1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2010/11/02(火) 13:55:40 ID:rA6bcckk0
清水次郎長
25: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/05/16(月) 22:02:39.69 ID:sCNnJMmh0
清水次郎長はもはや静岡県の神様みたいになってるな
38: 俄 2011/08/28(日) 07:14:15.97 ID:ySvaYFA/0
明石屋万吉=小林佐兵衛を忘れていないか?
その功績は清水の次郎長を遥かに凌ぐ。
その功績は清水の次郎長を遥かに凌ぐ。
小林 佐兵衛(こばやし さへえ、1829年(文政12年) - 1917年(大正6年)8月20日[1])は、日本の侠客。大坂・堂島の質屋「明石屋」の長男として生まれ、北の赤万(明石屋万吉)との通称があった。
1885年(明治18年)12月19日、堂島米相場などで築いた私財を投じて[2]、小松原町に「小林授産場」を開設。浮浪者や生活困窮者に教育・職業訓練をおこない、社会復帰・自立を支援した。また、病人や身体障害者も収容した。創立時の収容人員は190人(男30人・女160人)という情報もある。
1909年(明治42年)の北の大火(天満焼け)では、当時79歳の佐兵衛が防火活動を率いて、大阪天満宮を火から守ったという。
1911年(明治44年)9月には、米相場の高騰で苦しむ人々のため、取引所へ乗り込んで相場を崩した。晩年は、財産のほとんどを授産場の運営につぎ込んでしまい困窮したとも伝えられる。
1912年(大正元年)12月17日、財団法人弘済会(大阪市立弘済院の前身)に授産場を売却して引退した。1917年(大正6年)8月20日没(89歳)。墓所は大阪市設北霊園(長柄墓地)。
1885年(明治18年)12月19日、堂島米相場などで築いた私財を投じて[2]、小松原町に「小林授産場」を開設。浮浪者や生活困窮者に教育・職業訓練をおこない、社会復帰・自立を支援した。また、病人や身体障害者も収容した。創立時の収容人員は190人(男30人・女160人)という情報もある。
1909年(明治42年)の北の大火(天満焼け)では、当時79歳の佐兵衛が防火活動を率いて、大阪天満宮を火から守ったという。
1911年(明治44年)9月には、米相場の高騰で苦しむ人々のため、取引所へ乗り込んで相場を崩した。晩年は、財産のほとんどを授産場の運営につぎ込んでしまい困窮したとも伝えられる。
1912年(大正元年)12月17日、財団法人弘済会(大阪市立弘済院の前身)に授産場を売却して引退した。1917年(大正6年)8月20日没(89歳)。墓所は大阪市設北霊園(長柄墓地)。
49: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/01/08(日) 16:25:22.03 ID:oKCGXHiw0
日本のヤクザが見事な全身の入れ墨を彫ったのは、やはり水滸伝の史進の影響?
中には、史進の入れ墨を彫った人(2重彫り?)もいるようですが。
中には、史進の入れ墨を彫った人(2重彫り?)もいるようですが。
56: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/04/30(火) 08:55:01.52 ID:zzIoHCwHO
>>49
水滸伝の影響だが、本格の博徒は刺青は入れてなかった。
入れてたのは主に肉体労働者。
水滸伝の影響だが、本格の博徒は刺青は入れてなかった。
入れてたのは主に肉体労働者。
61: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/11/01(金) 13:57:59.85 ID:S3Q1z1j10
>>49
子母沢寛によれば、「侠客は無垢の白肌を誇りとし、入れ墨を入れることを嫌った」というけど、地方によってはやはり入れることを好んだらしいよ。
多摩の侠客・小金井小次郎の背には「花和尚魯智深」の入れ墨があったという話
子母沢寛によれば、「侠客は無垢の白肌を誇りとし、入れ墨を入れることを嫌った」というけど、地方によってはやはり入れることを好んだらしいよ。
多摩の侠客・小金井小次郎の背には「花和尚魯智深」の入れ墨があったという話
57: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/04/30(火) 18:19:18.13 ID:zzIoHCwHO
水滸伝の影響は図柄。
タイの徴兵検査とか
入れ墨の若者が多い。
東南アジアの習俗でしょう。
タイの徴兵検査とか
入れ墨の若者が多い。
東南アジアの習俗でしょう。
66: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/12/15(日) 15:56:40.64 ID:s4I90RcM0
たとえば次郎長なら「~の」をつけた「清水の次郎長」の方が「清水次郎長」よりも敬った呼び方になるらしい
兄弟分でも分が上の方は「~の」付きで呼ばれた
兄弟分でも分が上の方は「~の」付きで呼ばれた
69: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/12/30(月) 23:12:36.77 ID:FPTivmj80
高倉健主演の東映の「日本侠客伝」というシリーズがあって、自分的には好きなんだが・・・・・
見て意外だったのは、「侠客」と銘打っているのに、主演の高倉健は、博徒ではない役がほとんどなんですな。
全10作(くらい?)で、役は、運送業者、魚市場の仲買商、火消し、劇場経営者、沖仲士、元博徒の現トラック運転手、元博徒の現テキヤ、
などなんですね。
なんでも、「侠客」ということばには、いくつかの意味があるらしいですね。
侠客イコール侠気のあるひとという解釈もあるらしくて、この映画はそっちの解釈らしいです。
高倉健の映画はふつう「やくざ映画」と呼ばれているので、意外でした。
見て意外だったのは、「侠客」と銘打っているのに、主演の高倉健は、博徒ではない役がほとんどなんですな。
全10作(くらい?)で、役は、運送業者、魚市場の仲買商、火消し、劇場経営者、沖仲士、元博徒の現トラック運転手、元博徒の現テキヤ、
などなんですね。
なんでも、「侠客」ということばには、いくつかの意味があるらしいですね。
侠客イコール侠気のあるひとという解釈もあるらしくて、この映画はそっちの解釈らしいです。
高倉健の映画はふつう「やくざ映画」と呼ばれているので、意外でした。
70: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/01/05(日) 21:28:22.75 ID:NBuuHAi60
むかしむかし、少しおてんばで元気のいい女の子のことを「おきゃん」と呼びました。この「おきゃん」は「お侠」と書きます。
つまり当時は市居の人でも、思い切りがよく、気持ちのさっぱりした人を「侠」と呼んだわけです。
よって本来は(博奕打ち=侠客)ではなかったようです。
江戸時代初期の侠客とは、むしろ金の余ったボンボンで、気風の良い人を指した、と三田村鳶魚も言っています。
昔の映画関係者や作り手は異常に博学であったので、鳶魚なんかも読んでいたのでしょう。東映の映画は、本来の意味での「侠」を踏襲していたのかもしれませんね。
つまり当時は市居の人でも、思い切りがよく、気持ちのさっぱりした人を「侠」と呼んだわけです。
よって本来は(博奕打ち=侠客)ではなかったようです。
江戸時代初期の侠客とは、むしろ金の余ったボンボンで、気風の良い人を指した、と三田村鳶魚も言っています。
昔の映画関係者や作り手は異常に博学であったので、鳶魚なんかも読んでいたのでしょう。東映の映画は、本来の意味での「侠」を踏襲していたのかもしれませんね。
71: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/01/06(月) 18:10:35.57 ID:15eqbjnai
清水に行ってきて初めて知ったんたんだけど、森の石松の寿司食いネェの場面は、てっきり遠州灘あたりの桧垣海船の船上の話かと思いきや俺の地元の三十石舟の船上の話だったんだな
72: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/01/06(月) 23:24:13.87 ID:HErn/Iyr0
「石松三十石船」は、本当に良いよね
滑稽で笑える作りなんだけど、「これから石松が死ななきゃならない」っていうことを、それとなく暗示させていて、聞き終わった最後がなんとなくさびしい。
石松っていう無類の好男児を、わずかの間に余すところなく伝えている。
まさに話芸中の快作だと思う。
滑稽で笑える作りなんだけど、「これから石松が死ななきゃならない」っていうことを、それとなく暗示させていて、聞き終わった最後がなんとなくさびしい。
石松っていう無類の好男児を、わずかの間に余すところなく伝えている。
まさに話芸中の快作だと思う。
87: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/02/08(土) 20:57:08.38 ID:m0NzQ1iB0
明治40年、当時街道一厳格な親分と言われた、神奈川の半鐘兼さん(堀井兼吉)が、全国の大親分の霊牌を並べて大法要をした際の順位は、次の様であったという。
1.大前田栄五郎
2.大場の久八
3.丹波屋伝兵衛
4.丸屋の忠吉
5.相模屋政五郎
6.新門辰五郎
(7位以下は不明。次郎長、勝蔵、小金井小次郎などの名はずっと下にあった。)
(*子母澤寛『男の肚』より)
1.大前田栄五郎
2.大場の久八
3.丹波屋伝兵衛
4.丸屋の忠吉
5.相模屋政五郎
6.新門辰五郎
(7位以下は不明。次郎長、勝蔵、小金井小次郎などの名はずっと下にあった。)
(*子母澤寛『男の肚』より)
88: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/02/11(火) 21:54:25.82 ID:nkcwpKWj0
甲州の竹居安五郎(ドモ安)の四天王と十人衆
四天王…大場の久八、上井手の熊五郎、登沢の半兵衛、一ツ谷の浅五郎
十人衆…黒駒の勝蔵、八代の綱五郎、塩田の玉五郎、二階の弥太郎、鶯宿の武兵衛、上芦川の政五郎、岡の孫右衛門、八代の伊之吉、八代の大亀、女無宿おりは
(子母澤寛と今川徳三は、上のようなことを記した書き物の存在を報告しているが、今川はともかく子母澤は、この書き物自体を懐疑的に見ている。大場の久八と黒駒の勝蔵とは、吃安の兄弟分ではあっても子分ではありえないため。)
四天王…大場の久八、上井手の熊五郎、登沢の半兵衛、一ツ谷の浅五郎
十人衆…黒駒の勝蔵、八代の綱五郎、塩田の玉五郎、二階の弥太郎、鶯宿の武兵衛、上芦川の政五郎、岡の孫右衛門、八代の伊之吉、八代の大亀、女無宿おりは
(子母澤寛と今川徳三は、上のようなことを記した書き物の存在を報告しているが、今川はともかく子母澤は、この書き物自体を懐疑的に見ている。大場の久八と黒駒の勝蔵とは、吃安の兄弟分ではあっても子分ではありえないため。)
89: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/02/11(火) 23:37:42.30 ID:nkcwpKWj0
ちなみに松尾四朗は四天王の中に、竹居の市五郎と小市郎を入れている。
大場の久八の代わりに、二人のうちのどちらかが入れば、四天王はひとまず成立しそうだ。
大場の久八の代わりに、二人のうちのどちらかが入れば、四天王はひとまず成立しそうだ。
157: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/12/16(火) 23:22:49.24 ID:qO4Jgn7h0
俗に小金井小次郎子分の四天王というのがある。
誰がそれにふさわしいかは異論のあるところだが…
四軒寺の藤蔵
矢端の藤五郎
田無の徳蔵
高井戸の勇次郎
の四人がひとまず、それではないかと思う。
誰がそれにふさわしいかは異論のあるところだが…
四軒寺の藤蔵
矢端の藤五郎
田無の徳蔵
高井戸の勇次郎
の四人がひとまず、それではないかと思う。
159: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/12/17(水) 21:36:30.97 ID:tNnpPHC40
矢畑の藤五郎(仙川の藤蔵とも)は、小金井一家一の知恵者と言われる。
陣屋三之助は小次郎のいとこにして片腕。一の子分が新橋長蔵である。
小川の幸蔵は、小次郎の傘下ではあるが、陣屋とは犬猿の仲だったらしい。
よって小金井一家とは若干趣を異にする。
神山栄五郎は清水次郎長の子分にして小次郎の傘下でもあったが、彼も陣屋とは相いれない仲だった。(後、土支田一家の祖となった。)
陣屋三之助は小次郎のいとこにして片腕。一の子分が新橋長蔵である。
小川の幸蔵は、小次郎の傘下ではあるが、陣屋とは犬猿の仲だったらしい。
よって小金井一家とは若干趣を異にする。
神山栄五郎は清水次郎長の子分にして小次郎の傘下でもあったが、彼も陣屋とは相いれない仲だった。(後、土支田一家の祖となった。)
114: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/03/02(日) 00:14:43.27 ID:7PsO3Nb20
大侠客・大前田栄五郎が佐渡抜けをしたのは、確かな史料によれば、文政5年の7月6日のことのようである。
上州、下総出身者を中心とする19名の流人と共に島抜けをした。(手配書が
今日に残っている。)
ちなみに佐渡送りになった年は文政3年。栄五郎27歳の時である。
上州、下総出身者を中心とする19名の流人と共に島抜けをした。(手配書が
今日に残っている。)
ちなみに佐渡送りになった年は文政3年。栄五郎27歳の時である。
大前田英五郎
江戸末期の侠客。上州大前田(群馬県前橋市大前田町)出身。姓は田島、名主の出だが、父も兄も博徒。
15歳で人を殺して出奔、各地を転々とし、賭博の罪で佐渡送りになるが、島破りの後、流浪のすえ名古屋を中心に博徒の親分として勢力を得た。旅から旅を重ねながらも多数の子分をもち、博徒仲間では重んじられ、郷里で病没した。
墓碑に刻んだ「あらうれし行きさきしれぬ死出の旅」は、逮捕を恐れて一生を終わった博徒の辞世として趣がある。
江戸末期の侠客。上州大前田(群馬県前橋市大前田町)出身。姓は田島、名主の出だが、父も兄も博徒。
15歳で人を殺して出奔、各地を転々とし、賭博の罪で佐渡送りになるが、島破りの後、流浪のすえ名古屋を中心に博徒の親分として勢力を得た。旅から旅を重ねながらも多数の子分をもち、博徒仲間では重んじられ、郷里で病没した。
墓碑に刻んだ「あらうれし行きさきしれぬ死出の旅」は、逮捕を恐れて一生を終わった博徒の辞世として趣がある。
115: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/03/04(火) 23:35:59.99 ID:Ne6kUCr80
浅田晃彦の名著『大前田栄五郎の生涯』によれば、文政五年七月六日の佐渡抜けは、無宿水替六十四人の脱走、という大規模なものであったが、大部分が捕らえられ、一部だけが船を手に入れ加賀領へ漂着したと伝える。
首謀者二名は死罪となった。
栄五郎は、この時幸運にも加賀領へ漂着した一部の者に入っていた。
そして彼は、その後捕縛されることなく、明治の世まで生き延びた。
彼は竹居吃安(新島島抜けを成功させた)よりも更に幸運な博徒だったことになるだろう。
後年、彼が、日本一の親分と呼ばれるようになったことにも、この佐渡抜けの一事が大きく関与していたと思われる。
首謀者二名は死罪となった。
栄五郎は、この時幸運にも加賀領へ漂着した一部の者に入っていた。
そして彼は、その後捕縛されることなく、明治の世まで生き延びた。
彼は竹居吃安(新島島抜けを成功させた)よりも更に幸運な博徒だったことになるだろう。
後年、彼が、日本一の親分と呼ばれるようになったことにも、この佐渡抜けの一事が大きく関与していたと思われる。
128: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/04/15(火) 21:46:19.71 ID:X9LzUOcP0
強きを挫き弱きを助けるような任侠道って本当にあったのかね・・・。
はだしのゲンでは作者がやくざへの憎悪をむきだしにしてた。
被爆者の生活を食い物にするやくざ。
はだしのゲンでは作者がやくざへの憎悪をむきだしにしてた。
被爆者の生活を食い物にするやくざ。
132: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/04/27(日) 00:24:12.10 ID:xNk/JEiH0
保下田の久六(穂北久六)は、「次郎長」の話だと、とんでもない悪役なのだが、「大前田栄五郎」の話だと、意外なほど良く出来た貸元であったように書かれている。
一人の人間の中に悪と善とが同居しているのは当たり前のことであるが…
久六は後の世で悪の部分ばかりが取り沙汰された悲運の人のようにも思える。
死亡年は安政2年という説もあれば、安政6年と言う説もある。著名な人物であるにも関わらず没年齢すらわかっていない。
一人の人間の中に悪と善とが同居しているのは当たり前のことであるが…
久六は後の世で悪の部分ばかりが取り沙汰された悲運の人のようにも思える。
死亡年は安政2年という説もあれば、安政6年と言う説もある。著名な人物であるにも関わらず没年齢すらわかっていない。
140: 名無しさん@お腹いっぱい。 2014/09/14(日) 19:34:55.85 ID:dpC+pNuk0
紀元前、漢の時代だっけ?司馬遷が著わした「史記」にすでに仁侠、侠客の話しが書かれているそうじゃないか
160: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/01/17(土) 18:28:05.64 ID:SFFNbeU80
姐さんは一般的に親分の何分?若しくは何厘下がりですか?
161: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/01/19(月) 13:19:11.90 ID:GZrchh3o0
>>160
不勉強なため明確な答えができません。申し訳ないです。
ただ、松尾四郎の『史話と伝説』と子母澤寛の『遊侠奇談』に以下のような記述があるので、少しは参考になれば、と思います。
―大場久八妻の「おもんさん」について―
どこへ行っても大場の姐御で鳴らした婆さんだ。小金井の小次郎へ行っても、上州館林の虎五郎へ行っても、姐さん、姐さんで取り持つ、横浜の埋地の仙太とか、綱島の子太郎など、明治末期まで飛ぶ鳥を落す勢いの貸元連中が、一家の中にうようよしていたのだから、久八死後といえども婆さんの懐具合は悪くなかった。
『史話と伝説』松尾書房 S45年
―甲州・吃安の妻について―
甲州は何処へ行っても、ばくち打ちの女房に対して、乾児でも、旅人でも「あねさン」という。乾児などは、自分の親分を親といい、仁義の時でも、自分を「子」と名乗る以上、その親分の女房はお袋さんというべきを「あねさン」で通すのは、正妻ではなく、妾であるからだということである。
『遊侠奇談』
基本的には、明確な決まりは無いのではないけれども、姐さんに接する態度で、むしろ子分たちの力量がよく計られるのではないでしょうか。
不勉強なため明確な答えができません。申し訳ないです。
ただ、松尾四郎の『史話と伝説』と子母澤寛の『遊侠奇談』に以下のような記述があるので、少しは参考になれば、と思います。
―大場久八妻の「おもんさん」について―
どこへ行っても大場の姐御で鳴らした婆さんだ。小金井の小次郎へ行っても、上州館林の虎五郎へ行っても、姐さん、姐さんで取り持つ、横浜の埋地の仙太とか、綱島の子太郎など、明治末期まで飛ぶ鳥を落す勢いの貸元連中が、一家の中にうようよしていたのだから、久八死後といえども婆さんの懐具合は悪くなかった。
『史話と伝説』松尾書房 S45年
―甲州・吃安の妻について―
甲州は何処へ行っても、ばくち打ちの女房に対して、乾児でも、旅人でも「あねさン」という。乾児などは、自分の親分を親といい、仁義の時でも、自分を「子」と名乗る以上、その親分の女房はお袋さんというべきを「あねさン」で通すのは、正妻ではなく、妾であるからだということである。
『遊侠奇談』
基本的には、明確な決まりは無いのではないけれども、姐さんに接する態度で、むしろ子分たちの力量がよく計られるのではないでしょうか。
168: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/05/07(木) 23:59:45.27 ID:ehhVe0+80
女無宿おりは ってどういう人だったの?
任侠ドラマ(フィクション)における立ち位置でもいいからおせーて。
任侠ドラマ(フィクション)における立ち位置でもいいからおせーて。
169: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/05/09(土) 08:32:55.49 ID:WkEPLYRj0
俗に言う竹居吃安の「十人集」というのに名を出している。
おりはさんを単体で扱った本には今川徳蔵の『新・侠客100選』があって、これによれば、大柄な美人で人当たりがよく、その上に吃安から賭場の代貸を任されていたとされている。
また、彼女の賭場では一枚で金一両に相当する「金コマ」だけが使用されていて、今で言えば高級ディーラーの差配するカジノのような趣だったらしい。
確実な史料だと、甲州上芦川(笛吹市)の古文書に、「上芦川百姓平兵衛の後家、りは」として名前が出てくる。元治二年二月、無宿共が集まった「りは」の賭場に役人の手入れがあり、彼女も含めて、全員その場から逃げ去っている。
おりはさんを単体で扱った本には今川徳蔵の『新・侠客100選』があって、これによれば、大柄な美人で人当たりがよく、その上に吃安から賭場の代貸を任されていたとされている。
また、彼女の賭場では一枚で金一両に相当する「金コマ」だけが使用されていて、今で言えば高級ディーラーの差配するカジノのような趣だったらしい。
確実な史料だと、甲州上芦川(笛吹市)の古文書に、「上芦川百姓平兵衛の後家、りは」として名前が出てくる。元治二年二月、無宿共が集まった「りは」の賭場に役人の手入れがあり、彼女も含めて、全員その場から逃げ去っている。
170: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/05/09(土) 08:41:33.19 ID:WkEPLYRj0
博徒連中の中では際立った存在だったため、しばしば小説中には登場させられる。
かなり古いが竹内勇太郎の『俺はども安』では、若い頃のども安を指導する(?)姐さんとして扱われているが、無論これはフィクション。
最近だと『裏返しお旦那博徒』の中で、吃安と浪人犬上郡次郎の友情にひびを入れる存在として扱われている。
どちらにせよ、美人でさっぱりとした気性の女性とされている。
あとは松尾四郎の『竹居吃安』。あまり良くは書かれていないが、一番真実に近いのかもしれない。
かなり古いが竹内勇太郎の『俺はども安』では、若い頃のども安を指導する(?)姐さんとして扱われているが、無論これはフィクション。
最近だと『裏返しお旦那博徒』の中で、吃安と浪人犬上郡次郎の友情にひびを入れる存在として扱われている。
どちらにせよ、美人でさっぱりとした気性の女性とされている。
あとは松尾四郎の『竹居吃安』。あまり良くは書かれていないが、一番真実に近いのかもしれない。
171: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/05/12(火) 23:55:53.27 ID:b8xQcgGR0
>>169
ありがとうございます。
>大柄な美人で人当たりがよく
という部分が一般的な侠客に抱く私のイメージを超えてましたが
>高級ディーラーの差配するカジノのような趣
こう考えると、なるほど、そんなキャラもありえたのかもしれないな、と納得。
ただ、そういうキャラで生きるには年齢的なものが男性よりずっと厳しいように思うと、亡くなった歳やいきさつが気になります。これについて書いたものはご存知ですか?
あと松尾四郎の『竹居吃安』というのは『侠客竹居の吃安正伝』のことでしょうか?
ありがとうございます。
>大柄な美人で人当たりがよく
という部分が一般的な侠客に抱く私のイメージを超えてましたが
>高級ディーラーの差配するカジノのような趣
こう考えると、なるほど、そんなキャラもありえたのかもしれないな、と納得。
ただ、そういうキャラで生きるには年齢的なものが男性よりずっと厳しいように思うと、亡くなった歳やいきさつが気になります。これについて書いたものはご存知ですか?
あと松尾四郎の『竹居吃安』というのは『侠客竹居の吃安正伝』のことでしょうか?
172: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/05/13(水) 23:26:26.61 ID:SUtIg4Iq0
『竹居の吃安正伝』のことです。さすが「国書刊行会」と恐れ入るばかりの目のつけどころですね。
現存する仁侠研究の最高峰、植田憲司先生のブログには、その後改名し、愛知かどこかで亡くなったおりはさんの事が調べられていたように記憶していますが、今はブログも閉鎖されています。
貴方が根気よく、探訪、研究を続けていけば、いつかはわかると思いますよ。
現存する仁侠研究の最高峰、植田憲司先生のブログには、その後改名し、愛知かどこかで亡くなったおりはさんの事が調べられていたように記憶していますが、今はブログも閉鎖されています。
貴方が根気よく、探訪、研究を続けていけば、いつかはわかると思いますよ。
173: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/05/15(金) 09:02:06.29 ID:mHJCSPeS0
>>172
ありがとうございます。
惜しいブログがあったのですね。スナップショットの断片を探してきましたが、インターネットアーカイブスの性質上、収集されていないページも多々有ります。
画像は特に絶望的で、どの情報がどこにあるか容易には解らない状況です。
http://web.archive.org/web/20090225141744/http://www.geocities.jp/bqwxr271/meibo/bakutomeibo0.htm
上のサイトの甲州の欄は見たつもりなのですが、おりはさんを見つけられないでいます。
もしよろしければ、どのあたりに書かれていたか記憶をたよりにヒントをくださいませんでしょうか?
ありがとうございます。
惜しいブログがあったのですね。スナップショットの断片を探してきましたが、インターネットアーカイブスの性質上、収集されていないページも多々有ります。
画像は特に絶望的で、どの情報がどこにあるか容易には解らない状況です。
http://web.archive.org/web/20090225141744/http://www.geocities.jp/bqwxr271/meibo/bakutomeibo0.htm
上のサイトの甲州の欄は見たつもりなのですが、おりはさんを見つけられないでいます。
もしよろしければ、どのあたりに書かれていたか記憶をたよりにヒントをくださいませんでしょうか?
174: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/05/17(日) 01:24:34.53 ID:Y/VM417s0
こんな機能あるんですね。知らなかった。久しぶりで植田先生の仕事を見れました。感謝します。残念ですがおりはさんに関しては全くわかりません。
ただ一つ言えることは、若干(かなり?)オカルトな感じですが、故人は自分が出たいと思う時にだけ、姿や史料を現してくれるもの、(経験で)のように思います。
史料はあるのに、様々な理由で一般に出ないようなものは、やはり故人が、それを望んでいないから、なんじゃないかと最近思うのです。
まずは自分がどうしてその人を調べたいか、と考えることです。その上で、その人の生涯を尊重する。
そうすると、ある日偶然、手掛かりが見つかります。自分の経験上そう思います。
それからとにかく歩くことです。(なにしろ相手は一日50キロは平気で歩く「遊侠の徒」なのですから。)
ただ一つ言えることは、若干(かなり?)オカルトな感じですが、故人は自分が出たいと思う時にだけ、姿や史料を現してくれるもの、(経験で)のように思います。
史料はあるのに、様々な理由で一般に出ないようなものは、やはり故人が、それを望んでいないから、なんじゃないかと最近思うのです。
まずは自分がどうしてその人を調べたいか、と考えることです。その上で、その人の生涯を尊重する。
そうすると、ある日偶然、手掛かりが見つかります。自分の経験上そう思います。
それからとにかく歩くことです。(なにしろ相手は一日50キロは平気で歩く「遊侠の徒」なのですから。)
176: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/05/18(月) 23:26:36.75 ID:vAU4w9080
武州の多摩川縁、柴崎村の粂蔵親分は自身十手持ちでもありながら、博奕を催す地元の親分で、何より多摩川鵜飼の総元締めだった。
姓は中嶋。不幸にして早世した倅捨蔵は、天然理心流近藤周助の門弟、つまり近藤勇の兄弟弟子だった。
姓は中嶋。不幸にして早世した倅捨蔵は、天然理心流近藤周助の門弟、つまり近藤勇の兄弟弟子だった。
179: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/05/24(日) 19:15:16.80 ID:Kg00cTPo0
>>176
玉川要蔵が甲陽鎮撫隊に協力したという話は事実でしょうか?
やはり剣流を通じて繋がりがあったのでしょうか?
玉川要蔵が甲陽鎮撫隊に協力したという話は事実でしょうか?
やはり剣流を通じて繋がりがあったのでしょうか?
180: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/05/25(月) 23:24:01.39 ID:oKzQg1Dx0
「佐藤彦五郎日記」慶応四年二月に「新撰組の土方から亀吉が使いに来たので、四ツ谷惣蔵倅の要蔵、下宿兵助弟幸助両人が、亀吉に従って出府した」という部分があります。
玉川亭要蔵は日野の四ツ谷惣蔵(宗蔵)の倅で間違いないので、少なくとも勝沼の戦の前に彼が土方歳三に呼び出されたという事実はあったようです。
また使いにたった亀吉は八王子のソバ亀親分だとも言われており、戸羽山瀚によれば、彼も大場久八の「辰巳隊」の一員として勝沼戦争に参加した、というので、辻褄は色々と合うように、私は思います。
玉川亭要蔵は日野の四ツ谷惣蔵(宗蔵)の倅で間違いないので、少なくとも勝沼の戦の前に彼が土方歳三に呼び出されたという事実はあったようです。
また使いにたった亀吉は八王子のソバ亀親分だとも言われており、戸羽山瀚によれば、彼も大場久八の「辰巳隊」の一員として勝沼戦争に参加した、というので、辻褄は色々と合うように、私は思います。
181: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/05/25(月) 23:30:50.89 ID:oKzQg1Dx0
要蔵親分が天然理心流だったかは定かではないですが、明治11年には無宿博徒の捕縛で警察に協力したという理由で神奈川県から褒章を受けています。
白刃を持った敵に立ち向かったとあるので、武芸の心得はあったように思います。
白刃を持った敵に立ち向かったとあるので、武芸の心得はあったように思います。
182: 179 2015/05/26(火) 19:19:05.83 ID:4299A46o0
>>180-181
どうもありがとうございます。
要蔵は松本捨助と義兄弟だったなどと伝え聞くものの史料的裏づけはほとんど得られていませんでした。
また、『佐藤彦五郎日記』には目を通していながら、「亀吉」「四ツ谷惣蔵伜要蔵」が何者か判断がつきませんでした。
なので、貴重な手がかりをいただき助かります。
剣流はともかく、やはり彦五郎の存在が要因として大きいのかもしれませんね。
「下宿兵助弟幸助」も正直よくわかりません。
「兵助」は馬場兵助かと思ったのですが、馬場兵助の実家「扇屋」は下宿でなく中宿と聞きました。
追々調べてみようと思います。
どうもありがとうございます。
要蔵は松本捨助と義兄弟だったなどと伝え聞くものの史料的裏づけはほとんど得られていませんでした。
また、『佐藤彦五郎日記』には目を通していながら、「亀吉」「四ツ谷惣蔵伜要蔵」が何者か判断がつきませんでした。
なので、貴重な手がかりをいただき助かります。
剣流はともかく、やはり彦五郎の存在が要因として大きいのかもしれませんね。
「下宿兵助弟幸助」も正直よくわかりません。
「兵助」は馬場兵助かと思ったのですが、馬場兵助の実家「扇屋」は下宿でなく中宿と聞きました。
追々調べてみようと思います。
189: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/06/03(水) 22:26:30.90 ID:L4Zj8IHv0
『慶応水滸伝』、今時入手しやすいのは柳蒼二郎・中公文庫(2014)だけど、明治22年に『落花清風 慶応水滸伝』、同23年に『新門辰五郎・小金井小次郎 慶応水滸伝』が出版されたようで、これらが最初の作品化なのか、あるいはさらに古く講談か芝居の元ネタがあったんですかね。
それに、実在の人物が出てくるけど、ストーリーはどこまで実話に基づいているんでしょうね。
それに、実在の人物が出てくるけど、ストーリーはどこまで実話に基づいているんでしょうね。
190: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/06/03(水) 23:24:52.37 ID:8i8CoF/Q0
一番古い『慶応水滸伝』は明治15年、小次郎没翌年の出版です。
少なくとも、関東取締出役の名前と任期、小次郎が木更津で捕まったこと、また後年八王子で捕まったこと等は年代、日にちが正確です。
逆に明らかな嘘があるのは、一ノ宮政次の仇である八軒栄次を小次郎が殺したという部分です。栄次は、史料より文久年間までは生存が確認されるためです。
少なくとも、関東取締出役の名前と任期、小次郎が木更津で捕まったこと、また後年八王子で捕まったこと等は年代、日にちが正確です。
逆に明らかな嘘があるのは、一ノ宮政次の仇である八軒栄次を小次郎が殺したという部分です。栄次は、史料より文久年間までは生存が確認されるためです。
191: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/06/04(木) 22:11:02.53 ID:WQKHpde90
なるほど参考になりました。
『天保水滸伝』のように先に講談があったのとは違って、初めから書籍が出版されたわけで、つまり小金井小次郎を偲ぶ紙碑ですか。
ストーリーは虚実ないまぜで、事実か創作か判断つかないところもあるようだけどそれをわかって読めばいいと考えておきます。
『天保水滸伝』のように先に講談があったのとは違って、初めから書籍が出版されたわけで、つまり小金井小次郎を偲ぶ紙碑ですか。
ストーリーは虚実ないまぜで、事実か創作か判断つかないところもあるようだけどそれをわかって読めばいいと考えておきます。
202: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/06/10(水) 06:42:23.22 ID:7N2LplZu0
調べてみたら『落花清風慶応水滸伝』の初版発行が明治15年だったんですな。
・読売新聞記者の高畠藍泉が、柳亭種彦(三世)の名義で書いた
・藍泉は、小金井小次郎の食客だったこともあって、小次郎から聞いた話を多く参考にしたらしい
・その後、『落花清風慶応水滸伝』をネタに講談や歌舞伎が創作された
・明治27年、市村座で上演された「新門辰巳小金井」では、五代尾上菊五郎が小次郎、四代中村芝翫が新門辰五郎を演じた
スレ常連の方々はご存じだろうけど、自分は知らないことばっかりだった。
・読売新聞記者の高畠藍泉が、柳亭種彦(三世)の名義で書いた
・藍泉は、小金井小次郎の食客だったこともあって、小次郎から聞いた話を多く参考にしたらしい
・その後、『落花清風慶応水滸伝』をネタに講談や歌舞伎が創作された
・明治27年、市村座で上演された「新門辰巳小金井」では、五代尾上菊五郎が小次郎、四代中村芝翫が新門辰五郎を演じた
スレ常連の方々はご存じだろうけど、自分は知らないことばっかりだった。
203: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/06/10(水) 06:59:42.72 ID:BaHuJjM00
案外ばかにできないのが、揚名舎桃李(ようめいしゃ・とうり)による「講談・小金井小次郎」です。
国会図書館に「講談本」として所蔵されているのは大正期の出版だけど、高座でやっていたのはもっと前だと思う。これには桃李が随分綿密に歩いて取材した形跡があって、内容は「慶応水滸伝」よりずっと豊富。貴重な情報の多い一種の聞き書き史料としても読むことができます。
この講談の出現を受けて、市村座の芝居もネタ元を「慶応水滸伝」から桃李の「小次郎講談」にシフトした感じがあるんですな。
国会図書館に「講談本」として所蔵されているのは大正期の出版だけど、高座でやっていたのはもっと前だと思う。これには桃李が随分綿密に歩いて取材した形跡があって、内容は「慶応水滸伝」よりずっと豊富。貴重な情報の多い一種の聞き書き史料としても読むことができます。
この講談の出現を受けて、市村座の芝居もネタ元を「慶応水滸伝」から桃李の「小次郎講談」にシフトした感じがあるんですな。
208: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/06/12(金) 00:43:22.17 ID:edtAtFuq0
江古田の幸平親分は、元旗本くずれと伝わり、御一新の頃の人物。剣術の達者でありながら、生涯一度も喧嘩をすることがなく、それでいて「幸平旦那」と呼ばれ、たいした勢力だった。しかしこの人が博奕渡世をやめようと思ったことが四度ある。
一度は母親の死に際に意見をされたこと。
二度目は信仰する不動明王が夢枕に立って、足蹴にされた時、
三度目は男の子が生まれて、その顔をはじめて見た時、
四度目は子分が三宅島へ流されて、そこで死んだのを聞いた時だという。
ある講釈師が幸平の実伝を読み物にしたい、と訪れ、取材したが一向読み物にならない。
一向に斬った張ったが無いからである。この点は大前田栄五郎も同じであったという。
どうも、「真の遊侠」というものはやみくもに闘争をしないもののようだ。
一度は母親の死に際に意見をされたこと。
二度目は信仰する不動明王が夢枕に立って、足蹴にされた時、
三度目は男の子が生まれて、その顔をはじめて見た時、
四度目は子分が三宅島へ流されて、そこで死んだのを聞いた時だという。
ある講釈師が幸平の実伝を読み物にしたい、と訪れ、取材したが一向読み物にならない。
一向に斬った張ったが無いからである。この点は大前田栄五郎も同じであったという。
どうも、「真の遊侠」というものはやみくもに闘争をしないもののようだ。
209: 名無しさん@お腹いっぱい。 2015/06/12(金) 06:12:25.85 ID:1gY5IF240
結局、博奕は止められなかったんですか?
ギャンブルの魔力は恐ろしい・・・
ギャンブルの魔力は恐ろしい・・・
引用元: ・侠客の歴史




盲目の侠客って、どういう渡世してたのか気になる
荒事には向かないし、ただの按摩師なら侠客とはいわれないだろうし