1: 人間七七四年 2009/09/01(火) 05:10:44 ID:4XrijlJe
賤ヶ岳の戦いで活躍した七本槍達について語るスレ。

・加藤虎之助清正
・福島市松正則
・加藤孫六嘉明
・脇坂甚内安治
・片桐助作且元
・糟屋助右衛門尉武則(加須屋真雄)
・平野権平長泰

・桜井佐吉
・石川兵助一光








3: 人間七七四年 2009/09/01(火) 07:04:05 ID:y2GZTxai
三本槍くらいに留めておけば「七本槍の地味な人」と言われれこともなかったろうに

6: 人間七七四年 2009/09/01(火) 09:29:52 ID:irej0bgV
関が原以降はすべからく衰退傾向

7: 人間七七四年 2009/09/01(火) 09:47:36 ID:Rb3Rt2Kn
>>6
加藤嘉明や脇坂はむしろ上り調子だろ。

8: 人間七七四年 2009/09/01(火) 10:12:11 ID:irej0bgV
どうせ改易

9: ◆LeD1MMOS.k 2009/09/01(火) 17:42:08 ID:ahsTVM9l
いや、脇坂は幕末に老中まで出したし、維新後は子爵家になって、子孫も落ちぶれることなく裕福な生活してたみたいだよ。

12: 人間七七四年 2009/09/03(木) 06:21:57 ID:KnGersOm
七本槍の子孫のその後を簡単に纏めると…

加藤清正:子の忠広の代で改易、息子達は早世したりして忠広の死後誰も残らず事実上嫡流は断絶。娘など残った一族は庄屋になるなどして離散した。

福島正則:家康死後まもなくして正則は改易され、僅か数万石に減封。
その死後その領地も没収され、子孫達は旗本に身を落とした。

加藤嘉明:子の明成の代に御家騒動が起こって改易されたが、明成庶子の明友が二万石ほどを与えられて大名復帰し、明治に至った。

脇坂安治:七本槍中、唯一改易も減封も無かったが、子の安元の代に譜代大名の堀田家から養子を迎えて当主とした為、安治の血統は途絶えている。

片桐且元:孫の為次に嗣子がなく無嗣改易となったが、且元の弟貞隆の家系が一万石の大名として存続しており、明治に至った。

糟屋武則:関ヶ原の合戦で、七本槍中唯一西軍に与した為に戦後改易。
その後徳川氏に旗本として仕えたというが、子孫がどうなったかは不明。

平野長泰:五千石の旗本止まりで七本槍中唯一大名になれず、子孫も明治まで旗本だったが、新政府の石直しで最後の数年間だけ大名になった。

こうして見ると、大名として生き残った家系も皆最終的には数万石程度にされてるな。
脇坂も老中になれたのは堀田の分家的存在になってしまったからだろうし。

13: ◆LeD1MMOS.k 2009/09/04(金) 00:32:40 ID:QiFZtzgo
当時は血統よりも家系で、養子を迎えるのはどの大名家でも普通にあったでしょ。
血筋として初代の直系子孫が幕末まで続いた事例のほうが少数派だと思うよ。

そういう意味では脇坂家は幕末まで命脈を保ったといえると思う。
関が原で東軍に寝返ったこともあわせて、世渡り上手な家系だと思うけどね。

19: 人間七七四年 2009/09/10(木) 07:12:41 ID:N4F9c2Gy
関ヶ原の時点で
加藤清正:肥後熊本24.5万石
福島正則:尾張清洲20.0万石
加藤嘉明:伊予正木10.0万石
脇坂安治:淡路洲本3.3万石
片桐且元:摂津茨木1.2万石
糟屋武則:播磨加古川1.2万石
平野長泰:大和田原本5千石

清正と正則だけ抜きん出ているが、やはりこの2人は縁故だから秀吉も贔屓したんだろうか?
嘉明は三河、脇坂・片桐は近江出身で、糟屋は元々は播磨の城持ち土豪で直臣ではなく与力だったし。まあ平野は尾張出身にも関わらず全く出世できてないがw

20: 人間七七四年 2009/09/11(金) 03:24:36 ID:gN2cRSmP
そもそも七本槍というもの自体、自分の部下をアピールしたい秀吉の過大な宣伝の賜物で、虚名に近かったんじゃないか。
別にこの七人が賤ヶ岳の戦いでの一番手柄でも無いし。

21: 人間七七四年 2009/09/11(金) 05:28:14 ID:e3+a8Hdk
糟屋武則をもっと厚遇しとくべきだったな
この人が唯一徳川と戦ってくれて秀吉もうかばれたんじゃね
七本槍全員徳川に付きましたじゃあまりにも情けないだろ

24: 人間七七四年 2009/09/12(土) 00:00:21 ID:b11H7LD0
糟屋武則が西軍についた理由って何なんだ?
調べてみると糟屋は奉行としての活動が主だったようだから、その関係で三成についたのかとも思ったが…

それとも小早川や、かつての同僚の脇坂のように周囲の状況のせいでやむを得ず西軍についただけ?

42: 人間七七四年 2009/09/14(月) 01:42:11 ID:PXoOOyto
>>24
>糟屋武則が西軍についた理由って何なんだ?

よくわからないんだよな。大体糟屋には不明な点が多すぎる。
七本槍中唯一正確な生没年が不詳だし(ウィキペディアでは1562~1607になってるが)、関ヶ原本戦でもどこに布陣したのか、どういう活躍をしたのかわからないし。
逸話とかの類もほぼ皆無だし、名字の表記や名前も何通りもあって調べ難いし。
まあ一万石程度にしかなれなかったのと、関ヶ原の敗戦のせいで真っ先に改易されたのが原因なんだろうが。

29: 人間七七四年 2009/09/12(土) 05:46:11 ID:VYRTVDyE
豊臣を守るはずの七本槍のうち6本が徳川につき豊臣を潰すとは
秀吉もビックリですな

38: 人間七七四年 2009/09/13(日) 11:23:28 ID:N2s6pjjV
関が原は豊臣対徳川の戦いではないんだがね
もしそうなら清正や正則が徳川につくはずがないのよ

40: 人間七七四年 2009/09/13(日) 13:32:21 ID:cHYhr88R
関ヶ原で負けた豊臣は家康に222万石から65万石に落とされた
豊臣は「家臣同士の争い」と見てたみたいだが、そんなに甘くはなく家康にやりたいほうだいされて実質の天下人は家康に

41: 人間七七四年 2009/09/13(日) 13:44:47 ID:D3rIz3S8
>>40
豊臣が220万石を維持できなかったのは、関ヶ原の結果奉行制が崩壊し、全国にまたがる豊臣領を維持できなくなったためだな。

しかしその後も大阪は、日本の米の集積地としての機能は維持しているので、実質の部分では変わっていないとも言える。

43: 人間七七四年 2009/09/14(月) 08:27:22 ID:cg1U+9+M
もう豊臣についたとの言い方はやめろ
大体勝った方の大将が負けた方の大将に頭を下げて「勝ちました」と報告に行く馬鹿げた事などあるわけがないだろうが

45: 人間七七四年 2009/09/15(火) 07:07:27 ID:2eGGb4m/
まあ双方共互いの事を豊臣公儀に対する逆賊と呼び合ってたし、豊臣秀頼は一応中立だったからな。
ただ、結果論的にはこの戦いが豊臣政権の完全崩壊と、江戸幕府の成立を招いて豊臣氏を滅ぼす遠因になった訳だから、後世から見れば西軍が豊臣政権擁護の立場=豊臣方と見られるのも多少は仕方ないだろう。

とは言え、三成や毛利輝元達に野心が無かったとは言えない(確実な事はわからんが)から、やはえい完全に豊臣方だというのは不適切だろうが。

46: 人間七七四年 2009/09/15(火) 07:19:41 ID:2eGGb4m/
まあ少なくとも、当時清正や正則などの東軍に付いた五本槍に
>豊臣を守るはずの七本槍のうち6本が徳川につき豊臣を潰す
というつもりは毛頭無かったろうな。
彼等はまさかこの戦いの結果次第では、覇権が豊臣から徳川に移ってしまうなどとはついぞ思ってなかったに違いない。
その事が読めていたのは家康とその側近、そして三成ら西軍首脳や読みの深いごく一部の大名達だけだろう。
清正達から見れば、三成達こそ秀頼を傀儡化して政権を奪おうとする事実上の「政権簒奪者」、家康こそが秀頼を守ろうとする豊臣政権の「保護者」に見えたに違いない。

47: 人間七七四年 2009/09/15(火) 08:26:25 ID:QbKGxz0d
そもそも戦の発端となった上杉討伐の莫大な軍資金を家康が秀頼からせしめてるんだが
それに対し、西軍は軍資金をもらってない
だから東軍=豊臣軍といえなくもないんだよ

49: 人間七七四年 2009/09/16(水) 03:21:18 ID:mEjwBdmm
>それに対し、西軍は軍資金をもらってない
>だから東軍=豊臣軍といえなくもないんだよ

豊臣の蔵入地を一括管理してた増田長盛が、その資金や人員を一切西軍に提供しなかったんだっけ?

とは言え西軍は一応豊臣政権の本拠たる大坂城を押さえ、しかも秀頼側はそれに関して特に文句とか不満は言ってなかった筈。
更に関ヶ原でも一部の豊臣旗本が西軍側で参戦してるからな。
その辺は東西共におあいこなんでは?

50: 人間七七四年 2009/09/16(水) 03:48:56 ID:s6bCrSAX
秀頼周辺は東軍への好意的な中立だな。

ま、武力で大阪城を占拠したような西軍に連中に好意を抱けと言うほうが無理な話だが。

51: 人間七七四年 2009/09/17(木) 06:46:01 ID:QhBL7u7f
七本槍って清正や正則のイメージが大きすぎて全員バリバリの武断派ってイメージがあるが、片桐且元や糟屋武則は経歴を見ると豊臣政権では奉行としての活動が主だな。

52: 人間七七四年 2009/09/17(木) 15:16:24 ID:8tmAN0Da
それをいうなら福島も奉行職の経験多いはず。

68: 人間七七四年 2009/09/21(月) 04:28:13 ID:mGIid5pe
九州で東軍方として戦ってた清正と、大坂で中立の立場を取ってた且元以外の5人は関ヶ原に集って戦ってるのか。

まあ最初は西軍側に2人、東軍側に3人だったのが、最終的には西軍側1人、東軍側4人になっちゃったわけだが。

69: 人間七七四年 2009/09/21(月) 12:28:39 ID:ig7CaYEH
結局 強い力(家康)の前には義理も恩も血縁も関係なくなるってことだ
誰だって死にたくないしな、しょーがない

72: 人間七七四年 2009/09/26(土) 07:30:41 ID:wBKCdFfU
最終的に50万石規模になった者から、死ぬまで5千石の者まで差が大きい。
存命中に改易・減封されちゃったのもいるし。

75: 人間七七四年 2009/10/04(日) 18:45:14 ID:l9GkvaNb
福島と片桐は公式には病死とされてるが、自殺説も根強いよな。
まあ豊臣の為を思って必死に頑張ったのに、結果的には家康に散々利用される形になり、世間や後世から見たら主家を裏切ったように言われる形になったわけだし(福島は加えて改易だし)、自殺したくもなるわなあ…
そういう意味では、豊臣の滅亡を見ずに没した清正は幸福だったかも知れん…

76: 人間七七四年 2009/10/08(木) 14:34:49 ID:tfzMqEzc
片桐は開戦までの豊臣家主戦派の暴走を全く抑えられなかったからな。
責任を感じても仕方がない。

ただ、福島の改易は豊臣家全く関係ない。つーか1度は許されてるのにその後の対応が酷くて
改易って体たらく。自業自得だな。

77: 人間七七四年 2009/10/20(火) 05:55:09 ID:JVaG0JnX
一番悲惨だったのは、改易された福島でも、秀頼を守れなかった片桐でも、結局大名になれなかった平野でも、唯一西軍についたのに報われなかった糟屋でもないと思う。
真に悲惨なのは、やはり七本槍とされている面子と同等の活躍したにも関わらず、そこから省かれてしまった桜井と石川だろう。

現に一応>>1には名前を書かれているが、このスレでも誰も語ってない。

79: 人間七七四年 2009/10/21(水) 14:52:13 ID:k6FHlNtf
>>77
う~ん早死には損という典型だな。

桜井家は1596年に断絶。戦死した石川家は弟が継いだが関が原で改易。
七本槍で桜井・石川を省いたのは「太閤記」だけで、「川角太閤記」「新撰豊臣実録」村井重頼覚書」「長家聞書」では福島を別格で筆頭として、その下に7人を並べている。
石井は省かれたが・・・
「太閤記」が特別なベストセラーとなってしまったため7人が固定してしまったんだろう。

秀吉が全国の大名に自慢たらたらの手紙を出した時や、感状の写しを大量に作ってばら撒いた時は9人だった。

80: 人間七七四年 2009/10/22(木) 07:22:12 ID:HpHYK/xB
そもそも「七本槍」という名称や区別は当時からあったのか否か?

81: 人間七七四年 2009/10/22(木) 10:57:08 ID:EzSCeeQX
>>80
当時はない。賤ヶ岳
当時の最新の書、「天正記」(賤ヶ岳の同年1583年)の中の「柴田戦記」には9人の名前がある。
江戸時代になって出版された太閤記から7本槍と言われた。

82: 人間七七四年 2009/10/23(金) 04:03:25 ID:OVS3BuJY
七本槍ってのは小豆坂七本槍になぞらえたと聞いたが…

83: 人間七七四年 2009/10/23(金) 11:32:09 ID:Pc2Aab9B
確か宇喜多の家臣にも七本槍っていなかったっけ?

85: 人間七七四年 2009/10/24(土) 14:30:42 ID:uu3VkzIx
>>83
八浜七本槍

84: 人間七七四年 2009/10/23(金) 12:18:47 ID:RFXzpSHK
名数って語呂のいい数字にすることが多いよね。
あと、奇数のほうが吉数として好まれるね。

87: 人間七七四年 2009/10/26(月) 13:30:25 ID:l+EgZ1Jp
柴田戦記によると石川一光は大変な短気だったらしいね。
福島正則や加藤嘉明と喧嘩して、くそ~って甲冑も付けずに拝郷家嘉に突っ込んで行ったが頭を槍で一刺しにされ討ち死に。
哀れに思った秀吉が弟に1000石を与えたが、戦功という点では無しに等しい。
後に七本槍から外されたのも仕方ないのかな。

88: 人間七七四年 2009/10/26(月) 14:53:28 ID:wtoZ/Dt8
いや、そりゃ死んでしまったら七本槍もくそもありまへんがな

91: 人間七七四年 2009/11/17(火) 07:03:25 ID:D3aEjgng
豊臣政権化でも、両加藤と福島は出世してるが、脇坂・片桐・糟屋は小大名どまりだな。
平野に至っては…

92: 人間七七四年 2009/11/17(火) 12:05:35 ID:RF11abid
中途採用の小西も出世頭の一人。
要は本人の人事考課。
秀吉は信長の下でそのところを具に見てきたから、かなり能力主義を採用している。
大軍を率いる能力や内政力で出世具合が違ってきて、何年も経つと大きな差になる。
身内に対してもそこのところはシビアだ。

93: 人間七七四年 2009/11/19(木) 07:09:27 ID:axutHp6a
>>92
清正・正則の出世はやはり秀吉の身内だというのもあると思うが。
清正なんか一気に20万石以上の大身になってるし。

94: 人間七七四年 2009/11/19(木) 11:29:12 ID:LPqupQ3v
>>92 >>93
清正は相当にできた人物だったんだろう。正則も酒を飲まない時はね。
他の5本槍は歴史上もなんかを左右するような事はしていないし、身内を特に優遇していないのは木下家の扱いがショボ過ぎるからか

95: 人間七七四年 2009/11/20(金) 04:59:53 ID:ZS1mcD1Q
清正・正則は有能で且つ身内だったから20万石以上になれたんだろう。
多分、身内じゃなかったら嘉明のように10万石規模だったのでは?

96: 人間七七四年 2009/11/24(火) 10:08:49 ID:U/BRIMls
縁故もあったけど能力もあったってことか
清正の熊本城とか後の時代まで評価されているもんなー

97: 人間七七四年 2009/11/26(木) 06:22:38 ID:6ul0WW4T
実際に清正(と行長)の出世ぶりはヤバいものがある。
それまで数千石程度だったのが、先んじて大名になってた三成とかも追い越していきなり肥後半国20万石近くになったわけだろ。
相当光るものがあったんだろうな。

101: 奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM 2010/02/17(水) 23:50:52 ID:ELOKZ9d5
秀吉の意中を察するなら、遠国の加藤小西福島木村に大封を与えてあったり、中くらいの遠さの東海山陽山陰北陸四国に前田蜂須賀生駒中村堀尾生駒が配してあって、周囲を側近で固めておくというスタイルとバランスを上手く作り上げていたつもりだったと感じる。

結果はともかく。

103: 人間七七四年 2010/05/24(月) 04:10:02 ID:RzS9SkyN
>>101
前田は違うだろ。信頼はしてたけどあくまで外様。
豊臣政権で30万石以上の大封を得てたのは外様と秀次・秀長・秀家・秀秋の一族だけでは。
前田にだって大谷、七手組の青木、秀秋の教育係だった山口など牽制・監視役の側近を置いてる。
さらに南下すれば近江は側近だらけ。越後にだって秀吉の盟友だった堀家もいるし。

109: 人間七七四年 2011/04/01(金) 05:18:56.91 ID:vvx+dmui
清正と正則が飛びぬけて出世し過ぎ
でも嘉明もそこそこいったか

116: 人間七七四年 2012/07/01(日) 07:59:57.60 ID:SVlSyARz
ドラマに滅多に出ないのが糟屋

117: 人間七七四年 2014/06/04(水) 22:17:57.61 ID:/qkf0WIp
糟屋平野は数合わせ

120: 人間七七四年 2016/06/16(木) 23:56:18.44 ID:rxzNe5GT
糟屋、平野は資料を集めるだけでも大変だ

123: 人間七七四年 2016/08/14(日) 23:24:03.22 ID:O5afYSli
脇坂安治は韓国でもっとも有名な武将
国境を越えて勇名を轟かせた脇坂安治こそ最大の勝ち組

129: 人間七七四年 2019/04/21(日) 10:02:38.11 ID:J8DxT/JE
会津四十万石、加藤式部少明成。史書によれば、明成民を虐げ財を貪る。好んで一分金を弄び、人呼んで一分殿という。

130: 人間七七四年 2020/02/28(金) 21:54:58.61 ID:84CEBPKE
桜井佐吉だけ子や父も含めた前後の動きがわからんな

131: 人間七七四年 2021/12/21(火) 23:58:24.39 ID:9QoWZmaG
脇坂は譜代にまでなってるしなあ

132: 人間七七四年 2022/09/05(月) 23:59:19.50 ID:LaGIlK/S
譜代になったことが最大の勝ち組か
海外云々はどっちでも

引用元: ・賤ヶ岳の七本槍について語るスレ