1: 日本@名無史さん 2012/03/08(木) 01:09:47.65
大河スレが、王家の話で持ちきりなので
この時期に関する話題を話すスレとして建てました。








199: 日本@名無史さん 2012/06/03(日) 23:42:11.25
この時代の合戦って本当に名乗りあって一騎打ちしてたの?
これより100年前の後三年の役は普通に集団戦やってたし、逆に100年後の元寇も近年では一騎打ちやってたという説は否定されてるけど。

200: 日本@名無史さん 2012/06/04(月) 00:01:37.16
>>199
一騎討ち「も」やった、ではないかと。
矢合わせと呼ばれる行為は、単なる開戦儀式じゃなく射撃戦だろうし、当然集団での撃ち合いに一騎討ちもへったくれもない。
で、互いの矢を突破した者同士は時に乱戦し、たまには一騎討ちになるってとこじゃないかと。

201: 日本@名無史さん 2012/06/04(月) 00:19:04.06
>>200
なるほど。
確かに平家物語や吾妻鏡なんかではそんな感じだね。

ただ、保元物語や平治物語だと名乗りあったり、個人の武勇が主体に描かれてる印象だったからどうだったのかなあと。
夜討ちかけてるのに「ここを守ってるのは誰だ?俺は○○だ」とか、「俺は先祖が○○の××だ」とか悠長なこと本当にしてたのかなあと。

202: 日本@名無史さん 2012/06/04(月) 00:34:46.06
>>201
それはいくつかの要素を想像しちゃいますね。
一つは物語の脚色である可能性。もう一つは投降勧告の可能性。
保元の乱は、市街地で大きな建物に立てこもる相手との戦闘です。
現代の立てこもり犯人に対する対応を参考にすると。

「ああ、こちら帝の命でによりやってきた源義朝である。北殿に立てこもる者たち、直ちに投降しなさい」
「おお、兄者か。こちらは院に従う。投降はしない」
「しゃあないな。じゃあ、全軍攻撃」

なんてのが「名乗り合い」の実態だったのかも。

204: 日本@名無史さん 2012/06/04(月) 00:40:31.78
>>202
保元の乱は合戦というよりさながらクーデターの色合いが強いから確かに後者は有り得るかもw

206: 日本@名無史さん 2012/06/04(月) 13:50:49.19
保元の乱の夜討ちは奇襲じゃないだろ。
夜討ちを行ったなら月明かりも相当あったはずだから歴戦の兵がいるなら夜討ちを警戒してるよ。新月では必ずない。
そもそもこの時代馬印ないわけだからそこに誰がいるかわからない。
名乗りあったと考えたほうが自然。他人の名前を聞く前に名乗るのが礼儀だから、まず自分の名乗りを言ってると考えられる。

212: 日本@名無史さん 2012/06/08(金) 21:04:12.37
>>206
wikiによると7月10日だから新月ではないな

213: 日本@名無史さん 2012/06/09(土) 11:04:22.98
>>206
100年後の元寇の時は竹崎季長みたいな下級の武士にも自分の旗持ちがいたけど(蒙古襲来絵詞の注釈でそいつの馬が射殺されたと書かれてる)、この時代はどうだったんだろうか?

217: 日本@名無史さん 2012/06/09(土) 13:59:09.54
>>213
武士が家紋を重要視するのは鎌倉以降です。
確か元寇の時、鏑矢を射掛けたら元軍は大笑いしたらしい。

221: 日本@名無史さん 2012/06/10(日) 12:21:29.27
同じ名乗りにしても、保元物語と平家物語とでは毛色が異なるな。

236: 日本@名無史さん 2012/07/04(水) 22:51:37.50
清盛が京に戻る迄に、さっさと六波羅に火を射かけて襲撃しなかったのは何故なんです?
六波羅に残っていた兵力が源氏勢の兵力を上回っていたとか??素人質問ですみません

238: 日本@名無史さん 2012/07/04(水) 23:42:03.45
>>236
クーデターの首謀者である信頼嫡子の正室は清盛の娘であり、信頼と清盛は姻戚関係にあったことから、信頼は清盛がクーデター側に味方すると信じていたらしい。
清盛入京まで、一切平氏方の邸を攻めるようなことはしていない。
清盛は後白河と二条を手中に収めるまで信頼の気を逆なでないよう細心に事を運んでおり、信頼は事態に全く気付いてなかった。

243: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 18:05:44.15
>>238
日本一の不覚人だな

244: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 19:28:19.79
この程度のバカに焚きつけられて荷担した義朝って何なんだよ。
息子の頼朝の冷徹な現実感覚と比較するとトホホな親父だったのか?

247: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 22:07:28.12
ドラマの信頼はバカだけど、実際は違うから
元木先生の本でも読んでおくとわかりやすい。

248: 日本@名無史さん 2012/07/05(木) 23:47:43.96
義朝はライバルの清盛を叩いておかないと邪魔と思わなかったのかな。

251: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 17:22:26.51
>>248
義朝と清盛は保元の乱で一緒に戦ってるしライバルではないのだが。
義朝より清盛の官位が高いのは保元の乱以前からで、信西の不当恩賞により差がついたわけでもなんでもない。
義朝が源氏の棟梁だったかも疑わしいところ。
義朝クラスの源氏は大勢いて、義朝だけが源氏の中で突出した存在ではなかった。

252: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 18:08:54.77
>>251
じゃあその嫡男で流人の頼朝に板東武者達が従ったのは何故?

255: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 21:01:28.58
>>252
えっ、頼朝を真面目に担ぐ気があったのは北条・佐々木・三浦くらいだろ?
千葉・上総なんて、佐竹を倒すための看板に利用するのが本当の目的だし。
畠山あたりなんて敗北間際で寝返ったじゃないか。

257: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 22:33:04.10
>>252
東国はもともと朝廷に反抗する土壌があった
担ぎ上げる人物は頼朝でなくても誰でも良かったんだよ
平氏の平将門を担いだ時もあったし
源氏3代が滅んだのに摂家将軍や親王将軍担いでたし

253: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 18:40:23.78
清盛がやりすぎたと思うな
保元の乱の後始末が強引すぎたのもある
254: 日本@名無史さん 2012/07/06(金) 19:14:36.15
清盛は保元の乱終結時には公卿ですらないじゃないか。
処分を決めたのは清盛なんかじゃないよ。

296: 日本@名無史さん 2012/07/22(日) 00:37:48.67
頼朝が嫡男だったかも怪しいよね
平治の乱の臨時除目で頼朝が従五位下になったのだって、朝長を従五位上や正五位下にするよりハードルが低かったからでしょ?

297: 日本@名無史さん 2012/07/22(日) 00:52:31.23
母が波多野氏の娘と熱田大宮司の娘という差は大きいかと

298: 日本@名無史さん 2012/07/22(日) 15:53:48.24
>>297
源頼朝は源朝長の官位を超えたことがないんだよね

平重盛と平宗盛のどちらが嫡男かというのもよく言われるけど、母親の社会的地位は平宗盛のほうが圧倒的にいい

311: 日本@名無史さん 2012/07/31(火) 01:00:22.03
義朝 1153年3月頃 従五位下
義朝 1157年1月 従五位上
義朝 1157年10月 正五位下
朝長 1159年2月頃 従五位下
義朝 1159年12月 従四位下か
頼朝 1159年12月 従五位下

312: 日本@名無史さん 2012/08/05(日) 12:00:47.49
>>298
確かに宗盛が追い上げて、鹿ケ谷以降は時間の問題だったにしても、基本的には重盛が嫡子扱いなように感じる。
そういえば、小松家の軍事力は都落ちのときに有力家人に見限られる形で瓦解したらしいけど、重盛って死ぬまで平氏軍制の中枢にいたのだろうか。
宗盛が畿内惣官になったのは以仁王の乱の後だったはずだけど

316: 日本@名無史さん 2012/12/27(木) 20:53:50.36
>>312
清盛の第一子であった重盛は保元・平治の乱を父清盛と共に戦った軍功により、嫡妻腹の異母弟たちを抑えて出世を続けていたが、殿下乗合事件辺りからは微妙。
高倉天皇元服に際しては欠席した重盛に対して、高倉天皇の母建春門院(宗盛の叔母)の養子でもある異母弟宗盛が出席、高倉・安徳天皇の血縁者として次第に重んじられていく。
殿下乗合事件以降、重盛が軍事行動に出ることはなかったので軍制は分からない。
重盛が死んだとき、嫡子の維盛はすでに22歳になっていたのに平家の棟梁となれず、棟梁の座は異母弟の宗盛へと移った。

317: 日本@名無史さん 2012/12/27(木) 22:02:31.22
>>312
むしろ、重代の家人は小松家に付けられていたから、重盛系から宗盛系に嫡流が変わることは結果的に彼らも平家軍制の中核から追い出してしまった。
勿論、譜代の家人がいなくてもそれに代わる軍制を構築できれば問題が無かった訳だが、その前に頼朝が挙兵してしまった。

306: 日本@名無史さん 2012/07/28(土) 01:17:34.97
・鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』は母を波多野遠茂女とする
・室町時代の系図集『尊卑分脈』は母を修理大夫範兼女とする
・兄義平・弟頼朝に先んじて従五位下中宮少進に叙任される(数え17歳)
・平治の乱で没す
・九条院呈子の兄伊実(九条院権大夫)の妻も藤原範兼女
・藤原範兼・範季兄弟は平治の乱後、義朝の遺児範頼を養育していたといわれる

藤原範季
・1176年陸奥守になり下向
・1186年義経を匿まい頼朝の要請で解官される
・1201年建仁の乱の首謀者の一人藤原高衡を匿まう

320: 日本@名無史さん 2013/01/06(日) 00:24:15.62
せっかく八幡太郎義家が大きくしたのに、三弟の新羅三郎義光が跡目を狙って義家の子の義忠を暗殺した上に、その罪を兄の賀茂次郎義綱に着せるなんて無茶苦茶な事してるから、義忠の跡目を継いだ為義があんなうだつの上がらない事になって…。

321: 日本@名無史さん 2013/01/06(日) 13:45:53.04
>>320
>義忠の跡目を継いだ為義

義忠の跡目を為義が継いだあたりにも疑惑が一杯。

345: 日本@名無史さん 2014/06/25(水) 19:47:31.61
>>320
義綱捕縛から追討まで20年以上あるのがきな臭い
いかにも適当に理由をつけただけって感じだ

322: 日本@名無史さん 2013/01/06(日) 23:09:27.90
そうなんだよねぇ。いろいろ怪しい。義忠暗殺の犯人として義綱を捕縛した(冤罪)って言うけど、
14才らしいし、誰かの差し金?

323: 日本@名無史さん 2013/01/08(火) 01:00:52.79
義綱捕縛は私闘じゃないし、可能性としては白河あたり?

324: 日本@名無史さん 2013/01/08(火) 14:49:32.78
源為義は白河法皇から検非違使に任じられて昵懇だった
為義が嫡子となるために白河法皇に告げ口して叔父を葬ったのかも

325: 日本@名無史さん 2013/01/08(火) 15:13:07.75
叔父って義忠の事?でも義忠事件の黒幕は義光だって言うし。
そこらもひっくるめて白川法皇の差し金ってこと?

326: 日本@名無史さん 2013/01/09(水) 00:07:06.46
生存説もある義親が一連の騒動の黒幕だったら面白いけど、義親に何のメリットもないんだよなぁ

327: 日本@名無史さん 2013/02/22(金) 11:04:40.49
源為義って、本当に義親の子供なのか?
通称でみたら、陸奥四郎だから
義家の子供で、義忠や義国と兄弟のような気がする。

328: 日本@名無史さん 2013/02/22(金) 20:54:55.36
為義は義家の養子として元服しているのだから、社会的には義忠や義国の弟だろ?

329: 日本@名無史さん 2013/02/22(金) 23:14:59.60
為義は義家の長男義宗の実子で、義宗早世の後義家の養子になった気がする。証拠は無いけど。

333: 日本@名無史さん 2013/03/07(木) 15:41:48.84
源為義が、源義親の実子だとしても、従兄弟にあたる
河内忠国、新田義重、足利義康よりも大分、年上だよね。
叔父にあたる源義国とは5歳違いだし、叔父で宗家を継いだ源義忠とも13歳違い。

でも、為義って、源義親の四男なんだよな?
ということは、異母兄の源義信とか、もっと年上だよね?

そういう風に考えたら、源義家の子供って、義宗、義親と、義忠、義国の間で、だいぶん、年が離れているのか?
義忠は義家が44歳、義国は義家が52歳の時の子供らしい。

15: 日本@名無史さん 2012/03/14(水) 06:05:29.15
頼長は生きてたらどうなってた?
処刑?

357: 日本@名無史さん 2018/03/11(日) 00:17:05.14
>>15
頼長の妻子は皆殺しになっているから、頼長は確実に処刑だろう。
それも、ただの処刑では済まない。車裂き、鋸引きクラスの酷刑が待っていただろう。

359: 日本@名無史さん 2018/03/11(日) 00:55:23.60
>>357
>頼長の妻子は皆殺しになっている

頼長の死後、長男の師長・次男の兼長・三男の隆長・四男の範長はみな配流となり、師長を除く3名はそれぞれの配所にて死去した[注釈 9]。唯一生き残って都に戻ることが出来た師長は、後に太政大臣にまで昇進するものの、今度は平清盛によって再び配流される波乱の生涯を送っている。


皆殺しどころか太政大臣になってる。

360: 日本@名無史さん 2018/03/11(日) 01:06:27.20
武士に対する処罰は厳しく、薬子の変を最後に公的には行われていなかった死刑が復活し、28日に忠正が、30日に為義と家弘が一族もろとも斬首された。死刑の復活には疑問の声も上がったが(『愚管抄』)、『法曹類林』を著すほどの法知識を持った信西の裁断に反論できる者はいなかった。
貴族は流罪となり、8月3日にそれぞれの配流先へ下っていった。ただ一人逃亡していた為朝も、8月26日、近江に潜伏していたところを源重貞に捕らえられる。『保元物語』によれば武勇を惜しまれて減刑され、伊豆大島に配流されたという。

死刑自体が300年ぶりの復活で反対する声も多かった。武士は死刑でも貴族は流罪にとどまった。死刑を強く主張した信西は平治の乱で晒し首になった。自業自得である。

引用元: ・【貴族】保元・平治・治承の動乱【没落】