1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/18(日) 10:13:50 ID:uZ4n2OF80
自分が正妻の子にも関わらず庶兄の目夷に後嗣を譲ろうとして、さらに楚をナメてかかってあっさり捕縛され、オウ水ではお馬鹿な戦闘で敗れてだらに全く持って厚顔無恥だった宋の襄公を語るスレ






襄公[宋]

中国,春秋時代の宋の君主 (在位前 650~637) 。名は茲父。
斉の桓公の死後,覇者になろうとし,襄公 13 (前 638) 年,楚と泓 (河南省) に戦い,敗れ負傷して翌年死去。泓の戦いで公子目夷が楚軍の渡河中に攻撃することを主張したが,襄公はこれを許さず,川を渡り終るまで待ったため大敗した。このことからかけなくてもよい情を「宋襄の仁」という。



3: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/19(月) 00:46:46 ID:yWhZwMTN0
殷王朝の末裔ですかね?

4: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/21(水) 01:23:32 ID:jcszFmSh0
一言で言うとアホだよね

5: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/02/24(土) 03:07:44 ID:lcT4two50
世笑以爲宋襄之仁

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/11(日) 03:32:49 ID:x/9gQ24D0
>>5
宋襄の仁 m9(^Д^)プギャ

って読んだ

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/12(月) 15:23:23 ID:ZNNluy890
やったことは馬鹿だけど、憎めない人。
みんなそう思うから、春秋五覇に入れる人もいるんだろう。

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/16(金) 22:40:24 ID:toHg+08x0
この方、小国の君主を捕らえて生け贄にしちゃった人だよね。
目夷からは「そんなことをするようでは、君の最期はよくあるまい」と言われてその通りの結果に…。

個人的には恐い人のイメージがあるなぁ。
なんつーか、心底哀しげに涙を流しながら
「お前が死ねば全員助かる。だから死んでくれるよな?」
と斬りかかってきたり、とか。
二重人格的というか。

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/31(土) 03:05:38 ID:4ZB8YidFO
この人は前時代的な人間なんだと思う
人間を生け贄に捧げたり、戦争の際礼儀を重んじたために負けるという時代遅れな行動など商王朝の末裔であることを考えるとそう不思議じゃないかも
伝統ある宋がどちらかといえば新興の楚に負けたということは時代が新しいものを必要としていたのだろう

14: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/04/01(日) 17:06:09 ID:w1UH5DX50
桓公が燕に領土を割譲したって話なんかもそうだけど、中国が長く儒教に縛られたのも、そんな行為が堂々まかり通る時代が実際にあったからだろうな
管 夷吾(かん いご)は、中国春秋時代における斉の政治家である。桓公に仕え、覇者に押し上げた。

国内を整備した桓公は、桓公の5年(紀元前681年)魯に攻め込み、領土を奪った。講和条約の調印の際、魯の将軍曹沬は自らの敗戦を償おうと、桓公の首に匕首を突きつけて奪った領土を返還する事を要求した。やむなく桓公はそれに応じたが、斉へ帰った後に「脅迫された盟約など守る必要はない。今一度魯を攻め、曹沬の首を取ってくれよう」と言った。しかし管仲は「たとえ脅迫の結果であろうとも、一度約束した事を破って諸侯の信望を失ってはいけません」と諌め、領地を返させた。これ以降、桓公の約束は諸侯の間で信頼を持って迎えられ、小国の君主達は桓公を頼みにするようになった。


15: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/08(火) 20:18:40 ID:wX1O/VUq0
そういうところ、春秋時代以前って何だか非現実的な感じを強く受ける。

16: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/05/08(火) 23:26:19 ID:uoTukU+40
領土よりも城が優先された時代だから。

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/05/21(月) 16:07:23 ID:WB8z7PBS0
まだ都市国家時代の名残が強い時代だよね。

19: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/03(火) 22:03:13 ID:d+MFdima0
この時期の戦争ってのは、後の戦国時代に比べたら、まだまだのどかさが残っていた。

だから、襄公な人物も存在できたとも言える。

20: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/18(水) 23:52:50 ID:+2z9mIWX0
当時の人々も後世と違って純朴なところが大きかったのかな?

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/20(金) 00:16:59 ID:/gQby+VK0
純朴というより正義感に燃えまくってたんじゃない?
覇者としてこう振舞わなければならないって所にがんじがらめだったとか
斉の内紛を短期間で鎮めた手腕を見る限り、おめめキラキラの夢見がち人間ではない

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/07/23(月) 15:30:07 ID:CTSWVj2V0
まだ牧歌的な気風の時代だから助かっているよな。

31: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/08/19(日) 20:50:17 ID:/dtsErqq0
でも一説によれば五覇に数えられている。

32: 奇矯屋onぷらっと ◆O.K.H.I.T. 2007/08/19(日) 20:52:41 ID:64ez8Lra0
会盟の主催を務めたら覇者という考え方なんだろうな。
名と実が違い過ぎるけど。

33: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/08/19(日) 22:00:03 ID:fIlxGcFO0
会盟を主催できるだけで十分威勢はあると思うが。
問題は仁義を貫いてなお覇者足りえた斉桓公・秦穆公・晋文公のようにいかなかったこと。

35: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/11/01(木) 22:58:08 ID:l6au9Yp+0
>>33
天才たちと比較された秀才って感じか

34: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/08/23(木) 02:05:36 ID:ndi3gegc0
亡国の末裔の上、小国という悪条件で、楚に無茶苦茶にされたとはいえ一応、会盟開いてるからな
やはりひとかどの人物であったのではなかろうか

37: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/01/07(水) 20:26:35 ID:Efvk3P2n0
覇者(会盟主催者)って反楚軍事連合みたいな面も大きかったからな
斉桓が死んで、楚の脅威に対抗するために、誰か代りが必要だと思ってちょっと無理して頑張ったんじゃあるまいか

38: 名無しさん@お腹いっぱい。 2009/11/22(日) 14:17:11 ID:hReZ4NljO
良い意味でノーテンキな人だと思う。新興国の鄭や異民族の秦・楚を目の敵にしてきた姫姓でない宋国。姫姓は“衰退の運命”だから火中の栗を拾う英雄は自分しか居ない!…と思ったのだろう。

41: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/06(土) 23:42:51.99 ID:cmInOs4S0
「宋襄の仁」と「敵に塩を送る」の違いは?
宋襄の仁

宋の国民は大いに怒り、成王の無礼を正すために楚に挑戦することになった。楚軍は首都郢を発し、襄公はこれを受けて決戦の地に宋国内の泓水のほとりを選んだ。

やがて楚軍が現れ、川を渡り始めると宋の宰相の目夷(子魚)は「まともに戦えば勝ち目はありません。楚軍が川を渡りきって陣を完成する前に攻撃しましょう」と進言した。しかし襄公は「君子は人が困っているときにさらに困らせるようなことはしないものだ」と言ってこれを退けた。目夷は「ああ、わが君はいまだに戦いを知らない」と嘆いたという。

果たして、川を渡りきった楚軍は陣を完成させ、宋軍を散々に打ち破った。襄公自身も太股に矢傷を負った。このことから、敵に対する無用の情け、分不相応な情けのことを宋襄の仁(そうじょうのじん)と呼ぶようになった。

ただし、宋襄の仁を批判しているのは『春秋左氏伝』であって、『春秋公羊伝』では襄公が詐術を使わずに堂々と戦ったことを賞賛している。

襄公は、この戦いで受けた矢傷がもとで、2年後に亡くなっている。

42: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/07(日) 01:50:22.06 ID:TUGOJTKn0
余力のある時に敵に塩を送っても別にこっちは困らない。
宋襄の仁は弱い所を攻めないで結果負けてるから拙い。

43: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/08(月) 13:30:08.55 ID:sADbbLwsO
なんせ宋襄の仁の場合、礼徳としては優れた有様ではあるが、戦術という観点からは只のアホウというどうしようもないモンだからな。

45: 名無しさん@お腹いっぱい 。 2011/08/09(火) 07:26:34.72 ID:jeZtT76C0
>>43
でも泓水の戦いが行われた当時の宋や楚は、殷王朝以来の古礼を重んじる国だったから、渡河中の敵を叩いたり、あるいはそれに備えるという発想そのものが双方に無かったのかもね。
もっと言えば、菅仲以外に「戦術」を考える者がこの当時にいたかどうかすら疑問だが。

46: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/09(火) 18:59:15.06 ID:ahbRQ6RF0
そういう説もあるようだけど、一方で楚と言ったら俺は蛮族だから周の天下など知った事では無い、と言って勝手に王号を名乗ったりもする訳だ。

44: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/08/08(月) 23:01:27.00 ID:QMfePXiK0
ただ宋ってこの規模の国にしては結構戦国時代中期まで残ってるよね
負けはしたが、国家国民がよりどころを失う=亡国に向かうような負け方はしていないと言えるかも

48: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/09/21(水) 20:55:04.07 ID:hZoi8fjf0
>>44
この子孫の最後が宋襄の仁とは正反対のDQN
康王(こうおう、? - 紀元前286年、在位紀元前329年 - 紀元前286年)は、中国戦国時代の宋の第34代で最後の君主。紀元前328年に兄の剔成君を軍事クーデターで追放し、君位を簒奪し宋君となる。そのためか剔成君には諡号が与えられていない。

即位10年の紀元前320年、各諸侯が王号を相次いで称する時勢に乗るかのように、宋君としては最初で最後の王号を名乗った。これ以後、宋王偃は斉の属国の滕(姫姓)を滅ぼすなど、周辺各国に対して自国の国勢に見合わぬ軍事行動を展開した。

このことで外政に自信をつけた宋王偃は、内政でも神を祀った祠を焼き尽くし、大地に鞭打ったり、民衆に暴虐を行い、臣下の美貌の妻を奪ったり、諫言する臣下には容赦ない仕打ちを行うなど恐怖政治を敷き、ほしいままに暴政をおこなった。そのため、国の内外から「宋の桀」と呼ばれたという。

そのような状況で諸侯から「宋王は殷の暴君である紂王の子孫であり、その再来だ。協力して誅滅すべきだ」との口実で国を攻められるが、宋の民は、王の暴政を恨んでいたため、国のために戦うことはなかったという。紀元前286年、斉・魏・楚の連合軍にあっけなく敗れ、宋王偃は殺され、宋は滅亡した。


49: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/06(日) 01:49:26.93 ID:C/KpF3oB0
斉の桓公が脅されて領土を割譲し信義を立てたように宋襄の仁も敗れて襄公の信義が立った
怪我せず長生きしてればもう少し称えられただろう

もっとも勝っていれば
晋の文公の三舎を退くに匹敵する故事になってただろうけど
文公(ぶんこう)は、中国春秋時代の晋の君主。姓は姫、諱は重耳(ちょうじ)、諡は文。晋の公子であったが、国内の内紛をさけて19年間諸国を放浪したのち、帰国して君主となって天下の覇権を握り、斉の桓公と並んで斉桓晋文と称され、春秋五覇の代表格とされる。

放浪時代

楚の成王は、亡命公子の重耳を同格の国の諸侯と同じ格式でもてなしたが、悪戯心から「もし貴方が国に帰り、晋の君主になることができたら、私に何をお返ししてくれるでしょうか?」と尋ねた。
重耳は「もし王と戦うことになったら、軍を三舎(軍が3日で行軍する距離)退かせましょう」と答えた。これを聞いた成王の家臣の子玉は、亡命公子に過ぎないくせに楚王に向かって生意気であると憤り重耳を殺そうとしたが、成王は「天が興そうとするものをどうして止められようか」と子玉を止めた。

覇者として

文公2年(紀元前635年)、反乱にあって逃亡してきた周の襄王を保護し都の反乱を鎮める。

文公5年(紀元前632年)、楚に攻められた宋を救援するため軍を発する。成王と対陣したが成王は分が悪いと見て軍を引き上げた。しかし楚軍の中でも子玉だけは退かず晋軍と決戦した。
戦いが開始され、文公は約束通りまず全軍を三舎退かせた。その後一旦撤退し、城濮の地で子玉と対決しこれを打ち破った。
これを城濮の戦いと呼び、これにより文公の覇者としての地位が決定付けられた。


50: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/06(日) 03:10:40.43 ID:DWoP2UbE0
そう勝っていれば何の問題も無い。負けたのが全て悪い。

51: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/06(日) 14:13:06.79 ID:NpkzxAdCO
文公が三舎退いたのは自軍が有利な地に楚軍をおびき寄せるためっていう説もあるけどな

52: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/06(日) 21:57:53.19 ID:b4HWPy3/O
こいつを五覇にしてるのって確か孟子だよな

つまり孟子は宋襄の仁を王者の所業として肯定してると思うんだけど、今使われている無用の情け的な意味は、孟子を重要視する朱子学上では認められていたんだろうか?

いないからこそ今こういう意味で使われているのかな?

53: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/07(月) 18:37:12.06 ID:2Mz+t/gQ0
孟子が宋襄を五覇に数えてるかどうかは実は孟子の注釈者によって意見が分かれるけど、覇道に批判的な儒教において五覇が称賛されるということはまずないよ
徳治を行うのが王道、実力で治めるのが覇道で、儒教的価値観に照らせば覇道は劣ったやりかたであって、孟子は五霸は夏禹・商湯・周文の三王にとっての罪人だとか、孔子の徒で桓公・文公の事を言う者はないと言ったし、荀子も孔子門下では子供ですら五覇を称することを恥じたと言ってる

襄公を五覇に入れる立場は、仁ていうのは人民に恩徳を施すことなのに、戦争で相手に譲るときに仁を用いたのは仁の意味を理解してないからで、王者の資格がないっていう消極的な意味で覇者に数えたんだろうね
無用の情けには違いないけど、本来の王道・覇道の区別は今日的な用例では失われてるっぽい
春秋のファンサイトとかで、孟子が宋襄を五覇に入れたのは宋襄の仁が儒教的に称賛されるべき行いだったからと説明してるのがあるけど、これはだいぶ誤解してる

で朱熹は孟子集注において宋襄を五覇に含める説と含めない説とを併記した上で、諸侯を伐することは天子の命を奉じてなすべきものなのに、五覇は天子の命によらず勝手に諸侯を伐したと指摘してる
朱熹や朱子学の徒が宋襄の仁に直接言及したかどうかはちょっとわからないけど、肯定的に評価するということはなかったんじゃないかな

55: 名無しさん@お腹いっぱい。 2011/11/08(火) 17:35:34.24 ID:/NuJbUiE0
>>53
そもそも儒教で五覇が否定的に取られていることも知らなかったから、目からうろこ。

58: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/10/04(金) 07:14:56.84 ID:3BLtypjv0
確かにこれは眼から鱗です。
覇道を否定しているのだから襄公を五覇に入れたのは良い意味ではありませんよね。

59: 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/05/17(金) 16:16:11.61 ID:qpZ6PB/h0
人が良いのが悪かった

引用元: ・宋の襄公を語るスレ