1: 人間七七四年 2009/12/06(日) 20:41:56 ID:vkzCXNU/
恒利・恒興・元助・輝政……。地味ではあるが良将揃い 。

さぁ!ものどもよ!
池田氏について心行くまで語れ!!

■武家家伝_池田氏
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ikeda.html








2: 人間七七四年 2009/12/06(日) 20:43:08 ID:vkzCXNU/
恒興の訛伝らしい信輝って名前はどこから来たの?

7: 人間七七四年 2009/12/07(月) 20:41:12 ID:oqPTkwAX
>>2
信長の信に輝政の輝をくっつけたんだろう

3: 人間七七四年 2009/12/06(日) 20:48:21 ID:dPNhTZig
信長の乳兄弟なのをいいことに、その権威をかさに来てたイメージ>恒興

6: 人間七七四年 2009/12/07(月) 18:27:11 ID:06GQaX7a
>>3
清洲会議で「宿老」扱いされてるのは不可解の極み。

199: 人間七七四年 2014/11/22(土) 22:23:55.97 ID:4ebgyV5n
>>3
>信長の乳兄弟なのをいいことに、その権威をかさに来てたイメージ>恒興

案外それが正解だな
いろいろ読んでみて傲慢な卑怯者のイメージしか湧いてこない
実際、恒興支持者とやらもほとんどが異常なほど傲慢で信長の方が純情に見えてしまう

20: 人間七七四年 2009/12/13(日) 17:18:48 ID:EIhOv7js
恒興が信長の実弟(信秀の子)という説は信憑性があるの?

24: 人間七七四年 2009/12/19(土) 00:05:00 ID:cEGGderw
>>20
実弟というのは初耳なんで異母弟として書かせてもらうけど、母親の養徳院が信秀の側室でもあったのは娘を産んでいることや、遺言書に信秀の弔いについても書いていることから確かなんで、側室になった時期にもよるけど全くのデタラメと断言してしまうのはまだ論議の余地ありといった感じなんではないかなと思う。

娘の婿に之助を選んだり信房の側室を池田の娘にしたり、恒興自身も嫁が信長が殺した弟?従兄?の未亡人(しかも身重)だったというから、それなりに近かったのは確かなんじゃないかなとオモ。

25: 人間七七四年 2009/12/19(土) 14:28:51 ID:m8VOtIBB
恒興の妻は信長弟の信勝(信行)の未亡人、との記述を見た記憶あり。(未確認)
津田信澄、池田元助、輝政は兄弟ということになる。
恒興妻の菩提寺を調べれば、信澄との関係も明らかにできるかもしれない。
信澄は母よりも先に死んでいるから、母が祀った可能性が大きい。

246: 人間七七四年 2016/03/11(金) 12:19:04.92 ID:DPIo+Xu2
>>25
恒興嫁の菩提寺をみるとむしろ将軍義輝と関係ありそうな感じ。
嫁が直接というより嫁父の荒尾がだけどね。

関係ないけど時代劇専門ちゃんねるで放送している天下騒乱おもろいな。
鍵屋の辻が題材だから池田や池田家臣がいろいろ出てきて池田好きには幸せだw

8: 人間七七四年 2009/12/07(月) 21:35:42 ID:neftw+AW
幕府成立後の大封ぶりもまたまた不可解

9: 人間七七四年 2009/12/08(火) 06:05:47 ID:HMi3oHHd
>>8
池田輝政は秀吉の時代に既に、家康の娘を嫁にもらって親戚になってるからな。
それ以後池田は一貫して親家康派で、関ヶ原後も血縁を重ねた。
大封になるのも当然。

しかし三河の池田といい会津の蒲生といい、そもそも家康の押さえと言う目的があって置いた家を、秀吉は自分から家康に接近させているな。

16: 人間七七四年 2009/12/13(日) 00:49:52 ID:pWCY/Ndj
>>9
いやそもそも秀吉は家康を敵視してないだろう。
信頼に足りうる有能な家臣、と思ったからこそ大封を賜ったわけで。

11: 人間七七四年 2009/12/09(水) 18:06:05 ID:2dj3dcE7
家康の娘婿の蒲生秀行も、関ヶ原後に会津に六十万石も貰ってるし、輝政が大封を得ても別に不思議じゃないわな

12: 人間七七四年 2009/12/10(木) 17:43:11 ID:dTnJwjzH
池田家の通字って何だ? 「恒」や「政」か?

13: 人間七七四年 2009/12/10(木) 18:10:36 ID:vj95kYP0
輝政以降は基本「政」だな。
恒興までは「恒」だったっぽいが。

14: 人間七七四年 2009/12/10(木) 23:55:50 ID:LpnvR5yg
輝政は本来は嫡男では無かったからな。
次男以下に通字が付かないのはよくあること。

15: 人間七七四年 2009/12/12(土) 20:37:08 ID:XqvEEQRT
元助?之助?未だに分からん。

17: 人間七七四年 2009/12/13(日) 11:11:18 ID:iO1wIBQC
>>15
ほんとに訳ワカンネ
元=×、之=○とするとすべてツジツマが合うんだけどね。
元助→之助、元信→之信、なら
由之、之政、と一族子孫名がつながる。

18: 人間七七四年 2009/12/13(日) 11:13:28 ID:7OgVbK5o
改名があったんじゃないかねえ

19: 人間七七四年 2009/12/13(日) 14:55:57 ID:iO2b2qHY
そもそも「之」の字はどこから来たのやら?
長子だけど、嫡男じゃないから通字が入ってないのかな……。

21: 人間七七四年 2009/12/13(日) 19:40:11 ID:7OgVbK5o
>>19
おそらく「元」と「之」の文字を書き間違えた、もしくは原文からどちらか判断できない、ってのがあったんでしょ。


「元」の崩し字
http://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/EXT/3401/000/0073/11/2/00000007/00407134.bmp

「之」の崩し字
http://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/EXT/3401/000/_000ki_04/2/00000012/00012004.bmp

26: 人間七七四年 2009/12/19(土) 14:52:12 ID:MaW+flhn
池田って前田や美濃の森みたいな少豪族でさえないくらいのしょぼい家だったんでしょ。
秀吉よりはちょっといいくらい。

27: 人間七七四年 2009/12/19(土) 15:10:21 ID:WJO/8sQQ
>>26
何故か清洲会議じゃ宿老に居座ってるけどなw

30: 人間七七四年 2009/12/20(日) 14:10:49 ID:6OYs8Ltk
>>27
山崎では先鋒として戦ったからね。

37: 人間七七四年 2009/12/23(水) 12:48:51 ID:Mk+CHm/i
摂津池田氏とはホントに繋がってるの?

39: 人間七七四年 2009/12/23(水) 21:57:44 ID:+uCDiXfL
>>37
信長上洛以前は無関係だと思うけどね。
恒興が摂津に封じられたのは、伊勢氏が北条(後北条)を名乗ったのと同じ効果を狙ってのことだと思うけど。

38: 人間七七四年 2009/12/23(水) 17:53:19 ID:4mJz6msX
本願寺の下間一族でのちに池田重利と名乗ったのがいて、母親は恒興養女だけど、これは池田家が摂津領主の時代に嫁いだのかな?

44: 人間七七四年 2009/12/25(金) 23:06:56 ID:Gj63e3S0
>>38
嫁いだ時期について意見が分かれているらしいけどほぼそれでOKなんじゃないかなと思う。

ただ、本願寺との和睦の時に人質の意味合いも含んでなのか嫁いだという話もあるみたいだね。
彼女は建前上池田家の娘とはいえ織田家の娘に変わりはないから、本願寺がそれなりの人質も要求していたとしたら、彼女は一番適任だったんじゃないかな、諸々を考えると。

あと恒興は養女とはいっても彼女を実の娘のように凄く可愛がったそうだよ。
後年、下間が池田を頼ったり隆利が重利に池田姓を与えたりといった話からも恒興は分け隔てなく育てたんだろうなと。
子供達も仲が良かった感じが強いから池田は子育てに長けていたのかもな。

384: 人間七七四年 2019/04/25(木) 21:56:11.93 ID:7WAFJ1NO
池田家はどの時点で秀吉の家臣となったの?

385: 人間七七四年 2019/04/25(木) 22:02:30.49 ID:Wg3+c5rs
恒興元助が戦死し、照政が家督相続したあたりじゃないのか。
恒興時代には同格意識が強かったろう

386: 人間七七四年 2019/04/26(金) 04:22:42.35 ID:vgl16V6m
>>385
それも、かつて信長の下で一緒に戦った伊木清兵衛の説得があっての事らしいな
伊木 忠次(いぎ ただつぐ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。伊木家初代当主。

天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いにおいて、池田家中が織田方か羽柴方につくかで揉めると、忠次は「秀吉に御味方有て先祖の家を起し、旧功の者をも取立有は、子孫繁栄疑あるへからず」と述べて羽柴方への加担を勧めた(『池田家履歴略記』)。

この戦いで恒興と元助の主君父子が敗死すると、忠次は恒興の次男・輝政に池田家を相続させるよう秀吉に働きかけた。しかし、秀吉は合戦での池田家の失態を責めて相続を認めず、逆に忠次を諏訪高島城6万石の大名として秀吉の直臣に取り立てる話を持ち出した。これを忠次は固辞し、池田家の弁明に努め、輝政の家督相続を認めさせた。

387: 人間七七四年 2019/04/26(金) 14:48:36.38 ID:9dcPDvmK
伊木が説得したのは秀吉に対して照が家督相続できるようにってだけで、家臣になることを説得したわけじゃないよ
池田の場合、秀吉の家臣になると明言した節がないけど自動的な感じでそうなったんじゃないかなあ…、家康は嫌だから秀吉へみたいな感じかと
若御前と秀次の縁談もあったしな
あと伊木は既に池田家の家老でこの頃は筆頭家老の森寺が病に臥せっていたから実質筆頭家老みたいなもん

388: 人間七七四年 2019/04/26(金) 14:54:28.15 ID:9dcPDvmK
なんていうか池田の場合
織田(信長-信忠流)には忠誠を誓って命かけまっせだが(なんせ江戸期の史料では大恩義を付けているもの多し)、豊臣と徳川は織田程ではないって感じがあるんだよな
とにかく家を残すために力のある方にしなる感じがあるな
それがいいのか悪いのかは何とも言えないが

389: 人間七七四年 2019/04/28(日) 15:16:31.52 ID:oouFSaQd
まあなんだかんだありつつも信長や信忠への忠義は江戸時代通じても一貫していたっぽいからな
姫路城大天守最上階に飾られていた蝶紋レリーフは信長から下賜された
信長デザインのもので江戸を見据えるような場所に飾り、時代下って幕府倒れて早速建勲神社に忠臣図奉納するとかまじわかりやすい家だw

390: 人間七七四年 2019/04/28(日) 19:37:36.04 ID:M1VIvzva
恒興信長の異母弟説も単なる与太話じゃない気がしてくるな
それぐらい結び付きが強い

391: 人間七七四年 2019/04/29(月) 02:57:08.78 ID:dtNKM9o3
岐阜県にある恒興元助の菩提寺の過去帳では勝三はかぞえ三歳で死んでいるんだな、実は…

392: 人間七七四年 2019/05/02(木) 16:53:49.96 ID:HMRJGWzE
それじゃ俺らが知ってる恒興って誰さ?

394: 人間七七四年 2019/05/03(金) 13:40:13.00 ID:PAHCXiz9
>>392
寺の過去帳が正しいなら享年三歳の勝三は生年が信長と同じだから、恒利の子供とされている勝三(恒興)はこの子で、俺らが知る小牧長久手で死んだ恒興(勝三)はその弟もしくは一説にある信秀の子なんじゃ?
当時の乳母は母乳も与えるタイプから母乳は与えずに養育だけタイプと幅が広く、3~5歳ぐらいまで乳首を吸わせるのも当時は珍しくなかったとされているとはいっても、乳首の逸話の年齢矛盾は以前からしばしば指摘されてる

400: 人間七七四年 2022/01/15(土) 19:35:24.14 ID:xTus9sgL
恒興の婿の森氏や池田輝政の正室中川氏とは、江戸期に入ると池田家が大大名になるに従い、格差が出たのか、疎遠になったイメージ

401: 人間七七四年 2022/02/19(土) 10:45:40.98 ID:oRFRlwnV
森は血縁的にも遠くなるのはやむ無し

405: 人間七七四年 2023/03/06(月) 04:05:43.32 ID:5K+ix6lE
池田輝政によって大改修された姫路城が岡山藩に討伐されるのは運命だよな

408: 人間七七四年 2024/04/25(木) 22:43:30.30 ID:erGO6mhn
トレハロースで知られる破綻した林原の先祖は美濃国時代から池田氏に仕える武士で、因幡に減封になった際みずからリストラ要員を志願して武士から御用商人になったという

415: 人間七七四年 2026/07/22(水) 22:09:00.79 ID:eJgd6sKW
新説キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
明智光秀討伐は秀吉ではなく摂津を防衛してた池田恒興が逆襲して勝利。これが山崎の戦いの真相。
最近、中国大返しと山崎合戦について、これまでの常識がひっくり返る発見があった。秀吉は史上屈指ともいわれる大強行軍を成し遂げ、山崎合戦で光秀の軍を撃破したといわれてきた。秀吉の進軍のスピードはさほど速くなかった、という指摘もあるが、2万の大軍勢の移動だから、光秀はこれほど早く秀吉が戻るとは思っておらず、動揺につながった、という話だった。

だが、そもそも秀吉は、山崎合戦に間に合わなかったというのである。

「新事実」は、黒田官兵衛の父である小寺職隆らに宛てて、秀吉がみずから書いた書状に記されていた。その書状は山崎合戦の当日にあたる6月13日の日中、山崎から12キロほど離れた富田(大阪府高槻市)で書かれたもので、そこには「明日、西岡に出陣し、陣を構える」と記されていた。「西岡」とは前述の勝龍寺城があるエリアで、たしかに光秀は決戦前日、池田恒興らによってこの城に追い込まれていた。秀吉はそれを知っていたので、14日に光秀がいる勝龍寺城を攻めるつもりで、そう書状に書いたのだろう。

ところが、秀吉の予想に反して、光秀は13日に勝龍寺から撃って出てしまったというわけだ。

秀吉にくみする軍勢は、すでに合戦の前夜には布陣していた。池田恒興を中心に、中川清秀、高山右近らの摂津衆(現在の大阪府北中部と兵庫県南東部にあたる摂津国の国衆)が最前線に着陣したという。そして、後方に秀吉の本陣が置かれたということになっているのだが、実際には、秀吉はそこにいなかったというのである。

【豊臣兄弟!】秀吉の「不都合な真実」 明智光秀を破った『山崎の合戦』に間に合っていなかった!


417: 人間七七四年 2026/07/23(木) 05:17:31.19 ID:lxLZDo35
備中から強行軍で帰ってきた秀吉本隊じゃなくて、疲れもなく地の利も知り尽くした摂津衆が前線に立つのは考えてみたら当たり前やな

引用元: ・【尾張】池田恒利・恒興・元助・輝政らを語る