の徳を脩むれば則ち国用永く安からん』
現物は見つかっていないが王印である事は確かでおそらく「山〇王之印」と彫られていたかという推測ですね
明側史料の「明実録」に記述があるのは「王」とあるようで、初代皇帝・洪武帝は琉球から帰国した使者からの報告で琉球では三王が互いに争い覇を競っている事を知っていた
最初に鍍金銀印を賜ったのは1383年中山王察度でその皇帝の勅諭では
『「王」、滄溟の中に居り、崇き山環(めぐ)れる海に国を為す。事大の礼行わざるとも亦た何をか患(うれ)えんや
「王」能く天を体して民を育て、事大の礼を行う朕即位してより十有六年、歳ごとに人を遣わして朝貢す
朕、「王」の至誠を嘉し、尚佩監奉御「路謙」に命じて「王」の誠礼に報わしむ何ぞ期せん、「王」復た遣使し来りて謝す。
今内使監丞「梁民」をして前の奉御路謙と同(とも)に符を齎(もたら)して「王」に渡金銀印一を賜わしむ
近ごろ使者帰りて言わく琉球の三王互いに争いて農を廃し民を傷つく、と。
朕甚だ焉(これ)を閔れむ。詩に曰く、天の威を畏(おそ)れ、時(ここ)に于て之を保たん、と。
「王」其れ戦を罷め民を息(やす)ましめよ、務めて爾の徳を脩むれば則ち国用永く安からん』
441: 日本@名無史さん 2016/08/16(火) 09:07:35.64
>>439
同じく1383年
山南王承察度・山北王怕尼芝への皇帝の勅諭
『上帝生を好めば、寰宇の内に生民衆(おお)し。天、生民の互相に残害するを恐れ
特に聡明なる者を生じ之に主たらしむ。邇者(ちかごろ)「琉球国王察度」、事大の誠を堅くし遣使し来りて報ず
而して「山南王承察度」も亦た人を遣わし使者に随い入覲せしむ。其の至誠くを鑑(み)、深く用て嘉納す
近ごろ使者、海中より帰りて言わく「琉球の三王」互いに争い農業を廃棄し人命を傷残す、と。
朕、之を聞き憫に勝(た)えず今遣使し「二王」に論して之を知らしむ「二王」能く朕の意を体し
兵を息め、民を養いて以て国祚を綿(つら)ぬれば、則ち天必ず之を祐(たす)けん
然らずんば悔ゆるとも及ぶことを無からん』
この以前からすでに中山王察度と山南王承察度は明国と朝貢関係にあって、この年12月に山北王怕尼芝も初めて明国に進貢した
明実録では山南王と山北王が鍍金銀印を賜ったのはこの後1385年とあり、最近(2015年)では1385年に山南王と山北王に直接に鍍金銀印を渡したと記した明国使者「蔡英夫」の史料が発見されています
同じく1383年
山南王承察度・山北王怕尼芝への皇帝の勅諭
『上帝生を好めば、寰宇の内に生民衆(おお)し。天、生民の互相に残害するを恐れ
特に聡明なる者を生じ之に主たらしむ。邇者(ちかごろ)「琉球国王察度」、事大の誠を堅くし遣使し来りて報ず
而して「山南王承察度」も亦た人を遣わし使者に随い入覲せしむ。其の至誠くを鑑(み)、深く用て嘉納す
近ごろ使者、海中より帰りて言わく「琉球の三王」互いに争い農業を廃棄し人命を傷残す、と。
朕、之を聞き憫に勝(た)えず今遣使し「二王」に論して之を知らしむ「二王」能く朕の意を体し
兵を息め、民を養いて以て国祚を綿(つら)ぬれば、則ち天必ず之を祐(たす)けん
然らずんば悔ゆるとも及ぶことを無からん』
この以前からすでに中山王察度と山南王承察度は明国と朝貢関係にあって、この年12月に山北王怕尼芝も初めて明国に進貢した
明実録では山南王と山北王が鍍金銀印を賜ったのはこの後1385年とあり、最近(2015年)では1385年に山南王と山北王に直接に鍍金銀印を渡したと記した明国使者「蔡英夫」の史料が発見されています
442: 日本@名無史さん 2016/08/16(火) 14:54:45.05
>>441
ありがとうございます。大変参考になりました。
それを聞いて何故琉球国王が日本国や安南国と違い銀印なのか? というのも何となく解かるような気がしてきました(まあ朝鮮国王印の銅印は別という事で)
国力や国の格としては決して比較しても下という事もありません。にも関わらず銀印というのは、やはり内乱が詳らかに把握された故の事という事でしょうね。
ありがとうございます。大変参考になりました。
それを聞いて何故琉球国王が日本国や安南国と違い銀印なのか? というのも何となく解かるような気がしてきました(まあ朝鮮国王印の銅印は別という事で)
国力や国の格としては決して比較しても下という事もありません。にも関わらず銀印というのは、やはり内乱が詳らかに把握された故の事という事でしょうね。
444: 432 2016/08/17(水) 00:08:24.40
>>441
『大明実録』の記述は非常に興味深いですね。
>邇者(ちかごろ)「琉球国王察度」、事大の誠を堅くし遣使し来りて報ず
これは既に琉球国王に中山王が命ぜられた、という事なのでしょうかね。当時の世相について混迷の度を増しているように思えます。
『大明実録』の記述は非常に興味深いですね。
>邇者(ちかごろ)「琉球国王察度」、事大の誠を堅くし遣使し来りて報ず
これは既に琉球国王に中山王が命ぜられた、という事なのでしょうかね。当時の世相について混迷の度を増しているように思えます。
445: 日本@名無史さん 2016/08/17(水) 11:11:52.31
>>444
>>441の皇帝の勅諭の年に王印を下賜されたのは誰であったか? それだけだと思います
それは皇帝から山南王・山北王へ停戦(休戦)の勅諭となります
448: 日本@名無史さん 2016/08/24(水) 12:29:47.01
琉球の格は普通に朝鮮未満だから。
朝鮮は元の頃からは金印をもらっている。
中国における朝貢国の格付けでは朝鮮は常にトップだよ。
琉球は2位が最高。
俺は妥当な判断だと思うけどね。
むしろ琉球の2位は高すぎな気がする。
いずれにせよ普通にみて琉球が朝鮮未満なのは当然。
朝鮮は元の頃からは金印をもらっている。
中国における朝貢国の格付けでは朝鮮は常にトップだよ。
琉球は2位が最高。
俺は妥当な判断だと思うけどね。
むしろ琉球の2位は高すぎな気がする。
いずれにせよ普通にみて琉球が朝鮮未満なのは当然。
449: 日本@名無史さん 2016/08/24(水) 19:05:34.43
印の格には遠路はるばるたいへんよくがんばりましたって意味もあるから琉球が銀印なのはまぁ妥当
462: 日本@名無史さん 2016/09/12(月) 20:58:33.52
1429年、琉球山南国を滅ぼした巴志はその年10月に明国皇帝(宣徳帝)の万寿聖節の慶賀使「佳期巴那」、「郭伯茲毎」等の進貢使節団を送り、同時に琉球三国の統一を果たした事を明国・皇帝(宣徳帝)に上奏した。
「我が琉球国、分れて三と為る者百有余年、戦の止む時無く臣民塗炭す。巨巴志悲嘆に堪へず此れが為に兵を発し、北は攀安知を誅し、南は他魯毎を討ち、今太平に帰し、万民生に安んず」
皇帝はこれを特に嘉し、翌年1430年8月に宦官の使者「柴山」と副使「阮漸」を琉球へ派遣した。
三度目の来琉となった柴山だが、この時の琉球への航海は暴風に遭い、困難を強いられたようで、仏教に帰依していた柴山は、無事に琉球に到着できた事を仏に感謝し琉球到着後に私費を投じて「大安禅寺」を建立した
「我が琉球国、分れて三と為る者百有余年、戦の止む時無く臣民塗炭す。巨巴志悲嘆に堪へず此れが為に兵を発し、北は攀安知を誅し、南は他魯毎を討ち、今太平に帰し、万民生に安んず」
皇帝はこれを特に嘉し、翌年1430年8月に宦官の使者「柴山」と副使「阮漸」を琉球へ派遣した。
三度目の来琉となった柴山だが、この時の琉球への航海は暴風に遭い、困難を強いられたようで、仏教に帰依していた柴山は、無事に琉球に到着できた事を仏に感謝し琉球到着後に私費を投じて「大安禅寺」を建立した
463: 日本@名無史さん 2016/09/12(月) 21:40:09.27
1430年8月、琉球三国統一を果たした中山王巴志には、明国皇帝から頒賜品として巴志と王妃(伊波按司の娘)へ錦、紵糸、紗、羅などの絹織物で仕立てられた衣服が贈られ、また王相「懐機」にも皇帝から同様の絹織物の頒賜品が贈られている。
そして皇帝の勅諭では巴志のこれまでの功が讃えられ
『爾琉球国、分かれて鼎足を為す。人民塗炭すること百有余年、此に爾が義兵復び太平に致す。是、朕が素意なり。今より以後、終を愼しむこと始の如くし永く海邦を綏(やすん)じ、子孫は之を保ち、欽(つつし)めよ哉、故に諭す』
として、ここに巴志と父の思紹は「尚」姓を授与された
既に没していた先王の思紹は「尚思紹(第一尚氏王統初代王)」となり、巴志は琉球国中山王『尚巴志』と名乗った。
琉球国王家「尚氏」の始まりであり、これにより山北、中山、山南の琉球三山時代は終わり、尚巴志が57歳で本島統一を成し遂げた統一「琉球王国」の始まりとなった。
そして皇帝の勅諭では巴志のこれまでの功が讃えられ
『爾琉球国、分かれて鼎足を為す。人民塗炭すること百有余年、此に爾が義兵復び太平に致す。是、朕が素意なり。今より以後、終を愼しむこと始の如くし永く海邦を綏(やすん)じ、子孫は之を保ち、欽(つつし)めよ哉、故に諭す』
として、ここに巴志と父の思紹は「尚」姓を授与された
既に没していた先王の思紹は「尚思紹(第一尚氏王統初代王)」となり、巴志は琉球国中山王『尚巴志』と名乗った。
琉球国王家「尚氏」の始まりであり、これにより山北、中山、山南の琉球三山時代は終わり、尚巴志が57歳で本島統一を成し遂げた統一「琉球王国」の始まりとなった。
489: 日本@名無史さん 2016/11/24(木) 00:54:01.86
>>462 >>463
この出典も『明朝実録』という事で良いのでしょうか?
この出典も『明朝実録』という事で良いのでしょうか?
490: 日本@名無史さん 2017/01/13(金) 02:05:53.82
>>489
中山世譜、球陽
中山世譜、球陽
474: 日本@名無史さん 2016/09/17(土) 01:45:20.16
琉球祖語・グスク文化の伝播に関してまだ不明な点が多く存在し,移民の詳細なタイミングやルート及び動機が未だに明らかになっていない。
477: 日本@名無史さん 2016/09/19(月) 11:02:45.43
>>474
奄美大島に入植した武士が残した記録が残ってる
いわゆる平家没落書と呼ばれるてるやつ
http://blog.livedoor.jp/neoairwolf/archives/44983288.html
奄美大島に入植した武士が残した記録が残ってる
いわゆる平家没落書と呼ばれるてるやつ
478: 日本@名無史さん 2016/09/19(月) 11:47:18.62
>>477
南走平家より、喜界島の城久遺跡と関係がありそう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E4%B9%85%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4
南走平家より、喜界島の城久遺跡と関係がありそう
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E4%B9%85%E9%81%BA%E8%B7%A1%E7%BE%A4
481: 日本@名無史さん 2016/09/22(木) 07:48:50.68
城(ぐすく)じゃなくて、城(ぐす)久(く)なんだな
482: 日本@名無史さん 2016/09/22(木) 08:58:47.96
琉球語と日本の分岐年代(旧説)
・琉球語諸方言は、すべての現代日本語諸方言が失った日琉語祖における対立を保持している(服部 1979 )。
・琉球語諸方言が保持する日琉語祖の対立一部は、上代日本語( 8C)の時代にすでに失われた (服部 (服部 1979 )。
・したがって、琉球祖語の分岐年代は奈良時より前( 7C以前)である (服部 1979 ; Pellard 2015)。
・琉球語諸方言は、すべての現代日本語諸方言が失った日琉語祖における対立を保持している(服部 1979 )。
・琉球語諸方言が保持する日琉語祖の対立一部は、上代日本語( 8C)の時代にすでに失われた (服部 (服部 1979 )。
・したがって、琉球祖語の分岐年代は奈良時より前( 7C以前)である (服部 1979 ; Pellard 2015)。
483: 日本@名無史さん 2016/09/22(木) 09:05:27.61
琉球語派と日本語派の定義(旧説)
・琉球語諸方言に観察され、日本語諸方言に観察されない言語改新がある。
・日本語諸方言に観察され、琉球語諸方言に観察されない言語改新がある。
・したがって、琉球語諸方言のみを 子孫とする「琉球語派」と、日本語諸方言のみを子孫とする「日本語派」が定義される。
・琉球語諸方言に観察され、日本語諸方言に観察されない言語改新がある。
・日本語諸方言に観察され、琉球語諸方言に観察されない言語改新がある。
・したがって、琉球語諸方言のみを 子孫とする「琉球語派」と、日本語諸方言のみを子孫とする「日本語派」が定義される。
484: 日本@名無史さん 2016/09/22(木) 09:12:04.21
旧説の問題点
・琉球語諸方言に観察され、日本語諸方言に観察されないとされてきた言語改新の一部は、日本語九州方言の一部に観察される。
・日本語諸方言に観察され、琉球語諸方言に観察されないとされてきた言語改新の一部は、日本語九州方言の一部に観察されない。
・琉球語諸方言に観察され、日本語諸方言に観察されないとされてきた言語改新の一部は、日本語九州方言の一部に観察される。
・日本語諸方言に観察され、琉球語諸方言に観察されないとされてきた言語改新の一部は、日本語九州方言の一部に観察されない。
485: 日本@名無史さん 2016/09/22(木) 09:21:17.54
新説
・九州方言に観察されないが、その他の日本語諸方言に観察される言語改心がある事実は、九州方言を除いた日本語諸方言からなる系統群の存在を意味する。
・琉球諸語方言と九州方言が特定の言語改新を共有している事実は、琉球語と九州方言からなる系統群の存在を示唆する。
・上の2つの事実から、琉球諸語方言と九州諸語方言からなる系統群(「九州・琉球語派」)と、(少なくとも九州方言の除く)日本諸語方言からなる系統群(「中央日本語派」)が定義される。
・したがって、すべての現代日本語諸方言を子孫に持つ「日本語派」なる系統群は成立しない。
・九州方言に観察されないが、その他の日本語諸方言に観察される言語改心がある事実は、九州方言を除いた日本語諸方言からなる系統群の存在を意味する。
・琉球諸語方言と九州方言が特定の言語改新を共有している事実は、琉球語と九州方言からなる系統群の存在を示唆する。
・上の2つの事実から、琉球諸語方言と九州諸語方言からなる系統群(「九州・琉球語派」)と、(少なくとも九州方言の除く)日本諸語方言からなる系統群(「中央日本語派」)が定義される。
・したがって、すべての現代日本語諸方言を子孫に持つ「日本語派」なる系統群は成立しない。
486: 日本@名無史さん 2016/09/22(木) 09:39:10.10
今後の課題
・本発表の提案する系統樹に基づくと、琉球語とともに九州諸方言が、奈良時代より前に中央語から分岐したことになる。
・中央語からの分岐後、琉球祖語話者は九州にとどまったが、10C~12Cに琉球列島に移住し、九州に残った琉球祖語話者は、中央日本語に言語を置き換え、九州の琉球語は痕跡を残さず消滅したとする説(Pellard 2015)は再考すべきだろう。
・奈良時代より前に中央語から分岐したのは、九州・琉球祖語であり、この言語は九州で話されていた可能性がある。
10C~12Cに琉球列島に移住したのは、九州・琉球語派の一方言の話者であり、この話者の方言が琉球祖語である(すなわち琉球祖語の他からの分岐は琉球列島で生じた)という可能性を検討すべきであろう。
したがって、現在の九州方言は、琉球祖語と姉妹関係にある言語(九州語)の末裔であり、九州における言語の取り換えは起こらなかった可能性もある。(当然、九州では中央語との激しい言語接触があったに違いないが)
・日本語と音対応のある琉球語における漢語の存在も、(九州で話されていた)九州・琉球祖語の段階で、中央日本語から借用された可能性がある。
・本発表の提案する系統樹に基づくと、琉球語とともに九州諸方言が、奈良時代より前に中央語から分岐したことになる。
・中央語からの分岐後、琉球祖語話者は九州にとどまったが、10C~12Cに琉球列島に移住し、九州に残った琉球祖語話者は、中央日本語に言語を置き換え、九州の琉球語は痕跡を残さず消滅したとする説(Pellard 2015)は再考すべきだろう。
・奈良時代より前に中央語から分岐したのは、九州・琉球祖語であり、この言語は九州で話されていた可能性がある。
10C~12Cに琉球列島に移住したのは、九州・琉球語派の一方言の話者であり、この話者の方言が琉球祖語である(すなわち琉球祖語の他からの分岐は琉球列島で生じた)という可能性を検討すべきであろう。
したがって、現在の九州方言は、琉球祖語と姉妹関係にある言語(九州語)の末裔であり、九州における言語の取り換えは起こらなかった可能性もある。(当然、九州では中央語との激しい言語接触があったに違いないが)
・日本語と音対応のある琉球語における漢語の存在も、(九州で話されていた)九州・琉球祖語の段階で、中央日本語から借用された可能性がある。
499: 日本@名無史さん 2017/01/18(水) 06:22:37.32
>>486
>九州に残った琉球祖語話者
これが、隼人って呼ばれてた集団なのかな?
>九州に残った琉球祖語話者
これが、隼人って呼ばれてた集団なのかな?
510: 日本@名無史さん 2017/02/04(土) 12:40:38.72
>>499
そうでしょう。
『大隅風土記』に「隼人の言葉」として紹介されている「海中之州」を意味する「必至」なる語は、琉球祖語の*pise「リーフ・サンゴ礁」に対応します。
海中之州者隼人俗語云必至
そうでしょう。
『大隅風土記』に「隼人の言葉」として紹介されている「海中之州」を意味する「必至」なる語は、琉球祖語の*pise「リーフ・サンゴ礁」に対応します。
海中之州者隼人俗語云必至
488: 日本@名無史さん 2016/10/23(日) 20:19:50.72
仲松弥秀氏のグスク=「聖域(葬所)」説
小島瓔禮氏のグスク=「聖域(山岳信仰)」説
嵩元政秀氏のグスク=「防御集落」説
当真嗣一氏のグスク=「按司居館」説
小島瓔禮氏のグスク=「聖域(山岳信仰)」説
嵩元政秀氏のグスク=「防御集落」説
当真嗣一氏のグスク=「按司居館」説
526: 日本@名無史さん 2017/05/05(金) 10:57:51.99
琉球列島で話されている言語は琉球「諸語」であって、琉球諸語は少なくとも五つの言語からなるという話はすごく重要だと思う。
なぜなら、琉球王国は言語的には統一されていないということになるからだ。
なぜなら、琉球王国は言語的には統一されていないということになるからだ。
527: 日本@名無史さん 2017/05/05(金) 14:07:44.74
沖縄本島首里方言こそが琉球共通語って言ってたろ?
本土共通語沖縄への押しつけは文化と伝統の破壊!って騒いでるのと同じ構造だけどね
本土共通語沖縄への押しつけは文化と伝統の破壊!って騒いでるのと同じ構造だけどね
528: 日本@名無史さん 2017/05/05(金) 15:33:32.06
琉球諸語は全部同じ系統なんだから方言と同じことだよ
529: 日本@名無史さん 2017/05/05(金) 19:36:13.35
複数の-意志疎通が困難な-言語が話されていた琉球列島とその地域の人びとを、「ウチナー」「ウチナーンチュ」と、沖縄本島の首里という特定地域の方言の、しかも「沖縄本島」「沖縄本島の人」を意味する語で、指し示そうとする人は、琉球列島の言語的多様性を知らないかあるいは無視している。
530: 日本@名無史さん 2017/05/13(土) 13:17:04.85
「琉球諸語は単系統群ではない(琉球祖語なるものは存在しない)」なんてことが証明できたら面白いな。
実際、琉球諸語の共通改新と見なせるものは実はそれほど多くないようだし。
実際、琉球諸語の共通改新と見なせるものは実はそれほど多くないようだし。
引用元: ・琉球王国以前の時代