1: 日本@名無史さん 2011/09/29(木) 23:39:20.59
摂関政治を打破し、その後300年にわたり続いた院政について語るスレです。
白河院政から武家の台頭、鎌倉開幕を経て南北朝時代までをのんびり語りましょう。
白河院政から武家の台頭、鎌倉開幕を経て南北朝時代までをのんびり語りましょう。
288: 日本@名無史さん 2016/04/21(木) 13:43:04.25
昭和の頃は日本の中世は鎌倉幕府の成立からと教わったが、近年の歴史学界では院政の始まりあたりを中世の起点とする傾向がある。現在の学校教科書もその方向で書き換えられているようだ。
中世史としての「院政時代」を眺めれば、今までの歴史観も変わってくる。
中世史としての「院政時代」を眺めれば、今までの歴史観も変わってくる。
289: 日本@名無史さん 2016/04/23(土) 11:10:25.08
ま、院政時代には荘園の割合が口分田を圧倒するようになってて、必然的に荘園を管理・防衛する武士が当たり前の存在になってたからね
290: 日本@名無史さん 2016/04/23(土) 12:24:06.35
荘園が国衙領を上回るのは室町以降とか、誰かが書いていたな
293: 日本@名無史さん 2016/04/24(日) 17:42:22.95
国衙領も10世紀には口分田や人頭税方式が廃止されて税のおさめ先が国衙配下の名主ってこと以外は荘園と変わらんがな
294: 日本@名無史さん 2016/04/27(水) 19:06:17.31
口分田は藤原時平の時代に伊勢で行われたのが最後で院政時代には影も形もないが
307: 日本@名無史さん 2016/07/15(金) 23:41:48.06
後花園院が足利義政を院執事にして本格的な院政をしようとする最中に応仁の乱が起きて、実質的に院政停止に追い込まれたのは残念至極!
309: 日本@名無史さん 2016/07/17(日) 09:55:35.56
>>307
>応仁の乱が起きて実質的に院政停止に追い込まれた
重要な点が抜けてるぞ!
応仁の乱が起きて院領荘園が崩壊消散し、院政停止に追い込まれた
>応仁の乱が起きて実質的に院政停止に追い込まれた
重要な点が抜けてるぞ!
応仁の乱が起きて院領荘園が崩壊消散し、院政停止に追い込まれた
321: 日本@名無史さん 2017/03/15(水) 00:21:07.67
最後に院政を行われたのは光格上皇なのか後花園院なのか後小松院なのか
322: 日本@名無史さん 2017/03/15(水) 09:34:28.35
>>321
明治時代に院政が否定されたから最後の上皇である光格院まででしょう
明治以前は院庁の役人が付けられて上皇が政治に口出しもしてたしね
光格天皇が実父に太上天皇号を贈ろうと幕府ともめた尊号一件の際にも、後桜町上皇が出てきて光格天皇をなだめてるし
明治時代に院政が否定されたから最後の上皇である光格院まででしょう
明治以前は院庁の役人が付けられて上皇が政治に口出しもしてたしね
光格天皇が実父に太上天皇号を贈ろうと幕府ともめた尊号一件の際にも、後桜町上皇が出てきて光格天皇をなだめてるし
383: 日本@名無史さん 2017/11/02(木) 14:57:00.91
後三条天皇は荘園整理令を出した時、それが院政時代のブートストラップとなることを見越していたんだろうか、それとも律令制を立て直しするつもりだったんだろうか。
俺は後者だと思っているのだが。
しかし荘園側がまた公田となって国司の好き勝手になることを好まず、摂関家・寺領から院領荘園となる道を選んだ、と。
俺は後者だと思っているのだが。
しかし荘園側がまた公田となって国司の好き勝手になることを好まず、摂関家・寺領から院領荘園となる道を選んだ、と。
384: 日本@名無史さん 2017/11/03(金) 13:18:07.97
経済基盤が荘園に移った事が最大の要因なんだよな
白河時代はまだそこまで決定的でなかったらしいが鳥羽時代に院領荘園の基盤が整備される
白河時代はまだそこまで決定的でなかったらしいが鳥羽時代に院領荘園の基盤が整備される
385: 日本@名無史さん 2017/11/03(金) 15:50:46.07
後三条天皇の荘園整理令による仕分けに貴族寺社は唯々諾々と従ったのだろうか。
だとすると藤原摂関家が天下を縦にしていたというのは本当なんだろうか。
だとすると藤原摂関家が天下を縦にしていたというのは本当なんだろうか。
394: 日本@名無史さん 2017/11/05(日) 15:18:43.46
中国の王朝政治だったら、外戚の門閥が強大化しているなら、三族まとめて粛清して荘園(食邑)も没収し、別の貴族を重用していただろう
あるいは大化の改新のように、藤原の氏長者を宮廷で成敗して、公地公民制の詔勅を下して、一気にすべての土地と人民を一元的に朝廷が支配する形にす方法もあったが、それは真似できなかった
結局、平安朝の朝廷はそこまで踏み込んだ荒療治はできなかった
だから藤原摂関家の摂関職はそのままにし、藤原氏の荘園も基本的にそのままにしたうえで、院政を展開して朝廷の主導権を院が奪取し、院が藤原摂関家を越える荘園を手に入れることで、藤原摂関家をそのまま残しつつ、それを院が凌駕するという日本独自のやり方になった
あるいは大化の改新のように、藤原の氏長者を宮廷で成敗して、公地公民制の詔勅を下して、一気にすべての土地と人民を一元的に朝廷が支配する形にす方法もあったが、それは真似できなかった
結局、平安朝の朝廷はそこまで踏み込んだ荒療治はできなかった
だから藤原摂関家の摂関職はそのままにし、藤原氏の荘園も基本的にそのままにしたうえで、院政を展開して朝廷の主導権を院が奪取し、院が藤原摂関家を越える荘園を手に入れることで、藤原摂関家をそのまま残しつつ、それを院が凌駕するという日本独自のやり方になった
401: 日本@名無史さん 2017/11/25(土) 09:51:36.98
>なんで天皇親政の形でなく院政になったのかというと、自分にもよくわからない
上で頻繁に書かれているけど、後三条天皇の荘園整理令により口分田に戻ったはずの土地の領主がやはり荘園のままの方がいい、と、寄進先を探したら天皇家しかなかったが、天皇が天皇位のままでは寄進を受けられないので、退位して自由の身になって受け取ったということ。
その結果上皇はとてつもなく巨大な荘園主となって権力も付いてきたわけで。
上で頻繁に書かれているけど、後三条天皇の荘園整理令により口分田に戻ったはずの土地の領主がやはり荘園のままの方がいい、と、寄進先を探したら天皇家しかなかったが、天皇が天皇位のままでは寄進を受けられないので、退位して自由の身になって受け取ったということ。
その結果上皇はとてつもなく巨大な荘園主となって権力も付いてきたわけで。
402: 日本@名無史さん 2017/11/26(日) 15:55:21.07
>>401
上皇が巨大な荘園主になったという事実は本当にあったのか
新しい権力者として院に荘園寄進が集中してもおかしくはないが、あまり聞いたことがない
また、本で調べたところ、上皇が次の天皇を決める制度にしたことで皇位の継承が安定化し、特に自分の直系子孫や気に入った皇子を天皇にできたことが大きかったらしい
少なくとも白河はそうであった
上皇が巨大な荘園主になったという事実は本当にあったのか
新しい権力者として院に荘園寄進が集中してもおかしくはないが、あまり聞いたことがない
また、本で調べたところ、上皇が次の天皇を決める制度にしたことで皇位の継承が安定化し、特に自分の直系子孫や気に入った皇子を天皇にできたことが大きかったらしい
少なくとも白河はそうであった
403: 日本@名無史さん 2017/11/26(日) 21:07:35.84
二大院領荘園群「八条院領」「長講堂領」で検索してみてください。
405: 日本@名無史さん 2017/11/27(月) 00:12:05.38
>>403
だからその2つぐらいしか思いつかない、日本中の荘園を手に入れたようなものではないし
だからその2つぐらいしか思いつかない、日本中の荘園を手に入れたようなものではないし
404: 日本@名無史さん 2017/11/26(日) 21:55:56.89
皇位継承が不安定だが故に、保元の乱、平治の乱、大覚寺統・持明院統の分裂なんてのが起きたんだろうが
405: 日本@名無史さん 2017/11/27(月) 00:12:05.38
>>404
皇位継承が法的に安定化したわけではない、治天上皇の意向で決まるというだけ
だから治天上皇が死ぬと一気に不透明になり、保元の乱も鳥羽上皇の死によって起こった
平治の乱は清盛と義朝のただの私闘で皇位に関係がない
皇統分裂も、後嵯峨上皇が次の治天上皇を決めずに死んだためあのようになった
皇位継承が法的に安定化したわけではない、治天上皇の意向で決まるというだけ
だから治天上皇が死ぬと一気に不透明になり、保元の乱も鳥羽上皇の死によって起こった
平治の乱は清盛と義朝のただの私闘で皇位に関係がない
皇統分裂も、後嵯峨上皇が次の治天上皇を決めずに死んだためあのようになった
406: 日本@名無史さん 2017/11/27(月) 21:45:49.24
ってことは全然安定化などしてないではないか
417: 日本@名無史さん 2017/12/15(金) 17:15:31.18
平成院はどうなる?
418: 日本@名無史さん 2017/12/16(土) 18:20:14.18
そういうのが存在できる法律も基盤も無い
419: 日本@名無史さん 2017/12/16(土) 18:39:43.37
上皇は法律、律令の枠外に位置するもの
421: 日本@名無史さん 2017/12/20(水) 16:35:54.23
>>419
上皇の正式名称は太上天皇であって
律令に太上天皇の規定はある
上皇の正式名称は太上天皇であって
律令に太上天皇の規定はある
422: 日本@名無史さん 2017/12/20(水) 17:34:01.04
律令には、天皇、太上天皇の権限を制約する規定はなかったが、天皇は、関白、大臣、征夷大将軍以下の百官を任命しているので、その権限により天皇大権行使に制約が加わるが(一種の制限君主)、上皇には百官の任命責任がないから、絶対君主として振る舞える。
公家諸法度は天皇について、「天子諸芸能之事、第一御学問也」として制約を加えたが上皇についての規定はないから、上皇は制外の地位となる。
公家諸法度は天皇について、「天子諸芸能之事、第一御学問也」として制約を加えたが上皇についての規定はないから、上皇は制外の地位となる。
423: 日本@名無史さん 2017/12/20(水) 17:58:05.61
律令では天皇と太上天皇はともに政治に当たることとされていたんだよ
どちらにも統治権があった
これは「大宝律令」が編纂された時期に祖母の持統太上天皇と孫の文武天皇が共同統治していたことによる
どちらにも統治権があった
これは「大宝律令」が編纂された時期に祖母の持統太上天皇と孫の文武天皇が共同統治していたことによる
425: 日本@名無史さん 2018/01/16(火) 08:27:50.69
>>423
輸入元の中国の律令に太上皇の規定があったかどうか。
唐の時代に太宗李世民が父の高祖を幽閉して帝位についた例があるけどね。
このケースでは共同統治なんてとんでもない話。いかに大宝律令が日本式にアレンジされたか分かる。
輸入元の中国の律令に太上皇の規定があったかどうか。
唐の時代に太宗李世民が父の高祖を幽閉して帝位についた例があるけどね。
このケースでは共同統治なんてとんでもない話。いかに大宝律令が日本式にアレンジされたか分かる。
447: 日本@名無史さん 2018/04/11(水) 14:59:55.23
清盛が院政を一時停止しているね
448: 日本@名無史さん 2018/04/11(水) 16:33:20.00
>>447
清盛は孫の安徳天皇を即位させて、院政を行う治天の君は後白河法皇ではなく娘婿の高倉上皇に変えただけ
清盛は孫の安徳天皇を即位させて、院政を行う治天の君は後白河法皇ではなく娘婿の高倉上皇に変えただけ
455: 日本@名無史さん 2018/04/12(木) 22:19:23.93
院政史上唯一院政を停止したのは後醍醐天皇のみだな。
その代償として朝廷は二つに割れ、天下は大乱となった
その代償として朝廷は二つに割れ、天下は大乱となった
456: 日本@名無史さん 2018/04/13(金) 09:34:53.56
>>455
皇統は後醍醐のずっと前から持明院統と大覚寺統に分かれていたよ
後醍醐は院政を停止し皇統を自分のもとに統一した
しかし娘婿の光厳上皇が足利尊氏のもとへ走り錦の御旗を渡して後醍醐追討令を発令
足利尊氏は光厳上皇の院政、光厳上皇の弟光明天皇を即位させて征夷大将軍となり南北朝に分裂
皇統は後醍醐のずっと前から持明院統と大覚寺統に分かれていたよ
後醍醐は院政を停止し皇統を自分のもとに統一した
しかし娘婿の光厳上皇が足利尊氏のもとへ走り錦の御旗を渡して後醍醐追討令を発令
足利尊氏は光厳上皇の院政、光厳上皇の弟光明天皇を即位させて征夷大将軍となり南北朝に分裂
512: 日本@名無史さん 2018/05/04(金) 01:05:42.23
>>456
後醍醐追討令ってw
後醍醐追討令ってw
新田義貞追討令だぞw
457: 日本@名無史さん 2018/04/13(金) 11:04:38.29
皇統は分かれてたけど両統迭立で何とか凌いでただろ。南北朝に分裂したのは後醍醐帝の時だ。院政廃止、天皇親政はブレなかった
458: 日本@名無史さん 2018/04/13(金) 11:05:41.64
停止も何も後醍醐天皇の時には院政を行うべき上皇がいなかったわけで。
んで後二条天皇の皇太子・邦良親王にいずれ皇位を譲るはずだったのを自系統に固定させてしまったため、南朝自体がのちに分裂の危機に。
んで後二条天皇の皇太子・邦良親王にいずれ皇位を譲るはずだったのを自系統に固定させてしまったため、南朝自体がのちに分裂の危機に。
459: 日本@名無史さん 2018/04/13(金) 12:45:14.66
親父の後宇多上皇の院政を停止したよ
461: 日本@名無史さん 2018/04/13(金) 14:35:54.30
>>459
後醍醐天皇が一方的に後宇多の権限を奪って院政停止させたわけではない
後宇多はこの前年に直系曾孫(二条天皇の皇孫王)が誕生したことに満足し、大覚寺統の跡取り問題は解消したことを機に引退した
すでに出家して大覚寺に籠っていたし
後醍醐天皇が一方的に後宇多の権限を奪って院政停止させたわけではない
後宇多はこの前年に直系曾孫(二条天皇の皇孫王)が誕生したことに満足し、大覚寺統の跡取り問題は解消したことを機に引退した
すでに出家して大覚寺に籠っていたし
467: 日本@名無史さん 2018/04/14(土) 21:23:22.82
>>461
経過はともかく、後宇多が隠居して後醍醐が親政を始めたのは事実じゃん
院政は停止してる、これは厳然とした事実
経過はともかく、後宇多が隠居して後醍醐が親政を始めたのは事実じゃん
院政は停止してる、これは厳然とした事実
469: 日本@名無史さん 2018/04/15(日) 10:51:42.70
>>467
高齢や出家により自主的に院政をやめた上皇は他にいくらでもいるし、後醍醐が院政を止めさせたというのは間違い
高齢や出家により自主的に院政をやめた上皇は他にいくらでもいるし、後醍醐が院政を止めさせたというのは間違い
492: 日本@名無史さん 2018/04/22(日) 23:23:07.97
>>469
後宇多個人としてはもう後醍醐と争う気力もなかったんじゃないかな
どっちにしても自分の血統だし恒明に渡らなければそれでいいやってくらいに
後宇多個人としてはもう後醍醐と争う気力もなかったんじゃないかな
どっちにしても自分の血統だし恒明に渡らなければそれでいいやってくらいに
468: 日本@名無史さん 2018/04/14(土) 21:27:23.66
後醍醐帝の時は院政をやる上皇がいなかったという理屈は通用しない
後醍醐は延喜・天暦の御代に還り天皇親政に戻すべしと宣言している
後醍醐は延喜・天暦の御代に還り天皇親政に戻すべしと宣言している
470: 日本@名無史さん 2018/04/15(日) 10:55:32.26
>>468
天皇親政って、摂政・関白を置かないことだよ
そもそも醍醐・村上天皇の頃にはまだ院政は行われていない
政治は天皇や上皇ではなく摂政・関白が行うという時代
天皇親政って、摂政・関白を置かないことだよ
そもそも醍醐・村上天皇の頃にはまだ院政は行われていない
政治は天皇や上皇ではなく摂政・関白が行うという時代
483: 日本@名無史さん 2018/04/20(金) 07:25:39.67
江戸時代も、上皇は公家諸法度の対象外。だから幕府は、院政を嫌がった。
484: 日本@名無史さん 2018/04/20(金) 11:17:44.79
何故、江戸幕府は禁中並公家諸法度で上皇法皇をフリーにしておいたのかね?
485: 日本@名無史さん 2018/04/20(金) 17:41:39.79
>>484
それもそうだな
それもそうだな
487: 日本@名無史さん 2018/04/21(土) 13:17:04.27
>>484
うっかり忘れてたんだろうw
同法度を制定した時には上皇や法皇はいなかった
うっかり忘れてたんだろうw
同法度を制定した時には上皇や法皇はいなかった
495: 日本@名無史さん 2018/04/25(水) 22:30:03.01
>>487
後陽成上皇がいたろ
後陽成上皇がいたろ
490: 日本@名無史さん 2018/04/22(日) 17:24:48.30
江戸幕府は最初は朝廷を法度によって雁字搦めにしてた割にいつの間にか緩々になっていったな
天皇が勝手に譲位とか鎌倉や室町政権時代はなかったこと
まあ政権が安定し過ぎでわざわざ縛り付ける必要もなかったからではあるが
天皇が勝手に譲位とか鎌倉や室町政権時代はなかったこと
まあ政権が安定し過ぎでわざわざ縛り付ける必要もなかったからではあるが
491: 日本@名無史さん 2018/04/22(日) 21:15:49.27
>>490
それでも霊元天皇(いまのところ最後の法皇)の奔放ぶりには困ったようだが。
それでも霊元天皇(いまのところ最後の法皇)の奔放ぶりには困ったようだが。
引用元: ・院政について語ろう







