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1: 日本@名無史さん 2006/11/07(火) 15:21:05
真実を今・・・








4: 日本@名無史さん 2006/11/07(火) 17:09:05
江戸時代自体、100年間越えてるし・・・

5: 日本@名無史さん 2006/11/07(火) 17:16:58
身障者の将軍を2人も出しながら徳川政権は、身障者保護の政策を打出していません。
例外としては盲人保護政策があり、これは手厚くて、かなり徹底したものでした。
検校制度の公認と奨励がそれです。
検校制度はとても一口に言えないぐらい複雑なものですが、大まかにいうとすれば盲人たちを検校・勾当(こうとう)・座頭(ざとう)・市(いち)の4段階に分け、1番上の検校ともなると社会的に大名の位の待遇を受けたと言います。
外出は立派な駕龍(かご)に乗り、大名と同じ人数のお供が付きました。
位が1段階上るごとに相当な金額を納めなければならないのですが、そのかわり適当に配当金もあって、相互扶助のシステムになっていました。

7: 日本@名無史さん 2006/11/08(水) 03:06:29
町人にとって一番よかったのはいつ頃?

13: 日本@名無史さん 2006/11/17(金) 09:00:30
>>7
個人的には文政期じゃないかと 

8: 日本@名無史さん 2006/11/08(水) 06:47:12
後になればなるほど庶民の力はまして行くし、色々と充実してきた。
逆に武士にとっては後になればなるほど困窮していく。

14: 日本@名無史さん 2006/11/17(金) 09:51:31
いわゆる「町人」=「庶民」の月収ってどれくらいですか?
5年から10年程度の経験値を持つ「建具屋」とか、鳶職人や大工が妻子を養えたのでしょうか?
時代劇などでは全身にタトゥーを施した鳶職人(町火消し)の「若い衆」が出てきますが、全身にタトゥー・・・しかも「和彫り」ともなると相当の金額がかかったと思われます。多分、現在の価格で数百万円。
鳶職人の収入ってそんなに良かったんですか?


15: 日本@名無史さん 2006/11/17(金) 10:43:14
>>14
その辺の資料の有名どころはたぶん文政年間漫録だな
月給って考え方は当時あまりないと思うが
中級大工の収入は一日5匁4分
月によって仕事日数は違うみたいだが、年間で294日働いて1貫87匁6分
相場次第だが、大体年収が25両弱かな
月収なら平均2両そこそこってことになるだろうか
結構多く見えるが、まぁ文政期は結構インフレしてるしね
当時の米の値段は一石(150kg)で1両2分くらいかな
ちなみに、文政期の裏長屋の家賃は500文程度と聞いたことがある
仕事があれば、それなりに家族を養えるんじゃないか?

彫り物師の相場がどんなもんかは全く知らんが、そんなに高いだろうか
刺青自体当時の高所得者がやるもんじゃない気がするがねぇ
親分しか出来ないっていうモノでもないだろうし

18: 日本@名無史さん 2006/11/18(土) 01:12:36
>>14
ガエン者の彫代は、町内や縁のある有力者の間に奉加帳を廻して捻出します
大体道具持ちとして、一人前として認められた位でしょうかね
鳶や消防の他、町内の雑事も引き受けてましたから、衣食住とかその他の心配はなかったんですよ
彫物の費用ですが、職人の1日分の手間賃と同じと云うのが相場です
名刺一枚分位の面積を一坪といって、1日に二つ分位つづ彫りすすんだようですね
人によりますが大体二時間位です


16: 日本@名無史さん 2006/11/17(金) 14:50:24
だいたいの家は一部屋に大家族が寝起きしていたようだけど若夫婦の性生活はどうしていたんだろうか?夜中にこっそり?
それとも、山奥に逝ってやってた?

19: 日本@名無史さん 2006/11/18(土) 02:42:29
>>16
長屋で夜中に隣の女房の声が五月蝿いって話も残ってるし、たいして隠れてやるって感覚も無いんじゃなかろうか
昔の炭鉱町とかだと、昼に帰ってきた旦那がドア開けたままやってたとかいう話はあるし、結構近代まで日本は下層レベルではそんな感覚だと思うよ

21: 日本@名無史さん 2006/11/18(土) 02:54:23
九州の炭鉱だと奄美方面の出身者が多いだろうけど、南方系のおおらかな習俗かね?

22: 日本@名無史さん 2006/11/18(土) 03:53:30
北海道の炭鉱でも似たようなのは聞いたことがある
無論夏場のことだが

28: squid-e-5.ipse.media.kyoto-u.ac.jp ◆iYpWoaA4h2 2006/12/25(月) 15:34:09
庶民というより独身者が多かったことが要因。
男女比率が偏っているとか住環境が最低で育児放棄も多かった。
実際に捨て子も多くて綱吉などは取り締まるように指示していた。 

31: ◆iYpWoaA4h2 2006/12/25(月) 20:25:06
江戸は単身赴任者がとにかく多かったのです。各藩の屋敷も国元から家臣だけでなく陪臣
もいっぱい来ています。機密保持とかもあるんだろうけど必ずしも江戸出身者を雇用したわけではなかったので武士人数の数倍そんな感じの人たちがいます。

また労働者移入も建築労働者の不足から近隣からの流入しますが(技術者はもっと不足していたので熟練工とかは、かなり売り手市場だったとか)基本的に男性労働者です。女性の社会進出(就職先がない)というか移動(流入)は男性ほど大きくなかったのでかなり男女比率が偏ってきます。

商家でも奉公人も男性社会です。商業規模が大きくなって従業員数も増えるのですが家族を持てるような境遇じゃなかったり長屋住まいだったりでちっとも改善しません。
早婚化と晩婚化の二極化がかなりひどかったそうですよ。早めに結婚しておかないと競争率が高くなると言う面も。

現在のお見合いは大正期に写真が庶民にも普及した時代に様式が固まったようですが、本来は仲人がかなり積極的に働きかけてどうこうするものでした。茶店や芝居小屋を舞台に江戸・大坂では庶民の間にお見合いが流行しています(それ以前は上流社会のみ)。
仲人には両家から手数料(実際は名目が違いますが)入るのでビジネスとして大きかったのが理由です。これには芝居興行主とかも係わっているのですが門前の茶店や茶房も同じで良縁とかを売りにする寺院もかなりありました。

35: 日本@名無史さん 2006/12/25(月) 22:38:09
京からの呉服屋の江戸出店なんかも、京からの単身赴任者が多かったらしい。
今も昔もかわんねえなあ

36: 日本@名無史さん 2006/12/26(火) 00:19:30
男女の比率で思い出したが、ずっと前に読んだなにかに書いてあった。(出典忘却。失礼)
江戸では冬のほうが女が少ない、という調査結果があったそうだ。
その記述では、理由として、江戸の火事が挙げられていた。
江戸では大火がたびたび起こるが、時期的に冬が多く、そのため季節によって江戸の男女比が違ったのではないか。という説が述べられてあった。
近郊から江戸へ働きに出ている女は、冬場は実家に戻ることがあったとか。どうしてもいざというときは、女のほうが危険を脱するのが男より難しいからだろう。
おれは詳しくないのでこれについては判断できないが、確かに火事にあって焼け死ぬことを考えれば、そうかもなとも思う。
出典忘却ゆえ、読み流してくれ。

37: 日本@名無史さん 2006/12/26(火) 00:21:56
36補足。
「女が少ない」というのは「それ以外の季節にくらべて女の比率がさらに低くなった」の意。

38: 日本@名無史さん 2007/01/03(水) 00:19:14
今の様な握りすしは、江戸時代文化文政のころできたもので、それまでは押しずしでした。
文化の頃で深川の松のすしができて、名を轟かせていますが、押しずしでした。

文政年間のはじめに、江戸本所元町の与兵衛と言うひとが、それまでの早すし、(酢を混ぜた飯の上に魚をのせたものを、小型の桶にいれて一晩ほど圧してつくったものでした。

清水と静岡の間に国吉田と言うところがありますが、そこの桶ずしは梅酢を使っていましたので長持ちし、有名でしたが昭和の初めになくなってしまいました。)
その早すしを改良して、山葵をはさみ(それまでは梅酢につけた生姜です)、海老やこはだを主とする握りすしをはじめました。

64: 日本@名無史さん 2007/01/11(木) 21:07:30
>>38
握り寿司って文政時代ぐらいのものだから、日本の食文化史のなかでのカレーライスと50年ぐらいしか差がないんだよな。

握り寿司とカレーって伝統の度合いって同じようなレベルといってもいい。

40: 日本@名無史さん 2007/01/03(水) 12:09:39
鮒とかコハダとか今と嗜好が違うんだな

41: 日本@名無史さん 2007/01/03(水) 21:06:01
限られた種類しか魚がなかったんでしょう

42: 日本@名無史さん 2007/01/04(木) 21:21:05
赤身の肉は食べる風習がなかったよ。鮭ぐらい?

43: 日本@名無史さん 2007/01/05(金) 09:56:59
それって近海でしか漁をしなかったから?
でも鯨は赤肉だよね

46: 日本@名無史さん 2007/01/08(月) 14:46:37
よく考えると血みたいに真っ赤な食べ物って怖いよな・・・。
葡萄酒飲む外国人が悪鬼扱いされたのもうなずける。

65: 日本@名無史さん 2007/01/11(木) 21:58:20
やっぱ歳とって一人前に働けなくなったら、野垂れ死にするしかなかった?

67: 日本@名無史さん 2007/01/11(木) 22:36:37
>>65
世話してくれる子供がいるんじゃね
おとっつぁん、おかゆができたわよ

66: 日本@名無史さん 2007/01/11(木) 22:19:27
歳をとる前に死ぬ。平均年齢四十才くらいの時代だから。

68: 日本@名無史さん 2007/01/11(木) 22:38:10
>>66
平均寿命が低いのは 現代よりも乳幼児期に死ぬケースが多くてその寄与が大だから。
無事成人したら老齢まで生きる人が大半ではないかな。

70: 日本@名無史さん 2007/01/11(木) 23:41:12
江戸時代になると宗門改帳を頼りに町村単位の平均余命を知ることが出来る
これによると1600年頃の寿命はよくてもせいぜい30才程度であった。
ちなみに記入されていない乳幼児の死亡は入れていない。

ただ平和な時代では
寛文11(1671)年から享保10(1725)年のそれは男36.8才、女29.0才
享保11(1726)年から安永4(1775)年になると、男42.7才、女44.0才
ぐらいになっているので平時の寿命はそんなものなのだろう。

医療技術が進歩していない状況では四十才ぐらいが限度だったようだ。
人生五十年というのは長生きした現在の八十ぐらいに相当すると考えていいだろう。

最大の疫病天然痘やこのほかにも腸チフス、マラリア、赤痢などの流行病があるので体力のない人間は生き残れない。

74: 日本@名無史さん 2007/01/13(土) 04:11:02
平均が40って老人とかいないじゃん。

76: 日本@名無史さん 2007/01/13(土) 11:52:36
>>74
80才 1
20才 2人
の平均は40になる。
早く死ぬ人間が多い分平均寿命はさがるが年寄は普通にいる。
比率は今よりすくないだろうけど。

77: 日本@名無史さん 2007/01/13(土) 18:53:08
江戸期の記録を見ると80とかはさすがに珍しいようで顕彰されたりしてる。

平均40と言っても現在の60くらいの感じなのだろう。
隠居とか40代の話が多いから今で言う定年だな。元服が10代なので当主が20代というのはそう不自然でもない。

81: 日本@名無史さん 2007/01/14(日) 00:11:01
宗門改帳は幼児も記載する

82: 日本@名無史さん 2007/01/14(日) 01:41:51
宗門改帳は、基本的に門徒の移動なので宗教行事をできる部分と婚姻(宗門の移動)からの部分的にしか分からない。
成人の死亡年齢は期日が記入されるので分かるが乳幼児~児童に関しては曖昧な点が多い。平均寿命を割り出すときは分かっている部分から解読して割り出すのでほとんど乳幼児に関しては除外している。
葬儀をして戒名をつけるような階層では当然記入されるが、地方によって差異があり一家構成だけの宗門開帳や財産まで詳細に記載されているものも存在する。基本的に宗教的意図によって作成されたので寺院の都合ということなのだろう。一般に解読や調査対象として幕府直轄領や保存状況の良い信州諸寺の資料が使われる事が多い。形式的には領主と請負の名主・寺院で二部作られるはずだが寺院が直接請け合っていない場合は保存されていないケースが多く、本来はすべて記入されているはずだが寺院側のみだと葬礼に関する記述のみ保存されているということが発生する。厳密には宗門記述から消えた年代で特定できるが資料欠損などで解読が困難な場合もある。

つまり成人していない場合は、一家の宗門から消えるだけで死亡に関しても詳しくは書かれないことも多い。おそらく葬儀を行ったかどうかの差異だと思われるが端的な例では成人以前の幼児期死亡率が高い時代は乳幼児の葬礼に関して寺院を必ずしも通していない。寺院ではなく民間信仰である地蔵尊(六道を迷わぬという菩薩信仰。寺院は通常如来)での供養や葬礼的には戒名ではなく合葬される。
もっとも地域差があるので一概には言えないが、寺院支配、依存の強い場合や浄土真宗などの旦那寺と門徒ととの距離が近いところは一般にそうではない場合も多い。本来の力点が人口動勢の確認ではなく成人の宗門移動に関してのチェックであることが理由である(もともとキリシタンへの改宗防止の監視のため)。

84: 日本@名無史さん 2007/01/14(日) 01:58:20
『神奈川県史』近世史料編の宗門改帳、60代70代も珍しくない。

123: 日本@名無史さん 2007/03/07(水) 18:30:10
農民達はどんな食事をしていたんでしょうか。

124: 日本@名無史さん 2007/03/07(水) 19:34:35
粟、稗、襖まじりの玄米かな
あと野菜と魚か。山間の村だとはちのこなんかも食べたのか

125: 日本@名無史さん 2007/03/08(木) 09:46:55
地方によって色々だったんじゃないかな

126: 日本@名無史さん 2007/03/08(木) 10:19:30
一口に農民といってもピンからキリまであるしねぇ・・・

128: 日本@名無史さん 2007/03/08(木) 10:23:31
米しか作ってないからな。大根飯も米と大根だよ。


142: 日本@名無史さん 2007/03/08(木) 20:23:23
江戸時代において飢饉がおきた時、幕府はなにか対応したんでしょうか。
なんかほったらかしのイメージがありますが。

143: 日本@名無史さん 2007/03/08(木) 20:54:01
>>142
幕府管轄の天領で飢饉が起きたときは、お救い小屋とか出している。
他藩の飢饉はそれぞれの藩がやることだ。

147: 日本@名無史さん 2007/03/09(金) 02:08:21
ほとんどは米しか作ってないので普通にお米を食べてました。保存食も餅です。
信州などの山間部や亜寒帯の一部など米作に不適当な地区を除けば容易に作付けできる稲作オンリーです。

江戸期に蕎麦や麦などの二毛作が一般的になったので混同されやすいのですが基本的に日本人は米と野菜が主食です。米メインなので味付けに塩をふんだんに消費します。味噌と漬け物ですね。食事の最低単位でも一汁一菜です。

戦国期に塩を断たれた武田が苦労した話は有名です。こういう食生活なので塩を産する地区が異様に富が集中します。
俗に言う十州塩ですね。


148: 日本@名無史さん 2007/03/09(金) 02:17:45
お米食べてた派の人はソースを提示してくれ

149: 日本@名無史さん 2007/03/09(金) 03:16:55
一つの手がかりとなる重要なデータは、昭和10年代に、その当時から3,40年前の食生活を聞き取り調査した柳田国男の全国食習調査でしょう。
全国50箇所の農村で調査が行われましたが、米を常食としている村は皆無です。

日本の食文化 : 昭和初期・全国食事習俗の記録 岩崎美術出版

152: 日本@名無史さん 2007/03/09(金) 15:34:39
>>149
この本読んでないけど、昭和10年代の50箇所の農村をサンプルにして江戸時代の農村の生活をどこまで類推できるのかな。明治に入って農家経営は劇的に変化したと思うし、昭和になって繭の価格が大暴落して農村は全国的に疲弊してたんじゃね?

「農村」って地域差がものすごく大きくて、単純に均したりできないように思う。
江戸近郊の農村と東北の寒村を一緒にできないし。それに、「常食」「主食」という言葉を安易に使いすぎるような気がする。

講談社版の日本の歴史(17)で吉田伸之は「江戸繁昌記」の

『金のない奴は皆焼き芋を食う。いいとこの奥さんも下女に芋を買いに行かせる。おれも米買う金の無いときは芋を食う。』

という記述を根拠にして、焼き芋は江戸庶民の主食だったと書いてるよ。どうかと思うなぁ。

165: 日本@名無史さん 2007/03/10(土) 01:17:14
>米は盆・正月・葬式の膳などに使用されるのが精いっぱい。
日頃は粟・玉蜀黍・麦・蕎麦・稗・里芋などを常食し飢饉の年には葛の根・すずの実(竹の実)・雑草などを食べ飢えをしのいだ。
そうした生活でも農民には「物成」という年貢米の他すべての作物に税がかけられ苦しい生活をしいられていた。こうしたことから領主の政策に反抗する「百姓一揆」が増え、1755年(宝暦5年)山裏村(上岩戸地区)では重税と村役人への不満が爆発。
248人が豊後岡藩の領内に逃散するという事件もあった


江戸時代の高千穂の記録より。
まあ、どこもこんなものかと

230: 日本@名無史さん 2007/03/22(木) 10:40:12
みなもと太郎の「風雲児たち幕末編」によると、福沢諭吉が長崎から神戸に行く際乗った船(唄の文句みたいだな)は、百姓が農閑期に「勝手に」運行している素人船で、船乗りも客も命がけだったそうな。
たくましいなあ、昔の百姓は。

引用元: ・江戸時代の庶民の生活



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