
1: 日本@名無史さん 2024/02/17(土) 20:10:52.65
かたれる奴はいるか
享徳の乱(享徳3年12月27日(1455年1月15日) - 文明14年11月27日(1483年1月6日))は、室町幕府8代将軍・足利義政の時に起こり、28年間断続的に続いた内乱。
第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に拡大した。現代の歴史研究において、享徳の乱は、関東地方における戦国時代の始まりと位置付けられている。
第5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、鎌倉公方の足利成氏と争い、関東地方一円に拡大した。現代の歴史研究において、享徳の乱は、関東地方における戦国時代の始まりと位置付けられている。
6: 日本@名無史さん 2024/02/18(日) 02:35:38.79
上杉一族が死にすぎな乱
8: 日本@名無史さん 2024/02/18(日) 03:05:21.63
>>6
慥かに庁鼻和性順、扇谷顕房、小山田藤朝、犬懸憲顕、扇谷政真等上杉一門の非運は目立つが、
それに限らず管領方も御所方も二十九年間に戦死を含めて激しく世代交代した。
乱勃発当初の主役たちが長尾景仲、扇谷持朝、上杉房定、武田信長、里見義実等永享ノ乱以来の古参であったことを改めて想起されたい。
乱終結時のビッグネームたち、山内顕定、扇谷定正、太田道灌、長尾景春、千葉孝胤等は当時ほんの若輩者かガキに過ぎなかったことを思うと目眩さえ覚える。
その中で殆ど唯一人、最初から最後まで戦闘的に戦い抜いた古河成氏の化物ぶりが際立っている。
床屋政談的な人物談義の好きなゲーム脳連中が何故この化物をもっと語らないのか、不思議でならない。
慥かに庁鼻和性順、扇谷顕房、小山田藤朝、犬懸憲顕、扇谷政真等上杉一門の非運は目立つが、
それに限らず管領方も御所方も二十九年間に戦死を含めて激しく世代交代した。
乱勃発当初の主役たちが長尾景仲、扇谷持朝、上杉房定、武田信長、里見義実等永享ノ乱以来の古参であったことを改めて想起されたい。
乱終結時のビッグネームたち、山内顕定、扇谷定正、太田道灌、長尾景春、千葉孝胤等は当時ほんの若輩者かガキに過ぎなかったことを思うと目眩さえ覚える。
その中で殆ど唯一人、最初から最後まで戦闘的に戦い抜いた古河成氏の化物ぶりが際立っている。
床屋政談的な人物談義の好きなゲーム脳連中が何故この化物をもっと語らないのか、不思議でならない。
7: 日本@名無史さん 2024/02/18(日) 02:42:57.27
話柄を少し変えて。
享徳ノ乱は利根川を接攘線とする関東の東西戦争でもあった。
上に云う気候変動とも相俟って利根川の「越河」を巡る逸話にも事欠かず、それが戦況を左右した局面も少なくない。
否、それはむしろ順序が逆で、戦争などというヒトの矮小な営為も所詮は自然環境条件に規定される所でしかないことを如実に示すと共に、関東ならではの地域特性を表す事例として顕著なものであろう。
簗瀬大輔氏は『対決の東国史 小田原北条氏と越後上杉氏』に於いて両者の対決を解析する五つの座標軸の一つとして利根川の「越河」を設定しているが、これを北條上杉の攻防に限らず関東の戦争の普遍要素と位置付けて、「平将門vs平良兼」「源頼信vs平忠常」「源頼朝vs江戸重長」等の事例を前史として挙げている。
この視座からすると享徳ノ乱もまたこれらの列に加えるべきものと云える。更にこの切り口から解析していくことで、単に戦国時代の軍政史という枠を遙かに超えた関東人の根源的行動論(むしろ生態論と云うべきか)としての意義を享徳ノ乱に与え得るように思われる。
享徳ノ乱は利根川を接攘線とする関東の東西戦争でもあった。
上に云う気候変動とも相俟って利根川の「越河」を巡る逸話にも事欠かず、それが戦況を左右した局面も少なくない。
否、それはむしろ順序が逆で、戦争などというヒトの矮小な営為も所詮は自然環境条件に規定される所でしかないことを如実に示すと共に、関東ならではの地域特性を表す事例として顕著なものであろう。
簗瀬大輔氏は『対決の東国史 小田原北条氏と越後上杉氏』に於いて両者の対決を解析する五つの座標軸の一つとして利根川の「越河」を設定しているが、これを北條上杉の攻防に限らず関東の戦争の普遍要素と位置付けて、「平将門vs平良兼」「源頼信vs平忠常」「源頼朝vs江戸重長」等の事例を前史として挙げている。
この視座からすると享徳ノ乱もまたこれらの列に加えるべきものと云える。更にこの切り口から解析していくことで、単に戦国時代の軍政史という枠を遙かに超えた関東人の根源的行動論(むしろ生態論と云うべきか)としての意義を享徳ノ乱に与え得るように思われる。
11: 日本@名無史さん 2024/02/18(日) 21:34:19.27
最初から最後まで公方側についていたのはどの家だっけか
小山や宇都宮は途中で幕府側に転向したんだよね
小山や宇都宮は途中で幕府側に転向したんだよね
13: 日本@名無史さん 2024/02/19(月) 00:41:10.10
>>11
すぐ思い付く所では簗田、野田、一色、真里谷、そして議論の余地はあるが里見と云った辺りが一貫して御所方。
千葉は「人」に主体を置くと乱序盤の内訌から管領方に転じたと云えるが、「家」主体では御所方であり続けた。
むしろ最後は御所が千葉を切り捨てたわけだが。
すぐ思い付く所では簗田、野田、一色、真里谷、そして議論の余地はあるが里見と云った辺りが一貫して御所方。
千葉は「人」に主体を置くと乱序盤の内訌から管領方に転じたと云えるが、「家」主体では御所方であり続けた。
むしろ最後は御所が千葉を切り捨てたわけだが。
23: 日本@名無史さん 2024/02/23(金) 20:59:50.45
>>13
桐生佐野氏は直臣なのに何故寝返ったの
桐生佐野氏は直臣なのに何故寝返ったの
28: 日本@名無史さん 2024/02/24(土) 22:35:53.30
>>23
桐生佐野大炊助直綱のことなら、一般には先に管領方に寝返った近隣の岩松等からの激しい攻勢に堪えかねて…と云う。
しかし私見では、文正元年(1466)という時期からみて寛正大飢饉の余波としての事案ではないかと考えている。もともと享徳ノ乱に於いては各氏の内訌に御所vs管領の大構造を引き込む事例が頻発するが、論外の大飢饉を受けて各氏の所有する社会資源の総量が年々縮減する中、宗家と庶流の紛争は「ゼロサムゲーム未満」、つまり縮むパイを取り合う陰惨熾烈の度合を高めて行ったと推測される。
この生物学的危機の前に「直臣」なる共同幻想は平時の重味を喪失していたことだろう。
佐野氏一門にもこの波が及んだとは考えられないだろうか。
宗家が古河方を維持する状況で桐生は管領方に転じてその支援の下に一門のパイ全てを獲得せんとしたのではないか。
素人の想像ではあるが時代の一般原理に基づく考察は無意味ではないと思っている。
桐生佐野大炊助直綱のことなら、一般には先に管領方に寝返った近隣の岩松等からの激しい攻勢に堪えかねて…と云う。
しかし私見では、文正元年(1466)という時期からみて寛正大飢饉の余波としての事案ではないかと考えている。もともと享徳ノ乱に於いては各氏の内訌に御所vs管領の大構造を引き込む事例が頻発するが、論外の大飢饉を受けて各氏の所有する社会資源の総量が年々縮減する中、宗家と庶流の紛争は「ゼロサムゲーム未満」、つまり縮むパイを取り合う陰惨熾烈の度合を高めて行ったと推測される。
この生物学的危機の前に「直臣」なる共同幻想は平時の重味を喪失していたことだろう。
佐野氏一門にもこの波が及んだとは考えられないだろうか。
宗家が古河方を維持する状況で桐生は管領方に転じてその支援の下に一門のパイ全てを獲得せんとしたのではないか。
素人の想像ではあるが時代の一般原理に基づく考察は無意味ではないと思っている。
15: 日本@名無史さん 2024/02/19(月) 01:03:49.33
千葉は和平には反対し続けたから御所とも手切れとなったという認識でいいか?
17: 日本@名無史さん 2024/02/19(月) 01:54:41.52
>>15
だと思う。
それ以外の考察は見たことがない。
政治目的達成の為に党派中枢が敵と妥協しつつ味方の尖鋭分子を切り捨てる事例は古今東西珍しくないわけで…。
だと思う。
それ以外の考察は見たことがない。
政治目的達成の為に党派中枢が敵と妥協しつつ味方の尖鋭分子を切り捨てる事例は古今東西珍しくないわけで…。
18: 日本@名無史さん 2024/02/20(火) 16:46:57.82
幕府の力や権威が嘉吉の乱で義教が暗殺されてから落ちていたのだろうか
いくら動乱が各地の家にあったからと言っても、永享の乱では北欧の南部氏の出陣の形跡まであるのに、従ったのは越後の上杉と今川ぐらいとかなあ
いくら動乱が各地の家にあったからと言っても、永享の乱では北欧の南部氏の出陣の形跡まであるのに、従ったのは越後の上杉と今川ぐらいとかなあ
19: 日本@名無史さん 2024/02/20(火) 22:08:38.88
>>18
端的に云うと「それどころじゃねえんだよ後にしてくれよ」ってことだろう。
災害飢饉年表など調べてみるとよく解るんじゃないか。
「動乱が各地の家にあった」ことの、更にその根本原因がより深刻化していたからだと推測される。
端的に云うと「それどころじゃねえんだよ後にしてくれよ」ってことだろう。
災害飢饉年表など調べてみるとよく解るんじゃないか。
「動乱が各地の家にあった」ことの、更にその根本原因がより深刻化していたからだと推測される。
226: 日本@名無史さん 2024/04/26(金) 14:43:06.56 BE:148037625-2BP(1000)
江戸時代のように家の取りつぶしとかって室町はあんまりしないね
228: 日本@名無史さん 2024/04/26(金) 20:22:34.78
>>226
余所の地域は詳らかにしないが、関東は各々の家中の「縮減して行くパイの奪い合い」即ち分裂内訌に上位権力体の対立図式を引き込むと云う構造があった。
南北朝、観応擾乱、犬懸禅秀ノ乱、永享ノ乱、結城合戦、そして享徳ノ大乱まで全てこの構造。
従って何れが勝利した場合でも族滅は生じ難い。
戦国末期の真田でもあるまいに、彼等がそこまで計算していた筈も無いが結果として家は生き残って行くことになる。
個人の意志を超えた生物種ヒトとしての系統遺伝子保存本能か。
余所の地域は詳らかにしないが、関東は各々の家中の「縮減して行くパイの奪い合い」即ち分裂内訌に上位権力体の対立図式を引き込むと云う構造があった。
南北朝、観応擾乱、犬懸禅秀ノ乱、永享ノ乱、結城合戦、そして享徳ノ大乱まで全てこの構造。
従って何れが勝利した場合でも族滅は生じ難い。
戦国末期の真田でもあるまいに、彼等がそこまで計算していた筈も無いが結果として家は生き残って行くことになる。
個人の意志を超えた生物種ヒトとしての系統遺伝子保存本能か。
227: 日本@名無史さん 2024/04/26(金) 16:46:33.15
関東じゃ豊島氏とか三浦氏とかかな
それも敗北して滅亡といった感じで改易は無しかな
ああ、あと赤松氏
それも敗北して滅亡といった感じで改易は無しかな
ああ、あと赤松氏
230: 日本@名無史さん 2024/04/27(土) 05:14:55.69
養子相続を繰り返して家は残すからな
斯波武衛家も庶流や渋川氏から拝借してたり
享徳の乱の頃は扇ヶ谷上杉氏と対立したり
斯波武衛家も庶流や渋川氏から拝借してたり
享徳の乱の頃は扇ヶ谷上杉氏と対立したり
231: 日本@名無史さん 2024/04/27(土) 19:12:46.60
>>230
> 養子相続を繰り返して家は残す
養子を取る側の「家名を残したい」需要と、養子に出す側の「口を減らしたい」必要と。
両者が上手くマッチしていたんだろう。
どの家も部屋住みを飼う余裕など無い、かと云って不用意に分家や庶家を興させたら宗家ともども喰えなくなって共倒れか、さもなくば陰惨な骨肉の争いという未来が待っている。
中世小氷期とは、そういう時代。
> 養子相続を繰り返して家は残す
養子を取る側の「家名を残したい」需要と、養子に出す側の「口を減らしたい」必要と。
両者が上手くマッチしていたんだろう。
どの家も部屋住みを飼う余裕など無い、かと云って不用意に分家や庶家を興させたら宗家ともども喰えなくなって共倒れか、さもなくば陰惨な骨肉の争いという未来が待っている。
中世小氷期とは、そういう時代。
232: 日本@名無史さん 2024/04/27(土) 19:17:25.11
養子をとった後に実子ができて家督争いがパターンだぞ
233: 日本@名無史さん 2024/04/27(土) 19:21:23.04
>>232
それで一方が管領方に就いたら他方は御所方に、と。
しかも敗者は飢民に転落。
享徳ノ乱、いつまでも終わらないわけだな。
それで一方が管領方に就いたら他方は御所方に、と。
しかも敗者は飢民に転落。
享徳ノ乱、いつまでも終わらないわけだな。
234: 日本@名無史さん 2024/04/27(土) 20:49:23.05
甲斐の武田家は乱のとき何してたの?
236: 日本@名無史さん 2024/04/27(土) 22:20:09.03
>>234
内訌。
幕府からの出兵要請にも対応不能な状態。
内訌。
幕府からの出兵要請にも対応不能な状態。
237: 日本@名無史さん 2024/04/28(日) 06:11:44.50
甲斐上野原の加藤という
なぜか景春の味方してた国人
なぜか景春の味方してた国人
238: 日本@名無史さん 2024/04/28(日) 16:42:45.78
乱の前に東国で大地震があったらしいな
乱の発生にもなにか影響あったかもしれないという
乱の発生にもなにか影響あったかもしれないという
239: 日本@名無史さん 2024/04/28(日) 17:52:29.99
>>238
山内憲忠謀殺の直前、
享徳三年(1454)十一月二十三日(M8.4、東日本大震災と同型のプレート境界型地震とみられる)と十二月十日(前記の余震か)の二回だな(『王代記』『大宮神社古記録抄』『鎌倉大日記』他)。
黒田基樹氏はその影響について;
・世上の混乱、対立勢力間の疑心暗鬼による強迫観念から暴力の発動が促進されたか
・足利成氏が対立する山内憲忠を易々と召喚できたのは「震災対策協議」という口実によるものか
--と考察している。
東日本大震災直後の状況を想起すれば影響はもっと広範囲、具体的、且つ激甚なものであったことは確実だが、史料が乏しい為にこれ以上のことは推断し難い。
古今東西、大規模自然災害が物理的実力=暴力の発動を誘発した事例は枚挙に暇が無い。
災害によって社会システム=共同幻想が崩壊する中でいち早く「生存」と「既得権」の確保に走るのは肯ける。
要はヒトの動物としての本能。
享徳ノ乱前夜の如く既に一触即発の状況が存在していればそれを止める術も無かったろう。
山内憲忠謀殺の直前、
享徳三年(1454)十一月二十三日(M8.4、東日本大震災と同型のプレート境界型地震とみられる)と十二月十日(前記の余震か)の二回だな(『王代記』『大宮神社古記録抄』『鎌倉大日記』他)。
黒田基樹氏はその影響について;
・世上の混乱、対立勢力間の疑心暗鬼による強迫観念から暴力の発動が促進されたか
・足利成氏が対立する山内憲忠を易々と召喚できたのは「震災対策協議」という口実によるものか
--と考察している。
東日本大震災直後の状況を想起すれば影響はもっと広範囲、具体的、且つ激甚なものであったことは確実だが、史料が乏しい為にこれ以上のことは推断し難い。
古今東西、大規模自然災害が物理的実力=暴力の発動を誘発した事例は枚挙に暇が無い。
災害によって社会システム=共同幻想が崩壊する中でいち早く「生存」と「既得権」の確保に走るのは肯ける。
要はヒトの動物としての本能。
享徳ノ乱前夜の如く既に一触即発の状況が存在していればそれを止める術も無かったろう。
249: 日本@名無史さん 2024/04/29(月) 05:47:25.35
南北朝騒乱からそうだったが、なぜ鎌倉以降江戸時代までの日本の紛争は長引くことが多いんだろう
250: 日本@名無史さん 2024/04/29(月) 06:45:19.51
それこそ気候状況の悪化や災害とかも関係あるんじゃないの
鎌倉時代も結構飢饉あったっぽいけど
鎌倉時代も結構飢饉あったっぽいけど
270: 日本@名無史さん 2024/04/30(火) 02:20:30.04
関東の湿地帯の干拓とか小田原北条の時代から結構進んでいた説
286: 日本@名無史さん 2024/05/03(金) 16:04:31.79
>>270
江戸川区宇喜田町(東葛西領小松川新田)を開発した宇田川喜兵衛は北条の頃から開拓してるな
江戸川区宇喜田町(東葛西領小松川新田)を開発した宇田川喜兵衛は北条の頃から開拓してるな
283: 日本@名無史さん 2024/05/02(木) 03:40:08.44
江戸時代も飢餓や寒冷化で厳しい気候で餓死者かなり出たけど260年続いたのは、足利とは違って徳川が(親藩、譜代ふくめて)他を圧倒するぐらい強かったからか
284: 日本@名無史さん 2024/05/02(木) 20:50:06.38
足利は最初から親藩、譜代間で戦いあってる
よく15代続いたな
よく15代続いたな
285: 日本@名無史さん 2024/05/02(木) 23:32:46.58
徳川幕府内で内乱しなかったのも大きいかもね
権威が一つならばありがたみも薄れないか
権威=宗教=文化=道徳と考えている
権威が一つならばありがたみも薄れないか
権威=宗教=文化=道徳と考えている
288: 日本@名無史さん 2024/05/05(日) 19:39:37.32
地方分権は日本でやると失敗するのかもな
当時と今じゃ警察、自衛隊のような暴力装置は政府が独占してるから状況が違いすぎるかもしれないが
当時と今じゃ警察、自衛隊のような暴力装置は政府が独占してるから状況が違いすぎるかもしれないが
289: 日本@名無史さん 2024/05/06(月) 07:32:30.68
というか通信手段が未熟だから地方分権にならざるを得ない
290: 日本@名無史さん 2024/05/07(火) 13:21:29.68
上杉方としては当主何人も打ち取られて
落とし前つけられず停戦となったわけで
その後すぐに上杉の乱も起こったわけで
滅亡へ続く乱となった
落とし前つけられず停戦となったわけで
その後すぐに上杉の乱も起こったわけで
滅亡へ続く乱となった
291: 日本@名無史さん 2024/05/08(水) 10:00:44.86
何だかんだで権威だけ残ったので越後長尾氏が山内上杉家の家督を継承という
長尾為景の頃の上杉顕定から見れば腰を抜かす展開に
長尾為景の頃の上杉顕定から見れば腰を抜かす展開に
302: 日本@名無史さん 2024/05/20(月) 12:12:10.20
通史では割と生産力が上がったイメージ
骨皮道賢とかは傭兵と言えそうだし
農業生産力の向上や手工業の独立は市場を成立させ、都市や交通の要地とされる場所では市場が発達した。鎌倉時代の三斎市から月に6回定期的に開かれる六斎市など定期市や、都市部での見世棚をもった常設の店舗に、特定商品のみの卸売市場、卸売業を営む問屋も発生する。行商人は連雀商人と呼ばれた。平安時代あたりから公家や寺社を本所として販売の独占権や関税の免除などの特権を得る座と呼ばれる閉鎖的な商業独占体制は、成長する戦国大名によって自営営業を許す楽市・楽座によって廃止の方向へ向かう。
骨皮道賢とかは傭兵と言えそうだし
農業生産力の向上や手工業の独立は市場を成立させ、都市や交通の要地とされる場所では市場が発達した。鎌倉時代の三斎市から月に6回定期的に開かれる六斎市など定期市や、都市部での見世棚をもった常設の店舗に、特定商品のみの卸売市場、卸売業を営む問屋も発生する。行商人は連雀商人と呼ばれた。平安時代あたりから公家や寺社を本所として販売の独占権や関税の免除などの特権を得る座と呼ばれる閉鎖的な商業独占体制は、成長する戦国大名によって自営営業を許す楽市・楽座によって廃止の方向へ向かう。
305: 日本@名無史さん 2024/05/20(月) 21:09:18.79
>>302
いつの時代の認識だろうか。
自然科学の知見に基づく歴史考察が為されていなかった頃の議論に見える。
いずれ何かのコピペだと思うが、その論者は「小氷期」をどう位置付けているのか。
気象災害年表、地震年表等を見ればこの時代の惨状は論を俟たない。
また「楽市・楽座」ばかり語られているが、戦国大名が社会資源(戦争資源)の優先確保の為に官製ギルドを盛んに創設・活用していたこと、即ち「戦時軍政機関」として統制経済への志向を持っていたことは無視しているのだろうか。
いつの時代の認識だろうか。
自然科学の知見に基づく歴史考察が為されていなかった頃の議論に見える。
いずれ何かのコピペだと思うが、その論者は「小氷期」をどう位置付けているのか。
気象災害年表、地震年表等を見ればこの時代の惨状は論を俟たない。
また「楽市・楽座」ばかり語られているが、戦国大名が社会資源(戦争資源)の優先確保の為に官製ギルドを盛んに創設・活用していたこと、即ち「戦時軍政機関」として統制経済への志向を持っていたことは無視しているのだろうか。
309: 日本@名無史さん 2024/05/21(火) 18:23:05.34
まあ小氷期が農業生産性を上げる因果を持っているかもしれないし難しいところだ
二毛作もこの頃だろうし土一揆が政治権力に脅威を与えたり逆に利用されるのも農村の強化と言えるかもしれない
二毛作もこの頃だろうし土一揆が政治権力に脅威を与えたり逆に利用されるのも農村の強化と言えるかもしれない
311: 日本@名無史さん 2024/05/21(火) 21:19:51.80
>>309
二毛作もあるが、戦国時代と時を同じくして列島全域に普及した生産技術は「堆肥」と「水車」。
特に前者の効果は非常に大きかったと謂われる。
よく知られる如く硝石国産化はこの高温多湿の気候風土下で成功しなかったが、途中まで製作工程が同じである堆肥はよく出来たようだ。
昭和後期まで実用され続けることになる寿命の長い技術だった。
二毛作もあるが、戦国時代と時を同じくして列島全域に普及した生産技術は「堆肥」と「水車」。
特に前者の効果は非常に大きかったと謂われる。
よく知られる如く硝石国産化はこの高温多湿の気候風土下で成功しなかったが、途中まで製作工程が同じである堆肥はよく出来たようだ。
昭和後期まで実用され続けることになる寿命の長い技術だった。
313: 日本@名無史さん 2024/05/22(水) 18:43:56.48
室町時代の人口
大体1000万
ファリスの1450年の下限推定人口は、兵隊人口の比較による。満済の『満済准后日記』の記述によると、山名宗全、畠山義深などの守護大名軍は平均して325騎、徒歩兵2500人の軍隊を有しており、足利将軍家が10大名に相当する軍隊を有し、守護大名の総数を37~60人とすると日本全土で兵の総数は13万2775~19万7750人と算出される。律令時代の兵隊人口比(56人で兵隊1人)より地方推定人口は920万人(740万~1100万人)となり、都市人口率を4%(40万人)と仮定することで960万人が算出される。一方ファリスの上限推定人口1050万人は、長期に渡る一定の人口増加率(0.4%/年)の維持を仮定する斎藤修の未公表の研究(2000年)の引用による。[23]
大体1000万
ファリスの1450年の下限推定人口は、兵隊人口の比較による。満済の『満済准后日記』の記述によると、山名宗全、畠山義深などの守護大名軍は平均して325騎、徒歩兵2500人の軍隊を有しており、足利将軍家が10大名に相当する軍隊を有し、守護大名の総数を37~60人とすると日本全土で兵の総数は13万2775~19万7750人と算出される。律令時代の兵隊人口比(56人で兵隊1人)より地方推定人口は920万人(740万~1100万人)となり、都市人口率を4%(40万人)と仮定することで960万人が算出される。一方ファリスの上限推定人口1050万人は、長期に渡る一定の人口増加率(0.4%/年)の維持を仮定する斎藤修の未公表の研究(2000年)の引用による。[23]
314: 日本@名無史さん 2024/05/22(水) 19:25:48.65
>>313
> 長期に渡る一定の人口増加率(0.4%/年)の維持を仮定する
平時の数値をこの時代に適用することには疑問がある。
『本土寺過去帳』等の史料から当該期の人口当り死者数が他期に対して有意の異常性を示すことを藤木久志氏らにが指摘していた筈。
> 長期に渡る一定の人口増加率(0.4%/年)の維持を仮定する
平時の数値をこの時代に適用することには疑問がある。
『本土寺過去帳』等の史料から当該期の人口当り死者数が他期に対して有意の異常性を示すことを藤木久志氏らにが指摘していた筈。
315: 日本@名無史さん 2024/05/23(木) 03:52:16.41
乱のときに安房に入って代を重ねて上総に進出していった里見て、伊豆討ち入り後の伊勢北条とやってること似てる
316: 日本@名無史さん 2024/05/24(金) 00:48:20.76
>>315
途中で挫折するまでは上総武田も類似。
途中で挫折するまでは上総武田も類似。
317: 日本@名無史さん 2024/05/24(金) 15:16:01.94
あっさりと上総が奪われるのは守護大名や守護代がいなかったの?
318: 日本@名無史さん 2024/05/24(金) 23:49:27.27
>>317
当時の上総守護はどうもはっきりしない。
永らく守護だった犬懸が禅秀ノ乱で没落した後は扇谷や千葉が務めたようだが、前者は期間が短くて未だ在地に於ける威信を持つに至らず、後者は御所方に親和的であるなどの状況から入部してきた武田信長が活動するに際して困難は少なかったものとみられる。
安房守護も扇谷だったが事情は概ね同じ。
《参考》
『対決の東国史5 山内上杉氏と扇谷上杉氏』 木下聡氏 著 吉川弘文館
当時の上総守護はどうもはっきりしない。
永らく守護だった犬懸が禅秀ノ乱で没落した後は扇谷や千葉が務めたようだが、前者は期間が短くて未だ在地に於ける威信を持つに至らず、後者は御所方に親和的であるなどの状況から入部してきた武田信長が活動するに際して困難は少なかったものとみられる。
安房守護も扇谷だったが事情は概ね同じ。
《参考》
『対決の東国史5 山内上杉氏と扇谷上杉氏』 木下聡氏 著 吉川弘文館
319: 日本@名無史さん 2024/05/25(土) 10:25:10.23
そいや堀越公方に犬懸上杉家が付いたそうだね
成氏を倒せたら上総を復活するとか夢見たかな
成氏を倒せたら上総を復活するとか夢見たかな
320: 日本@名無史さん 2024/05/25(土) 20:57:20.97
幕府
「鎌倉府の乱を鎮めろ」
「ごめん、無理だった」
幕府
「越前を横領した凶徒朝倉を討伐しろ(1490年討伐令)」
「ごめん、六角攻めでそれどころじゃないや、斯波は越前諦めて」
幕府
「六角を打ち取れ」
「ごめん、甲賀で山狩りしてたら逃げられた」
権威もなくなるなって感じる
「鎌倉府の乱を鎮めろ」
「ごめん、無理だった」
幕府
「越前を横領した凶徒朝倉を討伐しろ(1490年討伐令)」
「ごめん、六角攻めでそれどころじゃないや、斯波は越前諦めて」
幕府
「六角を打ち取れ」
「ごめん、甲賀で山狩りしてたら逃げられた」
権威もなくなるなって感じる
321: 日本@名無史さん 2024/05/25(土) 21:03:09.35
その頃はまだマシだったんよ明応の政変になる前は
322: 日本@名無史さん 2024/05/26(日) 17:51:53.33
権威もそうだし実力も弱くなってる
朝倉のような法律違反も罰して滅ぼせないし、なんか将軍直臣だったとか歴史捏造事実上認めてる
朝倉のような法律違反も罰して滅ぼせないし、なんか将軍直臣だったとか歴史捏造事実上認めてる
323: 日本@名無史さん 2024/05/26(日) 18:14:42.42
>>320
享徳ノ乱のスレッドで西国の意識を語られても、な。
関東では享徳ノ乱初期段階で既に幕府や将軍、それどころか朝廷の威信さえ地に堕ちている。
「天子御旗」も「武家御旗」も戦況に殆ど影響力を持たなかった。
恒常化した飢饉貧窮の惨状の中で、各氏にとっては自家の生存の為に古河に就くのが有利かそれとも幕府(管領)かと云う相対的な選択肢の一つ one of them でしかなくなっていた。
だからこそこの乱が戦国時代の始まりだとされている。
権威や威信は飯を喰わせてくれない。
気候悪化を改善してくれないし地震頻発を止めてもくれない。
しかもその状況下で幕府は危機管理に於いても全く無為無策無力無能だった。
そしてそれは室町型統治システムそのものに由来する。
関東は勿論、何処の地域でもシステムを崩壊せしめたのはそういう構造条件であって、軍事行動の失敗などの皮相的な些事ではない。
享徳ノ乱のスレッドで西国の意識を語られても、な。
関東では享徳ノ乱初期段階で既に幕府や将軍、それどころか朝廷の威信さえ地に堕ちている。
「天子御旗」も「武家御旗」も戦況に殆ど影響力を持たなかった。
恒常化した飢饉貧窮の惨状の中で、各氏にとっては自家の生存の為に古河に就くのが有利かそれとも幕府(管領)かと云う相対的な選択肢の一つ one of them でしかなくなっていた。
だからこそこの乱が戦国時代の始まりだとされている。
権威や威信は飯を喰わせてくれない。
気候悪化を改善してくれないし地震頻発を止めてもくれない。
しかもその状況下で幕府は危機管理に於いても全く無為無策無力無能だった。
そしてそれは室町型統治システムそのものに由来する。
関東は勿論、何処の地域でもシステムを崩壊せしめたのはそういう構造条件であって、軍事行動の失敗などの皮相的な些事ではない。
324: 日本@名無史さん 2024/05/26(日) 20:57:17.70
成氏は応仁の乱の西幕府と組むことで反乱の正当性を主張できたし全くの無関係ではあるまい
329: 日本@名無史さん 2024/05/28(火) 16:39:31.98
成氏は乱中は朝敵だったけど逃げ切ったね
ローマ教皇から破門された神聖ローマ皇帝みたい
ローマ教皇から破門された神聖ローマ皇帝みたい
引用元: ・戦国時代の始まり?享徳の乱について

享徳の乱と戦国時代 (1) (列島の戦国史 1) 単行本 – 2020/5/29 久保 健一郎 (著)



