1: 日本@名無史さん 2018/10/06(土) 01:04:55.75
三日月の丸くなるまで南部領と呼ばれた広大な領地を持ち、津軽為信や九戸政実などの有名武将もいて、信長の野望でも統一しやすい南部三代について語りましょう!








5: 日本@名無史さん 2018/10/07(日) 18:51:56.89
信直以前の事跡を脚色しまくりで原型を留めてないから歴史として語ろうにも語る手立てが無い

6: 日本@名無史さん 2018/10/07(日) 20:50:38.47
>>5
やっぱこれなんやなぁ……東北は本当にカオスやからなぁ……東北の大名なんて最上や伊達くらいしか語れないよなぁ……

7: 日本@名無史さん 2018/11/08(木) 21:31:42.27
晴政後継のあたり、九戸政実の反乱あたり、津軽との諍いと、どうにも暗いイメージばかりなんだよな。

8: 日本@名無史さん 2018/11/11(日) 10:02:20.45
加賀美遠光流の名門なんだけど、加賀美氏がそもそもマイナーすぎる

10: 日本@名無史さん 2018/11/16(金) 21:36:57.22
三戸ばかりじゃなく根城南部についても語って欲しい

13: 日本@名無史さん 2018/11/24(土) 19:05:54.62
何度も言っているが、九戸政実の反乱の時、反目している東北の大名が皆集まったのが凄い。

一度その場面を見てみたいモンだ。

14: 日本@名無史さん 2018/11/29(木) 11:49:20.43
根城と三戸のかかわりは面白いぞ
いろんな推測ができる。

15: 日本@名無史さん 2018/12/01(土) 21:18:34.09
あんまり言われてないけど鎌倉陥落の時、根城南部氏の3兄弟は新田義貞と一緒に鎌倉へ攻め込んでるやで。

17: 日本@名無史さん 2018/12/04(火) 13:57:20.07
この時代の岩手県民で一番成功したのが大浦為信という事実
津軽為信

江戸初期の大名。初代弘前藩主。実父は武田重信,後に大浦為則の養子となって大浦氏を継ぐ。初め南部を称する。幼名扇。1600年(慶長5)従五位下右京大夫。

1571年(元亀2)石川城の南部高信を攻略したのを手始めとして,津軽郡内に勢力を扶植していた南部氏とその被官および北畠氏を次々と攻め滅ぼし,この統一戦争の過程で郡内の在地土豪層を被官化していった(《津軽一統志》)。

1591年(天正19)豊臣政権は奥羽仕置の一環として,為信を蔵入地代官に任命し,3万石の領知高を与えた(秋田家文書)。関ヶ原の戦では徳川方として赤坂本陣に参陣し,戦後上野国大館に2000石を加増された。また1603年には,弘前の城下町建設を命じるなど,藩体制の成立に精力を傾けた。


21: 日本@名無史さん 2018/12/05(水) 21:18:26.99
為信は陰険で好かん

22: 日本@名無史さん 2018/12/06(木) 00:53:37.98
津軽為信は戦国時代を才覚でのし上がっただけだろ。

陰険なのは2代目の津軽信枚だと思うが…。数々のお家騒動があるからなあ。
津軽騒動に続く高坂蔵人の乱の経緯は笑ってしまう。

23: 日本@名無史さん 2018/12/06(木) 13:00:39.97
今でも南部と津軽は仲悪いんだっけ?

24: 日本@名無史さん 2018/12/06(木) 18:49:23.97
津軽は為信を郷土の英雄にして持ち上げてるけど、実は南部の出だからねー。ちょっと複雑じゃね津軽は。

25: 日本@名無史さん 2018/12/07(金) 20:23:44.55
出身は別でも郷土の英雄には変わりないだろ。津軽藩もあったんだし

26: 日本@名無史さん 2018/12/08(土) 01:05:21.45
自らを「津軽氏」として、家系図を捏造しないと支配者になれない状況があったんだよ。
秋田に安東氏がいたから、正当性を問われるとつらい。

浪岡の北畠氏もメインは安東氏についていたしな。

27: 日本@名無史さん 2018/12/08(土) 01:17:53.65
為信は藤原氏を名乗ったから好かん

28: 日本@名無史さん 2018/12/08(土) 06:37:02.93
津軽氏の、自分の出自は南部とは関係ないという主張のしつこさはちょっと異常。
挙句?近衛家の養子にしてもらい藤原を名乗ったりする。
武家なら源氏のほうがましだろう。

29: 日本@名無史さん 2018/12/08(土) 18:55:50.15
正当性も何も、天下人に認められたんだから問題ないだろ

30: 日本@名無史さん 2018/12/08(土) 21:26:10.43
問題ないかもしれんけど、やっぱり心のどこかにやましい思いがあったんやろ。
だから血筋とか、歴史について嘘ついてはごまかしたんだ、と思うな。

31: 日本@名無史さん 2018/12/09(日) 00:23:48.14
地元民が地元出自の大名をのぞんでいたんだよ。
南部を拒否していたのかもな。

32: 日本@名無史さん 2018/12/09(日) 09:10:08.70
津軽衆がよく言う話だが、当時地元民、地元意識なんぞあるわけないだろう。
これも津軽氏が自分を正当化したいプロパガンダ。
そもそも津軽と南部の確執なんて江戸時代につくられたもんだろう。

38: 日本@名無史さん 2019/12/31(火) 00:48:20.27
>>32
平家物語に「いかなるあくろ、つかろ、つぼの石ふみ、夷がすみかなる千島なりとも…」なんてのが出て来る。

あくろは悪路王=アテルイとすると平泉付近、つかろは津軽、つぼの石ふみは南部藩の野辺地南方の東北町あたり、千島は千島
平家物語の段階で、既に津軽と南部は別に考えられていた。

39: 日本@名無史さん 2019/12/31(火) 00:52:27.22
また 878年の秋田北部の蝦夷の反乱「元慶の乱」では「この反乱の裏に津軽がいれば大変だ」と大和政権は危惧している。

これは津軽が蝦夷として独自の勢力を持っていたことを物語る。

41: 日本@名無史さん 2020/02/05(水) 19:03:50.82
津軽は近衛の庶流だろ
南部は甲斐の土豪

42: 日本@名無史さん 2020/02/07(金) 17:47:39.01
>>津軽は近衛の庶流だろ

近衛に金積んで、何とか養子でもいいから系図に書き込んでくれって泣き付いたのな。
津軽家の、俺は南部とはなんも関係ねえというのは病的だな。
幕末ごろには養子でなく 実子にしてくれとエスカレートしたらしいがな

43: 日本@名無史さん 2020/07/23(木) 16:13:01.91
津軽の藩風は全部逆張り。弱い側に味方する。
関ヶ原は西軍に内通して三成の遺児を弘前に逃がす
(豊臣恩顧ながら家康についた福島正則の一族は江戸に出て家督を継ぐべく出立前に弘前家中で謎の中毒死)
赤穂に流された山鹿素行の息子を家老に抜擢
忠臣蔵の討ち入りでは吉良を救う為に本所に駆けつけ怪我人を介抱
勤皇の立場から内匠頭と赤穂浪士を非難する藩の文書を今に残す
(日本最西端の平戸藩も同様。天皇家と親戚になったのも同じ)
維新では列藩同盟から早々に離脱。官軍から恩賞を得た

34: 日本@名無史さん 2019/01/10(木) 19:14:14.96
島津がマシに見えるほど気違いしか居ないってイメージしかない
南部って

35: 日本@名無史さん 2019/02/13(水) 13:29:53.87
>>34
薩摩に暗君なし、南部に名君なし

36: 日本@名無史さん 2019/06/19(水) 23:57:34.29
南部は南北朝時代に南朝方として頑張ってた

引用元: ・南部晴政 信直 利直について語ろうぜ