1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/09(木) 01:41:34 ID:Pc1nlmza0
八柱国、十二大将軍ってかっこいいな
武川鎮軍閥(ぶせんちんぐんばつ)は、中国南北朝時代の西魏・北周、および隋・唐の支配層を形成していた集団のことである。関隴集団ともいう。
最初に、この集団に着目したのは、清朝の考証学者である趙翼であった。趙翼はその著『二十二史箚記』の巻15に「周隋唐皆出自武川」という項を立てて、この集団について正史に基づいて論証し、武川鎮は「王気」が聚まる所であると述べている。
最初に、この集団に着目したのは、清朝の考証学者である趙翼であった。趙翼はその著『二十二史箚記』の巻15に「周隋唐皆出自武川」という項を立てて、この集団について正史に基づいて論証し、武川鎮は「王気」が聚まる所であると述べている。
2: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/09(木) 02:29:18 ID:rqv44x9nO
関隴集団って呼ばれる人達ね
3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/09(木) 14:44:22 ID:3D0T0NdV0
隋も唐も李密も、みんなこの系統だもんね。
4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/09(木) 15:08:08 ID:fmZBJKKP0
武川ってどこらへん?
緯度と経度で
緯度と経度で
5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/09(木) 17:07:24 ID:ixilzAu00
>>4
手元の資料では、おおよそしかわからんな。
北緯41.1° 東経111.5° といったところかな?
緯度経度の見方をよく知らんから、この言い方であってるかどうかは知らない。
ちなみに、内モンゴルにあるフフホト市のなかの一県である武川県が、今の姿らしい(そこが幕府だったわけかな? よく知らん)。
手元の資料では、おおよそしかわからんな。
北緯41.1° 東経111.5° といったところかな?
緯度経度の見方をよく知らんから、この言い方であってるかどうかは知らない。
ちなみに、内モンゴルにあるフフホト市のなかの一県である武川県が、今の姿らしい(そこが幕府だったわけかな? よく知らん)。
6: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/09(木) 23:34:48 ID:ViycpXpl0
だいたい陝西や甘粛の方の勢力なんだよな
7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/10(金) 00:02:59 ID:9qknhmrB0
マジか!? なら>>5は間違いだ。
どうみても甘粛ではない。 山西の北だと思ってた…
武川県とは関係ないのかな?
どうみても甘粛ではない。 山西の北だと思ってた…
武川県とは関係ないのかな?
8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/10(金) 00:10:39 ID:rKhExsxg0
>>5の地域出身のグループが、6の地域(中国北西部)で勢力を伸ばし、天下を統一したってことじゃね?
9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/10(金) 10:24:25 ID:dgBYQxlb0
代郡武川だろ。現在の内モンゴル自治区の呼和浩特市のちょっと北に武川県があるが、そのちょっと西。
武川鎮の位置については>>5はほぼ正解。
関隴集団の性格としては>>6も間違いではない
11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/10(金) 21:24:07 ID:9qknhmrB0
>>9
ああ、やっぱりそうだったんだ。
隋の頃の地図では、すでに武川鎮はないから、自信がなかったのだ。
考えてみると、武川鎮軍閥は皇帝が続々と輩出される宝庫なわけだが、後代の山西軍閥(河東節度使)も同様に皇帝を輩出したパンドラボックスwだったのは、なんか歴史の共通点を見るようで面白い。
どっちも遊牧系の民族出身者だったり、位置的にも近かったりと…
ああ、やっぱりそうだったんだ。
隋の頃の地図では、すでに武川鎮はないから、自信がなかったのだ。
考えてみると、武川鎮軍閥は皇帝が続々と輩出される宝庫なわけだが、後代の山西軍閥(河東節度使)も同様に皇帝を輩出したパンドラボックスwだったのは、なんか歴史の共通点を見るようで面白い。
どっちも遊牧系の民族出身者だったり、位置的にも近かったりと…
12: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 15:15:48 ID:ITguuZLR0
この武川鎮軍閥ってのはほぼ鮮卑系で占められていたのかな。
13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/16(木) 16:51:50 ID:8JkFKSJy0
宇文氏は鮮卑化した匈奴という説があったような。
独狐氏は匈奴独狐部の劉庫仁の子孫?
独狐氏は匈奴独狐部の劉庫仁の子孫?
14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/11/21(火) 14:16:33 ID:6vfwS4ri0
鮮卑主体で、匈奴が混合か
15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/01(金) 14:12:44 ID:8ctQj7yK0
日常の生活にどれだけ遊牧民的な要素が残っていたかが、興味深いね。
16: 名無しさん@お腹いっぱい。 2006/12/01(金) 16:27:36 ID:jl/AZkog0
隋唐にみられる女性活躍というのが、その一端だそうな。
18: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2006/12/07(木) 22:42:24 ID:EwDIM/Do0
普六如だの大野だの。
楊堅
楊氏は漢人ではなく、鮮卑人ではないかとの論もある。父の楊忠の時に北周の復古政策の一環として「普六茹(ふりくじょ)」という姓を与えられている(普六茹とは鮮卑語で楊を意味する)。しかしこれは事実が逆で普六茹が元の姓であり、漢化政策の際に楊を名乗るようになったのではないかと考えられる。仮に漢人だったとしても鮮卑化された漢人であることは間違いなく、どちらかに確定させることにあまり意味はない。
楊氏は漢人ではなく、鮮卑人ではないかとの論もある。父の楊忠の時に北周の復古政策の一環として「普六茹(ふりくじょ)」という姓を与えられている(普六茹とは鮮卑語で楊を意味する)。しかしこれは事実が逆で普六茹が元の姓であり、漢化政策の際に楊を名乗るようになったのではないかと考えられる。仮に漢人だったとしても鮮卑化された漢人であることは間違いなく、どちらかに確定させることにあまり意味はない。
17: 犬童知遠 ◆tmc8JAPANo 2006/12/02(土) 02:24:59 ID:oKWcXI260
「八柱国・十二大将軍」という枠組み自体が、実は帝室李氏を箔付けするために唐代に捏造された代物だという説は、結局どうなったんだ。
23: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/12(金) 22:41:49 ID:eHp0uKG40
>>17
仮にそれが真実だったとしても、それでは隴西李氏以外の「八柱国・十二大将軍」が有力な勢族
だったことを裏書きしてるように思えるが?
仮にそれが真実だったとしても、それでは隴西李氏以外の「八柱国・十二大将軍」が有力な勢族
だったことを裏書きしてるように思えるが?
24: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/23(火) 01:43:54 ID:Xp4T9Tqb0
>>23
「八柱国十二大将軍家を中心として組織された武川陳、関隴集団」という陳寅格の説が成り立たなくなったというだけの話。
「八柱国十二大将軍家を中心として組織された武川陳、関隴集団」という陳寅格の説が成り立たなくなったというだけの話。
25: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/17(土) 17:34:02 ID:rVE4gBJs0
南朝系の貴族は、武川鎮軍閥系の貴族を見下したりしたのかな
26: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/06(火) 22:52:03 ID:jj31+fY/0
李世民が、いろんな家の格付け表みたいなの作ってなかったっけ?
自分のところの李氏を筆頭にして。
自分のところの李氏を筆頭にして。
27: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/06(火) 23:19:24 ID:cveWfxUt0
>>26
山東崔氏より下のわけがないだろ! ってね。
山東崔氏より下のわけがないだろ! ってね。
28: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/06(火) 23:36:59 ID:9Jwt7NyQ0
筆頭にしてたっけ?
5番目くらいに入れてたような…
5番目くらいに入れてたような…
29: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/08(木) 11:26:24 ID:bMGuJeuX0
他人に作らせたら李氏がトップに来なかったからブチキレて自作したんだよ
30: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/26(月) 23:26:45 ID:1aOMKual0
李世民って、そういう名誉のようなところに結構こだわるよね。
ちょっと狭量。
ちょっと狭量。
31: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/27(火) 17:13:35 ID:f0F60NPLO
貞観氏族志ね。
でも山東の名族(崔・盧・李・鄭)の方も名声以外実質的には勢力無いのに、家柄を誇って他の氏族と婚姻するときには多額の財物を要求してたらしいね。
でも山東の名族(崔・盧・李・鄭)の方も名声以外実質的には勢力無いのに、家柄を誇って他の氏族と婚姻するときには多額の財物を要求してたらしいね。
32: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/27(火) 22:39:04 ID:Q8AdPf/B0
勢力が無いっていうことは無いんじゃないか?
貴族ネットワークが唐王朝を支えた柱の一本であったのは確かなんだから。
貴族ネットワークが唐王朝を支えた柱の一本であったのは確かなんだから。
33: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/26(木) 13:36:16 ID:MlaEg2fc0
貴族システムの崩壊が一大転換点だからねー
34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/11(金) 21:45:15 ID:tdylaqRQ0
>李世民って、そういう名誉のようなところに結構こだわるよね
それだけ家格というものが当時の人間にとって重要な意味を持っていたということだろ。
現在の感覚で計ったらいかんよ。
それだけ家格というものが当時の人間にとって重要な意味を持っていたということだろ。
現在の感覚で計ったらいかんよ。
36: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/15(火) 22:47:43 ID:B/sbqid20
>>34
日本だって、源氏とか平氏にみんなこだわったし、現実問題として官位を受ける時に必要だったからね。
日本だって、源氏とか平氏にみんなこだわったし、現実問題として官位を受ける時に必要だったからね。
48: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/06/26(木) 05:48:54 ID:NALRV+mu0
>>34
でも一番であることにソコまで拘るかな?
李家が楊家に臣従してたのが苦痛だったかね
でも一番であることにソコまで拘るかな?
李家が楊家に臣従してたのが苦痛だったかね
35: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/11(金) 21:51:21 ID:tdylaqRQ0
六朝時代にはその家格で官爵の上下が決められていた訳で、そこから考えると関隴集団が山東貴族より家格が下とされると政権を関隴系がとっていることの正当性が脅かされるということもあったのではないか。
37: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/27(日) 23:36:31 ID:zrEH+5Ql0
宋代以降は、貴族制が崩壊したら、家格なんてのもあまり気にしなくなったんだろうか。
45: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/15(金) 21:28:22 ID:hQ4RXjV80
>>37
貴族は消滅したとは言っても、貴族っぽいものは存在していたよ。
貴族は消滅したとは言っても、貴族っぽいものは存在していたよ。
46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/02/15(金) 22:17:45 ID:E0fSFS7s0
>>45
宋代に台頭した新興地主層が、やがて貴族化していったけど、中世貴族社会のような特定の家のみが支配層に居座り続けられる社会ではない。
宋代に台頭した新興地主層が、やがて貴族化していったけど、中世貴族社会のような特定の家のみが支配層に居座り続けられる社会ではない。
39: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2007/07/29(日) 07:34:07 ID:1+2C4/1K0
中国って“源”って姓はあったっけ?
“平”はあるよね。
“平”はあるよね。
40: 名無しさん@そうだ選挙に行こう 2007/07/29(日) 12:53:14 ID:yrM+LlT+0
>>39
禿髪氏が北魏に降ったとき、もとは同じ苗字った拓跋氏が元になっていたので、同音の源に変えたとこの板で見た
禿髪氏が北魏に降ったとき、もとは同じ苗字った拓跋氏が元になっていたので、同音の源に変えたとこの板で見た
42: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/28(金) 06:05:46 ID:Xn1IIbWH0
乱を起こした時、武川の軍人らってそんなに窮乏していたの?
43: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/10/27(土) 06:39:19 ID:l6TTA+hr0
>>42
元々特権階級、貴族に準じた扱いだったはずなのに、いつの間にか奴隷みたいに見なされるようになっちゃった。
元々特権階級、貴族に準じた扱いだったはずなのに、いつの間にか奴隷みたいに見なされるようになっちゃった。
53: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/03/13(水) 11:03:27.54 ID:hXmaVr5n0
大野世民(おおのせいみん)です。ヨロシク!
引用元: ・武川鎮軍閥
閑職集団に空目した