114: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/20(木) 20:30:48.01 ID:/RLjlD2G0
衛の黄金時代って武公の時なんだろうか

116: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/21(金) 07:39:52.14 ID:hzaJRCYL0
>>114
兄殺して即位したんだっけ?

118: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/22(土) 01:50:56.89 ID:inJaXvb/0
>>116
主君である兄を死なせるという不忠行為を行ってるのに名君ってのが武公は凄いわ
しかも史書の記述を見る限り兄の共伯に落ち度は無いのに

ただ周王朝が正常に運営されてる時期、あるいは覇者がいた時代なら武公はすぐに誅伐を受けていたかもしれん

121: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/23(日) 22:32:04.06 ID:9NqOggPs0
>>118
うーん、本当に不思議な君主だなあ。

122: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/24(月) 19:37:06.97 ID:wbkd/l220
>>121
そうか?
未成熟で荒っぽい時代だから、家族の殺害は特別珍しくないし、武公の数少ない事績である尊王攘夷にしても
晋とかいう悪逆無道、傲慢不遜を絵に描いたような覇権の得意技が勤王である事を思えば、そこに不思議はない気がする

125: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/25(火) 00:43:46.42 ID:4CaB+csD0
>>122
周王朝的倫理と秩序に叛きまくり、非道卑劣は日常茶飯事
そんな晋が幹事長やってる東周連邦

大義名分がどこにもねェ……春秋に義戦なしとはよく言ったもの

129: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/25(火) 20:56:32.29 ID:Ov6I3dsg0
>>125
たまに周王朝が斉に密命を下すのは晋の覇者体制に不満があったからなんだろうな
周王朝的倫理と秩序を守っているのって文公とか悼公のような名君ぐらいか?
まあ文公は結構ルール違反な事やってるが

130: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/26(水) 07:40:27.11 ID:bwJ+yMl90
悼公のころに周の霊王と斉の霊公が接近したりしてるし、元々周と晋は相性が悪かったのかな。
悼公(とうこう、紀元前586年 - 紀元前558年)は、中国春秋時代の晋の君主(在位:紀元前573年 - 紀元前558年)。

欒書と荀偃(中行偃)によって厲公が殺されると、晋に迎えられて君主となった。 文公の治世を理想とし、韓厥や智罃を正卿に、魏絳を中軍司馬に、羊舌肸(叔向)を世子の彪(後の平公)の傅とするなど、賢者を任用し内治を整え、諸侯と会盟し狄と和を結ぶなど、鄢陵の戦い以来、晋に傾いていた覇権を磐石なものにしたが、29歳で死去した。


131: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/26(水) 12:34:34.16 ID:CkOyp3yo0
曲沃の頃は敵だったし、その名残かな

132: 雄安新区 2017/07/26(水) 16:12:37.84 ID:zWio7oDw0
晋悼公には、自らの権威を高め、諸侯の宗主たる天子を蔑ろにしたのではないか?
と推測できる記述が散見する。斉に接近したくなるかもしれませんね。

133: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/26(水) 20:47:03.16 ID:m6TSJyiH0
悼公はあと十年長生きしていたら先代と同じく有力者の排除粛清に動いた気がする

隣接する晋と周は東周王権が分権的で足元の畿内でさえ諸侯が常時割拠する状態でなかったら、優れた周王と強大な晋公が激突する歴史が展開されたやろな
衰えたりとはいえ中堅国クラスの領域を保持する周は侮りがたい

142: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/27(木) 22:03:03.95 ID:Y25tRGRS0
粘り強さって大事なんだなって。
>>133
確かに長生きが欲しいところだったな。
人事が上手かったみたいだから先代のような半端な粛清もしないだろうし、跡継ぎももっとうまく教育できたかも・・

135: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/27(木) 17:21:27.80 ID:6f7NA7mF0
なんだかんだ前の暗君が楚のヘゲモニー&お上に僭越を働く有力臣下を潰してから逝ったので、ある意味やり易い環境で即位することになった悼公

143: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/28(金) 00:36:20.99 ID:y3Jig5/i0
>>135
晋のレイ公はエン陵の勝利の後すぐに死んでたら名君と呼ばれてたかもな
本格的に暴君となったのもエン陵の後だし
エン陵の勝利も苗賁皇や郤至の献言をレイ公が聴きいれた事によるものだし
厲公(れいこう、? - 紀元前573年)は、中国春秋時代の晋の君主(在位紀元前581年 - 紀元前573年)。姓は姫、諱は寿曼、または州蒲。

鄢陵の戦いで共王率いる楚軍を破ると勝ちに奢って驕奢淫逸にふけり、郤錡・郤犨・郤至を誅殺したが、正卿欒書や荀偃(中行偃)らの画策によって放たれた刺客、程滑の手で殺された。


145: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/28(金) 22:58:25.36 ID:8hTr9qrc0
>>143
即位から戦いまでのエピソードがあまり知られてないよね。

144: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/28(金) 19:15:19.76 ID:5tcSsBSz0
悼公の覇権とバランス(妥協)人事は、楚を破り国際環境を好転させたものの世族弾圧を果たせず死んだ急進的先君の発展的継続と修正、先送りした臣下との対決はいずれ再燃する。

146: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/29(土) 07:36:52.75 ID:9K77yCAH0
粛清をせぬまま30前後で死んだ悼公は、臣下にとっては都合がよかったので後世名君扱いされた・・というのはさすがに空想が過ぎるな

148: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/29(土) 19:22:13.13 ID:HcPj6mbb0
要素の一つではあるかと
後に内乱を度々起こし最終的に公室を抑え覇権国家晋を解体に導く諸氏は悼公治世下で勢力を蓄えましたし
この頃矛盾が表面化せず彼が覇者&最後の名君とされるのは丁度実力者の交代期にあたり君権が安定したからでしょう

150: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/31(月) 16:27:42.26 ID:cJc4eyS+0
唐突だが、欒書(とその子孫)って地味に晋滅亡A級戦犯クラスの畜生だと思う
暗君乱臣に満ちた資料上の逸話の中ではそこそこ格好良くそれなりに徳のある名臣みたいな顔してるけど
欒 書(らん しょ、? - 紀元前573年)は、中国春秋戦国時代の晋の政治家。

紀元前575年、景公の死後、厲公の代になると、かつて邲の戦いで敗れた楚との間に鄢陵の戦いが勃発した。この頃には欒書も古参の老臣となっており、中軍の将(元帥)として参戦し、見事に楚軍を打ち破った。しかし、この勝利に奢った厲公は驕慢になり、当時の晋の朝廷で最大の勢力を持っていた郤氏を族滅した。

紀元前573年、身の危険を感じた欒書は大臣の荀偃(中行偃)と謀って厲公を弑し、周より晋襄公の曾孫の公孫周を迎えて即位させ、悼公とした。


151: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/02(水) 11:51:26.16 ID:/6M2z/S90
あの君主は殺す必要はなかっただろうな。

152: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/02(水) 14:38:16.24 ID:iDL9YHb30
趙氏「許された!」

154: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/03(木) 09:36:48.32 ID:jCAutfet0
>>152
一族のDQNが勝手にやったのと、総領が他家も巻き込んでやったのとでは大差だしな。
史官がどう書くかは別として。

156: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/04(金) 15:42:32.47 ID:TAXFN43Y0
欒書は君主を弑逆したけど、子の欒黶は父の傲慢な部分ばかりをより肥大させて受け継いだ様な格好だな
的外れな恨み方で士氏と軋轢を深めるし、こいつが欒氏滅亡の引き金を引いてる感じ
せめて欒盈が欒書の孫でなくて子だったらまだ違ったのかもしれん

158: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/04(金) 22:39:27.22 ID:rAq+lGYi0
実物は知らんから勝手なイメージになるけど傲慢さはいい勝負じゃまいか?ベクトルが異なるだけで
せっかくのリスクヘッジ婚姻を感情的行為で台無しにするあたり欒家が肥大化ぶんお気楽になった感じ

171: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/09(水) 21:16:09.26 ID:EtBU26uN0
楚国って横死、反乱多すぎない?名君でも余裕で晩年悲惨だし

173: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/10(木) 17:04:47.57 ID:gQTi/XU40
>>171
周~春秋を勝ち抜け戦国列強に名を連ねた強国楚は最もマシな部類だぞ

174: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/10(木) 20:30:26.46 ID:EqBno+hz0
当たり前のことだが国家政権が担当する面積や人口が大きければ大きいほど乱は数多く発生する
楚国にその手の事件が多いのは事実でしょう
だからと言って楚が他国に比べて不穏という訳ではないけど

189: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/05/31(木) 22:42:23.14 ID:cZ6mKy/c0
楚って元々殷のことなんだっけ

190: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/05/31(木) 23:03:08.29 ID:ZzBLO8c00
元が殷(商)は宋

191: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/05/31(木) 23:05:49.47 ID:d7vNnVQx0
楚は南方の異民族で野蛮人だから周王の権威とか知らんと言って王号を称した。

211: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/08/26(日) 01:12:55.12 ID:b/vwGToC0
西周と東周に分裂した頃について知りたい
(質問しても違うって言っても東周時代のこと言われる)
(幽王の時代じゃなくて戦国末期の頃が知りたいのに)

212: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/08/26(日) 02:32:29.12 ID:neeOqnr60
紀元前441年 31代 考王が弟の姫掲を河南に封じ西周の桓公とした。(西周公)
紀元前368年趙の成侯は韓とともに周を攻めて周を分割した。
この時西周公の末弟 公子班を東周公として封じて周の領土を削ったらしい。
この時の西周公が恵公で東周公も恵公なんでややこしい。
3分された周はますます弱体化した。最後の周王 赧王は自立を諦めて西周の武公を頼って西周に遷都した。王都だった成周は東周のものになった。

216: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/09/07(金) 03:55:16.87 ID:BXnOwDTP0
東周は春秋時代の初期に放棄した首都を取り返そうとかしなかったんだろうか

220: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/09/09(日) 15:50:28.91 ID:P20AwBOY0
>>216
宗周近辺が遊牧民の手に落ちていて、放棄せざるをえなかった
秦への切り取り次第委任という形にしたのは現実的な判断

周六師を支えた内諸侯も徐々に姿を消し、殷八師はそれよりも前に実体を無くしていただろう
晋/鄭の助力なくしては最早成り立たず、鄭の勢力削減にも失敗したからもうお手上げ状態で、むしろ戦国末期までよく生き延びたものだ

222: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/09/10(月) 00:28:59.08 ID:4H6crhGt0
東周初期は平王派と携王派に別れて20年近く争い、諸侯の加勢でやっと平王が王朝を再統一できたという有様
王朝内部の混乱による人材の喪失と組織の崩壊、諸侯への褒賞や、敵味方による収奪が多数あったことは想像に難くない
それらの負債を払い終えた頃には、鄭のような大諸侯とはいえない国にすら敗北を喫している

東周初期の王朝の実力は既に並の諸侯程度、宣王期ですら敗北続きの異民族に勝っての関中回復など夢物語だったろう

228: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/09/12(水) 23:21:15.54 ID:xQLRst1u0
諸侯の力を借りたとはいえ東周王朝を建ててある程度まで勢力は維持できた平王はなかなか凄いのではと思えてきた

229: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/09/13(木) 03:40:49.57 ID:LJnzXgVI0
父祖が励んでいたであろう王朝の中原支配が思わぬ形で功を奏したと言えるかも
なんとか王権が安定し得る空間が存在した?のはデカい

君主に気概があっても応仁の乱後の足利将軍みたく王城の地にヤバい奴しかいない状況ではどうにもならん

232: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/09/17(月) 19:08:09.94 ID:CEQlzRqe0
周の平王はいまいちどういう人格か見えてこないから語りづらいんだよな
鄭の荘公とのエピソードを見てると諸侯に気をつかってる苦労人なイメージがあるけど

233: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/09/19(水) 00:42:42.73 ID:Db4DrolM0
そりゃ諸侯のおかげで王朝存続できたんだから

234: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/11/05(月) 20:00:10.40 ID:e/v8SBZB0
晋が分裂せずにそのまま大国として残ってたらどうなっていたんだろうか

236: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/11/07(水) 19:14:53.53 ID:arzPW9700
結果的に晋は楚と休戦した事は失敗だったように思う
そのせいで覇者としてのアイデンティティを失ってしまった

237: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/11/07(水) 20:53:23.84 ID:O3jtvnGx0
よくある話で、外敵がいなくなったことで国内の権力闘争に専念してしまう

ただ楚としても呉の台頭でもはや晋と戦争している余裕がなくなったから、休戦は時代の流れだと思う

238: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/11/07(水) 21:51:10.44 ID:0kWCurwv0
そこだけ見れば、和平を必要とするのは楚なので、名高い晋の卿大夫連中よりも、評判のよろしくない康王霊王平王期あたりの楚外交の方が仕事したことになるな

239: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/11/07(水) 22:13:05.94 ID:arzPW9700
康王はそこまで評判悪くないんじゃない?

240: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/11/07(水) 23:55:55.75 ID:0kWCurwv0
そこまで悪くないけど、最も有名なエピソードが評判最悪の二王と大差ない人物扱いのアレですので…

241: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/11/08(木) 01:45:02.02 ID:hu8qVkbr0
共王の方が仁徳者だけど
晋に敗れて覇権を失った共王よりも
晋と和平して南北覇者体制を作った康王の方が君主としては上かなと思う

242: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/11/08(木) 05:43:43.93 ID:m9E2r/ef0
いくつかの逸話から思い浮かぶ共王のイメージは弱い君主像だなぁ
君主らしい指導力を発揮しないまま退場した印象

情報欠乏ゆえ実際の優劣は皆目見当がつかないけれど

245: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/11/11(日) 21:50:24.12 ID:5oL/yZMd0
>>237
弭兵の会盟により諸侯が和平を結んで対外戦争の回数は減少していくけど、代わりに各国で内乱が勃発するようになるからなぁ

247: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/11/12(月) 17:08:21.56 ID:S2xgkBMK0
晏氏も瞬殺されたゾ
晏嬰の人徳が足りなんだか…

248: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/11/12(月) 17:44:58.64 ID:hNYlI9O30
晋も斉も失望しました、七穆のファンになります

249: 名無しさん@お腹いっぱい。 2018/11/12(月) 19:40:01.35 ID:S2xgkBMK0
七穆となって鄭を専制支配するゲームやりたい

引用元: ・【泰皇】周の後半春秋戦国4【皇帝】