1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/20(土) 15:46:10
300年後の幕末維新はどのような形になったでしょうか?








6: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/21(日) 08:40:05
なぜ島津家が関が原後も健在だったのかは謎だよな
明らかに西軍だし家康の命を最も脅かした一族だろうに

7: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/21(日) 08:51:29
潰すような余裕もなかったんだろ。
徳川家っても、そんなに体制が固まってたわけでもないんだろうし。

8: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/21(日) 09:59:03
でも政権基盤が固まった家光のあたりからなら、福島みたいに難癖つけてとりつぶすこともできたかもしれないな。
宝暦治水みたいな形で明らかに島津の弱体化を図ってはいるが。
宝暦治水

1754年―1755年(宝暦4年―5年)鹿児島藩が行った木曾・長良・揖斐の木曾三川の治水工事で多数の犠牲者を出した事件。幕府に川普請を命ぜられた鹿児島藩は,膨大な工事費や幕吏との対立に苦しみ,藩士50余名の自刃と30余名の病死者を出して工事を完成。この地方に多大の恩恵を残すことになったが,完成直後総奉行の家老平田靭負も責を負って自決した。

9: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/21(日) 10:09:40
>>8
いま急いでwikiで宝暦治水事件のことを調べたが、こんな可哀想な事件があるとは今まで知らなかった

幕府の役人ってドラマにでてくる悪代官みたいなやつだったんだな
おれは薩摩藩士のようにジッと耐えることができたかどうか

11: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/21(日) 13:31:20
>>9
鹿児島では平田靱負を始めとして、その歴史は高校入試でもよく出されるし学校で習ってみんな知っている。

宝暦治水はそもそも、徳川吉宗と尾張宗春の対立があって、その両者の死後、幕府と尾張藩の関係修復の為に企画されたこと。
それを幕府初期のように「天下普請」方式を採用し、そのとばっちりが薩摩に来たというわけだ。
その経過については調べればわかるだろうから、意見としては薩摩の対応について書いてみようか。


薩摩は「関ヶ原の戦い」が、いわば全国デビュー。それまでは九州情勢以上の対応をしたことがなかった。
関ヶ原の戦いについては、完全に流れが読めていない。いわば「田舎大名」でしかなく、秀吉死後の豊臣内部の対立(武断派・文治派)とも無縁。
その結果、当初上杉征伐に赴く徳川家康から伏見を守って欲しいと言われ、快諾(このままいけば東軍)したが、伏見城で徳川家臣鳥居元忠といさかいをしてしまい、結果西軍に。
ところが大垣城で石田三成とも対立してしまい、関ヶ原の戦いでは完全に浮いた存在だった。
結局戦闘はせず、気がついたら西軍は敗北していて、威力撤退をするはめに。
それで追撃を受け、1600名いた薩摩勢が鹿児島に生還したのは80人。95%を失うという散々な内容だった。

問題はこのあと。
家康が薩摩を潰そうとするという噂(事実ではないだろう)は薩摩にも伝わってきた。
臨戦態勢を取ったが、中央政界にも手を打つべき。しかし薩摩には当時一切中央とのつながりはない。
これで何と薩摩はその関係を700年も遡ってそれを求めた。

それが「近衛家」。島津発祥の地島津荘はかつての摂関家の荘園だったところで、それを寄進したのが島津氏だった。
薩摩は近衛家に対し、その700年も前の関係を持ち出し、進んでそれを復活させることで近衛家に徳川家との関係修復を依頼した。
これはタイミングがドンピシャだった。徳川家康は当時、征夷大将軍就任を目指して朝廷と交渉中だったからだ。
征夷大将軍になるには、いくつかの要件があるが、そのひとつが「源氏長者」であること。
徳川家康はそれを楯に征夷大将軍の「補任」を求めたが、
近衛は「同じ『源氏』の島津との関係がこじれていては徳川家を源氏長者とは認めない」という論法で、島津との関係修復が征夷大将軍補任の条件であるとの状況を作り出した。

島津はこの時から、中央との関係、特に外交交渉の重要性を覚ったのだろう。

宝暦治水の後、薩摩は徳川内部の勢力との関係強化を図っている。
それは「一橋家」。徳川御三卿のひとつであり、かつ当主一橋治済は、ひとつの野望を抱いていた。
それは自分の系統から「将軍」を出すこと。その為に権謀術策を用い、その息子豊千代丸を次期将軍へと画策していた。
そのため、一橋家は各勢力との合従連衡を図っていた。そこに薩摩は入り込んだ。

豊千代丸が十一代将軍徳川家斉となる前後から、一橋家および一橋系将軍家と薩摩との関係は密接になっていく。
一橋家から島津重豪の正室(保姫)が嫁いでいる。また将軍家斉の正室は島津から近衛家経由で近衛寔子(広大院)が入っている。
それにより幕府と薩摩は妥協し、幕末へと推移していく。

ひとついえるのは、薩摩は度々徳川から狙われたが、その度に妥協を画策し、それが成功してきたということ。
そして、薩摩はそれを実行するたびに、かつての田舎大名から次第に政治的なセンスと行動力が身についてきたということだろう。
危機が人や集団をより強く逞しくしていく一つの例ではないだろうか?

10: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/21(日) 11:47:55
耐えられなかったら潰されるだけだろうな。
戦国時代でもそうだろうけど、難癖にしても大義名分は必要なわけで。

ただ、島津が取りつぶされていてもきっと西方(辺境?)の外様が同じコトをやったような気もする。
なぜ西方かと言えば、江戸から見て辺境であることと外国の影響を受けやすい、更に江戸より京
に近いからと言ってみる。

で、一番潰しておかなきゃいけなかったのは朝廷だったと・・・信長でも出来なかっただろうけど。
しかし、朝廷が続く理由のひとつは「実権」がないから?かとも。

13: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/21(日) 20:10:16
まあ、島津がいなくても九州には黒田、細川、鍋島と有力な外様大名が多くいるから、これらが長州と手を結んで幕府に背いていたんだろうな。
でも薩摩の存在なくして倒幕がすんなりうまくいったとは思えない。少なくとも幕府の寿命が史実よりかなり長いびいたような気がする。

16: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/21(日) 21:32:41
薩摩を全力で潰しに行くような徳川だったらすぐに豊臣恩顧大名に反撃されてあぼーん

よって幕末は、ない

17: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/23(火) 22:56:19
てか、関ヶ原以前の秀吉の九州遠征で滅んでた可能性だってあったんだよな
後の北条氏みたいに

18: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/23(火) 23:44:59
>>17
そうだよな。
島津が滅ぶとした関ヶ原後よりそのタイミングだよな。
それでやっとこのスレの仮定が成り立つわけだ

22: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/28(日) 14:27:55
たぶん島津が秀吉によって潰されてたら、その後は佐々成政が肥後とあわせて薩摩も支配する。
鎌倉以来島津の支配下にあった薩摩は肥後以上に治めにくい、なん癖つけてとり潰すには絶好の地だな。そのあとのことは知らんが…

23: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/09/28(日) 17:22:46
まだ加藤清正が生きていた頃は肥後からの侵攻を恐れてるよね。
気まぐれな人なんで小さな切っ掛けさえあれば攻めてくるぞって。
清正も徳川・豊臣そっちのけで戦を起こす様な短慮な人ではないが、恐れ知らずで戦好きの猛将って世間では思われてたからな。

24: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/04(土) 12:03:00
まあ俺が徳川将軍だったら薩摩は討伐して徳川の四家目を創設していただろうな

25: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/05(日) 01:17:34
俺が徳川将軍だったら薩摩も長州も加賀も仙台も博多も佐賀も熊本も広島も土佐も討伐して最強将軍となり、天皇も討伐して大日本皇帝として君臨してただろうなw

26: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/10/05(日) 09:51:32
>>24-25
おまいらみたいな無茶な将軍がいなかったから幕府は続いたんだろ

38: 名無しさん@お腹いっぱい。 2008/11/03(月) 22:58:43
家康が親征などしなくてもよい。
肥後には加藤清正もいるし、九州の諸大名にさせれば済む話。

ただし、島津がこれ見よがしに反乱をおこせばということ。
その状況で島津が乱を起こすとは思えないしな。

47: 安東愛季 ◆f8GKRWCRoQ 2008/11/08(土) 16:26:58
もし島津を取り潰そうとしたとしても、西軍の残党だらけだし、第一義弘義久が引き下がるはずがない。合戦になったとしたら、家康は三成の野望から豊臣を守る為に軍を出したというのは嘘になり、家康の野望が全土に知れ渡って、東軍のほとんどがだませたのに癇癪を起こして西軍に下るだろう。
そんな事してたら家康が危ない。死ぬ可能性すらある。これで島津が勝ったとして、もし淀殿が三成を迎えなかったら応仁級の戦いが勃発するよ。

豊臣等西軍VS石田等賊軍VS東軍残党のね。

78: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/06/01(金) 15:48:28.14
徳川家康は、黒田孝高、鍋島勝茂、加藤清正を中心とする三万を、薩摩、大隅の国境に展開させたが、間もなく撤兵。

79: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/06/01(金) 22:57:00.99
島津本拠地に三万の勇猛果敢な薩摩隼人がいたから逃走しただけだから

82: 名無しさん@お腹いっぱい。 2012/06/22(金) 05:16:01.14
>>79
関ヶ原に島津兵が数百いてもあの有様なのだから数万いて、しかも完全アウェイだったらとか普通考えるよな。
最終的に負けることはないにせよ、ある程度の犠牲は覚悟しなければならない。ましてや高々九州南端の一田舎大名を潰すのに兵糧その他戦費を考えれば要領悪すぎる。
軍勢を派遣するよりじわじわイジメテ潰すのが得策とか考えたんだろうなたぶん。

88: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/03/20(水) 02:02:25.11
徳川本軍が薩摩くんだりまで遠征するのは現実的ではない
西国の大名連合に征伐させるしかないわけだが、西国の有力大名は外様ばかり
島津征伐に成功したとしても莫大な恩賞を出す必要があり、島津領はそっくりそのまま外様に加増するしかなく、徳川としてはたとえば豊臣恩顧の外様を太らせるより、島津に恩を売って取り込んだ方が得策と考えるのは当然だ

90: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/09/16(月) 03:46:54.50
ひとつ、ひとつ外様を潰していったら総反発で100年戦争に展開しちゃう。

91: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/12/25(水) 23:36:17.62
島津征伐は大坂の陣よりも骨がおれそう。大坂なら江戸から遠くはないし、地方の独自性も薄いから与しやすい。大坂当たりなら土地勘もある。

100: 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/07/13(土) 11:28:23.55
もしかしたら家康は島津家の転封くらいは考えたかもしれない。でも薩摩からいずこへ転封させるのか?
日本国中探しても薩摩ほど土地条件が劣悪な場所はそうざらにはない。火山灰地で生産性0。
それに下手に島津家が東海や上方あたりにあるより、九州の南の果てのほうが何かあった時、徳川にとり都合がよいからな

89: 名無しさん@お腹いっぱい。 2013/03/20(水) 08:19:54.95
関が原後島津が滅ぼされていれば、二次大戦で日本があんなことになならなかった。
旧日本軍の体質は明治維新後薩摩軍人が帝国軍の上層や現場上官に居たせいってのが大きいからなぁ

92: 名無しさん@お腹いっぱい。 2016/01/04(月) 13:24:55.77
>>89
逆だよ。
日清日露までは、薩英戦争や下関戦争などで外交の経験のある元勲達がいたから事がスムーズに運んだが、これらが没した後に訳わからん事になっている。

101: 名無しさん@お腹いっぱい。 2019/09/07(土) 00:26:02.88
薩摩藩は下関戦争で敗北した長州藩みたいに薩英戦争で攘夷が不可能だと判断したんだろうから関ヶ原の戦いはあんまり関係ないんじゃないの

引用元: ・もし徳川が関ヶ原後全力で島津を潰していたら?