1: 人間七七四年 2008/03/08(土) 20:08:53 ID:5YkPWQKJ
「日の本一の律儀者、しかし、律儀すぎるのも非常に困る」と家康に評され、「治部が死んでは生き甲斐が無くなる」と石田三成との友誼を重んじた、佐竹義宣を語りましょう。





佐竹義宣

生年:元亀1.7.16(1570.8.17)
没年:寛永10.1.25(1633.3.5)


安土桃山・江戸初期の武将。常陸国太田を拠点とした戦国大名佐竹義重の長男。母は伊達晴宗の娘で,伊達政宗は従兄弟。

天正14(1586)年家督を継ぎ,豊臣政権下で54万5000石余を安堵される。慶長7(1602)年,関ケ原の戦で徳川側に加担しなかった責めを負い,出羽国久保田の地に転封。2度の領内総検地を実施して,秋田藩20万5000石余の基礎を築いた。

家康と敵対した石田三成と親交があり,三成が反対派による謀殺の危機にあったとき,自ら乗り出して救出した逸話は有名。家康は,これにより義宣を「律義もの」と評したといわれるが,この律義さが,関ケ原での中立的態度をとらせ,出羽への国替えを招いたともいえる。

<参考文献>『秋田県史』近世編上,『徳川実紀』1巻(『国史大系』) 




462: 人間七七四年 2010/10/06(水) 23:08:56 ID:ouciNa1E
軍略では義宣は義重に遠く及ばないな
佐竹義重 
生没年:1547-1612(天文16-慶長17)

戦国・近世前期の武将。幼名徳寿丸,通称次郎,常陸介。1562年(永禄5)家督継承の後,父義昭が形成した常陸を中心とする版図をさらに拡大し,後北条氏の攻勢が強まると結城,宇都宮,那須氏と結んで対抗し,また蘆名氏らを支援し伊達政宗とも交戦した。

90年(天正18)嫡子義宣が小田原に参陣,豊臣秀吉から領地安堵を受けたが,1600年(慶長5)関ヶ原の戦後,秋田へ転封となった。


463: 人間七七四年 2010/10/07(木) 01:26:30 ID:WdcBnVuU
義重評価され過ぎじゃね?

464: 人間七七四年 2010/10/07(木) 02:13:53 ID:WdcBnVuU
佐竹の小さい勢力で関東と南奥の勢力まとめて二正面作戦やってたのはすごいけど、結局北条にも押し負けていたのは否めないよね。

①関宿開城の仲介をやったのは痛恨の戦略ミス。
おかげで北条は下野に侵攻できるようになり、上杉は関東の拠点捨てて撤退してしまい、下野で北条与党相手に延々と戦い続けるハメになって長期的には大損。

②沼尻合戦の戦後処理で、せっかく佐竹派に乗り換えた長尾と由良をかばうことができず、いい様に潰されて、真壁に「手抜きの対応、前代未聞だ」と罵られてる。
その結果、佐野・皆川を経て直接宇都宮まで攻め込まれてる。

③戦略的に無意味な大平城を攻めている間に、伊達に黒川城を落とされて蘆名滅亡。
家督は義宣に移っていたことから、この敗戦を義宣の責に帰する人も少数いるが、義重本人が出陣してるし、義重の選択である可能性が高い。

以上、義重の致命的な戦略ミスを3点。
あまり戦略的発想に長けた人ではなかったと考えられる。
では、戦術的能力は高かったのかというと、これも華々しい勝利とは無縁。

福島正義氏が何十年も前に言ったように、義重の凄かったところは戦略・戦術ではなく、外交の力で佐竹の広大な勢力圏を作ったことだと言える。

466: 人間七七四年 2010/10/07(木) 03:49:42 ID:dWYjgl57
そもそも由良長尾兄弟のいる東上野は沼尻合戦の舞台となる藤岡ラインより北条よりの位置に属するわけで、佐竹側は北条軍を直接粉砕しない限りその場を佐竹サイドで押さえる事は不可能
沼尻合戦以降は藤岡ライン以北にまで北条サイドに加担したり破れて乗っ取られる勢力が増えるのだから。
滝川が関東から去り、徳川北条同盟成立時点で佐竹サイドの劣勢は火をみるより明らかで、上野戦線でも離反続きとはいえ着々と侵略の手が伸び沼尻以降は真田のいる北部以外全て北条のものなんだから

467: 人間七七四年 2010/10/07(木) 06:17:20 ID:AFjGmWc3
北条に下野祇園城を奪われ佐竹の元に逃げて旧領回復を狙ってた小山秀綱が、滝川が上野にきて北条に無理やり祇園城を秀綱に返却させたんだよな。
その滝川が北条に敗れていなくなると、秀綱はそのまま北条に属して佐竹を裏切る。
これで小山氏まで北条版図に組み込まれ宇都宮が危機に陥る。
小山はたしか北条配下になるに当たり条件として弟の結城の家督も要求したんだっけ?
こんな感じで佐竹結城宇都宮連合が破綻寸前。
滝川の敗北が北条の勢力拡大に大きく貢献しちまってたから、佐竹の責任を追及するのも酷だよね。

468: 人間七七四年 2010/10/07(木) 08:13:55 ID:6MlSA3WM
佐竹側と一くくりにするけど別に義重の命令で全軍が進退するわけじゃないしな
義重が一方的に命令出来るのはせいぜい宗家の旗本ぐらいのもの
あくまで洞中での協議の結果を代表して交渉に当たる立場でしかない
例えば関宿の開城なども城主の簗田がそれを望んでいる以上、義重は要請を入れて開城の仲介をするか無視して簗田が滅びるのを傍観するしかない

471: 人間七七四年 2010/10/07(木) 20:10:28 ID:WdcBnVuU
>>468
前半は賛成。
関宿に関しては、謙信の上から目線の命令うぜー、大体下総のことなんてどうでもいいと、思ってた義重と家臣団が主導して、簗田に開城を促した可能性が高いと思っている。
謙信は「関宿が陥落したら常陸が危険になるぞ」と書状を出したが、義重の方はあまり危機感を持たず、冷淡だったと考えられる

469: 人間七七四年 2010/10/07(木) 19:06:10 ID:kQ/vOamp
しかし1576~77年の北条の房総平定と下野進出に際し、関東の反北条サイドの武将は佐竹氏の下に一統し危機感を持って緒家が互いに婚姻関係を結び強固な結束をするに至っている
これ以降の反北条連合の中心的位置にいたのは義重であり、例えば鬼怒川対陣などでもそれ以前にないような結束が見られる。
義重は反北条連合全体を指揮する立場にいたといえるに近いのではないか。
無論反北条勢全体を直轄地域として支配してるわけではないので沼尻以降劣勢が確実になると下野でもボロボロ離反が出てきてるが。

479: 人間七七四年 2010/10/08(金) 18:44:06 ID:T7+lcf0J
>>469
豪族に毛の生えたような諸氏の連合で北条の大勢力に対抗するのは所詮無謀だったのかもしれないな。
上杉や滝川・武田、あるいは徳川や羽柴といった強大な勢力との連携がないと北条を利根川の向こうに押し返すのは無理だったろうね。

470: 人間七七四年 2010/10/07(木) 20:02:30 ID:WdcBnVuU
>義重は反北条連合全体を指揮する立場にいたといえるに近いのではないか。

近い、とは言えると思うけど、義重が指図できたのは三家くらいか?
佐竹の真の勢力範囲って久慈川中・下流域だけかもしれない。
大山氏とか、那珂川沿いの佐竹一族への指揮権も、かなり限定的なものだったみたいだしね。

475: 人間七七四年 2010/10/08(金) 07:33:05 ID:IsEQ4wvP
>>470
三家もかなり権限が強かったみたい
義久と義重の取り交わした起誓文でも「南郷での事は何事も義久と相談して取り決める」というような一文がある
つまり東家の担当区域に関しては義久の承諾なしには義重も命令を行使できなかった
また、手柄を立てた武将に対して佐竹宗家と北家が同時に褒美を与えている事例もある
普通褒美は主君から臣下へくだされるものだが、北家の家臣でもないのに、宗家と同様に褒美を与えている事から見て北家も強い権限を持っていた事がうかがえる

こう言った事は佐竹に限らず洞を形成する関東東北の大名に見受けられる事だ
大小複数の洞によって結ばれた関係は非常に複雑であり外交以前に内交の難しさがあった

484: 人間七七四年 2010/10/09(土) 03:43:05 ID:UMsIq0T/
>>475
佐竹と宇都宮、あるいは佐竹と結城それぞれの洞に両属してる家が多いし、どこまでが佐竹の勢力圏なのか良く分からないよね。
まして三家でさえ独立的だったと聞いたらホント混乱しちゃうよ
よくこんな連中をまとめ上げることができたなあと感心するわ。

IFだけど、佐野宗綱が戦死して養子を佐竹から迎えることに成功してたら佐野氏も佐竹洞中に取り込んだことになったのかな?
やっぱり遠からず親北条派の佐野家臣のクーデターガ起こって、養子は殺されたり人質として小田原に送られたりする可能性が高いか。

474: 人間七七四年 2010/10/07(木) 22:32:43 ID:bvfduu5o
>>470-471
反北条連合は『佐竹氏の下に』一統されたというのは黒田基樹氏始め大体どの本でも書いてると思うが…。
連合軍とはいえ皆好き勝手に動いてたわけではないぞ。
77年に一統された後の反北条連合の動きを見ると佐竹が中心となり鬼怒川対陣、勝頼と連携しての東上野や下総飯沼、関宿、下野榎本小山、常陸牛久、方面の外征など佐竹義重が反北条連合を率いて侵略行動を行っている
沼尻の合戦でも連合軍は会津方面からの援軍を含め相当な数だがこのときも義重が中心的立場で軍事行動を行っているといえるのだから反北条連合全体を動かしていたといえる

476: 人間七七四年 2010/10/08(金) 08:16:19 ID:IsEQ4wvP
>>474
黒田氏は常総の研究に重点を置いていない事を留意しなくてはいけない
佐竹宗家は盟主的な立場に押し上げられてはいたけど、あくまで諸氏は「一定の敬意」を向けていただけで佐竹の命令下に動いていたのではない
佐竹の下に統一されていたのではなく、反北条反伊達の下に統一されていたと見るべき
だから佐竹が諸氏の行動を抑制するような書状は存在しない

477: 人間七七四年 2010/10/08(金) 14:26:31 ID:7xn6h29q
>>476
でも、関東戦国史とか東国の戦国合戦でも同様に書かれてないか?
反北条の元一統『一つの束ねる』という事は束ねる元となる中心人物がいなくてはならないのが
自明の事で、その後の軍事行動は文字通り佐竹義重が総大将として下野南部や下総北部、常陸南部、上野東部などへ外征してるわけで、これは事実上反北条連合の長となったと見ていいだろう。
一統後反北条連合内部で結城も宇都宮も那須も壬生も皆好き勝手には動いていない。
堅密な連携と一体となっての軍事行動が行われている。

478: 人間七七四年 2010/10/08(金) 18:32:38 ID:T7+lcf0J
>>474 >>477
『東国の戦国合戦』を引っ張り出してみたけど、市村氏の記述は最大限で「反北条連合の中心である佐竹義重」程度だよ。
黒田氏は本当にそんなこと書いてるのだろうか。記憶違いかも。

「堅密な連携と一体となっての軍事行動」なんて、物凄いことは一度もやってないと思う
義重が連合の中心となったとか、連合を「主導」したと言うことはできるけど、「一統」したとか、そこまでは誰も思ってないだろうが「支配」したなどとは到底言えない。
>>474で挙げられてる義重の「外征」「侵略行動」も、ほとんど放火・略奪してまわってるだけなんだよね。

諸氏の独立性が極めて強い「洞中」の常陸・下野・下総の社会では、その特質として防衛はめっぽう強いが、それをまとめて攻撃的な軍隊として運用することは至難のわざ。
旗下の諸氏にめいめい放火させるのは、洞中連合の特性に合った攻撃方法と言えるのかもしれない

反北条連合連合成立後も、諸氏の足並みは全くそろわなかった。
元々みんな仲が悪く怨念が溜まってるのに、北条の脅威の一点で結びついてるだけだからね。
那須と宇都宮、大掾と江戸、宇都宮と塩谷、那須宗家と大関・大田原等々の争いが勃発し、義重が調整に大きな手間を使った。
佐竹一族の大山と小場でさえ、少なくとも天正六年まで小競り合いしてる。
諸氏は皆「好き勝手に」動きまくっている。


長くなったが、そんなエゴまみれの諸氏をなだめたり脅したりして、からくも反北条連合を纏め上げ、北条に対抗していた義重はすごいってこと。

481: 人間七七四年 2010/10/09(土) 01:06:44 ID:9W8mNhsq
>>478
戦国北条一族では佐竹氏の下に一統された、と確かにあるよ。
いやいやよく調べてみ。佐竹ら反北条連合は77年の鬼怒川対陣、その後勝頼と連携して北条方の下野榎本小山足利館林~下総関宿、森屋、飯沼~常陸牛久、土浦など広範囲にわたって断続的に攻撃し、北条は戦力の拡散を余儀なくされている
反北条の成立は77年頃。これ以降沼尻まで反北条連合内部で大々的に内輪でもめてたっけ?
むしろ勝頼と手を組んだ時期なんて皆川や壬生など反北条側に寝返る勢力がぞろぞろ出てきてるし、結束間が強まってるようにしか見えないけど。
沼尻以降は北条の戦略的優位が決定的になってボロボロ離反出てきたがそれまでは少なくとも一体となって北条の前進を阻み、勝頼と連携した時期は侵略までしている(実際飯沼城など攻略されてるし)

480: 人間七七四年 2010/10/08(金) 20:35:38 ID:z+jAN782
古河公方や関東管領職や陸奥探題みたい公的な広域指揮権が佐竹にあったらもう少しうまくいったんじゃないかな。

483: 人間七七四年 2010/10/09(土) 02:47:08 ID:UMsIq0T/
せめて佐竹の本領がもうちょっと広かったら、歴史が色々変わってたんだろうなとおもうよ。

487: 人間七七四年 2010/10/09(土) 05:07:11 ID:gEI4/R6r
佐竹直轄10万石程度だもんなぁ。
結城や小山らも傘下に入ろうなんてプライドが許さんもんなぁ。
まぁ宇都宮佐竹の婚姻の力がジワジワでてきて、養子が結城に入った時点でかなり発言力は強化できたろうけど。
しかも岩城、葦名にも子供入ってるからねぇ。
このころの佐竹になると盟主に近い立場になるんかな?
ただ葦名重臣達は佐竹の支援は受けたいけど当家は佐竹の風下には立たん!
佐竹の命令は聞きたくないわみたいな自己中っぷりが激しいが

488: 人間七七四年 2010/10/09(土) 10:00:06 ID:Y9AwTGEm
そもそも戦国大名化というのは諸氏の特権を弱め、大名の下に集権化するという事にあるけど、それに強く反発したのが北関東などの諸氏なわけだ
彼らは後北条氏の支配を受けて自立性を失う事を恐れ、皆、中小勢力であったから寄り合って反抗勢力を形成し、その中で比較的国力と家格が高かった佐竹が中心となっていった
つまり諸氏は自家の特権を守り自立性を維持する為に集合したわけであって、佐竹が諸氏を従えて命令を下すような事になればそれは重大な裏切りであり、そもそもそんな事をすれば後北条に従うのと大差なく、反北条同盟の意味がなくなり瓦解する
だから佐竹の独断で進退するような事は有り得ないのだ
対北条や伊達への防戦の為に呼び掛けて諸氏を集める事は出来ても佐竹の都合で集める事はできない
まして敵方に対して犠牲を惜しまず打ち掛からすような命令もできない
だからいつも「攻め」に関しては消極的にならざるをえない
彼らは北条や伊達に対しては共通する危機意識から協力しているが、本来は彼ら同士も勢力を競い合うライバルなのだ
前面の敵に対すると同時に横に牽制をするという複雑さがある

520: 人間七七四年 2010/12/20(月) 13:13:00 ID:yZ4DRLMq
佐竹家には色々な奴が流れて来てるけど、義宣は面倒見良かったのかな?

524: 人間七七四年 2011/09/07(水) 10:46:10.85 ID:FbDjpbDx
>>1に書いてある逸話って本当なのか?

525: 人間七七四年 2011/09/07(水) 21:06:45.84 ID:XpqAlhbb
三成と仲良かったのは間違いないかと
三成が襲撃された時に助けたの義宣だけだし

526: 忍法帖【Lv=10,xxxPT】 2011/09/08(木) 08:53:25.71 ID:672NtJi8
ああ関ヶ原が絡む大河ではいろんな奴に持ってかれるエピの事ね
佐竹の存在が全くなかった事にされるという

527: 人間七七四年 2011/09/08(木) 20:32:07.32 ID:RuR4nLdg
そういやそうだねw
義宣の一番有名な逸話なのに。

531: 人間七七四年 2011/09/25(日) 02:30:30.75 ID:KxZqS004
でも、正直なところ満足いくような映像化って今まで見たことないし、下手な話し作られるよりは埋もれていた方が幸せかなと思う
研究書でも大量に出してくれれば満足です

539: 人間七七四年 2011/11/08(火) 16:32:39.08 ID:GEbDbn1s
味方しようがしまいが関ヶ原で徳川が勝てば常陸から国替えさせられることには気づかなかったか

540: 人間七七四年 2011/11/08(火) 17:10:07.27 ID:mTq/PHop
薄々予想はついてただろうな
佐竹の処分まで二年もかかったのは島津の始末を優先させたからという説を見たことがある

549: 2011/12/19(月) 22:51:24.60 ID:pPh68828
だったら本気で戦えと思うんだけど・・・
律儀なだけで戦いもしなかったんじゃなぁ・・・
島津も逃げる時戦っただけ
あんなの評価出来んわ

551: 人間七七四年 2011/12/20(火) 17:20:58.89 ID:1IhNOnI2
実際の所、関ヶ原当時の佐竹家の評価ってどうだったんだろ?

552: 人間七七四年 2011/12/21(水) 00:47:17.34 ID:9gwTeo4t
伊達と似たようなもんだな
大国だからそれなりに見られていたけど、役職についてないから政権内での発言力は低いと言った感じ
全国レベルの戦で影響力を及ぼすのは無理
例え佐竹が上杉についても大して変化はなかったろうね
東北全部と佐竹が一挙に石田方につくぐらいじゃないと

555: 人間七七四年 2011/12/21(水) 12:32:46.51 ID:Q+P0ICCl
西軍に付くとかギャグ過ぎる
佐竹に何の得もないし
むしろ人質取られてなかったら初めから東軍だったよ

558: 人間七七四年 2011/12/31(土) 09:18:16.50 ID:wM/7dQoi
>>555
西軍についた方が恩賞期待できそうだろ

559: 人間七七四年 2011/12/31(土) 10:44:54.55 ID:jc74g2KG
恩賞以前に生き残れない
佐竹だけ領地が突出しているからフルボッコにされる

560: 人間七七四年 2012/01/02(月) 23:43:08.91 ID:RQH76mKm
あの強大な北条が滅びゆく様を目の当たりにしたからな。
甘っちょろい考えなどありえないでしょ。

614: 人間七七四年 2023/12/09(土) 22:29:21.54 ID:T2HOZLtC
豊臣家勝利の暁には、佐竹には下総、下野両国60万石の加増が待っている

615: 人間七七四年 2024/07/20(土) 15:06:30.62 ID:s7zy+KWZ
佐竹義宣が出羽久保田に転封されたあとの苦難の国づくりを描いた書籍はないのか

引用元: ・困るほどの律儀者、佐竹義宣を語る