1: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:30:01 ID:jYpU
これなんでや?








3: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:30:40 ID:Ha63
風林火山ぐらいか?

8: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:32:23 ID:jYpU
>>3
風林火山って孫子の書ですけど…

4: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:31:31 ID:9sQD
やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ

6: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:32:15 ID:Ha63
>>4
五十六おったな

9: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:33:25 ID:jYpU
>>4
五十六は名言感もちゃんとある名言でええよな

13: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:34:22 ID:hrax
天気晴朗なれど波高し
新高山のぼれ
トラトラトラ

16: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:36:35 ID:CLxl
本人が名言残さなくても、故事成語になるとかっこいいやん
敵に塩を送るとか

23: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:38:07 ID:jYpU
>>16
故事成語はええよな
故事成語知りたくて中国の書籍とか読んだわ

19: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:37:43 ID:tLUc
板垣死すとも自由は死せずって言葉はカッコよくて濡れる

24: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:38:23 ID:GbiF
>>19
尚実祭は「話せばわかる!」と命乞いのしてた模様

26: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:38:51 ID:Y0eS
>>24
それ犬養な

20: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:37:51 ID:f0iE
成せばなる
為せば成る(なせばなる)は、古代中国からのことわざ。

中国

書経太甲下に、慮らなければ何を獲ることができるのだろうか、為さなければ何を成すことができるのだろうかというようなことが書かれており、物事とは思慮を十分にめぐらし、進んで実行するということが大切であるということが説かれている。これは殷の宰相である伊尹が太甲に進言した言葉であった。


日本

武田信玄武田信玄によって詠まれたものの中に、為せば成る事柄であり為さなければ成らない事柄を成らないであろうと捨てる者はむなしいというようなことを意味する歌がある。この歌では努力をしないで諦めてしまう人の気持ちを戒めている。

上杉治憲

上杉治憲によって読まれたものの中には、何事も為せば成るし為さなければ成らないのであり、人間の駄目なところは為さないことであるというようなことを意味する歌がある。現代の日本においてのことわざである為せば成るは、上杉治憲のこの歌が出典であると広く知られている。


22: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:37:58 ID:iR1n
かわりに和歌詠んでるんかもな
しらんけど

27: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:38:57 ID:GbiF
>>22
辞世の句とか言うくらいやしこれはありそう

33: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:40:18 ID:vtBu
皇国の興廃この一戦にあり。各員一層奮励努力せよ

34: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:40:29 ID:OGzP
日本人はもともと草食動物なのである
dsf



41: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:42:19 ID:tLUc
半髪頭を叩いてみれば因循姑息な音がする
総髪頭を叩いてみれば王政復古の音がする
散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする


よくこんなセリフ考えられたもんだよな

44: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:42:53 ID:CLxl
>>41
都々逸やね
昔からある言葉遊びやから

42: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:42:37 ID:OGzP
これでよし百万年の仮寝かな
大西 瀧治郎(おおにし たきじろう、1891年〈明治24年〉6月2日 - 1945年〈昭和20年〉8月16日)は、日本の海軍軍人。海兵40期。神風特別攻撃隊の創始者の一人。1945年8月16日、渋谷南平台町の官舎にて大西は遺書を残し、「介錯無し」で自身が苦しむように仕向け、割腹自決した。遺書は5通あったとされる。

「特攻隊の英霊に曰す」で始まる遺書は、自らの死を以て旧部下の英霊とその遺族に謝すとし、また一般青壮年に対して軽挙妄動を慎み日本の復興、発展に尽くすよう諭した内容であった。妻の淑恵(嘉子)に対する遺書には、全て淑恵の所信に一任すること、安逸をむさぼらず世のため人のため天寿を全くすること、本家とは親睦保持すること、ただし必ずしも大西の家系から後継者を入れる必要はないこと、最後には「これでよし 百万年の 仮寝かな」と辞世の句があった。


46: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:45:07 ID:9pyA
上杉謙信「死中に生あり!」的なのは中国のパクリなんか?

48: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:45:53 ID:OGzP
>>46
出典は晋書やね
延 岑(えん しん、? - 36年)は、中国の新代から後漢初期にかけての武将。初期は主に漢中や荊州南陽郡を活動地域とした新末後漢初の群雄の一人で、後に蜀(成家)の公孫述配下となった。光武帝の天下統一事業に最後まで抵抗した闘将である。

建武11年(35年)8月、延岑は呂鮪・王元・公孫恢とともに、広漢(広漢郡)・資中(犍為郡)で漢の岑彭を迎撃した。しかし岑彭は、副将の臧宮らを正面の延岑らに当たらせる一方で、大胆な迂回・奇襲作戦をとる。まず岑彭は、黄石灘(巴郡涪陵県)を守る侯丹を撃破し、さらに延岑らの軍の後背地である武陽(犍為郡)を速攻で攻略する。そして広都(蜀郡)に精鋭騎兵を遣わして、成都まで数十里の地点まで迫った。公孫述は、平曲(巴郡)に漢軍がいると聞いて、延岑らにこれを迎撃させようとしていたが、岑彭が延岑軍の後方に現れたため、驚き慄いている。一方の延岑自身も、臧宮と沈水で戦ったが大敗した。

建武12年(36年)9月、成都に追い詰められた公孫述から対策を相談され、延岑は「男児当に死中に生を求むべし(原文「男児当死中求生」)、財物を惜しむべきではありません」と進言する。そして公孫述の私財で決死隊5千人余りを集め、蜀討伐軍の総大将を務める大司馬呉漢を市橋で奇襲してこれを破り、一矢を報いた。この時の呉漢は落水してしまい、馬の尻尾につかまってやっと脱出したという。


51: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:47:43 ID:jYpU
死中に生ありは晋書の言葉ではあるけど武将なら同じ境地に至ることはありがちな気はする

54: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:52:40 ID:tLUc
上杉の名言は確か
死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり
やないか?

57: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:57:04 ID:jYpU
>>54
続きはそういうののはずやで

50: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:47:01 ID:9pyA
四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒
これはどうや

49: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:46:43 ID:OGzP
帰ろう
帰ればまた来られるから

あたりは名言にいれてやってもええと思う
木村 昌福(きむら まさとみ、1891年(明治24年)12月6日 - 1960年(昭和35年)2月14日)は、日本の海軍軍人。現場叩き上げの指揮官として太平洋戦争の海上戦闘で数々の武勲を立てたが、特に「奇跡の作戦」といわれた『キスカ島撤退作戦』を指揮し、5千名あまりの日本将兵の無血撤退を成功させた事績で名高い。

キスカ島撤退作戦では、隠密作戦に必要な濃霧が発生している天候を待ち続け、作戦を強行する事はしなかった。1回目の出撃ではキスカ島の目前まで進出しながらも、霧が晴れた為突入を断念。強行突入を主張する部下たちに「帰ろう、帰ればまた来られるから」と諭して帰投し、状況をよく判断した指揮を行った。

53: 名無しさん@おーぷん 25/10/08(水) 13:49:20 ID:CLxl
ペルリ「開国してくださ~い」

引用元: ・海外の軍人武人←名言残してる 日本の武将軍人←名言無しだらけ