三国志

【天才?】 郭嘉 【無頼?】

1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/03/31(土) 10:21:47 ID:NzyNSNEm0
郭嘉(170-207年)は、東漢末期に曹操に仕えた軍師。字は奉孝。
若い頃は俗世間から離れ、名前を隠して密かに英雄たちと交際していた郭嘉は、最初袁紹の元を訪れるも、その人物を見限って仕えることはなかった。
 
その後、荀彧の推挙によって曹操に仕えることになり、数々の助言を行った。
呂布の討伐では、追撃を進言して呂布を捕らえることに成功。袁紹との対決では、不利な情勢に弱気になる曹操を励まし、勝利へと導いた。袁紹の死後、一気に袁家を滅ぼそうと主張する諸将に対して、袁家一族に内紛を起こさせてから滅ぼす策を進言し、袁家を自壊させた。

曹操は、若いながら物事に通じて見通しも的確な郭嘉に絶大な信頼と期待を寄せていたが、惜しくも若くして病没してしまう。
後の赤壁の戦いで敗れた折、曹操は「郭嘉が生きていれば、このような惨めな敗戦はなかった」と嘆いたと言われている。

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【蜀の悲願】 北伐 【軍師諸葛亮】

1: 名無しさん@お腹いっぱい。 2007/01/12(金) 12:21:16 ID:ARwXX2Z70
223年、劉備が亡くなり劉禅が跡を継ぐと、諸葛亮は蜀の政治の全権を握る。そして、呉との関係を改善した上で、魏に対する北伐を計画した。

227年、準備を終えた諸葛亮はいよいよ北伐を決行する。北伐に当たって上奏した『出師表』は名文として有名である。1度目の北伐で、諸葛亮はかつて蜀から魏へと降った孟達の調略を企図したが、司馬懿に察知され、孟達は討たれた。最初に躓いたものの、諸葛亮の作戦は続行され、翌228年に漢中より北へ進攻した。
諸葛亮は、趙雲を囮に使って魏の曹真の裏をかくことに成功、南安・天水・安定の3郡を奪った。
魏はこれに対して張郃を派遣、諸葛亮は再度趙雲を囮に使い、要衝街亭に鍾愛していた馬謖を配する。ところが、馬謖は諸葛亮の指示を無視して山上に布陣したために、張郃率いる魏軍に大敗を喫してしまう。
街亭での敗戦で、蜀軍は全軍を撤退させ、諸葛亮は馬謖を敗戦の罪で誅殺し、自らも降格として丞相から右将軍となった。これが「泣いて馬謖を斬る」の故事である。もっとも、諸葛亮が右将軍となっても、他に蜀を運営できる人物がおらず、実質上は丞相であった。

その年の冬、諸葛亮は2度目の北伐を決行する。しかし、曹真に作戦を先読みされたために、戦局は優位に進まず、食糧の不足もあって撤退した。
 
更に翌229年には3度目の北伐が決行され、陳式に武都・陰平の両郡を平定させた。この功績によって、諸葛亮は再び丞相の地位に復帰する。
 
その次の年230年に4度目の北伐が行われるが、食糧不足で撤退に追い込まれる。この時に、魏の張郃を討ち取った。
 
そして234年、諸葛亮は5度目にして最後の北伐を決行する。この戦いで諸葛亮は屯田を行い、持久戦の構えを持って五丈原で、司馬懿率いる魏軍と長期に渡って対峙する。だが、諸葛亮には健康問題が生じていた上、頼りにしていた呉も、荊州と合肥の戦いで魏に大敗を喫し、司馬懿は防衛戦に徹した。
234年8月23日、諸葛亮は陣中で病没し、蜀軍は全軍が撤退した。その際、魏延と楊儀との間に争いが生じ、魏延が殺される事件が発生している。

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結局、周瑜の天下二分の劉備排除と魯粛の天下三分の親劉備路線

1: 無名武将@お腹せっぷく 2018/12/18(火) 13:39:18.87
どっちが正しかったの?

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何故、魏は大国でありながら呉と蜀に苦戦したのか

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【周瑜 魯粛 】呉の軍師を語る【呂蒙 陸遜 陸抗】

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