1: 人間七七四年 2008/05/10(土) 03:43:09 ID:yJeYvXS1
何のかんの言われながら明治維新まで大名だった日向伊東氏を語りましょう。
4: 人間七七四年 2008/05/10(土) 20:58:28 ID:zYMrVDfO
伊東義祐→祐兵ってのは、凄い人生だと思う。
宮崎平野一帯の支配者→飫肥を占領して日向のほぼ全域→島津に敗れ親子で大友の居候→大友没落後はただの浪人→義祐客死→祐兵は秀吉に仕官→本能寺後、天下統一の過程を経験→飫肥藩主
だもの。戦国秀久なみの浮沈劇じゃないだろうか。
宮崎平野一帯の支配者→飫肥を占領して日向のほぼ全域→島津に敗れ親子で大友の居候→大友没落後はただの浪人→義祐客死→祐兵は秀吉に仕官→本能寺後、天下統一の過程を経験→飫肥藩主
だもの。戦国秀久なみの浮沈劇じゃないだろうか。
6: 宇喜多直家信者 ◆W.uAGfax.c 2008/05/10(土) 22:21:15 ID:3vLWI4MY
日向四十八城の詳細が良く分からない
7: 人間七七四年 2008/05/11(日) 00:03:50 ID:vWVv4shl
長くなるが
佐土原城 伊東三位入道義祐、隠居後は佐土原摂津守
都於郡城 伊東左京大夫義益
三納城 飯田肥前守祐恵
穂北城 長倉藤七(改民部少輔、子も藤七)
富田城 湯地五郎九郎(改志摩介)
高城城 野村蔵人佐
財部城 落合民部少輔兼呑(若名藤九郎、子も藤九郎)
那珂城 郡司弥六左衛門尉(今湯地出雲神、津宮左馬助)
宮崎城 肥田木勘解由左衛門尉(今長嶺紀伊守、肥田木越前守)
曾井城 八代民部左衛門尉(改下野守)
清武城 長倉伴九郎、上別府宮内少輔
紫波州崎城 川崎上総守(今息和泉守)
田野城 長倉河内守(今息宮内大夫)
倉岡城 野村隠岐守(今山城守)
石塚城 平賀刑部少輔
穆佐城 落合兵部少輔
木脇城 福永民部四郎
本庄城 河崎兵部丞
八代城 伊東新三郎(改新助隠岐守息)
守永城 内田四郎左衛門尉
綾城 佐土原遠江守
飯田城 河崎治部大輔
内山城 野村刑部少輔
染野切寄 染野志摩介
紙屋城 米良主税助
佐土原城 伊東三位入道義祐、隠居後は佐土原摂津守
都於郡城 伊東左京大夫義益
三納城 飯田肥前守祐恵
穂北城 長倉藤七(改民部少輔、子も藤七)
富田城 湯地五郎九郎(改志摩介)
高城城 野村蔵人佐
財部城 落合民部少輔兼呑(若名藤九郎、子も藤九郎)
那珂城 郡司弥六左衛門尉(今湯地出雲神、津宮左馬助)
宮崎城 肥田木勘解由左衛門尉(今長嶺紀伊守、肥田木越前守)
曾井城 八代民部左衛門尉(改下野守)
清武城 長倉伴九郎、上別府宮内少輔
紫波州崎城 川崎上総守(今息和泉守)
田野城 長倉河内守(今息宮内大夫)
倉岡城 野村隠岐守(今山城守)
石塚城 平賀刑部少輔
穆佐城 落合兵部少輔
木脇城 福永民部四郎
本庄城 河崎兵部丞
八代城 伊東新三郎(改新助隠岐守息)
守永城 内田四郎左衛門尉
綾城 佐土原遠江守
飯田城 河崎治部大輔
内山城 野村刑部少輔
染野切寄 染野志摩介
紙屋城 米良主税助
8: 人間七七四年 2008/05/11(日) 00:04:26 ID:vWVv4shl
野尻城 福永丹波守
高原城 福永源左衛門尉 (淡路息)
戸崎城 肥田木四郎左衛門尉
三ツ山城 平良彦十郎(改遠江守、子も彦十郎)
那佐木城 肥田木三郎兵衛
野久尾城 米良筑後守(筑後守死後新納伊豆守)
須木城 米良長門守(若名右馬助)
新納石城 長友源二郎
塩見城 右松四郎左衛門尉
門川城 米良四郎右衛門尉
日知屋城 福永新十郎(氏本駿河守)
山陰城 米良喜内
坪屋城 米良休助
田代三方領主 松尾下総守、篦尾彦三郎、俣江主税助
水清谷領主 奈須九右衛門尉
入下領主 入下弥四郎
神門三方領主 小崎右近将監、田爪、借屋
高智尾領主 三躰惟政(三田井惟政)
雄八重領主 米良分左衛門尉
平野領主 米良民部少輔
飫肥本城 伊東祐兵 (地頭上別府常陸守、福永宮内少輔)
酒谷城 長倉淡路守
目井城 河崎駿河守
瀬平城 上別府常陸守
48あるかな?
高原城 福永源左衛門尉 (淡路息)
戸崎城 肥田木四郎左衛門尉
三ツ山城 平良彦十郎(改遠江守、子も彦十郎)
那佐木城 肥田木三郎兵衛
野久尾城 米良筑後守(筑後守死後新納伊豆守)
須木城 米良長門守(若名右馬助)
新納石城 長友源二郎
塩見城 右松四郎左衛門尉
門川城 米良四郎右衛門尉
日知屋城 福永新十郎(氏本駿河守)
山陰城 米良喜内
坪屋城 米良休助
田代三方領主 松尾下総守、篦尾彦三郎、俣江主税助
水清谷領主 奈須九右衛門尉
入下領主 入下弥四郎
神門三方領主 小崎右近将監、田爪、借屋
高智尾領主 三躰惟政(三田井惟政)
雄八重領主 米良分左衛門尉
平野領主 米良民部少輔
飫肥本城 伊東祐兵 (地頭上別府常陸守、福永宮内少輔)
酒谷城 長倉淡路守
目井城 河崎駿河守
瀬平城 上別府常陸守
48あるかな?
9: 人間七七四年 2008/05/11(日) 00:06:10 ID:vWVv4shl
飫肥城知行割
城主 伊東祐兵
今城 伊東相模守祐梁 (三〇町)
松尾 木脇越前守祐守 (二〇町)
その他 佐土原讃岐守 (一〇町)
稲津因幡守重信 (九町)
長倉監物 (六町)
野村剣介 (六町)
上別府狩野介 (六町)
湯地刑部少輔 (六町)
落合藤七 (七町)
荒武又兵衛尉 (六町)
河崎紀伊守 (六町)
壱岐右近丞 (六町)
福永与八郎 (六町)
酒谷地頭 長倉淡路守
同後見 落合但馬守(六町)
長倉備前守(六町)
目井城 河崎駿河守祐長
城主 伊東祐兵
今城 伊東相模守祐梁 (三〇町)
松尾 木脇越前守祐守 (二〇町)
その他 佐土原讃岐守 (一〇町)
稲津因幡守重信 (九町)
長倉監物 (六町)
野村剣介 (六町)
上別府狩野介 (六町)
湯地刑部少輔 (六町)
落合藤七 (七町)
荒武又兵衛尉 (六町)
河崎紀伊守 (六町)
壱岐右近丞 (六町)
福永与八郎 (六町)
酒谷地頭 長倉淡路守
同後見 落合但馬守(六町)
長倉備前守(六町)
目井城 河崎駿河守祐長
290: 人間七七四年 2009/05/30(土) 18:33:00 ID:ZVfo52gD
日向記が手元にあられる方に質問ですが、天正五年の櫛間城攻めの記載を詳しくお教え願えませんでしょうか?
近くの図書館になくて困ってます。
あと天正二年の一月に伊東権守が肝付家の牛根城を島津が囲んだのをとこうと1万数千もの大軍で救援にいったのも事実ですか?
だとしたら、木崎原の損害も一年くらいで一応の復帰がなったということですよね?
近くの図書館になくて困ってます。
あと天正二年の一月に伊東権守が肝付家の牛根城を島津が囲んだのをとこうと1万数千もの大軍で救援にいったのも事実ですか?
だとしたら、木崎原の損害も一年くらいで一応の復帰がなったということですよね?
291: 人間七七四年 2009/05/30(土) 19:14:53 ID:bH+YShtC
>>290
まず天正5年の「櫛間湊村破事」、意訳があるとイヤなのでまんま書き写します。
三位入道・祐兵主櫛間ヲ責破ルヘシトノ内談ニテ大勢ヲ催シ、天正五年丁丑
六月十八日ニ飫肥ヲ打立、南郷表ニ屯シテ十九日未明ニ櫛間ニサシ懸リ湊村ヲ
打破リ大勢ヲ討取テ放火ス、串間の兵夜中ヨリ貝ヲ吹続シカハ島津図書頭
十三里ノ道ヲ懸付ケ大勢ノ荒手ヲ以テ防戦間、伊東勢モ引退所ニ嶋津勢付シタフ、
河崎紀伊守兎角ヲ調ヘテ殿セシカ、指宿左近兵衛尉ト鑓ヲ合セ相戦ヒ紀伊守
尋常ニ討死也、伊地知治部左衛門尉、荒武又右衛門尉ト鑓ヲ合セテ戦死ス、
夫ヨリ海老原源二郎・後藤安芸守・井上和泉守・長友外記ナトヲ始メトシテ
大勢討死セリ、木脇越前守モ山陰ヲ差テ退レシカ村ハツレヨリ越前守例ノ
扇ノ印ヲ指出ス、敵モ是ニ少シ立留ル所ニ猶々敵競来故長倉伴八郎・上別府
狩野介彼両人殿シテ諸軍勢引退、其時ノ落書ニ
人ノ名モ所ニヨリテ替リケリニクル紀伊守カカル紀伊守
薩摩方ニハ其日新納縫殿軍敗者ニテ紀伊守カ頸ヲ装束シ飫肥ヘ渡シ被申ケリ
それと天正2年の肝付への援軍は、禰寝の根占城には確かに援軍が出されてますが、牛根城への援軍一万は派遣されていません。
派遣されるという話にはなっていましたが、その前に牛根城が開城しているためです。
実際に派遣するつもりだったのか、牛根城を囲む島津義久を牽制するつもりの虚言だったのかは実際のところわかりません。
まず天正5年の「櫛間湊村破事」、意訳があるとイヤなのでまんま書き写します。
三位入道・祐兵主櫛間ヲ責破ルヘシトノ内談ニテ大勢ヲ催シ、天正五年丁丑
六月十八日ニ飫肥ヲ打立、南郷表ニ屯シテ十九日未明ニ櫛間ニサシ懸リ湊村ヲ
打破リ大勢ヲ討取テ放火ス、串間の兵夜中ヨリ貝ヲ吹続シカハ島津図書頭
十三里ノ道ヲ懸付ケ大勢ノ荒手ヲ以テ防戦間、伊東勢モ引退所ニ嶋津勢付シタフ、
河崎紀伊守兎角ヲ調ヘテ殿セシカ、指宿左近兵衛尉ト鑓ヲ合セ相戦ヒ紀伊守
尋常ニ討死也、伊地知治部左衛門尉、荒武又右衛門尉ト鑓ヲ合セテ戦死ス、
夫ヨリ海老原源二郎・後藤安芸守・井上和泉守・長友外記ナトヲ始メトシテ
大勢討死セリ、木脇越前守モ山陰ヲ差テ退レシカ村ハツレヨリ越前守例ノ
扇ノ印ヲ指出ス、敵モ是ニ少シ立留ル所ニ猶々敵競来故長倉伴八郎・上別府
狩野介彼両人殿シテ諸軍勢引退、其時ノ落書ニ
人ノ名モ所ニヨリテ替リケリニクル紀伊守カカル紀伊守
薩摩方ニハ其日新納縫殿軍敗者ニテ紀伊守カ頸ヲ装束シ飫肥ヘ渡シ被申ケリ
それと天正2年の肝付への援軍は、禰寝の根占城には確かに援軍が出されてますが、牛根城への援軍一万は派遣されていません。
派遣されるという話にはなっていましたが、その前に牛根城が開城しているためです。
実際に派遣するつもりだったのか、牛根城を囲む島津義久を牽制するつもりの虚言だったのかは実際のところわかりません。
293: 人間七七四年 2009/05/30(土) 21:12:37 ID:ZVfo52gD
援軍一万の数は俗説ですか?それともなんらかの史料にあるのですか?
295: 291 2009/05/30(土) 22:54:00 ID:bH+YShtC
>>293
どうなんでしょうね。なんで自分も一万という数を覚えてたのか不思議です
少なくとも「日向記」には牛根城の記述はあるものの、一万の兵どころか牛根城に派兵するなんてことは書いてないですから、島津方か肝付方の史料にでもあるんでしょうかね?
どうなんでしょうね。なんで自分も一万という数を覚えてたのか不思議です
少なくとも「日向記」には牛根城の記述はあるものの、一万の兵どころか牛根城に派兵するなんてことは書いてないですから、島津方か肝付方の史料にでもあるんでしょうかね?
296: 人間七七四年 2009/05/31(日) 11:12:38 ID:MAQOAz/Z
>>295
私のも不確かな情報ですが、肝付側の話しでは志布志の先の高崎まで援軍が来てたらしいです。牛根城降伏後に引き返したようで・・
牛根城には島津軍主力がいるので一万の数は案外あっているのかもしれません。
でも伊東家って日向一国とは思えないほどの兵力ですよねwさすが三位様ですね。
私のも不確かな情報ですが、肝付側の話しでは志布志の先の高崎まで援軍が来てたらしいです。牛根城降伏後に引き返したようで・・
牛根城には島津軍主力がいるので一万の数は案外あっているのかもしれません。
でも伊東家って日向一国とは思えないほどの兵力ですよねwさすが三位様ですね。
297: 291 2009/05/31(日) 14:52:17 ID:BJWgrJbT
飫肥の戦いで最大2万を動員しているので不可能じゃないんでしょうけどね
ちなみに数はともかく牛根城への伊東の援軍の記述は島津の史料にはあるようです
ちなみに数はともかく牛根城への伊東の援軍の記述は島津の史料にはあるようです
300: 人間七七四年 2009/06/20(土) 20:23:43 ID:8NnnmjOr
伊東さんとこで良く出てくる2万だかの軍勢って誇張はないだろうか。
木崎原の時に都於郡から佐土原の武士は跡取りがいなくなったなんて話もあったが、召集はその辺りだけで、数千がせいぜいじゃなかったろうか。
負けても力を大きく見せるために、わざと数字を誇張したんじゃなかろうか。
逆に島津さん(特に義弘)は、武功を誇張させるために自軍を小さく書いたりして。
木崎原の時に都於郡から佐土原の武士は跡取りがいなくなったなんて話もあったが、召集はその辺りだけで、数千がせいぜいじゃなかったろうか。
負けても力を大きく見せるために、わざと数字を誇張したんじゃなかろうか。
逆に島津さん(特に義弘)は、武功を誇張させるために自軍を小さく書いたりして。
301: 人間七七四年 2009/06/21(日) 01:27:16 ID:0AXHzMDH
誇張はないとは言えないけど、2万を動員したとされる飫肥の役に参加した衆中の名前が明記されてないから確認できない
木崎原のときは死亡した将の名簿に何処の衆中の者かが書かれてるからある程度は推理できるんだけど。
色々計算してみたら木崎原の場合の3千人はほぼ妥当で、むしろ3千じゃ少ないくらいだった。
ただこの場合は若手を多く動員していたり、飯野城の先の加久藤城を攻撃する奇襲の色合いが見える戦いだから、一つの衆中からの動員数が少なくされた可能性がある。
で、それを考慮に入れて、日向記に書かれてる城主の数を衆中と同じとして自分なりに計算してみたりしたら、大体1万5千弱くらいになった。
無論、勝手な推量だから正確とは言い難いけど。
島津が自軍を小さく書いた可能性もある。
ただ武功を誇張して書くのを本人はやらないだろう。軍記物系は大概が子孫に語って聞かせるために物語形式で書かれるから、当事者よりは書き手(特に100年後の子孫とか)が誇張して書く場合が多い。
本人が日記や回顧録として書かれてるようなもので、あからさまな嘘は書かないだろう。
だから、沖田畷に関しては上井覚兼日記にも寡兵で勝ったとかは書かれてないし、そういった日記の類はなさそうだから誇張の可能性はあると思うけど、木崎原は義弘本人が書いた回顧録に「2、300人で破ったのは前代未聞」とある。
この回顧録、義弘自身が敗北したときの事も書いてたりするから、実際に読んでるとこれが自分に都合よくだけ書かれたもののようには思われない。
それに、木崎原は他の合戦に比べて書かれてる史料が多いのだが、余程劇的な勝ち方をしたからだと思われる。
伊東軍の誰々の死体が何処に転がってたかの図まで残ってるし。
木崎原のときは死亡した将の名簿に何処の衆中の者かが書かれてるからある程度は推理できるんだけど。
色々計算してみたら木崎原の場合の3千人はほぼ妥当で、むしろ3千じゃ少ないくらいだった。
ただこの場合は若手を多く動員していたり、飯野城の先の加久藤城を攻撃する奇襲の色合いが見える戦いだから、一つの衆中からの動員数が少なくされた可能性がある。
で、それを考慮に入れて、日向記に書かれてる城主の数を衆中と同じとして自分なりに計算してみたりしたら、大体1万5千弱くらいになった。
無論、勝手な推量だから正確とは言い難いけど。
島津が自軍を小さく書いた可能性もある。
ただ武功を誇張して書くのを本人はやらないだろう。軍記物系は大概が子孫に語って聞かせるために物語形式で書かれるから、当事者よりは書き手(特に100年後の子孫とか)が誇張して書く場合が多い。
本人が日記や回顧録として書かれてるようなもので、あからさまな嘘は書かないだろう。
だから、沖田畷に関しては上井覚兼日記にも寡兵で勝ったとかは書かれてないし、そういった日記の類はなさそうだから誇張の可能性はあると思うけど、木崎原は義弘本人が書いた回顧録に「2、300人で破ったのは前代未聞」とある。
この回顧録、義弘自身が敗北したときの事も書いてたりするから、実際に読んでるとこれが自分に都合よくだけ書かれたもののようには思われない。
それに、木崎原は他の合戦に比べて書かれてる史料が多いのだが、余程劇的な勝ち方をしたからだと思われる。
伊東軍の誰々の死体が何処に転がってたかの図まで残ってるし。
302: 人間七七四年 2009/06/21(日) 21:50:40 ID:Rxbn1IsB
>>301
>島津が自軍を小さく書いた可能性もある
日本の場合、どこもそうでしょ。
自軍の軍勢は少なめ、敵軍の軍勢は大目に書く。>戦記や家記モノ
>島津が自軍を小さく書いた可能性もある
日本の場合、どこもそうでしょ。
自軍の軍勢は少なめ、敵軍の軍勢は大目に書く。>戦記や家記モノ
303: 人間七七四年 2009/06/22(月) 00:44:41 ID:3JDcRXjF
>>302
日本のみならず中国にも多くみられるらしいけどね
欧米の方も詳しくないから知らんけど、まあどこの国も似たり寄ったりなんだろう
一級史料とされる太田牛一の信長公記でさえ、自軍の動員数を多めに書いてたりするから
でも誇張が当たり前と思っていても、やっぱ真実か虚実かは調べないと見えてこないし、言い切れないじゃん
だからあくまで”可能性がある”と書いた
日本のみならず中国にも多くみられるらしいけどね
欧米の方も詳しくないから知らんけど、まあどこの国も似たり寄ったりなんだろう
一級史料とされる太田牛一の信長公記でさえ、自軍の動員数を多めに書いてたりするから
でも誇張が当たり前と思っていても、やっぱ真実か虚実かは調べないと見えてこないし、言い切れないじゃん
だからあくまで”可能性がある”と書いた
308: 人間七七四年 2009/09/24(木) 22:37:09 ID:H2DR0cGS
まあとにかくショボイ大名だわな
日向一国すら統一できない勢力が1万からの軍勢は無理
木崎原1回の大敗で再起不能って
所詮、農家が大きくなった程度のもの
日向一国すら統一できない勢力が1万からの軍勢は無理
木崎原1回の大敗で再起不能って
所詮、農家が大きくなった程度のもの
310: 人間七七四年 2009/09/25(金) 14:41:40 ID:eAIIOrl7
>>308
一応、飫肥役の際の最大動員数は二万人。
過剰に記録されてるにしても一万人以上の動員は可能だったと見るべきだ。
木崎原の大敗で再起不能になったのは重臣、城主クラス及びその子息らを大量に戦死させてしまったこと、特に軍事の要だった伊東祐安を失ったのが大きな痛手だった。
また、重臣を伊東家に繋ぎ止めていたのは、義祐が伊東家の最大の版図を成し遂げたという部分だけだったんだろうな。
普段から不満があったから、島津に攻め込まれた際に雪崩を打つように裏切りが続出したんだろうし。
まあだから、ショボイ大名というのは否定しない。
実際、長男が夭折してからの義祐の奢侈がなければ、あと義益の死後に逆にしっかりしていたらここまで落ちぶれることもなかったろうしね。
一応、飫肥役の際の最大動員数は二万人。
過剰に記録されてるにしても一万人以上の動員は可能だったと見るべきだ。
木崎原の大敗で再起不能になったのは重臣、城主クラス及びその子息らを大量に戦死させてしまったこと、特に軍事の要だった伊東祐安を失ったのが大きな痛手だった。
また、重臣を伊東家に繋ぎ止めていたのは、義祐が伊東家の最大の版図を成し遂げたという部分だけだったんだろうな。
普段から不満があったから、島津に攻め込まれた際に雪崩を打つように裏切りが続出したんだろうし。
まあだから、ショボイ大名というのは否定しない。
実際、長男が夭折してからの義祐の奢侈がなければ、あと義益の死後に逆にしっかりしていたらここまで落ちぶれることもなかったろうしね。
314: 人間七七四年 2009/09/26(土) 21:37:06 ID:qs6JAujy
>>310
福永や野村は単なる冷遇ではなくて、尹祐の代からの経緯があるからね。
不満を持った勢力を前線に配置するなんてアホな話だと思うが、佐土原から野尻に赴任したい奴なんて、いないだろうなぁ・・・
義祐はどうすれば良かったんだろう
福永や野村は単なる冷遇ではなくて、尹祐の代からの経緯があるからね。
不満を持った勢力を前線に配置するなんてアホな話だと思うが、佐土原から野尻に赴任したい奴なんて、いないだろうなぁ・・・
義祐はどうすれば良かったんだろう
309: 人間七七四年 2009/09/24(木) 23:46:06 ID:WmakM3wS
西都の奥に長居しすぎて、世の中の動きに疎かったのだと思う。
将軍や朝廷に送る金があったら、殖産興業や軍事に金を使って、外に進出すべきだった。
折角の侵攻作戦を、若武者だけに任せるとかありえん。
将軍や朝廷に送る金があったら、殖産興業や軍事に金を使って、外に進出すべきだった。
折角の侵攻作戦を、若武者だけに任せるとかありえん。
311: 人間七七四年 2009/09/25(金) 21:24:00 ID:/Z6eCn4u
しかし、祐兵の伊東家再興は誉めて然るべき。
運も良かったけど。
運も良かったけど。
316: 人間七七四年 2009/09/28(月) 00:30:20 ID:VD67OBWH
1回の大敗ってのも軍勢3000ですよ?それで再起不能っておかしくない?
百歩譲って2万集めれる家がですよ?跡継ぎがいなくなったってのもどうもね
その時の親の世代とか分家とかでしのげるだろうに
もうすでに伊東家はなんらかの理由で疲弊していたとしか思えない
百歩譲って2万集めれる家がですよ?跡継ぎがいなくなったってのもどうもね
その時の親の世代とか分家とかでしのげるだろうに
もうすでに伊東家はなんらかの理由で疲弊していたとしか思えない
317: 人間七七四年 2009/09/28(月) 01:45:22 ID:56TLjUWL
無理して集めた20000のうち3000が死んだらそらもうつんでるわ
318: 人間七七四年 2009/09/28(月) 07:39:43 ID:2yhG7XE2
1万だろうと2万だろうと伊東軍も所詮寄せ集めだからな
寄せ集めは一旦崩れると脆いし、簡単に分裂しちゃうのは設楽ヶ原の武田や関ヶ原の西軍諸侯が証明している
寄せ集めは一旦崩れると脆いし、簡単に分裂しちゃうのは設楽ヶ原の武田や関ヶ原の西軍諸侯が証明している
319: 人間七七四年 2009/09/28(月) 10:59:36 ID:qNd9Qt/E
義祐のやる気の問題もあるかもね
義益に家督を譲って隠居してたのに、義益が急死したために再び当主にならなきゃいけなくなった。だけど、もうやる気が起きなかったのか、政治の殆どを伊東帰雲斎に任せてしまってる節がある。
それと2万はやはり無理して集めたように思われるな。
島津・北郷連合軍に高原城を攻められた際、救うための軍を出したにも関わらず恐れて一戦も行ってない。
敵は3万+1万を動員したとされているんだが、伊東は2万が動員できるなら倍くらいの兵力差なら勝利した戦いなんて世の中に数多あるんだから、奇襲を用いるなどして戦えばいいようなものだが行ってないところをみると、急遽動員できなかったとか木崎原で失われたとかを考慮したとしても、飫肥役の2万は無理してかき集めた感がある。
それに加え、奇襲を用いれるような軍事に長けた人物が失われてたんじゃないかとも思われる。
まあ元々そんな戦法を用いれるほどの人物がいなかったのかも知れんけど。
義益に家督を譲って隠居してたのに、義益が急死したために再び当主にならなきゃいけなくなった。だけど、もうやる気が起きなかったのか、政治の殆どを伊東帰雲斎に任せてしまってる節がある。
それと2万はやはり無理して集めたように思われるな。
島津・北郷連合軍に高原城を攻められた際、救うための軍を出したにも関わらず恐れて一戦も行ってない。
敵は3万+1万を動員したとされているんだが、伊東は2万が動員できるなら倍くらいの兵力差なら勝利した戦いなんて世の中に数多あるんだから、奇襲を用いるなどして戦えばいいようなものだが行ってないところをみると、急遽動員できなかったとか木崎原で失われたとかを考慮したとしても、飫肥役の2万は無理してかき集めた感がある。
それに加え、奇襲を用いれるような軍事に長けた人物が失われてたんじゃないかとも思われる。
まあ元々そんな戦法を用いれるほどの人物がいなかったのかも知れんけど。
320: 人間七七四年 2009/09/28(月) 22:05:50 ID:VD67OBWH
ハッタリだけで成長したんじゃね?おそらく10万石にも満たない伊東はよく頑張ったけどね
三国が隣り合うカクトウに島津が数百?しか守備兵いないってのも不思議だし
いよいよガチで戦うとなったときに3000が実はいっぱいいっぱいでしたってこと
相良はどっちでもよくて漁夫の利を得ようとしてただけだし
三国が隣り合うカクトウに島津が数百?しか守備兵いないってのも不思議だし
いよいよガチで戦うとなったときに3000が実はいっぱいいっぱいでしたってこと
相良はどっちでもよくて漁夫の利を得ようとしてただけだし
321: 人間七七四年 2009/09/28(月) 23:05:06 ID:qNd9Qt/E
ハッタリで成長はあると思う。
伊東の飫肥侵攻に堪りかねて島津貴久が足利家に和睦の調停を頼んだんだが、伊東祐堯が賜ったという御行書を確認した幕府からの使いが、当時の将軍が滅多に使わない言葉使いが多いから偽書の疑いがあると言ってる。
その御行書を本物と思い込んでる連中を煽って島津攻めを行ってたとすれば正にハッタリだけで成長したと言えるんだよね。
ただ3千がいっぱいいっぱいというのはないと思う。
木崎原合戦のあと、島津義久が肝付氏の入船城を囲んでたのだが、落とせないまま1年3ヶ月経った頃のこと、伊東の援軍1万が来ると聞いて、ずっと城が降伏するのを待っていたものを、急遽城将の安楽兼寛と和議を結んでこれを開城させてる。
実際、木崎原戦時点で3千がいっぱいいっぱいだったら、1万の援軍がハッタリだと思って義久もそんな動きはしないだろう。だからそれはないと思う。
義弘が養子に入ってた豊州家の飫肥城は、ずっと伊東の攻撃に晒されてたんだから3千程度の兵力しかないならそういう情報は義久にも伝わるはずだし。
それに伊東の木崎原侵攻は夜襲だからね。
夜中のうちに鬼塚原抜けて真幸盆地に降りて妙見原に達して、それで尚且つ飯野城に気づかれないようにその先の加久藤城を攻撃してるわけだから。
で、それをやろうとすると人吉街道という大きな街道は通れない。
人吉街道をそのまま進むと飯野城にブチ当たるコースになってる。
敵に悟られにくくするために大軍を擁することはしないだろうし。
伊東の飫肥侵攻に堪りかねて島津貴久が足利家に和睦の調停を頼んだんだが、伊東祐堯が賜ったという御行書を確認した幕府からの使いが、当時の将軍が滅多に使わない言葉使いが多いから偽書の疑いがあると言ってる。
その御行書を本物と思い込んでる連中を煽って島津攻めを行ってたとすれば正にハッタリだけで成長したと言えるんだよね。
ただ3千がいっぱいいっぱいというのはないと思う。
木崎原合戦のあと、島津義久が肝付氏の入船城を囲んでたのだが、落とせないまま1年3ヶ月経った頃のこと、伊東の援軍1万が来ると聞いて、ずっと城が降伏するのを待っていたものを、急遽城将の安楽兼寛と和議を結んでこれを開城させてる。
実際、木崎原戦時点で3千がいっぱいいっぱいだったら、1万の援軍がハッタリだと思って義久もそんな動きはしないだろう。だからそれはないと思う。
義弘が養子に入ってた豊州家の飫肥城は、ずっと伊東の攻撃に晒されてたんだから3千程度の兵力しかないならそういう情報は義久にも伝わるはずだし。
それに伊東の木崎原侵攻は夜襲だからね。
夜中のうちに鬼塚原抜けて真幸盆地に降りて妙見原に達して、それで尚且つ飯野城に気づかれないようにその先の加久藤城を攻撃してるわけだから。
で、それをやろうとすると人吉街道という大きな街道は通れない。
人吉街道をそのまま進むと飯野城にブチ当たるコースになってる。
敵に悟られにくくするために大軍を擁することはしないだろうし。
322: 人間七七四年 2009/09/29(火) 16:37:04 ID:lFSgyzHL
鹿児島市と宮崎市
まさに鹿児島が栄えていて宮崎は衰退している
やっぱ国力がウ〇コだったんだろうね
まさに鹿児島が栄えていて宮崎は衰退している
やっぱ国力がウ〇コだったんだろうね
324: 人間七七四年 2009/09/29(火) 22:51:54 ID:UwmnCfrU
西南戦争でも宮崎はババ掴んだ。
あれで没落した商人は多かった。
まー明治の開拓地も多かったがな>宮崎
あれで没落した商人は多かった。
まー明治の開拓地も多かったがな>宮崎
325: 人間七七四年 2009/09/29(火) 23:46:17 ID:oy/gAn2z
宮崎地方は小藩ばかりで強いリーダーシップとれる藩が無かったからな
旧藩の経済力や政治力を利用してインフラや官製施設を優先的にもって来らせる事が出来なかったのがなぁ
旧藩の経済力や政治力を利用してインフラや官製施設を優先的にもって来らせる事が出来なかったのがなぁ
326: 人間七七四年 2009/09/30(水) 00:20:04 ID:TW202v3k
宮崎出身だがちと言い訳させてもらう。宮崎は一見太平洋に面して明るい感じがするが実は山がちな地形であり最大の宮崎平野でさえ大した生産力もなく、さらには北に延岡平野、南西に都城盆地あり、国は南北にひょろ長く、しっかりした生産力に裏打ちされた統一を可能とする突出した政治的軍事的勢力を生み出せなかった。
328: 人間七七四年 2009/09/30(水) 00:26:06 ID:TW202v3k
県央に伊東あれば県北に土持あり、更に西の方三田井あり、南西に北郷あり。
332: 人間七七四年 2009/09/30(水) 01:00:36 ID:DStj4o0E
>>328
北原、新納、豊州島津は無視ですか そうですか
北原、新納、豊州島津は無視ですか そうですか
329: 人間七七四年 2009/09/30(水) 00:29:57 ID:TW202v3k
一国統一を果たさぬまま、周辺の強豪に確固撃破される形となった。同時代の信濃などに酷似する。
305: 人間七七四年 2009/08/17(月) 13:40:15 ID:YoRzpHsp
伊東氏ってもとは赤橋守時の遺臣?
曽我氏を含めた工藤一族は一番ごろごろしてるきがするけど
曽我氏を含めた工藤一族は一番ごろごろしてるきがするけど
306: 人間七七四年 2009/08/17(月) 18:30:35 ID:2TY1uw+Z
初代祐時は曾我物語で顔出すくらいだからそんな後の人間じゃないでしょ
307: 人間七七四年 2009/08/17(月) 21:50:29 ID:YoRzpHsp
でも伊東氏の日向土着って南北朝時代の赤橋登子の代官としてでしょ
日向伊東氏の誕生
祐経の子・祐時は伊東を称し、その後子孫は全国に広まった。主だったものでは、祐時の子・祐光の子孫が日向国へ下向したのちの日向伊東氏がある。
日向伊東氏と日向国の関係は、「曾我兄弟の仇討ち」で殺された工藤祐経の子伊東祐時が、鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられて庶家を下向させたことが始まりである。これらはやがて田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏として土着し、土持氏など在地豪族との関係を深めながら日向に東国武士の勢力を扶植していった。
日向を支配するようになったのは、建武2年(1335年)、足利尊氏から命じられて日向に下向した伊東祐持(すけもち)からである。祐持は足利尊氏の妻・赤橋登子の所領であった穆佐院を守る為、日向都於郡300町を賜ったと言われている。
祐経の子・祐時は伊東を称し、その後子孫は全国に広まった。主だったものでは、祐時の子・祐光の子孫が日向国へ下向したのちの日向伊東氏がある。
日向伊東氏と日向国の関係は、「曾我兄弟の仇討ち」で殺された工藤祐経の子伊東祐時が、鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられて庶家を下向させたことが始まりである。これらはやがて田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏として土着し、土持氏など在地豪族との関係を深めながら日向に東国武士の勢力を扶植していった。
日向を支配するようになったのは、建武2年(1335年)、足利尊氏から命じられて日向に下向した伊東祐持(すけもち)からである。祐持は足利尊氏の妻・赤橋登子の所領であった穆佐院を守る為、日向都於郡300町を賜ったと言われている。
345: 人間七七四年 2009/10/03(土) 10:10:56 ID:AzIUYPnt
何を血迷って日薩隅三州太守なんて名乗ったのか?
島津は守護として主張した面があるが伊東は馬鹿なだけ?
その程度の政治力なんだろうな
島津は守護として主張した面があるが伊東は馬鹿なだけ?
その程度の政治力なんだろうな
346: 人間七七四年 2009/10/05(月) 01:11:49 ID:xqEU9kp4
島津もお互い様だよ。守護権力が元から軽いんだから。
三国守護は島津の暴走を収めるために幕府がとりあえず与えた破格のもので、最初から中身は伴ってないというか、むしろこんな半分名目だけの守護職を貰ったせいで、渋谷、伊東、土持、肝付といった連中から敵視されるようになったわけで。
三州太守のようなホラ話を吹く素地は元々出来てたとしか言いようがない。義祐があほなのは別にして…。
三国守護は島津の暴走を収めるために幕府がとりあえず与えた破格のもので、最初から中身は伴ってないというか、むしろこんな半分名目だけの守護職を貰ったせいで、渋谷、伊東、土持、肝付といった連中から敵視されるようになったわけで。
三州太守のようなホラ話を吹く素地は元々出来てたとしか言いようがない。義祐があほなのは別にして…。
348: 人間七七四年 2009/10/05(月) 10:03:14 ID:/BK54QCX
三国守護は鎌倉以来だろ
347: 人間七七四年 2009/10/05(月) 01:41:13 ID:vPKzMLac
元は名門の関東武士だからなあ>伊東
島津は藤原というが恐らく地侍だ、当家は格上だという意識は代々伝わってたろうよ。
島津は藤原というが恐らく地侍だ、当家は格上だという意識は代々伝わってたろうよ。
349: 人間七七四年 2009/10/05(月) 11:42:29 ID:rMcSlEFA
ヨシスケがアホなのは皆同意なんだね
かわいそうに
かわいそうに
350: 人間七七四年 2009/10/07(水) 06:44:59 ID:zvxpSE6Q
判断材料を残しすぎてるんだよw
糾弾文とか自筆の文章とか
糾弾文とか自筆の文章とか
351: 人間七七四年 2009/10/10(土) 00:35:40 ID:/DcygCSF
伊東家で一番有名なのが遠縁のマンショだったりするのはかなしひ。
352: 人間七七四年 2009/10/11(日) 09:04:02 ID:P8IyUS6Y
義益が急死しなかったらだいぶかわってたのかな
そうでもないか
そうでもないか
353: 人間七七四年 2009/10/11(日) 11:33:38 ID:Va6ApFP8
義益が死ななかったら義祐もああまで腑抜けにはならなかっただろうが、所詮イフの話だからなー

日向伊東氏はその数少ない例の一つだ。