1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/08/26(金) 23:41:11.89 ID:KIicI+xT0
以下、テンプレ

Q : 西郷さんは鐘のように大きな人格だと聞きましたが。

A :
西郷のことをよく知る人で、重野安繹(しげの・やすつぐ 後に東大教授)がいます。
彼は西郷と同じ時期に奄美に遠島になっていた人です。
『重野博士史学論集』下巻(薩藩史研究会編、雄山閣、1939年)のなかに、「西郷南洲逸話」というのがあります。
彼から見た是々非々の立場からの西郷評論ですね。

「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」

重野も奄美で現地妻を娶り、二人の子供がいた。
放免になって鹿児島にもどった後、当時の金で250円という大金をもって奄美に迎えにいった。

当時、「必ず迎えに来る」といった薩摩藩士で迎えに来たためしはなかったので、その女は島の若者と再婚して妊娠中だった。重野はしかたなく、持ってきた金を全額、女に与えて帰っていったという。

この重野の誠実さに比べると西郷の『敬天愛人』は、かなりいいかげんと見ていいだろう。
(西郷は、現地妻を捨てましたからね。)








15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/15(木) 08:43:24.20 ID:fXlcyYad0
大久保との関係について、友情という言葉では言い表せない~みたいなこと言われてるけど、実際どうなんかね?
大久保→西郷はわからんでもないけど、逆がいまいちわからん

21: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/16(金) 13:52:26.54 ID:jLoLUugO0
人間関係なんて主観的なものだから史料読む人によるよ
同じもの読んでも単に仕事上の立場や意見の違いとしか思わない人も、ゴシップ好きのオバチャンみたいにいちいち人間関係がーと嬉々として語る人もいる
あと不思議なのは西郷の弟や昔からの友達を「大久保側」と言って信じず、西郷が偉くなってから近づいた人を「西郷側」と見なして信じる人が多いこと

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/16(金) 18:23:09.40 ID:vsTuWhzw0
>西郷の弟や昔からの友達を「大久保側」と言って信じず

それは西南戦争の発端がアレだからじゃない?
大久保に近い人間からすれば、大久保が西郷を暗殺するはずないだろうと擁護するだろうし、その辺割り引いて見るのは妥当かと

まあ、「西郷のことは俺が一番わかってる」と放言してる外野よりよほど信用できると思うけど

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/17(土) 02:01:22.88 ID:Wh0VHOCk0
擁護するっつーより斉彬公の生前から何度となく薩摩の下っ端が勝手に暗殺計画立てちゃ暴走して大久保やその周辺が止めるって流れだし
陰謀論っぽい話が好きな奴って幕末を1867年からしか語らないし、薩摩兵児が全員指示待ち人間で電話もない時代に何百キロも先から西郷大久保がすべてコントロールしてたってファンタジー信じてるよな

24: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/17(土) 14:11:06.39 ID:h4ivkcGw0
>>23
いや、>>22は当時の証言を参照する場合、西南戦争前後の情勢及び証言者の立ち位置から、バイアスがかかってるんじゃないかと一通り疑うこと自体は妥当という話
西郷と大久保が天寿を全うしてたら二人に対する追懐の方向性も違ってたろうし

陰謀論者が組織というものをやたら単純化してしまうのは何なんだろうね
幕末は情報の行き違いとかすれ違いで話がこじれていくのが楽しいのに

29: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/17(土) 16:30:21.64 ID:Wh0VHOCk0
西郷→大久保で仲良かった話って暗殺関係ない方が多くないか?
仲いいっつか西郷視点だと弟その④扱いに見えるけど
上から目線だし説教臭いしw

30: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/17(土) 17:13:22.06 ID:h4ivkcGw0
ごめん。
フワッとした知識しかないから一般論しか言えなくてさ

>西郷視点だと弟その④扱いに見えるけど

このへん詳しく書いてくれると凄く嬉しい

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/17(土) 18:49:29.08 ID:Wh0VHOCk0
>>30
西郷って目下には優しいんで有名だけど弟とかの身内には厳しいじゃん
大久保に対してもからかったり説教したり後者の態度をとることがあったんで、鹿児島では大久保にだけきついこと言うから嫌いだったんだろと解釈する人がいる一方で、東京だとジョークやネガティブ発言ができるほど仲良かったと解釈するからややこしい
このへんが西郷大久保の仲は二人にしかわからんと言われる理由

西郷の大久保評には自分はぶっ壊すのがうまいが大久保は創るのがうまいと言ったとか
自分が死んだら後を継ぐのは大久保だと言ったとかポジティブなのもあるけど

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/17(土) 19:03:05.68 ID:3sqxT/iq0
西郷隆盛ほどその人物がよく判らない人も珍しい
それとは無関係だがあれほどの有名人でありながら写真も(生前に描かれた)肖像画も遺っていないのも珍しい

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/17(土) 19:23:51.37 ID:3sqxT/iq0
下野した後の西郷の政策もよくわからない
例えば板垣退助は大久保利通を嫌っていたが江華島事件や征台の役は高評価するなど、一貫した征韓論者・海外進出論者でわかりやすいが、西郷隆盛は板垣や伊知地と朝鮮半島への侵攻作戦を練るほどの征韓論者であったにも関わらず、江華島事件を倫理的にも許せないのような言い方で非難したと伝わるし

また、内政の基本に関しても大雑把に言えば江藤流・板垣流の近代法と社会契約説に拠る法治国家・立憲国家論に近かったのか、大久保流の官僚制国家論に近かったのかも?だし

38: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/17(土) 23:53:14.19 ID:Q4czAy1J0
結局、自ら作り出した新しき世について行けなかった人間と言うのが俺の評価だな
新しき世を作り出した人間の責任として古き世界に生きる武士達と共に滅んだ西南戦争は彼の最後の舞台としてよく出来ている

39: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/18(日) 06:52:19.32 ID:vgpRXy3t0
しかし西郷から「武士」のニオイってするか?
個人的には、桐野あたりからもあんまりしないんだが
普通の武士界の人間たち(会津のような)とは種類が違う印象

最後にみんな討ち死にしたんで「ラストサムライ」などと美化する者もいるが、ラストはあくまで戊辰~函館戦争だったと思う

40: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/18(日) 12:24:47.80 ID:Er4+1pjh0
会津戦争までだろうな
それ以降の面子、榎本や大鳥、荒井、土方などは旧時代に固執していたわけではなく、行きがかり上、反新政府側に行くよりなかったわけで、もし彼らが新国家のメンバーなら武士を否定しただろう

同様に西郷と鹿児島士族も生きがかり上、反政府側に回るしかなく、政府に居場所を無くしたゆえに不平士族の仲間入りをしたようなもの
政府にとどまっていれば、ふつうに士族の反乱を鎮圧する側だった

41: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/18(日) 12:48:21.99 ID:nbjsK1eE0
会津は江戸時代の武士、薩摩は戦国時代の武士。
薩摩は国内鎖国してたんで気風が戦国期のまま温存された。

42: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/18(日) 13:11:57.05 ID:T2YcM2TG0
>>41
それよく言われるけど幻想だよ
戦国期の薩摩の気風なんて実にところよく分かってない
だいたい鎖国せずに転戦してた時代の気風と、鎖国して戦などしてない時代の気風が同じになるわけがない
そんなの少し考えれば分かること

薩摩藩の独特な気風は江戸時代に入ってからの鎖国環境化で醸成されていったと見るのが順当

64: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/21(水) 20:58:03.40 ID:wga8aIfN0
「西郷隆盛は漠然とした男、対して大久保利通は截然(せつぜん)としていた」と勝海舟が語っている(『氷川清話』)。
「漠然」たる大物である西郷が勝っていて「截然」と細かい大久保は劣る、というのが彼の評価だ。

こんな言葉を真に受けてはだめだ、と江藤淳は言う(『海舟余波』)。
彼は単に西郷を与しやすかった男と見て、高い評価を下しているだけだからだ、というのが江藤説だ。

自分にとって役に立ったから西郷の価値を認め、仮に相手が大久保であれば、慶応4(1868)年4月の江戸開城は、あのようにはうまくいかなかった、と言っている。

確かに西郷には甘いところがあった。慶応4年以後、西郷は精彩を欠くことが多くなった。
逆に大久保の実力が目立つようになった。海舟は薩摩の実力者だった両者の力関係が逆転する時期に西郷と提携することで、幕府側の損失を最小限に抑えることに成功した。

『氷川清話』は今で言えば海舟の談話録だが、インタビューが行われたのは明治30年代。
西郷が西南戦争で戦死し、大久保も暗殺されてから20年もたっている。
全ては昔の話、という調子で海舟はある意味気楽に語っている。が、暢気話とはいえ、西郷、大久保両巨頭の個性の一端は確かに伝わってくる。

65: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/21(水) 21:21:18.62 ID:gRb9rca40
西郷どんほど影響力あった人物はいないからな
西郷どんが下野すると数百人の武官文官が下野
西南戦争では5万も動員した
大久保どんではここまで行かんでごわそう

66: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/21(水) 22:36:01.62 ID:Ow5AriQx0
西郷軍は3万だよ
そしてその大半は強制従軍させられた者たちで、投降、逃亡が相次いだ

67: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/21(水) 23:23:15.99 ID:5U6aDZK30
山県ら日本軍は7万
倍以上動員して戦死者は西郷らと大差ないという戦ヘタ

68: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/22(木) 00:44:20.33 ID:0j2PwER50
そうだろうか?
軍略的に見れば戦ヘタなのは西郷軍かもしれないよ

西郷軍は兵数が少なく、補充もきかないにもかかわらず、人命を軽視した肉弾突撃でいたずらに精鋭を損耗してしまったように思える
いくら相手にダメージを与えても、自らも同等の代償を払っていては、物量で劣る側に勝ち目は無いのは明らかなのに

そもそも兵站を無視した全軍出撃、火力不足が明らかなのに熊本攻城にこだわった精神主義などなど、西郷軍には命を惜しまない兵卒はいても、戦ができる士官は一人もいなかったのではないかと思うほど

69: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/22(木) 01:18:32.76 ID:5Pecht4+0
政府軍の山縣は戦役中あわてたり焦ったりする素振りは一切無かったように見える
本当に勝てるのか?という不安など1パーセントも無かったのかも知れない
単純に戦力を差し引きしていけば、“勝ち”以外の答えは無いのだから

山縣は戦役中に起こった全戦闘について現場の士官に詳細な報告書を提出させている
敵味方の人数、地形、時間、位置や距離、装備、敵味方の使用した弾薬の数、敵味方の損失などなど、詳細なデータを集め、逐次分析すると同時に、将来の対外戦争へ備え膨大なデータベース作りをしていたフシがある

はっきり言って、西郷軍が逆立ちしてもかなう相手ではなかったんだよ

70: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/22(木) 03:07:49.98 ID:7y9y6RNr0
山縣は戊辰戦争で一度占領した城をすぐに奪い返されたりって珍しいミスをやってるので戦上手だったとは思えないが、ふんどし一丁で逃げ回るなど修羅場も経験したので西南戦争の頃には一皮剥けてただろうな

政府軍の戦死者数については、急ごしらえの軍隊で元農民とかも相当いたからじゃないのと思う
へっぴり腰で鉄砲を向ける前に、日本刀で斬りかかられたって話がある一方で、戊辰の敵!戊辰の敵!って叫びながら西郷軍を血祭りにあげた東北出身者も居たみたいねw

72: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/22(木) 10:24:24.18 ID:Og2vHoaz0
西郷さんはいったいどうすりゃ良かったんだ?

73: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/22(木) 14:31:29.42 ID:BjZEFYm60
>>72
武力による政府転覆はあきらめて、板垣退助がそうしたように自由民権運動に活路を求める
百姓や奄美人から全てを奪い、同僚の郷士をも虐め抜いていた薩摩城下士が自由民権運動とははなはだ滑稽ではあるが、それしか道はないであろう

うまくいけば選挙実施後には「西郷隆盛首相」の姿が見られたやも知れない

74: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/22(木) 20:46:04.68 ID:7e9Srbko0
>>73
そんな物分かりの良い奴ばかりなら揉め事も起こらないでスムーズだけど、実際はそうもいかんのよ
新政府についていけない人たちの怒りのマグマが日本中に溜まって、それに西郷自身も囚われてしまっての挙兵だ

75: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/23(金) 08:45:11.22 ID:1crFfA8t0
新政府のやり方が急進的すぎ、新政府上部の人間だけ法外な給料取りすぎ
伊藤博文や岩倉具視らの年収、今の億だからな
どデカい豪邸立てて昼食にも料亭から豪華弁当運ばせ、芸者遊びし放題
そりゃ虐げられてる全国(特に維新起こした藩)で反乱起きて当たり前

76: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/09/23(金) 09:06:32.54 ID:E7pHMDVE0
とはいえ、薩摩士族の場合、政府への反発と大久保への私怨がゴッチャになってるだろ

109: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/06/03(土) 23:06:59.19 ID:wtM1B67c0
一番最初の奥さんとの離婚の原因は西郷家の貧困だって話だが、そのころはもう斉彬の側近になってたんじゃないの?
昇給はなかったのか?

110: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/06/04(日) 03:31:24.20 ID:OOjnIoer0
ない
側近じゃなくてお庭方だし
藩命で江戸や京都に行く場合もわずかな手当しか出ないから逆に貧乏になる

111: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/06/04(日) 08:45:40.32 ID:Ye1QRPrp0
同僚との付き合いで金をバラ巻いて、家に金を入れないタイプだったしね
そりゃあ奥さんだっ嫌になりますわ

113: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/06/08(木) 15:47:54.98 ID:qiqbRNJ20
>>111
付き合いで散財?西郷は酒が飲めないんだが?

114: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/06/08(木) 21:05:34.09 ID:e+CKBxGd0
>>113
付き合いっつーか若い連中が飲んだツケを払ってやったり貧乏人に金を与えて回ったりだね
あと酒が飲めないと言っても薩摩では飲めない方って言うだけで、アーネスト・サトウは西郷と飲んで先に潰れてる

115: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/06/10(土) 18:09:10.34 ID:GhBr7fYD0
そういうのぜんぶ実体の怪しい伝説

生活苦でいちいち離婚するなら、当時の日本中の下級武士はみんな離婚だろ

255: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/06/20(火) 21:58:38.84 ID:D1MHZJWD0
西郷は山県有朋のように「西郷先生のお力添えが必要です」と自分の懐に飛び込んで来る人間は
たとえ思想信条が違っても可愛がる
利用されていると分かっていても、自分の力を利用したいと切望する人間がいることが嬉しくて仕方がないのだろうな

大村益次郎や大隈重信あたりにはそれが無いから西郷から敵視される

大久保利通は、廃藩置県あたりまでの、西郷を利用していた時期は二人の関係はそれなりに良好だったように見えるが、大久保が西郷を利用しなくなって、軍事面で山県の徴兵軍に頼るようになった頃から二人の仲は悪化した

269: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/06/21(水) 07:17:16.93 ID:af/Ki1Rr0
実体は西郷を認めず、西郷におもねって利用しようともしない大隈に対して西郷が私怨を持っていただけ

大隈が
「どんな良案良策でも私のような小物が唱えては誰にも相手にされません。しかし西郷先生の後援がいただければ話は違います」
と西郷におもねって来れば、西郷も大喜びして大隈が大好きになったろう

しかし大隈や大村はそんなキモいことはしたくなかっただけ

その点山県は西郷のどのスイッチを押せばどう動くのか、西郷のトリセツを熟知していて上手く使いこなしていたようだ
陸軍の天皇にまで昇りつめる山県の政治力は伊達ではない

276: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/06/21(水) 07:36:42.16 ID:KhewyLtW0
西郷のこういうのって大隈や大村に対してだけじゃないんだなあ

薩摩時代、西郷は久光の上京プランを聞き
「田舎者で無位無官の久光様が上京しても誰も相手にしてくません」などと言い放ったが、ようは「京江戸での周旋経験のあるオレなら幕府各藩の大物にも顔がきくよ。久光様がおれに頭下げるなら紹介してあげようかなぁ」と言いたいわけで
しかし西郷に頭など下げたくない久光とこじれたという話

280: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/06/21(水) 14:25:26.78 ID:+tZ6ujPF0
久光は官位がなかったために江戸城に入れてももらえず、江戸出府は成功したと言えないんだけどね
これは久光研究家の町田氏が言ってること
久光がどっちかつーと江戸より京都の政局で活躍したわけだし、慶喜が久光を罵倒したのは四侯会議じゃない
なんか両方言ってることが極端だわ

282: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/06/21(水) 20:24:58.94 ID:n7h7KBLs0
西郷は大隈、大村、山県なんて特に何とも思ってないからな
大隈は罵倒されたので生涯恨んでただけで

285: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/06/21(水) 22:47:02.30 ID:O9IH4GMn0
大隈重信は維新三傑にしばしば言及しているが、木戸や大久保を称揚する一方で西郷については冷評していることが多い。
『大隈伯昔日譚』(明治二十八年)では「政治上の能力は果たして充分なりしや否やという点については、頗るこれを疑うのである」と語り、そのために壮士輩が談判を迫り、脅迫状が届いたという。それでも大隈は発言を訂正せず、その後の座談でも西郷の「感化力」は認めながらも批判的である。しかし最後の筆録となった『大隈侯昔日譚』(大正十一年)にみえる西郷評は同情的な傾きがあり、木戸・大久保の人物評とあわせて一つの参考になると思う。

286: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/06/21(水) 22:50:18.88 ID:O9IH4GMn0
西郷は破壊的で建設ではない。すなわち破壊の勇者で建設は不得手であった。
政治は建設的で破壊は力である。だから長き強き封建を破るという破壊的維新には、西郷の力与って大いに力があったが、復古で目的を達した後は浪人してあまり政治には関係しなかった。
そのまま猟でもして余生を養ってときどき陛下の御諮問にでもお答えする位にしていたら間違いは無かったんであるが、非常に情に脆い涙弱い人であって、乾兒(こぶん)が沢山あったからついに乾兒に誤られたんである。
勇者は強者には強いが柔に出逢うと溶けるんで、流石の西郷も乾兒どもには弱かったんである。
この情に脆い結果が西郷の徳をして盛んならしたと同時に、一方生涯の過ちを惹起したと察せられるんである。
これは一つには政治家としての性格でもない、軍人としても戦術家ではない。政治家でも軍人でもなし、一個の自然人で、ただどこまでも忠義一途なんで、国家の為となると、将軍も島津公も眼中にない。
少しも私心無き卓越したる英傑であった。維新前後にはこの種の人が多少は現れたが、古今には甚だ少ないんである。

287: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/06/21(水) 23:12:05.46 ID:O9IH4GMn0
上は大隈重信が死んだ83歳の時に語ったという西郷評である
大隈にしては西郷に同情的すぎるのではないかと思われるが、この本の著者は大隈重信とは別人の新聞記者が書いているので、西郷への配慮と、西郷伝説からの影響(国家のために死んだ云々の美談)があるのかもしれない

少なくとも大隈は「忠義」「徳」などというワードを褒め言葉として使うようなキャラでななかったと思われる

それはともかく、西郷は子分とワンセットで西郷であった、というような内容は重野安繹 『西郷南洲逸話』と一致している

352: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/25(火) 11:36:32.27 ID:44zu4dEM0
西郷さんの問題点

西郷さんは、外遊組留守中は重要な決定は行わない約束を破った
破ったというより、あと少し待てば外遊組も帰ってくるという時に駆け込むように使節派遣を通した
この人が普段偉そうに言ってる“王道”論とはまったく真逆のコソコソ行動
これで外遊組は西郷さんを完全に見放した
外遊組は征韓論を否定したのではなく、西郷さんという“人格”を見限ったのだ

356: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/28(金) 22:20:43.23 ID:HiFi7KBU0
外遊組は薩長閥を守ったってだけだからね
西郷さんはそういう意識は低かった
留守政府の時は土佐や肥前の方が参議が多かった
長州閥の井上や山縣も辞職に追い込まれた

357: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/29(土) 00:58:23.88 ID:tb3fn2Kf0
薩長閥なんてあって無いようなものだからね

山県や井上が失脚に追い込まれたのは、必ずしも長州人だからではなく、大久保に近かったという理由でしょ
このクラスの政府首脳たちが藩閥できれいに分かれたことは一度も無いはず
反乱した江藤、西郷、板垣あたりも藩はバラバラだし、受けて立った木戸、大久保、岩倉あたりもバラバラ
むしろ出身藩の士卒の利益を守ろうとしてたのが西郷、板垣あたりで

358: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/29(土) 20:42:11.57 ID:wvNxlQ+/0
維新後の伊藤井上は、明らかに大久保の子分だし
大隈板垣は「主流派に反対出来れば何でもいい」
山縣に至っては長州閥のトップと言いつつ、子飼いを佐幕藩出身で固めている有様

調べれば調べるほど「藩閥何それ美味しいの」になるのが明治と言う時代

360: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/29(土) 21:01:14.33 ID:dnr5VdW70
>>358
明治の首相にしろ元老にしろ元帥にしろほとんど薩長出身ばかりだよ
他も起用するが要所や主導権は薩長で握るという
昭和になる頃は薩長閥はほぼ消えたけど
明治憲法は軍国主義陥って太平洋戦争で終了するわけだし

359: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/29(土) 20:43:20.64 ID:dnr5VdW70
山県や井上が失脚したのは汚職を追及されたからで大久保に何の関係もない
実権握ってたのはずっと薩長閥だよ
明治十四年の政変でイギリス型政党政治目指した大隈重信を追放しているし
薩長閥を維持し議会にあまり権限を与えたくないのでプロシア型の国家を作ったし
太平洋戦争終了まで続いた

361: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/07/29(土) 21:56:17.35 ID:M3b7g5UN0
>>359
実権握ってたのがずっと薩長閥なら、山県や井上という長州人が失脚させられるのはおかしいだろう

同じ薩摩の西郷と大久保もガチの潰し合いしてるわけで、少なくとも明治六年の政変の時点では薩長閥もクソも無いんじゃないかな

山県はじめ古参の有力者たちが老害化してきてからが藩閥政治の始まりだったと思う
それ以前は倒幕や戊申に何の功績も無い大隈や江藤が大きな顔をしていたわけで

362: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/02(水) 13:22:12.72 ID:/ey+CkJr0
>>1
島津のお抱え学者のお宅、重野は公金横領で島流しになったコソ泥の小物。
西郷を批評するなど、有りえない。
本土に一旦帰り、誰からも相手にされず、島に舞い戻った時は、島の元妻は迷惑だったろうな。

363: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/02(水) 16:08:22.06 ID:a8U2Y0o+0
>>362
Wikipediaだと同僚の使い込みって書いてる

366: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/03(木) 06:11:43.84 ID:x5YGEXqO0
重野って普通に西郷をほめてる文章もあるけどな
ネットに出回ってる文章を都合よく改変して貼りつけてるだけじゃね?

367: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/03(木) 10:52:33.65 ID:rlvfRlD20
重野は西郷という人間をよく分析しているよ
下を読めば、西郷が人格者と言われる理由も、逆に白い眼で冷評される理由もよく分かる

「西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。大度量のある人物ではなかった。いわば偏狭である。それで西南の役などが起こるのである。世間の人は大変度量広い人であったように思っているが、それは浅はかな見方で、本当の西郷は敵を持つ性質で、とうとうこれが為に自分も倒れるに至った。」

「西郷の人となりは、今申す通り度量は狭いが、人と艱苦を共にするというところが持前で、古人の謂ふ士卒の下なる者と飲食を共にする風であった。支那の戦国では呉起(軍事思想家)などがそうであったという。
士卒が手傷を負へば、その傷を啜ったりするようなことは、しはずさぬ(ぬかりなくやる)人物で、自分より目下の人の信用を得ることが多いので、西郷のためならば死を極めてやるという、いわゆる死士を得ることは自然に出来るので、それが面白くてたまらない。
何でも下の者を己の手足のように使ひ廻すのが、一生の手際(自分のおはこ?)と思って居るから、自分も努めてする。幕府を倒すのもそれから起って居る。そうして一時成功したのは、士卒の心を得ているからである。
しかしながら西南の役になっては、それが自分の身を亡ぼす元になって来た。西南の役は西郷に人心が就かなければ、あれ程の事は出来はしないであったろうが、薩摩の者は申すに及ばず、他国の婦女子までも、西郷先生ならばと云って、皆戦争に出る気になった。西郷が人から惚れられるのは、そこに在るのだ。その方には人心があった。」

377: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/05(土) 21:21:50.31 ID:6JKJbPHB0
重野が西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風がある。
西郷が作った敵って誰だよ?誰がひどく憎まれたんだ?
敵だった長州の処分に寛大だったし、江戸も無血開城させてるし、庄内藩にも寛大だったし

378: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/06(日) 00:07:55.74 ID:DhgnRbeM0
重野は以下の人物たちを思い浮かべながらそのくだりを書いたと思われる

島津久光とその側近たち
徳川慶喜
井上馨、大隈重信はじめ新政府の高官多数
大久保利通、川路利良はじめ政府に残った薩摩人

379: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/06(日) 09:45:37.56 ID:tvs3DWWc0
それは考えや方針に違いがあっただけで、敵を作って憎んだに当たらない
西郷は久光と上洛方法で食い違ったが久光に協力してるし、慶喜は新政府に恭順した後は許されてる
井上馨、大隈重信は西郷に好かれてたと思わんが別に何もされてないし、大久保とは韓国問題で意見が食い違ったがそれ以外で対立したわけでない

むしろ逆の敵に思われ、憎まれた事はある
久光は西郷が独断行動したのを怒り島流しにしたし、大隈は説教されたのを何時までも根に持って西郷を攻撃してたし、川路は私学校を潰そうとしてたし
そして適当な重野の評価

380: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/06(日) 11:14:14.29 ID:cbzjv4pw0
人への攻撃性がまともな批判内容のあるものならいいんだが、そうではないから重野は問題にしたわけで

西郷が意固地になって憎む相手、口汚く口撃(悪口を言って貶める)する相手は、もとから自分(西郷)と仲が悪いとか、自分とは価値観が違うとか、自分のことを評価してくれないとか、あくまで西郷の自分本位な感情の発露が原点になっているように見うけられる

381: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/06(日) 11:14:40.08 ID:cbzjv4pw0
久光を憎んだのは、上洛方法の違いからくるものだろうか?
そうではあるまい、西郷にとっての恩師斉彬の政敵であり、実母が斉彬に毒を盛ったなどと言われる人物である
はなから西郷は久光を認める気などなかったに違いない

385: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/06(日) 12:34:10.86 ID:tvs3DWWc0
>>381
じゃあなんで久光の上洛に協力してるの?

386: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/06(日) 12:53:29.60 ID:cbzjv4pw0
>>385
西郷が上洛に協力する姿勢を見せたのは大久保の説得があったから
しかし命令違反などあって西郷は結局協力できてない
久光派は完全に独力で上洛を成功させている
西郷が薩摩の外交を一手に担っていたかのようなことは幻想でしかない

慶喜は戊辰戦争と関係無く恭順の姿勢を見せている
徳川に恨み骨髄だった長州人でさえ慶喜の恭順を受け入れる方向であったのに、西郷の慶喜への対応は常軌を逸しているとしか言えない
慶喜の首を差し出さねば江戸総攻撃も辞さないと言ったのだから

井上は西郷や江藤に追い込まれて辞任したが、その後その西郷や江藤が明治六年の政変で失脚すると井上は政界に復活して活躍している
問題の本質が汚職などではなく、西郷や江藤との確執だったことの証左である

382: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/06(日) 11:15:30.15 ID:cbzjv4pw0
慶喜に対する憎しみも常軌を逸しており、慶喜の首を幕府との講和条件に含めることを最後まで主張したのは西郷である
なぜ西郷がそこまで慶喜個人を憎んだのかは不明だが、もともと慶喜を将軍位に就ける運動をしていたのが島津斉彬であり、西郷も斉彬の手足として奔走していた時期があるので、その後に慶喜が自立し薩摩にとって手強い相手になっていったのが西郷の気に入らなかったのかもしれない
大政奉還では西郷は煮え湯を飲まされ、政局の主導権を失いかけたこともあるので

385: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/06(日) 12:34:10.86 ID:tvs3DWWc0
>>382
慶喜は戊辰戦争を引き起こしたんだが
そもそも恭順がどこまで本心か知らんのに

387: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/06(日) 14:04:37.27 ID:tvs3DWWc0
結局のところ西郷は久光の上洛に反対だったが協力し、戦争を引き起こし戦争状態だった慶喜も江戸開城を条件に恭順を受け入れ、逮捕されるはずだった井上も辞職ですんだ
重野の西郷はとかく敵をつくる性質で、そしてその相手をひどく憎む風があるはまったくあたってない

399: 名無しさん@お腹いっぱい。 2017/08/07(月) 05:43:32.82 ID:ZUUyvGD60
近所の図書館で重野の「西郷南洲逸話」読んでみたけど面白いなこれ
重野が西郷大好きすぎて言葉が暴走してるw熱いぜ

内容は西郷が江戸で斉彬公に指導されてた時や大島に流されて落ち込んでた時に西郷が重野に自分にはこういう欠点があると言って反省してたのを紹介してる話だったわ
「そのことは西郷が話しておった」「古の英雄豪傑も皆そうしたものであろう」とかを省いて引用されるとすげえ悪口みたいに見えるけど、実際の中身は勝田孫弥の伝記と重なるとこが多かった

西郷が敵を作るって話の敵は島津豊後や中山中左衛門で、秩父崩れの残党に育てられたからとのこと
斉彬公が西郷に水戸斉昭の真意を聞いて攘夷だと答えたら、まだまだだなと言われたって話もあった

引用元: ・西郷隆盛とは何だったのか 弐