4: 日本@名無史さん 2019/02/06(水) 15:54:05.84
後南朝は最近、人気が上がってきた
もうすぐブームになる

240: 日本@名無史さん 2019/05/31(金) 20:19:48.13
南朝が粘り強く一部から熱心な支持が集まっていたことについては研究が必要
高師直に吉野を焼き払われた後でも、南朝を支持する勢力は畿内だけでも、河内にも大和にも伊勢にも紀伊にも存在していた

241: 日本@名無史さん 2019/05/31(金) 22:03:18.52
積極的に南朝を支持するというより北朝が憎かっただけの印象

しかし土豪が反北朝を鮮明にしても討伐できないという・・・・ 弱すぎ

243: 日本@名無史さん 2019/06/01(土) 11:30:51.97
大和国は興福寺の勢力圏で、必ずしも室町幕府の支配が及ばなかったことも要因ではないか?
興福寺と関係の深い土豪が割拠しているので、中には後南朝皇胤と関係を持つ者も出てくる
だから、小勢力の後南朝が長期間続いてしまったのではないだろうか?

244: 日本@名無史さん 2019/06/01(土) 11:43:51.02
その興福寺のなかが二大派閥に別れての盛大な派閥抗争続きだった点こそ重要では
南北朝時代にも両派に割れて戦争してるしさ
勝負がついても負けた方を殲滅できないから紛争の種が残り続けるし

もと南朝支持だったがわはどうしても起死回生を狙って南帝擁立に走りやすかったんじゃないかなあ

245: 日本@名無史さん 2019/06/01(土) 12:20:14.98
南北朝期の比叡山とかドライだよな
天台座主だった護良親王の縁もあるのか、湊川合戦の後は後醍醐天皇を匿って足利軍と一戦交えたぐらいだったのに

後醍醐天皇が吉野へ逃れてからは急速に関係が冷却化したのか、比叡山が南朝に味方して足利と戦った形跡はない

後南朝のきんけつの変の時に、後南朝の一派が比叡山へ逃げてきたが、比叡山が後南朝に味方することなく、足利軍と連合して後南朝と戦って排除した

246: 日本@名無史さん 2019/06/02(日) 19:14:45.78
比叡山が北朝を支持したのは北朝の正統性に大きく貢献しただろうね

248: 日本@名無史さん 2019/06/03(月) 12:35:49.42
後南朝は過大評価してはいけないが、過小評価もしてはいけない
大和、河内、紀伊などでは一定の支持者もいたし、動員力もあった
貴種としての政治力も一定程度残っていた

249: 日本@名無史さん 2019/06/06(木) 23:48:31.25
戦国時代でも大内義興や上杉謙信、織田信長は貴種を旗印にして、自分の権威の向上に役立てていたが、後南朝がそれを活用できなかったのが惜しいな

250: 日本@名無史さん 2019/06/07(金) 00:58:22.42
大内にとっても謙信や信長にとっても後南朝は自分の役に立たない無用な存在だったからね

254: 日本@名無史さん 2019/06/07(金) 08:38:50.82
応仁の乱は後南朝にとってチャンスであったと思う。
西軍は軍事的に劣勢だったし、名分においても弱かった。
一方、東軍は将軍御所を押さえ、上皇・天皇も確保していた。
だから、後南朝皇胤であっても担ぎたい動機はあったし、実際、西陣南帝を擁立した。
このチャンスを生かせていたら、後南朝は復活できていた。
西陣南帝(にしじん の なんてい、享徳3年(1454年)? - ?)は、後南朝の人物。応仁・文明の乱の只中だった文明3年(1471年)、西軍によって一時的に「新主」として擁立され、京都に迎えられた。小倉宮を称していたが、諱は不明であり、南朝皇胤としてどのような系譜をたどるのかも定かではない。

255: 日本@名無史さん 2019/06/07(金) 18:58:28.77
古河城まで行けば古河公方が後南朝をかくまってくれそうだけどな
古河公方は幕府の推挙で朝廷が決めた年号改元を頑なに認めなかったから

256: 日本@名無史さん 2019/06/07(金) 20:12:28.51
匿ってもデメリットしか無いじゃん

257: 日本@名無史さん 2019/06/07(金) 21:13:17.91
後南朝の西陣南帝から古河公方足利成氏へ征夷大将軍に任命してもらえばいい

258: 日本@名無史さん 2019/06/08(土) 10:04:26.10
応仁の乱で義視に通じていた公家の葉室光忠は、義視が擁立した西陣南帝にあまり熱心に奉公しなかったようだな
応仁の乱終結後、葉室家は京都朝廷に復帰し義視とも親しくしているが、西陣南帝と交流していた形跡なし

259: 日本@名無史さん 2019/06/08(土) 13:21:26.16
西軍側でも西陣南帝に対しては温度差があったらしい
西陣南帝を推戴することで、西軍側の政治的立場の弱点を補強しようという人もいた
新帝を擁することで、西軍は政権(西幕府)としての外形を整えることができる
一方、新帝擁立まで踏み切れば、将軍・義政を擁する東軍(室町幕府)と完全に対立することになり、早期の和睦を図るのが難しくなる
「できれば早期に和睦し、義政に帰順したい」と考える人は、西陣南帝から距離を置こうとした

260: 日本@名無史さん 2019/06/09(日) 19:37:54.41
何を書こうが西陣南帝の末路があれだからな
諸将から捨てられて、地方に押し付け合いされて、たらい回し
で、最後は消息不明

本当に紀伊や大和にまだ担ぐ勢力があれば、そこに帰るはず
当時はもうそういう勢力なんて無かったと考えるのが自然

261: 日本@名無史さん 2019/06/10(月) 12:16:58.49
足利義視が当初から危惧したように、西陣南帝を擁立することで、東軍との和解が遠のくことに、西軍の諸将が気づいたからではないか?
経覚や尋尊も西陣南帝擁立に懸念を示したので、大和・紀伊の豪族たちも後南朝から距離を置くようになったのだろう
「西陣南帝擁立」という地点にまで到達したからこそ、そのリスクが認識されるようになり、後南朝を支援する人が急速に途絶えたのかも知れない

262: 日本@名無史さん 2019/06/10(月) 20:32:29.08
西陣南帝って観応のときみたいに勝ったら即ポイ捨てされそうな予感。
曲がりなりにも独自の武力と支配領域を残してた観応時の南朝とは違って、後南朝にはそんなん無いしな

264: 日本@名無史さん 2019/06/15(土) 11:53:46.62
応仁の乱の西軍の諸将は室町幕府の守護や足利一門であって、南朝の公家や武士はいないからね
陣中において西陣南帝は孤立してしまっている
随身や女官は伴っていたのかも知れないけどね

265: 日本@名無史さん 2019/06/17(月) 05:34:25.46
随身や女官なんていないよ
そんな勢力は既に無い
山賊のような取り巻きが少数だけだろう

266: 日本@名無史さん 2019/06/17(月) 06:11:56.72
なんで天皇が必要だったのかよくわからん
そもそもこの頃は天皇号を贈ることが途絶えていたそうだし、じゃあいったい何だったのか?

ミカド?

とにかく天皇が必要で年号が必要で従う者は官位・官職(衛門佐とか)を貰うことが必須だった?

官位・官職を貰わないと始まらない?

270: 日本@名無史さん 2019/06/17(月) 19:56:14.38
>>266
東軍は上皇と天皇を擁しており、将軍の足利義政を擁していた。将軍御所も占拠していた。
だから、西軍も天皇を擁立することで、政権としての正統性が欲しかった。
そこで、大和の国人・越智家栄の仲介で紀州・大和方面で勢力を築いていた西陣南帝を陣中に迎えることにした。

271: 日本@名無史さん 2019/06/17(月) 21:56:03.12
西軍「こっちだって「天皇」を用意できるんだからね。官軍だ官軍だと東軍も調子に乗るなよ」という牽制球だな

ただ本気で別の天皇を擁立する気もないのでハッタリな所もある
本気で擁立されるつもりだったであろう西陣南帝にとっては憐れだが

272: 日本@名無史さん 2019/07/15(月) 08:40:31.07
ただ、西陣南帝は上洛して西軍の陣中に入ったことが命取りになったね
紀伊・大和の本拠地に御所を構えて地盤を強化しながら、勅使だけ西軍に送ればよかった
西軍の足利義視に征夷大将軍任官を宣下することで新帝としての権威を示すこともできた

288: 日本@名無史さん 2019/09/16(月) 05:25:52.44
その西陣南帝ってどんな服装してたのかね?

あと、家来はどんな人間がどれくらいいてどんな服装をしていたのか?

289: 日本@名無史さん 2019/09/16(月) 06:31:38.12
西陣南帝は最初は「法体」だったというから、僧形をしていたと考えられる。
紀州方面で地元の土豪たちに擁立されて挙兵したころから、蓄髪して直衣を着けて烏帽子をかぶっていたのではないか。
新帝として上洛したときには、衣冠束帯しただろうし、北野松梅院を仮御所とした際には御簾の背後に南面されたことだろう。

290: 日本@名無史さん 2019/09/17(火) 12:37:52.23
南北和談で後亀山天皇入京時の行列も実にみすぼらしいものだったそうだし、それが後南朝とかなったらもう・・・

292: 日本@名無史さん 2019/09/28(土) 09:30:42.79
後南朝は所領が少なかったから、行列に参列する官人への俸給も少ない
禁裏御料も乏しいから、主上の装束もみすぼらしいのはやむを得ない

325: 日本@名無史さん 2019/12/16(月) 08:30:42.98
南朝も後南朝も一種の亡命政権で、本拠地は築いたものの、都の造営まで手が回らなかったことが、政権としての脆弱さを招いたかも知れない
長期にわたって北朝と対峙するのなら、都の造営は必要だった

326: 日本@名無史さん 2019/12/16(月) 19:23:52.95
南帝は仮内裏にお住まいだったし、永住するかわからなかったからな
戦況が好転すれば遷都もあり得た

327: 日本@名無史さん 2019/12/18(水) 23:26:26.29
南朝は天皇が住めば都だろ

328: 日本@名無史さん 2019/12/20(金) 07:30:19.10
平壌も1972年迄はあくまで「ソウル奪回までの仮首都」扱いだったしなあ

鎌倉を追われた鎌倉公方が移った古河にはけっこう都市的繁栄が見られたそうだし、南朝ももう少し長続きすれば吉野(河内あたりの山奥)に都市ができてたかもね。

329: 日本@名無史さん 2019/12/20(金) 08:05:46.17
現代の吉野は極めて交通の便が悪い僻地だが、河川交通が盛んだった往時はそれなりに往来のできる場所だったそうだしな

とはいえ、南朝の時代でも吉野を常時維持できていたわけではなくて、攻め落とされて失ったこともあるので発展できなかったんだろうな

ちなみに、河内ではなく大和国内だぞ。大阪府ではなく奈良県な。

330: 日本@名無史さん 2019/12/22(日) 00:43:25.00
古河には公方に仕える官僚機構があったし、経済都としての機能もあったので、商人や職工たちも多く住んでいた。
南朝・後南朝の都も長く続けば、北山御所の周辺には公卿や官人の屋敷が並ぶようになり、検非違使による治安維持も行われるようになった。
古河も利根川を中心とする水路が物流を支えたので、北山御所においても水路を介して商都としての機能が形成されたものと思われる。

331: 日本@名無史さん 2019/12/22(日) 02:05:59.66
古河公方はそれなりの規模で官僚を抱え込んだけど南朝はろくに役人を抱え込むこともできない人材難(官僚じゃなく上級貴族は少なからず居たけど)
規模的に都を発達させるのは難しい。
規模的にはむしろ賀名生がお似合いだった

332: 日本@名無史さん 2019/12/23(月) 22:01:56.58
南帝は旧平城京には住まなかったの?
守り難いのかな?

333: 日本@名無史さん 2019/12/23(月) 22:38:52.43
当時の交通事情だと平城京跡地(完全に寂れて寒村のみ)と吉野では交通の便は大差なかったはず
どちらも川を下ればそれなりに大阪方面とかに出れる
ただ、平城京から下ると京都の近くまで回らないといけなかったのでは、それでは守りにくすぎる

334: 日本@名無史さん 2019/12/28(土) 17:40:07.32
吉野は地形的に急峻なので、守りやすいと思う。
大軍を擁して攻めても、平地に大軍を展開した布陣ができない。
後南朝側は、伏兵によるゲリラ戦が可能だし、内裏が危険になれば、山中を逃亡することも可能だ。
ただ、都市としては進展性がないので、本格的に都を造営するのは難しい。

336: 日本@名無史さん 2019/12/29(日) 15:52:52.34
平城京近くの興福寺では、大乗院門跡は北朝方に、一乗院門跡は南朝方に味方して争ってたから、南朝も安全地帯とはいえない
平城宮を本拠地にしにくかったんじゃないか

あと南朝の大僧正・文観の人脈だ
笠置山も吉野金峯山寺も河内金剛寺も文観のネットワークだ
http://www.infonet.co.jp/ueyama/ip/episode/yamabushi.html

337: 日本@名無史さん 2019/12/29(日) 23:30:47.45
後南朝は南帝を護衛する随身もわずかしかいなかったし、院御所に詰める北面の武士も十分ではなかったことを考えると、防衛が難しい環境にあった
平城宮ではなく、吉野行宮を本拠地にする必要があった

343: 日本@名無史さん 2020/01/15(水) 06:47:29.21
平家も北条家も残党は草の根分けて狩られたのに後南朝はそういうふうにはならなかったのが謎

358: 日本@名無史さん 2020/01/16(木) 21:56:34.99
>>343
平家や北条は武士。後南朝は落ちぶれたとはいえ皇族だからな

344: 日本@名無史さん 2020/01/15(水) 14:53:55.58
??「およそ南方御一流、今においては断絶さるべしと云々」
看聞日記

346: 日本@名無史さん 2020/01/16(木) 00:58:36.52
後南朝の収入源て何だったの?八条院領は無いに等しいし、それにまず吉野まで物資運べないよね?

347: 日本@名無史さん 2020/01/16(木) 01:55:50.21
南朝の時点で、荘園からの収入はほとんど横領されてただろう。仕方ないから傘下の武家や寺社の収入から「朝用分」と称してピンハネしていた。
手柄立てた奴への恩賞も「○○荘地頭職を与える(ただし、実際の引き渡しは天下一統の後でねw)」だし、詐欺みたいなもんだな。

352: 日本@名無史さん 2020/01/16(木) 12:55:44.31
後南朝じゃなく南朝の時点ですら、官人は吉野に行ってない、ほとんど南朝につかえていない
当然、供奉する官人は極めて少なくなる
ましてや後南朝だとね、ほぼいないでしょ

353: 日本@名無史さん 2020/01/16(木) 13:19:09.35
南朝の発給文書は武家文書の様式に近い、と分析してる人がいたなあ。
官人の層が薄くて天皇と武士が直接に主従関係に近い関係を結ぶようになった結果としてそうなったのかな?

355: 日本@名無史さん 2020/01/16(木) 14:55:11.73
南朝って公家優先のイメージとは裏腹に、天皇と武士が御恩と奉公を媒介に直接結びつく軍事政権としての性格が濃厚だったようにも見えるんだよね。

楠木正儀なんか南朝で公卿まで昇ってるし、武士の影響力が強い。

356: 日本@名無史さん 2020/01/16(木) 19:09:08.43
けど五摂家は南朝側の摂関に就いたよね?

357: 日本@名無史さん 2020/01/16(木) 19:12:58.16
五摂家は人数の関係であふれてたからね

跡継ぎ争いで南朝と北朝に分かれて争うんだ

360: 日本@名無史さん 2020/01/18(土) 10:59:56.68
摂関家を始め、公家の家門にも跡目争いがあったので、兄弟や親族と反目した公家が後南朝に出仕することもあった。
人数はわずかであるが、摂関や大納言の要職に就いて南帝に近侍する者もいた。

361: 日本@名無史さん 2020/01/20(月) 00:04:06.27
五摂家で南北朝に分裂したのは二条と近衛だけ。
南朝の関白は実質この二家で回していた

362: 日本@名無史さん 2020/01/20(月) 14:18:25.90
>>361
後猪熊関白近衛経忠や平田関白近衛経家・玉櫛関白二条冬実なんかだね

しっかし非常に興味深いのは近衛家だよね
近衛家は、近衞家基の時代から二つに別れたんだけど
第一夫人の『大覚寺統 亀山天皇皇女』から生まれた次男の経平が持明院統北朝方
第二夫人の『鷹司朝子』から生まれた長男の家平が大覚寺統南朝方なんだから

363: 日本@名無史さん 2020/01/20(月) 17:26:55.84
敵の敵は味方 の論理以外に理由がなく、人脈とかガン無視で南朝についてたってとこかな

364: 日本@名無史さん 2020/01/20(月) 18:28:20.83
面倒だからそりゃ義教さんも殲滅しますわ

引用元: ・【新田楠木】後南朝スレ★4【西陣南帝】