1: 世界@名無史さん 2018/06/20(水) 21:25:41.85 0
匈奴=世界帝国








5: 世界@名無史さん 2018/06/21(木) 11:57:44.37 0
倭奴って言われるとむしろ誇りに思うようになってしまったら、貴方も立派な匈奴フェチだw

6: 世界@名無史さん 2018/06/23(土) 16:25:23.28 0
冒頓単于はトルコではメテ、METという
トルコではかってにメテ姓を名乗る不届き者もおるとの情報
匈奴王族のレンテイ家は劉氏に改名したんだからいるわけねーw

7: 世界@名無史さん 2018/06/23(土) 16:31:04.07 0
頭曼単于の頭曼は、一万人の長という意味で、万士長というような将軍号か?

とうじは東胡が強盛で、なおかつ秦の始皇帝がオルドス、河南地方を狙って大軍を送り込み併呑したので、よわった匈奴は東胡にこき使われていたようだ

なお頭曼は秦からオルドスをとりかえしており、むすこ冒頓単于に1万騎を与えて万士長とした

22: 世界@名無史さん 2018/06/29(金) 18:57:24.27 0
東胡王がオルドスの匈奴に要求したのは良馬、美女、広い土地であった
良馬は汗血馬といって西域から手に入れるのでわかる
またドスコイ顔の東胡は金髪白人のよめはんを珍重したのもわかる

東胡の東はツングースであり険しい山で、渤海国も「その地は峡なり」としてる
馬も進めず道もなく遊牧民には美味しい土地ではなかった
歴史

紀元前209年、東胡の隣国の匈奴で冒頓が父を殺し、単于の位を継いだ。これを聞いた東胡の王は冒頓に対し、先代の頭曼単于が持っていた「千里を走る馬」がほしいと要求。すると冒頓は東胡王に「千里を走る馬」を素直に贈った。東胡王は冒頓が自分らを恐れているのだと思い、しばらくして冒頓の閼氏(単于の妻)のひとりがほしいと要求した。するとまた、冒頓は自分の閼氏を素直に贈った。東胡王はいよいよつけあがり、匈奴の西方に侵入し、東胡と匈奴の間にある千里あまりも人が住まない棄て地を要求した。しかし、冒頓は「土地は国の根本だ」と言い激怒。そのまま東胡を襲撃し、匈奴を甘く見ていた東胡はなんの備えもしておらず敗北。東胡王は殺され、その人民と畜産を奪い去られ、ここに東胡は滅んだ。


39: 世界@名無史さん 2018/08/05(日) 23:30:48.70 0
匈奴の人口は、漢の一郡ほどでしかなく、大目に見積もっても数百万というところだが、税収は秋に大会を催し、そこであつまった遊牧民は一部の家畜を取られるだけだった
あまりきびしくすると国も崩壊するのでかなり緩かったと思われる

国家のためには外部に収入を求めることが必要で、お金持ちである漢にたいして冒頓単于が甘い態度に終始したのは、なんとか金を引き出そうという計算でしょう

40: 世界@名無史さん 2018/08/06(月) 03:10:33.93 0
そのあたりの冒頓の感覚は絶妙だったな
稀代の天才だよ、チンギスより上かもしれん

46: 世界@名無史さん 2018/08/30(木) 21:46:28.48 0
大王=大人(族長)

鮮卑・東胡・粛慎と
さらに

大人=可汗となる

47: 世界@名無史さん 2018/08/30(木) 22:44:51.72 0
カマ・タルカンのタルカン(達汗)とカン(汗)の関係は?

48: 世界@名無史さん 2018/08/31(金) 06:36:39.24 0
鮮卑は大人(ダレン)という称号で、東夷のツングース族長でも大人と称した
日本の大王(ダイオウ)や大臣(ダイジン)も大人(ダレン)が変化したものか
なお
やがて鮮卑拓跋部は可寒。可汗号を採用、これはイエニセイ碑文で「カガン」と発音することが
判明しており、漢字以外では最も古い、日本のかな文字と同じくらい古いルーン文字で記述されていた
やがてカン、カーン、カアンなどに変化

49: 世界@名無史さん 2018/08/31(金) 06:42:43.37 0
大人(ダレン)の由来だが満州地方の伝承では、華北の長人(長狄)と同じ意味で、たんに並外れた巨人、超人の意味だ
大人(ダレン)は身長9メートルあったという

56: 世界@名無史さん 2018/09/14(金) 19:34:21.79 0
エニセイ上流あたりの原民族といえばエニセイキルギス・サモエードで入れ替わった様子もない

突厥・トルコの先祖でもあり、匈奴の祖先とも同根だとも言う
なお中国の史書ではキルギスは青い目で金髪で、ヨーロッパ系民族を思わせる

しかし時代が下った現在のキルギス人は南下して混血の末か黒髪化してる
2000年前では、混血化する前なのでおそらく真っ青な目でしょう

このエニセイ川上流は、緑目のパシュトーン人の祖先がいた、とも言われてる
匈奴は緑目であったからグリーンの可能性も否定できない
グリーンの目はブルーより発生が遅く、故に欧州白人ではすくなく中東に多いため差別対象になったりするが、その源流はエニセイ川なのでおもしろい

57: 世界@名無史さん 2018/09/14(金) 23:18:54.96 0
そもそも突厥は匈奴の別種・・・みたいに言及されていたんじゃなかったっけ

58: 世界@名無史さん 2018/09/15(土) 05:13:42.25 0
突厥人は匈奴の古くに分かれた同種異族で、姓はアシナ氏という
これだと貴族だったアシナさんが単に匈奴の一族だったというふうにもとれる
その昔はシベリアの丁零も、冒頓単于に服従していた。匈奴の支配貴族も送り込まれる事もありそう

ちなみにフン語はテュルク語だしシベリアから流れてきた。アッチラ=アシナ氏だと思うんだよな

60: 世界@名無史さん 2018/09/15(土) 19:39:02.21 0
アシナさん柔然の鍛鉄奴隷だったから・・
柔然は、鮮卑の一騎卒とか
完全にドスコイ顔のモンゴル朝昇竜系ですな

63: 世界@名無史さん 2018/09/25(火) 22:43:41.16 0
匈奴の北には丁零(テュルク)西のミヌシンスク盆地には堅昆(イエニセイキルギス)がいた

堅昆についてはよくわかってない

匈奴の北に阿謗歩(アッチラ)を大人(族長)とする堅昆があったが、彼が愚痴であったため、滅ぼされた。
阿謗歩(アッチラ)の兄弟は17人いて、その1人に伊質泥師都という者がおり、のちにこの2人の子から契骨(キルギス)と突厥(トルコ)が生まれた

突厥の語は、かれらがすむ山地が尖った兜に似ていたともあるいは碧い天空を表してる

堅昆は金髪と赤い顔をもっていた。
顔は、主に白人の特徴および一部にモンゴロイドの特徴を有する。
史書は「人々すべてが赤い髪と緑の目をしている」と述べている
男は耳輪をした。また全身に入れ墨(古代日本や月氏もそうだった)
貴族は白いフェルト帽子、貧乏人は帽子はかぶれない


中国の記録によると、彼らはライ麦、エンバク(オート麦)大麦、小麦、キビを栽培して鉄を精錬した
小麦は石臼でひく。彼らの作る金属武器は鋭利である

魚も食べるチョウザメは特に好まれる
また優れた馬を持ち、足も早い
花嫁を買うときに100頭の馬を支払う(お金持ちは100頭~1000頭)
10世紀のペルシアの文献では火を崇拝し死者を焼くとする(ゾロアスター、あるいは仏教の荼毘か)
堅昆(けんこん、拼音: Jiānkūn)は、かつて中央ユーラシア北部に分布したテュルク系遊牧民族。現在のハカス人の祖先に当たる。

『周書』異域伝下では、突厥の起源と共に契骨(キルギズ)の起源にも触れている。

【匈奴の北に阿謗歩を大人(たいじん:部族長)とする部落があったが、彼が愚痴な性格であったため、その部落は遂に滅ぼされた。阿謗歩の兄弟は17人いて、その1人に伊質泥師都という者がいた。彼は特別な力を持っていて天候を操ることができたため、夏神の娘と冬神の娘の2人を娶り、4つ子を授かった。のちにこの4つ子のうち2人から契骨と突厥が生まれた。】

— 『周書』列伝第四十二 異域下


65: 世界@名無史さん 2018/09/26(水) 20:24:08.97 0
周書によれば突厥の先祖はサカだという
サカとスキュタイは同じもの(ギリシャとイランによる呼称)とヘロドトスは言う

スキタイの起源地の議論は、日本の邪馬台国論議と同じで白人の祖先にもあたるからヨーロッパではたいへん関心を集めてるが、やはり東方はるかアジアから移動してきたというヘロドトスの記述をスキタイ文化の発掘結果が裏付けており、ただ殆どが旧ソ連邦の奥で、ソ連はスキタイ人がもとからそこにいて、文明化して共産主義ソビエトを築いたと主張し、これは握り潰された

スキタイがモンゴルの北、エニセイ川の起源であると遺跡が裏付けるならもとを辿ればスキタイ=堅昆でもあったのだろう
堅昆の身体特徴は金髪で赤ら顔、あるいは赤毛で緑目という
まさに白人特徴を持ち、初期の突厥族長も青い目に、赤い顔であった

匈奴の冒頓単于は北方に住んでいた堅昆・丁零・屈射・などを従える

堅昆の大人(ダーレン)である阿謗歩(アゾフ?)が匈奴に滅ぼされてキルギスやトルコはその子孫であるとの記述は一致する

71: 世界@名無史さん 2018/09/27(木) 12:07:06.23 0
堅昆はアファナシェヴォ文化人の末裔に間違いない
匈奴をサカに結びつけるのはやや暴論ではないかなあ・・・

72: 世界@名無史さん 2018/09/27(木) 20:27:59.17 0
匈奴は、黄河屈曲部、オルドス高原の族長で西半分は月氏がいたという
オルドスは長安から500キロほど北になる

このオルドス屈曲部は日本の半分くらいの大きさ
ほとんど砂漠であるが昔は森や草原であった

月氏は遊牧王ではあるが、西域に点在するオアシス都市国家も月氏のものだった
西域の補給基地とされた敦煌は月氏が建設した都市

だから遊牧騎士でもあり都市民でもあり農耕民族でもあった
月氏20万騎といわれるのだから大帝国だ

匈奴の頭曼単于とは「万士長」の意味であったとされ、月氏において匈奴は辺境の1万人の軍、傭兵ていどにおもわれていたようである

75: 世界@名無史さん 2018/09/27(木) 22:30:55.95 0
冒頓単于の時代に右賢王が漢に乱入
単于は「漢の役人が右賢王を侮辱したゆえに乱暴してしまったのであるが、しかし和親条約に反したのは事実、右賢王には罰として月氏の攻撃を命じた」
匹夫の謝罪は口だけで、君子の謝罪は実を持っていなくてはいけない
この礼法を意識してか同時に冒頓単于は名馬を送ってる
かなりの気の使いようだ

左賢王が皇太子ナンバー2で右賢王はナンバー3にあたり、このものが皇族というか冒頓単于の家のもの、次男であることは疑いない

なぜならば骨都候が外戚の地位とされたからであるが、左賢王のほか4王、左右大将軍、左右大都尉、左右当戸、そのしたが骨都候
この順位からすると匈奴帝国は単于の一族がほとんどの軍職を持っており、外戚、つまり他家の軍事地位はかなり低く抑えられた

冒頓単于が皇帝で息子たちが将軍、尉官という独裁であったようである

76: 世界@名無史さん 2018/09/27(木) 22:41:45.22 0
黄巾の乱が起こると、単于は右賢王於夫羅の率いる援兵をおくり、後漢を援助した
単于の暴政、度重なる徴兵に耐えかねた10万余人が叛き、単于を殺した。
あとを継いだのは子の右賢王於夫羅であったが、国人たちはこれを不安視して遠戚の骨都侯を共立して単于とした。

そこで於夫羅は自ら洛陽の宮城の門にまで来てこのことを訴えた

なお五胡十六国時代を開いた匈奴大族長の劉淵は、於夫羅の孫である

78: 世界@名無史さん 2018/09/28(金) 09:36:09.04 0
老上単于が即位すると漢は皇族の子女をえらんで閼氏としておくり宦官の中行説がつくことになる

宦官の中行説は匈奴に読み書きをおしえ、単于の側近に札をもたせ家畜の数を記録するようにさせた
また中華の着物を愛する単于に「自国文化を捨てては国は弱まる。革の服が、絹の服より優れてるとお示しください」と進言「ほしいものがあればいつでも漢から武力で奪えばいい」とすすめる
また匈奴は野蛮であるという漢人には「中国の礼節はうわべだけで家臣が主君を滅ぼすではないか。匈奴のほうが道徳は優れる」と反論した

匈奴は軍事体制だからそく死刑で、不穏分子や下剋上などはないわけだが・・

81: 世界@名無史さん 2018/09/28(金) 13:17:36.29 0
中行説は漢の領土に偵察を送り侵攻にそなえ地理を検分させた
匈奴は謀をめぐらしついに単于は14万騎を率いて関中の簫関をやぶり北郡都尉を殺した
その斥候の兵は甘泉宮にいたる。長安まで少しである

さすがに文帝も騎兵10万をひきい渭水の北に布陣した
長安は河の南岸になるから、北岸に軍を集め決戦して長安をまもる二段構えだ

劉邦が歩兵でたたかい、冒頓単于の騎兵40万に包囲された頃に比べれば漢の騎兵も10万そろえるまでには、充実していた

史書によれば文帝の配下の将軍は代わりに戦い匈奴を追い払ったとも、戦闘などおこらず、匈奴は退散して、漢軍は恐れて追撃できず城に縮こまっていたとある
これは後者が正しいであろう
匈奴は相手がそれなりの戦力で手を焼きそうなら戦闘はさける
勝っても大きな損害が出ては高くつく。野生動物が無用な怪我を恐れるのと同じだ

なお文帝が死んで景帝になると七国の乱がおこり、反乱側の燕王が匈奴と密約を結ぶ
燕王は雲中を平定し単于は長安を直行するというものだった
成功すれば単于が皇帝になれる

つまり中行説の謀は、いつでも長安を突ける匈奴騎兵の力を示したねらいがあった

83: 世界@名無史さん 2018/09/28(金) 23:51:22.93 0
文帝が10万の騎兵で14万騎の単于を追い払ったあとも数年の侵攻が続き被害が深刻なので、単于に親書したところ和親を回復したいということで、ふたたび和議はむすばれ、文帝は「匈奴と漢は隣どうしの大国で仲良くしたい、ついては匈奴の地は恐ろしく寒いので、これを憂いて役人に命じ毎年一定の衣類や食を送る。モチアワ、麹、金、絹織物、などである」

モチアワは現在の雑穀米などに入れて炊くアワでおいしい
「米」の漢字はもとはアワを指した。中原の漢民族にとって古来からのアワの食事で、現在でもアワの雑炊などは食べる機会が多い
アワを使った麺は4000年前の黄河流域から見つかっており鉄糸麺とされる
前漢ではモチアワがまさに漢民族の主食で、匈奴にとっても望ましい食料だった
コメはもともと華南の食で、後漢のころに黄河流域でも多く栽培されるようになった

景帝でも和親がかわされ国境の交易市場を匈奴の望み通りに開く
これで匈奴の民と単于もすっかり漢に随喜してなつき、国境近くにすんだという
武帝の代も方針は同じで贈り物も手厚かったので大満足だった

ただこれまでの経緯から、和親を結んでから辺境を荒らしまた贈り物をもらってというサイクルで無数で繰り返されており、ロシアの北方領土の対話のようで意味がない恥辱、と感じる中国の士人は多かったはずで、そこでいよいよ武帝は「匈奴を追い詰めて馬を取り上げる」というこれまで試してない懸案にとりかかるわけだが・・

84: 世界@名無史さん 2018/09/29(土) 02:14:44.93 0
アワ麺はまったく違和感なく中華ラーメンに使うことができ美味しい
前漢の武帝の政策で西域との交流で小麦がはいってきて、小麦がアワより生産性がよいため小麦麺がとってかわる
ウイグルのラグメンは、とても人気ある料理だがラグメンはラーメンの始祖だとウイグル人は自負する

キルギスでも麺料理に馬肉をのせるベシバルマックが国民食とされる
羊肉でもいいのだが正統派は馬肉でいかにもシベリア遊牧民らしい
もちろんラグメンもキルギスに人気あるがびみょうにちがい外国料理だと思われる

おそらく匈奴が食った麺料理は馬肉をのせるベシバルマックがちかい存在のではないか

またキルギスではパロー、肉を炒めてコメをたくピラフも人気ある
ピラフはトルコ料理の代表だが(日本では西洋料理としてしられる)中央アジア全域でピラフは食べられる

匈奴は南方食コメが入手できるまえは、モチアワを使ったはずなのだがピラフにしたかは不明だ

85: 世界@名無史さん 2018/09/30(日) 00:49:59.67 0
匈奴の地は恐ろしく寒いってあるが、タリム盆地なんかは寧ろ恐ろしく暑いぞ 特に夏

86: 世界@名無史さん 2018/09/30(日) 07:57:15.36 0
匈奴の首都はノインウラと代とされるが、前漢の全盛期は単于を始め、代あたりに住んだと思われる

文帝は「万里の長城のむこうは匈奴のおさめ長城の内側は漢が治める」としてるが、前の通り
始皇帝はオルドスを奪い万里の長城をきずいたものの匈奴はオルドスを奪回してる
このいきさつから黄河中域の長城は放棄されてる

それでもおおむね大同(代都)の北を覆うように、燕国までつながる長城はあったはずだが、このころ多くの城壁はくずれて荒れ果てたが、景帝まではすくなくとも匈奴和親条約があったので、北方を敵視した補修もされなかった

匈奴が強大の頃は代あたり、北緯40度の南に単于は住んでおり、漢と関係が悪くなり北に帰ったころは北緯50度のバイカル湖(北海)の東に単于はいたのだろう

88: 世界@名無史さん 2018/09/30(日) 23:23:54.01 0
匈奴は遊牧帝国なので小麦など農作物の入手は、中国のような交易市場で得るか、あるいは自分の領土で農作するかの手段がある

西域諸国の最大規模である車師は、オアシス国家においてふるく国力も大きく、数千の兵士をもっていた。ほかのオアシスが百人ほど兵にくらべて10倍ほどおおきい
首府である交河城は世界最大の版築できずかれた巨城だ
この巨城は1000年後にモンゴルの攻撃で破却された
車師人は西洋の文献ではヨーロッパ人種だとはっきりしるされる
匈奴の日逐王の配下であり西域諸国に賦税し豊かであった

国が大きいゆえに西方貿易で、匈奴に多くを輸出しており漢はこれをさしとめる目的で匈奴と切り離すべく攻撃したとされる

スキタイ帝国も、農耕スキタイ(原スラブ人)は東方の王族スキタイに作物を輸出しており、構造としては同じと言っていい

134: 世界@名無史さん 2019/03/02(土) 14:18:12.59 0
匈奴による漢土の略奪というのも、農産物とか財宝を持っていくのではなくて、あくまでも人と家畜の略奪だったらしいね。

確かに遊牧集団間の紛争で価値ある戦利品といったら、敵勢力の持っている家畜と労働力(遊牧労働力と冬営地における留守番農耕・工業生産労働力)が最適。

実際、匈奴は略奪してきた漢人農民を入植させた農耕コロニーを営んでいたことが、考古学によって検出されている。

これがウイグル帝国ぐらいになると遊牧世界の中に商工民を入植させた城郭都市を建設するようになり、契丹遼帝国では定住農耕地を「一国二制度」で永続的に統治するようになって農耕民の生産力を継続的に吸い上げるようになる。

このシステムを洗練させて完成したのがモンゴル帝国。

135: 世界@名無史さん 2019/03/02(土) 21:33:45.09 0
その匈奴の農場だが、バイカル湖のほとりらしいですね
ここは重要地ともされるノインウラの北になる
古来よりバイカル湖は異民族の丁零の土地で、匈奴の本拠は千キロほど南のほうになるオルドスや代に居住していたようだ
代のあたりでも人間が住めないくらい寒かったので農民と遊牧民が雑居しているみたいです

匈奴の帝国は広大でどこにでも農場は設置できたものの、バイカル湖の農場は漢の攻撃や関係悪化を恐れてあえて遥か北、バイカル湖に置いたようです
あと漢族奴隷の逃亡も恐れたのでしょう
スターリン時代もポーランド人やウクライナ人は逃亡できないように極東に強制移住させたから、奴隷は「逃亡できない遠隔地に置く」のが基本でしょう
ただし、漢の農民は悪政と重税にあえいでおり「匈奴の土地のほうが生活は楽らしい」といううわさがあり、逃亡・移住希望だったといいますが、匈奴の全人口は漢の一郡よりすくないらしいので、ほんの少しの農地で間に合ったようです
また車師国など西方の交易ルートから小麦など物資も献上されました(というかこっちがメインでしょう)
あくまで補助的な国営バイカル農場はそれほど大きくはなかったようで

一説には異民族の丁零にたいする軍事拠点として置いたのではないか?ということらしいですが、遊牧民は土地をひっかく農民を見るのを嫌いますから、もちろん匈奴だって自分の土地は全部使いたい、異民族に対する一種の嫌がらせかもしれません
丁零は大雪で匈奴が弱り、苦しむと直ちに離反して攻撃してきます。おそらくですがそれ以前に匈奴の直営農場は何かの理由で、放棄されたでしょう

159: 世界@名無史さん 2019/03/16(土) 06:07:46.34 0
no title

ロシアの博物館らしいが匈奴の衣装はアイヌ民族衣装に似てる
アイヌの分家の諸民族はシベリアにたくさんいるから妥当かな

161: 世界@名無史さん 2019/03/16(土) 17:45:39.79 0
>>159
分家ってよりはアイヌがシベリア系民族の分家かな

日本に12世紀頃入ってきたシベリア系と東北の縄文系が混雑して生まれたのが今のアイヌの先祖

163: 世界@名無史さん 2019/03/16(土) 21:01:47.25 0
アイヌは温暖化の時期に南から来た縄文人がオホーツク人から寒冷地での生き方を学んだわけだから文化としてはシベリア系が濃い

165: 世界@名無史さん 2019/03/16(土) 21:28:50.68 0
ソ連は中央アジアの歴史研究はねっしんで発掘資料から復元してるから確かなものだろう

匈奴がアイヌみたいな、北海道ラーメンの鉢の縁取りみたいな衣装を着ていたとしれば原点・起源は匈奴服であり、そこから最新ファッションのように辺境テュルク族に伝わり、パリの最新モードのようにアイヌが喜んで着たのじゃないー

もしかすると中国人が当時そんな服をきていたのかもしれないが?

175: 世界@名無史さん 2019/05/15(水) 18:54:25.44 0
鐙(あぶみ)について何か関連のお話がありましたら気長にお待ちしてますのでご都合の良い時にでもよろしくお願いいたします

177: 世界@名無史さん 2019/07/22(月) 00:03:57.95 0
鐙はもともと月氏やスキタイが利用していて発明されたのも恐らく中央アジアや北インドだった
ただ、片側だけにつけて、馬に乗る補助具とされた
これはスキタイの女性が男と同じく騎馬にのって戦闘に参加する風習から考案されたとも言える
またスキヤイやサカはすぐれた重騎兵、装甲兵であったからのりこむには補助具も必要だった
西洋の重よろいの騎士も、鐙の利用ががおおいに影響してる

スキタイ式の片鐙が、もともと騎馬には不得意な中国で貴人用してつかわれ恐らく補助からはじまり大いに発展して鐙となった

匈奴はもちろん月氏から西方の知識として知っていただろうが鐙は使わなかったようである
というのは遊牧民は全員、騎馬の技術にすぐれてそんなものは必要なかったし、もともと非装甲の軽騎兵なので必要に薄かった

それと鐙には大いに問題があった

178: 世界@名無史さん 2019/07/22(月) 00:16:06.59 0
鐙を着けていると、落馬したときに一回転して頭部や上半身から地面にたたきつけられることになりおおいに危険なのだ
有名人は源頼朝が落馬して死んだのが顕著な例だろう
というか、近代競馬界でもプロ騎手が落馬して死んだあるいは再起不能になった例は数え切れないほど多い

ようするに鐙は危険なもの、馬に乗れない素人の補助具だとわかっており、しかも日常的に落馬が避けられない遊牧民には致命的だ
これが「誰でも道具は思いついても」匈奴のような蛮族には、そう簡単に実用化しなかった理由で、むしろ馬に乗れない貴族や農民ドモを速成で騎馬隊に仕立てる必要のある中国や日本で危険は承知で採用され、急速に発展した理由であるだろう

182: 世界@名無史さん 2019/09/15(日) 07:45:36.17 0
フン族は木製の硬式鞍を使っていた
あぶみは、まず木製の硬式鞍が前提でそこから革紐を垂らすから、フンが革紐式の鐙をつかっていた可能性はあるが時代としてはやや早い
また木製の硬式鞍は中国日本で最初もちいられてのちにテュルク民族に広がる

匈奴は軟式鞍だった。まず月氏の発掘資料やら秦の騎兵のようすからみて、軟式がおおく密接な関係がありそうな匈奴も、まず同じであると考えられる
ノインウラの匈奴の墳墓でも皮にフェルトをつめた軟式鞍が出土した

183: 世界@名無史さん 2019/09/15(日) 07:48:20.63 0
墳墓の絵からすると匈奴の王は口ひげを持ち、大きな目と鋭い鼻、きびしい表情
ややウェーブの掛かった長髪、三つ編みである
トルコの冒頓単于、メテの肖像もこれがもとになってる

アジア遊牧民に多い辮髪も(日本武士の月代もやはり辮髪の一種、モンゴル式に近い)匈奴のように長髪を纏める手段として三つ編みにしてるタイプが多い

またアメリカインディアンも匈奴のような三つ編みの長髪が多い
遺伝的にもインディアンと日本人と共通するものがあるがかなり古代から東アジアからアメリカにかけてこの三つ編みが主流だったようだ

ネイティブインデアンは短髪を強制され近代で先祖の長髪に戻すことが流行したヒッピーの長髪はこれに由来する
つまり冒頓単于=ヒッピー、長髪のオッサンみたいなかんじだったかも

184: 世界@名無史さん 2019/09/15(日) 07:56:36.42 0
匈奴の武器だが、やはり短剣だったようだ
そもそも匈奴の法律で、喧嘩で刀を一尺抜いたら死刑、というものがある

一尺といえば30センチで、カウボーイなどが家畜の解体で日常必要なナイフはせいぜい5インチ、つまり12センチ位だったそうだから、そんな長物は必要ない

やはり獲物の解体や食事に使うていどのみじかい短剣は必要で、それなら抜いてもこわい単于に怒られて死刑にされることもないわけだ

そのせいか匈奴の貴族は短剣をもっていた
ただし重ねは厚く、頑丈で、幅広である。重い必殺武器だ
スキタイの短剣もこれに近い様式だ

187: 世界@名無史さん 2019/09/20(金) 13:16:42.92 0
匈奴と漢は文化の違いが甚だ激しく、匈奴は漢を偽善だといい、漢は匈奴を露悪だといい、互いを罵り合った。

匈奴人曰く、漢人の偉そうで賢しらなところ、偽善そのものだ。あのように臭いものにフタをして何が文明だ気持ち悪い!と。
漢人曰く、匈奴人の野蛮さ露悪さはどうしようもない。まるで獣だ。と。


露悪と偽善は実に馬が合わないが、本質的に全く同じだからこそ同族嫌悪で憎み合うのだ。両者は、自分たちがどちらも同じだと気づかなければならない。

193: 世界@名無史さん 2019/10/06(日) 20:20:35.03 0
未だ正体不明の匈奴語についてだが、三国時代の呉の資料によると扶南国の言語が匈奴の言語によく似てるとある

扶南はカンボジアにあったクメール系国家だが、割と長く続いてる
その官僚はインド系が多く採用され、言語はクシャン語であった

クシャーンのカニシカ王はパルティア帝国と戦い、9億人を殺したとされるが、ローマ帝国を脅かし撃破したパルティア騎兵をやったあたりにクシャーンの勢いをみることができる

クシャーン帝国の言語はバクトリア語だが、これもほぼ正体不明で
ただし最近は大量の文書発掘によって研究が進むはずだ

ともあれクシャン王族は月氏であるから、つまりは匈奴も月氏と同じことばをを使っていた可能性がより強くなった

まぁ冒頓単于のころは、匈奴の住むオルドスに月氏王がいたらしいうえに匈奴の王子が月氏に人質になっていては、言語の共通性は当然なのだが・・・

引用元: ・匈 奴3