1: 日本@名無史さん 2018/01/16(火) 09:23:58.58
「八条院暲子内親王」
父:鳥羽天皇
母:美福門院藤原得子
源平合戦期~鎌倉~建武~南北朝期と約250年ほど続く分裂争乱期の原因をつくった内の一人が実は八条院。
源平合戦時代の大河は数あれど、八条院はすべて脇役扱い。
そろそろ八条院の視点での大河が書かれるべき時である。
八条院は、鳥羽法皇の荘園を相続して日本史上最大の荘園主となった。
そして天皇位選定に難航したとき、候補に挙げられること2度。
反平家・反後白河の皇女だった。





暲子内親王(しょうし/あきこないしんのう、保延3年4月8日(1137年4月29日) - 建暦元年6月26日(1211年8月6日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての皇族。初めて后位を経ずに女院となり、八条院(はちじょういん)と号した。

鳥羽天皇の皇女で、母は美福門院(皇后・藤原得子)。近衛天皇は同母弟、崇徳・後白河両天皇は異母兄にあたる。終生、未婚であったが、甥の二条天皇の准母となったほか、以仁王とその子女、九条良輔(兼実の子)、昇子内親王(春華門院、後鳥羽上皇の皇女)らを養育した。

鳥羽法皇崩御後の保元2年(1157年)6月に落飾する。法名は金剛観。この出家は既に仏門に入っていた母・美福門院の勧めによるものという。その後、父母の菩提のための仏事や社寺参詣に明け暮れる日々を送ったが、父母の資産の大部分を継承した暲子内親王は同時代人から「鳥羽院の正統を継ぐ嫡流の皇女」として認識されていた。

彼女は保延6年(1140年)、わずか4歳の時に父・鳥羽法皇から安楽寿院領などを譲与され、その後に生母美福門院から相続した所領、および新たに寄進された所領をあわせて、全国に二百数十箇所に及ぶ荘園があった。これらは女院の管領下にあって八条院領と呼ばれ、中世皇室領の中枢をなす一大荘園群をなした。




5: 日本@名無史さん 2018/01/26(金) 23:42:53.33
八条院が即位する可能性があったのは、

①近衛天皇のあと
結局は後白河天皇に落ち着く

②安徳天皇の西走により
結局は後鳥羽天皇に落ち着く

7: 日本@名無史さん 2018/02/14(水) 22:01:49.58
間違いなくキーパーソンだよな
八条院領が膨大すぎる

9: 日本@名無史さん 2018/02/16(金) 19:44:16.92
治天の君になる可能性はあったのか?

10: 日本@名無史さん 2018/02/17(土) 16:27:08.21
女帝で院政は想像つかないな。
やれるだけの実力はあると思うが。
楢子の以仁王系統を皇統につけて裏から操るとか

11: 日本@名無史さん 2018/02/17(土) 16:46:44.17
>>10
持統天皇は退位して持統太上天皇になってからも孫の文武天皇を後見して実質的な政務を続行していたしな
八条院も后妃になって実の子や孫が天皇なら強権を行使できたと思うが

この時代の内親王は未婚が多く八条院も生涯未婚だったから養子や猶子の後見というだけでは直系血族の子や孫を後見して実権を握っていた当時の男性上皇みたいにいかなかったのでは

12: 日本@名無史さん 2018/02/17(土) 17:22:05.00
そこで閑院流の姫を以仁王皇子に嫁がせたら、、、閑院流の権化みたいなのが生まれます 

13: 日本@名無史さん 2018/02/17(土) 17:50:54.03
>>12
八条院の母美福門院は閑院流出身ではないし
閑院流って美福門院のライバル待賢門院の実家だよね

20: 日本@名無史さん 2018/03/21(水) 18:18:02.13
なんで八条院が天皇候補に?

22: 日本@名無史さん 2018/03/22(木) 14:06:30.41
美福門院腹の近衛天皇が跡取りなく夭逝したから
後白河、重仁親王で迷ってたから、それならもう八条院でいいんじゃね?っていう

23: 日本@名無史さん 2018/03/23(金) 18:39:41.70
当時の一級史料・慈円(九条兼実の弟)の著である「愚管抄」に書いてある
近衛天皇が17歳で死んだとき、院政を執っていた後鳥羽上皇は八条院(鳥羽皇女)か、重仁親王(鳥羽孫・崇徳皇子)か、二条(鳥羽孫・後白河皇子)か3人の天皇候補から二条を選びその父後白河が即位した

鳥羽上皇と寵妃・美福門院の間には叡子内親王、八条院、近衛天皇、高松院の4人の子があったがこのうち叡子内親王と近衛天皇は10代のうちに死亡
叡子内親王が鳥羽上皇の皇后・高陽院の養女として別居していたのに対し八条院は母が鳥羽上皇の寵妃だったこともあり朝も夕も父院の傍に置かれて特に溺愛されて育てられたらしい

135: 日本@名無史さん 2018/12/04(火) 23:51:38.82
源平時代のフィクサーですな

137: 日本@名無史さん 2019/01/07(月) 23:47:26.53
母の美福門院は反後白河だったけど八条院は時々後白河と協力して平家に当たってなかった?
一応異母兄妹なんだし

141: 日本@名無史さん 2019/01/21(月) 16:57:44.67
>>137
後白河は寵姫・平滋子に産ませた平家を外戚とする高倉天皇を即位させたけど、八条院は閑院流を外戚とする以仁王の保護者だったからでしょ

美福門院は反崇徳だったというだけで後白河は微妙
後白河にさっさと二条天皇に帝位を譲れとは言ったけど
後白河の院政は否定してないし

143: 日本@名無史さん 2019/01/27(日) 18:02:38.09
>>141
???
後白河院と八条院がタッグを組んで平家と暗闘してるけど。上西門院も時々共闘

159: 日本@名無史さん 2019/05/16(木) 14:56:03.99
>>143
後白河と八条女院はそれぞれ別の理由で平家に反発してたのであって共闘はしてないでしょ
後白河は平滋子没後、その義兄・平清盛が面倒になったから
八条女院は平家の血を引く高倉ではなく以仁王を天皇にしたかったから
以仁王を天皇にという八条女院の希望を後白河は無視

160: 日本@名無史さん 2019/05/16(木) 15:03:38.64
たまきはるによると
後白河は後鳥羽を皇位につける意向なのを一応前もって八条院に報告してるよね
八条院の返答は「木曽殿はどう思われるでしょうね」というもの
この返答を反対ととるか賛成ととるかは人によって違うのだろうな
自分はあくまで義仲の出方を懸念してはいても反対していたとは思わないかな

161: 日本@名無史さん 2019/05/16(木) 15:11:24.22
>>160
以仁王は八条女院の猶子であり八条院に長らく潜伏
木曽義仲は北陸宮(以仁王の遺児)を保護し、以仁王令旨こそ諸国源氏を決起させる源になったとこの遺児の即位を求めた
北陸宮の姉妹である三条宮姫宮(以仁王遺児)は八条女院の養女となって溺愛され八条女院は自分の死後は広大な八条女院領をすべてこの三条宮姫宮に相続させたいと関白九条兼実に要求している
つまりそのくらい八条女院と以仁王の結びつきは強い

162: 日本@名無史さん 2019/05/16(木) 15:57:24.16
ただやっぱり親王宣下も受けてない王子の子供(北陸宮)を天皇にってのは無理があるよなあ

163: 日本@名無史さん 2019/05/16(木) 18:09:30.75
北陸宮を登位させても誰が院政をやるのよ?

166: 日本@名無史さん 2019/05/17(金) 15:01:37.13
>>163
八条女院
後白河より正統だとして鳥羽上皇から女帝に擁立されかけた

167: 日本@名無史さん 2019/05/17(金) 20:56:50.82
次世代を託すつもりだった近衛天皇が後継を残さず死去。
崇徳上皇‐重仁親王に渡したくなかったのでそんじゃ溺愛する暲子内親王(八条院)に、と。
ところが公家衆からは「なんでやねん?」と猛反対。
んでもって美福門院の養子になっていた守仁親王に白羽の矢。
そしたらまたまた公家衆が実父を先にすべしと。
てことで後白河天皇が即位したのだが、院領荘園は八条女院に渡してしまう。
後白河天皇→上皇は仕方がないので別途荘園を構築、それが長講堂領荘園群。
これがのちの南北朝並立の発端。

164: 日本@名無史さん 2019/05/17(金) 06:08:33.75
無理があるから殆どの公家からは総スカン
それが分かったからか義仲も法住寺合戦後も後鳥羽を降ろそうとはしてない

165: 日本@名無史さん 2019/05/17(金) 10:39:40.24
>>164
法住寺合戦の頃は安徳天皇を奉じた平家が三種の神器を西国へ持って行ったまま
後鳥羽天皇の即位は正統ではないとも言われていた
ただでさえ、安徳天皇、後鳥羽天皇の異母兄弟が同時に日本に存在し同時に帝位にあるという異常事態
せめて三種の神器を平家から取り返すまで新たな天皇擁立は考えられなかったはず

168: 日本@名無史さん 2019/05/22(水) 07:27:31.09
鳥羽法皇が抹殺したかった待賢門院の子孫が現天皇家につながり、残したかった美福門の子孫は途切れてしまった。
皮肉・・・

169: 日本@名無史さん 2019/05/27(月) 13:50:14.21
鳥羽天皇は待賢門院との間に7人も子を作っているし(崇徳の父は色々言われているが7人子が全部白河の種ではなくて実子もいるだろう)寵愛していた時期もあっただろう
美福門院との皇女・姝子内親王が二条天皇に嫁いで中宮になっているし美福門院との皇統は女系で続いて行くはずだったんだよね
二条天皇が近衛天皇后・藤原多子を再入内させると姝子内親王は20歳で突如出家した
二条天皇崩後、姝子内親王は僧と密通
海恵、八条院高倉の2人の子を隠し子として産む
姝子内親王は37歳の時原因不明で急死
ちょうど八条院高倉を産んだ時期に当たるため、出産時の大量出血死とも言われる

174: 日本@名無史さん 2019/12/18(水) 17:48:18.00
もし八条院が400年ぶりに女帝となってたら、その後の歴史はどうなってたろうか

178: 日本@名無史さん 2020/01/10(金) 23:56:40.36
>>174
たいして変わらないんじゃないの?
鎌倉幕府にはかなわないよ

179: 日本@名無史さん 2020/02/11(火) 10:37:08.00
その後史実通りに倒れていけば、八条院の庇護下にある以仁王は親王宣下受けて次期天皇候補になってた可能性が高く……結局時期は違えど治承3年の政変は起こるか

184: 日本@名無史さん 2020/09/14(月) 22:19:44.02
円融天皇の姉で准三后としてずっと内裏に住んでた資子内親王もだけれど、即位の際に権威が弱かった天皇の権威を補強するために独身の内親王を准三后にしたり、天皇の准母にして権威付けにするのって、いったいどういう社会通念を背景にしてるんだろ

内親王の権威って、従来のイメージよりずっと高かったのかな

185: 日本@名無史さん 2020/09/14(月) 23:17:12.90
当時は女性にも財産の相続権があったからでは?
権力握った女院も大抵多くの荘園握ってる

186: 日本@名無史さん 2020/09/16(水) 17:59:39.46
八条院は確かに荘園握ってたけど、資子内親王については荘園持ってたかよく分からないような
財産握ってたから、だけではない権威があったのかなぁという気もする

190: 日本@名無史さん 2020/12/24(木) 09:56:04.07
>>186
資子内親王の頃にはまだ皇室が持つ収入の多くは国家の直轄領であって荘園はあまり多くなかったからだろう
院政期になると上皇や法皇のもとに大量に荘園が寄進されたので上皇や法皇が鍾愛の皇女にそれを相続させている

187: 日本@名無史さん 2020/09/27(日) 08:31:33.31
鳥羽院が溺愛したってことは八条院の性格は良かったんだろうか

191: 日本@名無史さん 2021/01/19(火) 17:01:44.71
>>187
住んでる邸宅は床に埃が積もってる状態で仕える女房の服もチグハグだったというからあまり周りを気にしない性格だったのかもしれん

引用元: ・八条院