1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/29(金) 18:04:46 ID:TZsM0V240
慕容垂にボコボコにされた東晋一の快男児桓温について語ってみよう
桓温 (かんおん)生没年:312-373
中国,東晋時代の将軍,政治家。譙国竜亢の人。
長江中流域の長官として346-347年(永和2-3)に四川省の成漢国を討滅し,さらに後趙滅亡期の大混乱に乗じて北伐を行う。354年,一時は長安近辺まで進出し,356年には洛陽の奪回に成功した。この武勲を背景にして東晋の実権を握ったが,365年(興寧3),再び洛陽を前燕に奪われ,369年(太和4)の北伐にも敗れてからは,名声も落ちて帝位奪の野望もついに実現できずに終わった。
中国,東晋時代の将軍,政治家。譙国竜亢の人。
長江中流域の長官として346-347年(永和2-3)に四川省の成漢国を討滅し,さらに後趙滅亡期の大混乱に乗じて北伐を行う。354年,一時は長安近辺まで進出し,356年には洛陽の奪回に成功した。この武勲を背景にして東晋の実権を握ったが,365年(興寧3),再び洛陽を前燕に奪われ,369年(太和4)の北伐にも敗れてからは,名声も落ちて帝位奪の野望もついに実現できずに終わった。
4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/29(金) 23:26:35 ID:1lYcG/oc0
とりあえず桓温の歴史小説って、誰か書いて欲しいなあ。
5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/30(土) 13:39:12 ID:B/03r2Lp0
劉裕と桓温じゃ劉裕の方が好きなんだけどね、俺は
6: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/30(土) 13:59:48 ID:rG/IzWKk0
劉裕は冷酷なところがあるから俺は桓温の方が好きだな
劉裕と比べるとちょっと抜けてるところがあるけどそこがまた魅力
劉裕と比べるとちょっと抜けてるところがあるけどそこがまた魅力
7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/30(土) 14:26:41 ID:iInUsppl0
むしろここは謝恩が邪魔しなければ新王朝樹立してた桓玄を語ろうではないか
9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/30(土) 19:49:03 ID:IVFqlG7c0
桓氏は祖先はどの地方の出?
10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/30(土) 20:15:53 ID:G1sgxhvF0
長沙臨湘人
11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/30(土) 20:27:22 ID:qxfaM29y0
『裏切り者の中国史』という本には、司馬懿に殺された桓範の子孫じゃないかって書いてたな。
12: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/06/30(土) 21:03:31 ID:RNd4YqSQ0
長沙の人なら孫堅の遺体を引き取った桓階に繋がりあるのでは?
13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/01(日) 00:10:58 ID:dxPvoS0e0
父親の桓彝の伝(『晋書』巻七十四)によれば譙国龍亢の人でしょう。
14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/05(木) 00:53:06 ID:feO3gjDD0
桓温が晩年の時に、突然一人の尼僧が遠方から来て、桓温に旦那となってもらい、屋敷に逗留した。
この尼僧は学才も挙動も常人とは違っていたので、桓温は鄭重にあつかい、屋敷内に住まわせた。
ところが尼僧は、入浴の時にはいつもきまって長い時間をかける。
桓温が不審に思って、覗いてみると、尼僧は裸になって刀を持ち、腹を裂いてはらわたを取り出し、首を切り落として手足を細かくきざんでいた。桓温はあっと驚いて引き返したが、部屋に帰ったころ、尼僧は浴室から出て来た。姿はもとのとおりになっていた。
桓温が正直に見たままを話すと、尼僧は答えた。
「お上(晋朝)に取って代わろうなどとする者は、きっとあんな姿になってしまいますよ」。
ちょうどこの時、桓温は帝位を奪おうと企んでいたところだったので、尼僧の言葉を聞いて意気消沈した。
この為に行動を慎み、臣下の本分を最後まで守り通したのであった。
尼僧の教えを信じた桓温は幸いに身を全うしたが、その子の桓玄は謀叛を企てて、彼女の予言通りに亡ぼされた。
この話の出典って晋書?
この尼僧は学才も挙動も常人とは違っていたので、桓温は鄭重にあつかい、屋敷内に住まわせた。
ところが尼僧は、入浴の時にはいつもきまって長い時間をかける。
桓温が不審に思って、覗いてみると、尼僧は裸になって刀を持ち、腹を裂いてはらわたを取り出し、首を切り落として手足を細かくきざんでいた。桓温はあっと驚いて引き返したが、部屋に帰ったころ、尼僧は浴室から出て来た。姿はもとのとおりになっていた。
桓温が正直に見たままを話すと、尼僧は答えた。
「お上(晋朝)に取って代わろうなどとする者は、きっとあんな姿になってしまいますよ」。
ちょうどこの時、桓温は帝位を奪おうと企んでいたところだったので、尼僧の言葉を聞いて意気消沈した。
この為に行動を慎み、臣下の本分を最後まで守り通したのであった。
尼僧の教えを信じた桓温は幸いに身を全うしたが、その子の桓玄は謀叛を企てて、彼女の予言通りに亡ぼされた。
この話の出典って晋書?
15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/05(木) 01:07:25 ID:gCfC6W720
時有遠方比丘尼名有道術,於別室浴,温竊窺之。尼イ果身先以刀自破腹,次斷兩足。浴竟出,温問吉凶,尼云:「公若作天子,亦當如是。」
晋書だとこれだけ。さらに詳しいのは『幽明録』『捜神後記』『冥祥記』あたり
晋書だとこれだけ。さらに詳しいのは『幽明録』『捜神後記』『冥祥記』あたり
16: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/05(木) 01:17:53 ID:/1/wDNnF0
>>14
確か捜神記だか捜神後記だかが初出だったと思う。
でも晋書の本伝にも、省略された形でちゃんと載ってる。
さすが、毒にも薬にもならない畢卓(別に何をしたわけでもないただの飲兵衛)の伝は立てても、斉万年の乱で討ち死にした馬敦には帝紀ですら全く触れない、現行晋書の面目躍如だな。
(馬敦については、潘岳が書いた追悼文が文選に引かれてるぐらいだし、現行晋書編纂時に底本になった臧栄緒晋書には、ちゃんと記述がある。なんで房玄齢たちは削ったんだろ? 太宗のワンマン? 単純作業ミス?)
確か捜神記だか捜神後記だかが初出だったと思う。
でも晋書の本伝にも、省略された形でちゃんと載ってる。
さすが、毒にも薬にもならない畢卓(別に何をしたわけでもないただの飲兵衛)の伝は立てても、斉万年の乱で討ち死にした馬敦には帝紀ですら全く触れない、現行晋書の面目躍如だな。
(馬敦については、潘岳が書いた追悼文が文選に引かれてるぐらいだし、現行晋書編纂時に底本になった臧栄緒晋書には、ちゃんと記述がある。なんで房玄齢たちは削ったんだろ? 太宗のワンマン? 単純作業ミス?)
17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/05(木) 01:35:04 ID:feO3gjDD0
>>15-16
こんな実際にあったかどうかかなり疑わしい話も正史である晋書に載ってるんですね。
それにしても尼僧の入浴を覗くとは桓温も相当なスケベだな。
こんな実際にあったかどうかかなり疑わしい話も正史である晋書に載ってるんですね。
それにしても尼僧の入浴を覗くとは桓温も相当なスケベだな。
22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/07(土) 00:19:20 ID:PJr4Ndh00
>>17
晋書の評価は史記や魏書呉書蜀書に較べると遥かに低いからな…
晋書の評価は史記や魏書呉書蜀書に較べると遥かに低いからな…
19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/05(木) 17:13:18 ID:MkWSkuab0
謝安さえいなけりゃ万事オッケーだったのにな
謝 安(しゃ あん、大興3年(320年)- 太元10年8月22日(385年10月12日))は、東晋の貴族政治家。
桓温の簒奪阻止や淝水の戦いの戦勝など、東晋の危機を幾度となく救った。升平4年(360年)、40歳で初めて仕官し、桓温の司馬となった。
やがて桓温から離れて中央に戻り侍中・吏部尚書に就任した。当時の桓温の勢力は東晋を覆い、桓温は簒奪の野望を見せていて、簡文帝の崩御後に即位した孝武帝からの禅譲を企てた。しかしこれに対して謝安は王坦之と共に強硬に反対し引き伸ばし工作を行った。結果、老齢の桓温は死亡、東晋は命脈を保つことになる。
桓温の簒奪阻止や淝水の戦いの戦勝など、東晋の危機を幾度となく救った。升平4年(360年)、40歳で初めて仕官し、桓温の司馬となった。
やがて桓温から離れて中央に戻り侍中・吏部尚書に就任した。当時の桓温の勢力は東晋を覆い、桓温は簒奪の野望を見せていて、簡文帝の崩御後に即位した孝武帝からの禅譲を企てた。しかしこれに対して謝安は王坦之と共に強硬に反対し引き伸ばし工作を行った。結果、老齢の桓温は死亡、東晋は命脈を保つことになる。
20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/05(木) 20:23:26 ID:JedM+qOD0
でも謝安を見出したのは桓温自身でしょ?
21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/05(木) 23:28:15 ID:MkWSkuab0
>>20
なんてこった…、将来の敵を見出してたなんて……(呆)
やる事が春申君と一緒じゃねえか…。
なんてこった…、将来の敵を見出してたなんて……(呆)
やる事が春申君と一緒じゃねえか…。
23: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/17(火) 23:47:09 ID:g/mNcp0n0
>>20>>21
そういうところもまた、桓温の魅力の一つ
そういうところもまた、桓温の魅力の一つ
24: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/26(木) 15:22:11 ID:4Mjx/CKo0
桓温、意外に人気ないな。
27: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/09/18(火) 15:28:34 ID:Tue1MnJ00
桓温を紹介するいいコンテンツがあればいいんだけどね。
62: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/05/21(木) 21:12:36 ID:593O84Q90
>>27
この時代を描いてて、劉裕を準主役っぽく据えている武侠小説がある
黄易著「辺荒伝説」
自分やっと第1巻の終わりまで訳してみたけどまだあと19巻ぐらいあるらしい
面白いけど先長すぎ
慕容垂などいつになったら出てくるのやら
この時代を描いてて、劉裕を準主役っぽく据えている武侠小説がある
黄易著「辺荒伝説」
自分やっと第1巻の終わりまで訳してみたけどまだあと19巻ぐらいあるらしい
面白いけど先長すぎ
慕容垂などいつになったら出てくるのやら
79: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/07/03(火) 23:56:39.11 ID:u8qJUzOF0
桓玄の兄達って何で後継者になれなかったんだ?
桓 玄(かん げん)は、桓楚の初代皇帝。東晋の安帝より禅譲を受けて皇帝となるが、3カ月後に安帝復位を大義名分としたクーデターを起こした劉裕(後の南朝宋武帝)によって殺された。家妓の馬氏を母として、桓温の庶子かつ末子として生まれたが、その才能を愛されて後継とされた。
81: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/07/16(月) 19:02:19.78 ID:+x+3+BBR0
>>79
母親は不明だが、桓煕は「世子」と記述されていることを考慮すると、南康長公主の産んだ子どもの可能性が高いと思うんだよね
(この人が嫉妬深くて、桓温が李勢の妹を妾にしたときにぶっ殺そうと襲撃かけるくらいの鬼嫁、なぜかその後、公主も李勢の妹に萌えまくって仲直りするという変なエピソードになっているが)
そう考えると、桓煕が晋室に靡く可能性は相当高かったのではなかろうか?
因果関係は不明だが、桓煕・桓済兄弟は、桓沖暗殺事件を起こして失脚している
桓温生前から、息子たちが父親の簒奪劇を快く思っていなかったのかもしれない
桓温って本当に甘いよなあ
母親は不明だが、桓煕は「世子」と記述されていることを考慮すると、南康長公主の産んだ子どもの可能性が高いと思うんだよね
(この人が嫉妬深くて、桓温が李勢の妹を妾にしたときにぶっ殺そうと襲撃かけるくらいの鬼嫁、なぜかその後、公主も李勢の妹に萌えまくって仲直りするという変なエピソードになっているが)
そう考えると、桓煕が晋室に靡く可能性は相当高かったのではなかろうか?
因果関係は不明だが、桓煕・桓済兄弟は、桓沖暗殺事件を起こして失脚している
桓温生前から、息子たちが父親の簒奪劇を快く思っていなかったのかもしれない
桓温って本当に甘いよなあ
82: 81 2012/07/16(月) 19:20:01.48 ID:+x+3+BBR0
南康長公主がもしも庾文君の娘だったならば、桓温ともども親を蘇峻の乱で失ってしまったことになる(桓温の場合父親になるが)
この二人、世説新語の賢媛篇から察するに、何だかんだ言いつつ、似た者夫婦というか、仲好さそうなんだよな
案外、公主が存命だったならば桓温も簒奪しなかったのかも
この二人、世説新語の賢媛篇から察するに、何だかんだ言いつつ、似た者夫婦というか、仲好さそうなんだよな
案外、公主が存命だったならば桓温も簒奪しなかったのかも
83: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/07/27(金) 22:30:30.24 ID:5VyAllaQ0
上の息子たちが篭絡されてる上に、後継者が幼少じゃ簒奪なんてどう足掻いても無理だな
桓玄は成功し掛けたけど三ヶ月で政権崩壊したし
桓玄は成功し掛けたけど三ヶ月で政権崩壊したし
84: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/08/15(水) 18:54:31.83 ID:f1QyG2/J0
あのタイミングで簒奪すると桓温の建てた新王朝は、前秦に滅ぼされかねないような気がする
晋の残党の跋扈で国内を一統するのも大変なような気が
晋の残党の跋扈で国内を一統するのも大変なような気が
86: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/06/17(火) 22:16:27.24 ID:cue/kQVl0
既に後世に芳を流す能わず、復た臭を万載に遺すに足らざるか
男子、芳を百世に流すことあたわずば、また臭を万年に遺すべし
どちらが本当の発言なんですか?
男子、芳を百世に流すことあたわずば、また臭を万年に遺すべし
どちらが本当の発言なんですか?
87: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/06/17(火) 22:29:20.95 ID:eHl3B2Me0
前者が晋書、後者が資治通鑑・十八史略ですね
晋書の成立が唐代、資治通鑑は宋代、十八史略は元代
最も古く成立した晋書の段階で、すでに桓温の時代より250年経過してるので、桓温が実際にどういう言葉回しをしたのかは、考古学で桓温の書簡でも見つからない限り分からないでしょうね
そういう訳で、本当の発言かどうかでいえば、どちらも偽と捉えておくのが無難ではないでしょうか
晋書の成立が唐代、資治通鑑は宋代、十八史略は元代
最も古く成立した晋書の段階で、すでに桓温の時代より250年経過してるので、桓温が実際にどういう言葉回しをしたのかは、考古学で桓温の書簡でも見つからない限り分からないでしょうね
そういう訳で、本当の発言かどうかでいえば、どちらも偽と捉えておくのが無難ではないでしょうか
88: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/06/22(日) 17:47:59.58 ID:V43ZLkSw0
>>87
ありがとうございました。
その時代の桓温観が表れているんですかね。
ありがとうございました。
その時代の桓温観が表れているんですかね。
104: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/02/23(火) 18:22:59.69 ID:Eg0YI0S/0
354年
4月 桓温と苻萇が、藍田で戦い桓温は敗れた
6月 苻雄軍は桓温と白鹿原で戦い、桓温は敗れた
9月 桓温は撤退した
結構負けとるな。こっからよく洛陽奪回までいくもんだ
4月 桓温と苻萇が、藍田で戦い桓温は敗れた
6月 苻雄軍は桓温と白鹿原で戦い、桓温は敗れた
9月 桓温は撤退した
結構負けとるな。こっからよく洛陽奪回までいくもんだ
105: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/02/23(火) 18:59:25.07 ID:XE2KEknU0
>>104
白鹿原の戦いは二回生起している
一回目は354年4月藍田の戦いの直後に桓沖が苻雄を白鹿原で撃破したことによって、東晋軍が霸上まで進出したことが記述されており(桓温伝だと4月の藍田の戦いも桓温が勝ったことになっている)、二回目は5月末~6月にかけて桓温と苻雄が戦ったもので、桓温の軍は劣勢に追い込まれ1万余りの損害が発生している
桓温と司馬勳の関中侵攻は前秦が撃退に成功しているけど、丞相苻雄は戦死、太子苻萇は戦傷死、無理な徴発や青田刈りで関中の人民に多大な負担をかけており(大飢饉も発生している)、お世辞にも大勝とは言えない、むしろ苻堅による簒奪の時期も含めて長期間の停滞期に突入する呼び水になってしまったと見ることもできる
枋頭の戦いで前燕から援軍要請が来た時に「あいつら桓温が関中に侵攻した時助けてくれなかったのに随分虫が良い話だな」という発言が出たりしているところを見ると前秦には若干トラウマになっていたんじゃないかと推察される
白鹿原の戦いは二回生起している
一回目は354年4月藍田の戦いの直後に桓沖が苻雄を白鹿原で撃破したことによって、東晋軍が霸上まで進出したことが記述されており(桓温伝だと4月の藍田の戦いも桓温が勝ったことになっている)、二回目は5月末~6月にかけて桓温と苻雄が戦ったもので、桓温の軍は劣勢に追い込まれ1万余りの損害が発生している
桓温と司馬勳の関中侵攻は前秦が撃退に成功しているけど、丞相苻雄は戦死、太子苻萇は戦傷死、無理な徴発や青田刈りで関中の人民に多大な負担をかけており(大飢饉も発生している)、お世辞にも大勝とは言えない、むしろ苻堅による簒奪の時期も含めて長期間の停滞期に突入する呼び水になってしまったと見ることもできる
枋頭の戦いで前燕から援軍要請が来た時に「あいつら桓温が関中に侵攻した時助けてくれなかったのに随分虫が良い話だな」という発言が出たりしているところを見ると前秦には若干トラウマになっていたんじゃないかと推察される
107: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/02/24(水) 07:22:29.87 ID:X7jNyRbs0
>>105
ノモンハン並みによく分からん戦役だったんやなあ。胡族も死ぬほど記録残してくれれば良かったのにな
ノモンハン並みによく分からん戦役だったんやなあ。胡族も死ぬほど記録残してくれれば良かったのにな
108: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/02/24(水) 09:42:13.01 ID:Zsa/Hvuu0
桓沖は苻雄に勝った時まだ27歳だから相当大殊勲だわな
肥水の頃まで活躍してるしキャリア長い
肥水の頃まで活躍してるしキャリア長い
109: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/02/24(水) 16:16:26.17 ID:8qR78mnx0
王猛と薛強を使いこなす度量があれば、中原回復は成功していただろう
王 猛(おう もう、325年 - 375年)は、五胡十六国時代前秦の苻堅に仕えた宰相。字は景略。苻堅の覇業を全面的に補佐した賢臣で、華北統一に貢献した。
354年、東晋の桓温が北伐を敢行し、関中に駐屯した。当時、まだ隠遁生活を送っていた王猛は彼の下へ訪ねると、虱をひねりながら天下の大事を堂々と論じ合い、桓温より高く評価された。また、桓温は「我は天子を奉じて精鋭十万を率い、義をもって逆賊を討ち、民のために尽くさんとしている。にもかかわらず、三秦の豪族らが我の下に来ないのはなぜか」と尋ねると、王猛は「汝は数千里の彼方から深く敵地に入り込み、もはや長安は間近である。しかしながら灞水(長安の東に流れる川)を渡らずにいるから、民は汝がどう考えているのか図りかねているのだ」と答えた。桓温はこれに黙然としてしまい反論することが出来なかった。やがておもむろに「江東には卿と比べる者がおらぬ!」と述べ、王猛を軍諮祭酒として迎えようと考えた。
その後、桓温は南へ帰還する際、改めて王猛へ随行するよう要請し、彼に車馬を送って高官督護に任じる旨を告げた。王猛は一度山に戻り、桓温の申し出を受けるべきか師に問うた。師は「どうして卿と桓温が世に並び立つことが出来るというのか!ここに留まれば自ずと富貴となれるというのに、どうしてわざわざ遠くに行くというのだ!」と答えた。王猛はこれを受け、北方に留まった。
354年、東晋の桓温が北伐を敢行し、関中に駐屯した。当時、まだ隠遁生活を送っていた王猛は彼の下へ訪ねると、虱をひねりながら天下の大事を堂々と論じ合い、桓温より高く評価された。また、桓温は「我は天子を奉じて精鋭十万を率い、義をもって逆賊を討ち、民のために尽くさんとしている。にもかかわらず、三秦の豪族らが我の下に来ないのはなぜか」と尋ねると、王猛は「汝は数千里の彼方から深く敵地に入り込み、もはや長安は間近である。しかしながら灞水(長安の東に流れる川)を渡らずにいるから、民は汝がどう考えているのか図りかねているのだ」と答えた。桓温はこれに黙然としてしまい反論することが出来なかった。やがておもむろに「江東には卿と比べる者がおらぬ!」と述べ、王猛を軍諮祭酒として迎えようと考えた。
その後、桓温は南へ帰還する際、改めて王猛へ随行するよう要請し、彼に車馬を送って高官督護に任じる旨を告げた。王猛は一度山に戻り、桓温の申し出を受けるべきか師に問うた。師は「どうして卿と桓温が世に並び立つことが出来るというのか!ここに留まれば自ずと富貴となれるというのに、どうしてわざわざ遠くに行くというのだ!」と答えた。王猛はこれを受け、北方に留まった。
111: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/02/25(木) 05:47:49.74 ID:/3R+5Com0
>>109
建康政府が姚襄をコントロールできてさえいれば…のifの方がまだ可能性あると思うんだが、王猛や薛強みたいな人格的に面倒くさい人間より扱いやすいだろ
建康政府が姚襄をコントロールできてさえいれば…のifの方がまだ可能性あると思うんだが、王猛や薛強みたいな人格的に面倒くさい人間より扱いやすいだろ
姚襄
中国,五胡十六国の後秦の第1代皇帝 (在位 384~393) 。字は景茂。廟号は太祖。羌 の姚弋仲 の子。
かつて前秦の苻堅 のもとにあったが,苻堅が 淝水 で敗れてのち,白雀1 (384) 年陝西北部で自立して大単于万年秦王と称し,ついに苻堅を殺した。建初1 (386) 年長安を都として皇帝の位につき,国を大秦と号した。
中国,五胡十六国の後秦の第1代皇帝 (在位 384~393) 。字は景茂。廟号は太祖。羌 の姚弋仲 の子。
かつて前秦の苻堅 のもとにあったが,苻堅が 淝水 で敗れてのち,白雀1 (384) 年陝西北部で自立して大単于万年秦王と称し,ついに苻堅を殺した。建初1 (386) 年長安を都として皇帝の位につき,国を大秦と号した。
115: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/02/26(金) 19:09:40.21 ID:SgSjSlZP0
桓温に姚襄は強力タッグと思うが。桓石虔と姚襄の強力2トップは見てみたい
117: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/02/26(金) 19:55:01.34 ID:wVAdKull0
姚襄が豫州を保持することで京口や寿陽の軍団を北伐のための戦力として投入可能になるし(むろんその逆で姚襄を関中侵攻兵力として運用しても構わない)、漢中郡ルート(司馬勳))、上洛郡ルート(桓温)に加えて潼関ルートからの関中侵攻が可能になるから、限りなく苻秦を屈伏させることが可能な態勢を築けたと思う
むしろ東晋による中原回復の最初で最後のチャンスだったのではないかとすら思えてくる
むしろ東晋による中原回復の最初で最後のチャンスだったのではないかとすら思えてくる
119: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/02/28(日) 18:38:53.66 ID:6VGeQx2N0
王猛がいれば・・・と思ったけど意外と負けてるな
120: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/02/28(日) 20:07:18.32 ID:eDoxArAo0
桓温は自分と反りが合わない人間は容赦なく排除するからな
殷浩、范汪は失脚に追い込まれているし、長年北伐に貢献していた鄧遐も罷免されている
おそらく桓温と王猛の確執は不可避だったろう
始平県令に任命された王猛がその法治の苛烈さから弾劾された逸話があるが、東晋でこれやってたら窓際一直線・・・と言うか苻堅じゃなかったらどこ行っても窓際だな
殷浩、范汪は失脚に追い込まれているし、長年北伐に貢献していた鄧遐も罷免されている
おそらく桓温と王猛の確執は不可避だったろう
始平県令に任命された王猛がその法治の苛烈さから弾劾された逸話があるが、東晋でこれやってたら窓際一直線・・・と言うか苻堅じゃなかったらどこ行っても窓際だな
121: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/02/29(月) 22:48:42.17 ID:VqtijKmNO
王猛が県令で厳しい政治を行った時って罷免されそうになったんじゃなかったっけ?
122: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/03/01(火) 19:48:44.74 ID:hhcpGBYz0
>>121
晋書苻堅載記の王猛伝に
「時始平多枋頭西歸之人,豪右縱橫,劫盜充斥,乃轉猛為始平令。猛下車,明法峻刑,澄察善惡,禁勒強豪。鞭殺一吏,百姓上書訟之,有司劾奏,檻車征下廷尉詔獄。」
とあるから王猛は檻車に入れられて廷尉預かりになったっぽい。
苻堅って優しいよな。
慕容恪だったら軍法見せしめ用の囚人としてサクっと殺しててもおかしくないw
晋書苻堅載記の王猛伝に
「時始平多枋頭西歸之人,豪右縱橫,劫盜充斥,乃轉猛為始平令。猛下車,明法峻刑,澄察善惡,禁勒強豪。鞭殺一吏,百姓上書訟之,有司劾奏,檻車征下廷尉詔獄。」
とあるから王猛は檻車に入れられて廷尉預かりになったっぽい。
苻堅って優しいよな。
慕容恪だったら軍法見せしめ用の囚人としてサクっと殺しててもおかしくないw
123: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/03/01(火) 22:07:04.47 ID:zf+39DFt0
そもそも一国の将軍がわざわざ招聘しに来てくれたというのにシラミ潰しながら応対する筋金入りのコミュ障だし
138: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/03/10(木) 15:59:42.13 ID:naNLEdDr0
桓温も司馬勳同様に中央から討伐される可能性あったかもしれないけど、何で建康政府は桓温のことは討伐しなかったんだろうな
139: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/03/12(土) 12:36:42.29 ID:HqqMhR1wO
桓温は限りなく黒と思われつつまだ旗幟鮮明になってなかったけど、司馬勲は勝手に王号を唱えたことで自立に向かったと判断されたんじゃない?
141: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/03/19(土) 07:09:53.43 ID:fzF3YqVZO
劉裕あたりと比べると、桓温って人が良すぎたのかね~
142: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/03/19(土) 07:41:25.22 ID:nljqz4VR0
>>141
誰の論文か忘れたが、少なくとも枋頭の戦いの前までは東晋政府内にも支持者は結構いたみたい
王羲之は殷浩・司馬昱に対し「意地張ってないで桓温と仲良くやりなよ」的な諫言してるし、改革路線の王彪之とかが桓温と対立するのは簒奪の意志を明らかにして以降っぽいから、桓温は「北伐積極派」として危険視されつつも一方で「改革路線」として一部の貴族層からも担がれていた面が垣間見えてくる
反桓温で野合している司馬昱、殷浩、?希たちの政治に対するスタンスを見ていると、「東晋をより良くしよう」という気概に欠けている印象を受ける
誰の論文か忘れたが、少なくとも枋頭の戦いの前までは東晋政府内にも支持者は結構いたみたい
王羲之は殷浩・司馬昱に対し「意地張ってないで桓温と仲良くやりなよ」的な諫言してるし、改革路線の王彪之とかが桓温と対立するのは簒奪の意志を明らかにして以降っぽいから、桓温は「北伐積極派」として危険視されつつも一方で「改革路線」として一部の貴族層からも担がれていた面が垣間見えてくる
反桓温で野合している司馬昱、殷浩、?希たちの政治に対するスタンスを見ていると、「東晋をより良くしよう」という気概に欠けている印象を受ける
149: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/04/12(火) 22:11:37.57 ID:ayUKhv880
司馬昱って謝安から「恵帝と同レベル、清談出来る分だけ何ぼかマシな程度」という評価受けてるけど、たしかに悪く言えば傀儡なところが目に余る
ただ桓温とは簒奪劇の直前までは割と仲良かったような感じがしないでもない
枋頭の敗戦後は普通に会談しているんだよな
ただ桓温とは簒奪劇の直前までは割と仲良かったような感じがしないでもない
枋頭の敗戦後は普通に会談しているんだよな
150: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/05/21(土) 23:04:58.84 ID:Ig4ryBWo0
司馬昱っていい歳だし簒奪するなら幼帝立てるだろうから仲の良い司馬昱とならうまくやっていけると思ったんじゃないかなあ
153: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/07/26(火) 10:43:34.74 ID:UZZEoOPh0
ユ亮・ユ翼時代の西府府僚たちの上層部が桓温と対立しているっぽいのが興味深い
ユ希も含めるとこれって政争と言っていいレベルの対立なんじゃ
①殷浩(記室参軍)桓温から354年に弾劾を受け庶人に落とされる
②范汪(参軍→州別駕)桓温により362年に失脚させられる
③孫盛(主簿→参軍→諮議参軍)桓温の北伐失敗を記述した歴史書を改竄を防ぐため前燕に送付という嫌がらせ
④王羲之(参軍→長史)桓温と殷浩の仲直りを画策
⑤毛穆之(参軍)※桓温に与する
⑥周楚(参軍)※桓温に与する
ユ氏の権勢を削ぐために起用された桓温がその軍事的成功の反動から今度はユ氏一党から足を引っ張られる構図だろうか
会稽王は意外と全体最適追求して利害調整したのかも
ユ希も含めるとこれって政争と言っていいレベルの対立なんじゃ
①殷浩(記室参軍)桓温から354年に弾劾を受け庶人に落とされる
②范汪(参軍→州別駕)桓温により362年に失脚させられる
③孫盛(主簿→参軍→諮議参軍)桓温の北伐失敗を記述した歴史書を改竄を防ぐため前燕に送付という嫌がらせ
④王羲之(参軍→長史)桓温と殷浩の仲直りを画策
⑤毛穆之(参軍)※桓温に与する
⑥周楚(参軍)※桓温に与する
ユ氏の権勢を削ぐために起用された桓温がその軍事的成功の反動から今度はユ氏一党から足を引っ張られる構図だろうか
会稽王は意外と全体最適追求して利害調整したのかも
155: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/08/07(日) 17:15:41.21 ID:rADxM0Qm0
陽夏謝氏を調べていて違和感を覚えたのが、謝安の祖父に当たる謝衡が西晋の段階で既に國子祭酒、散騎常侍の三品まで出世して謝安の父である謝?ホウが太常卿、吏部尚書の正三品まで出世しているのを見ると、謝氏が東晋以降の新興貴族という評価はちょっと違うような気がしてきた
祭祀儀礼を専門的な家業としている学者の家系から謝尚以降軍事貴族に転向したような感じか
でも謝安が桓温の簒奪をキッチリ阻止できた背景には祭祀儀礼に通じた一族という看板があったお陰になるのかな
祭祀儀礼を専門的な家業としている学者の家系から謝尚以降軍事貴族に転向したような感じか
でも謝安が桓温の簒奪をキッチリ阻止できた背景には祭祀儀礼に通じた一族という看板があったお陰になるのかな
157: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/05(月) 16:58:53.17 ID:t7Y0inN80
桓温の上奏文の評価ってどんなものなんだろ
逆臣という属性抜きでまっさらな目で見てみたらそこそこ名文に見えなくも……
逆臣という属性抜きでまっさらな目で見てみたらそこそこ名文に見えなくも……
引用元: ・東晋の英雄桓温について語る
別に腹を切り裂かれ首を落とされ手足を刻まれることも無かったんだよなあ
桓温・桓玄と劉裕、なぜ差がついたか…