本能寺の変

【歴史】秀吉か森蘭丸か…明智光秀「信長殺し」8人の“真犯人

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1: 幻の右 ★ 2020/01/19(日) 12:53:58.90 ID:Z47H1+vV9
今日から放送されるNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の主人公は、明智光秀。ドラマのクライマックスとなるのが、あの「本能寺の変」だ。

1582年6月2日、天下統一を目前にしていた織田信長が、家臣の明智光秀の謀反により、本能寺で自害。だが光秀は、「中国大返し」で戻った豊臣秀吉に敗れ、その天下はわずか11日で終わった。「戦国時代、最後にして最大の下剋上」といわれる。

主君・信長にパワハラを受けつづけた結果の謀反――つまり、「光秀の “私怨” が原因」というのが、人々が持つ本能寺の変のイメージだろう。だが近年、これを覆す「新説」が、次々と発表されている。

今回、紹介するのは、黒幕や共謀者と囁かれる8人の “真犯人” 。荒唐無稽な説もあるが、思わず膝を打つ説も。

(略)

以下では、8人の “真犯人” についての新説を、外川氏に解説してもらう。あなたの知らない光秀がくる。

●真犯人(1)豊臣秀吉
“天下統一を目前にしていた信長にとって代わり、自らが覇者となるために、秀吉が光秀を謀反へと導いた” という説。最終的に、本能寺の変で最大の利益を受けたのが秀吉だったことや、「中国大返し」の不自然なまでの動きの早さなどが根拠とされる。

「“黒幕” とまではいえませんが、『光秀との共謀があった』とすることは、否定しきれない有力な仮説。信長に対する不信感、警戒心は、光秀も秀吉も持っていたはずです。共謀の証拠は、勝者・秀吉により抹消されたとも考えられます」(外川氏の見解、以下同)

●真犯人(2)徳川家康
「家康は、『信長が自身(家康)の殺害を光秀に命じた』と察知し、光秀と共謀して返り討ちにした」という説。信長と徳川家康は同盟関係にあった。しかし、家康は嫡男と妻を、信長の命により死に追いやられていた。「本能寺の変」直前、家康が光秀からもてなしを受けていたことも根拠だ。

「光秀と家康の接点は、それほどなかったはずですが、この両者に仕えた武将が存在します。『この武将が、両者の間をつなぐスパイ、あるいは連絡役のような役割を演じ、謀議を交わした……』と想像することも可能でしょう」

●真犯人(3)濃姫
(略)

●真犯人(4)足利義昭
(略)

●真犯人(5)長宗我部元親
(略)


●真犯人(6)正親町天皇
(略)

 ●真犯人(7)森蘭丸
(略)

 ●真犯人(8)イエズス会
(略)

(続きはソースにて) https://smart-flash.jp/sociopolitics/91188/2

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本能寺の変直後・もし秀吉が動けなかったら?

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1: 人間七七四年 2019/01/04(金) 19:52:57.16 ID:p/jjzcDX
なんらかの理由で秀吉が備中で足止めになり動けなかったら歴史はどう変わっていたでしょうか?

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【島根】本能寺の変 明智光秀 「室町幕府の再興目指すクーデター」 市立松江歴史館で開催

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1: ばーど ★ 2018/03/21(水) 13:54:44.43 ID:CAP_USER9
織田信長が家臣の明智光秀に討ち取られた「本能寺の変」を近年の研究に基づき紹介する特別展「本能寺の変―再考 何が明智光秀を決起させたか―」が、松江市殿町の市立松江歴史館で開かれている。

4月8日まで。

本能寺の変は、後に松江開府の祖として松江城を築く堀尾吉晴も活躍した信長の中国地方攻めの最中に起きていることから、同館が主催、期間中、展示替えをしながら計74点を並べる。

見所は、光秀が本能寺の変後に信長に反発する仲間に送った直筆の書状。昨年9月に書状の発見を発表した研究者は、本能寺の変が室町幕府の再興を目指したクーデターだったことを示すとしている。室町幕府の15代将軍・足利義昭が、薩摩の島津家に幕府再興の協力を求めて贈った国宝の名刀も並ぶ。


(以下略)


全文は
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20180320-OYT1T50022.html

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【歴史】だから明智光秀はキレた?本能寺の変「珍説」の真相[02/21]

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1: しじみ ★ 2018/02/22(木) 10:42:02.77 ID:CAP_USER
■「暴君」確定のキーワード

信ぴょう性が高い史料とされるイエズス会宣教師のルイス・フロイスが書いた『日本史』にも、こんな記述がある。

「信長は、家康一行の接待役を命じられた光秀と、その準備について安土城の一室で密談していたが、信長は元来逆上しやすく、自らの命令に対して反対意見を言われることに堪えられない性質であったので、人々のうわさによると、信長の好みではない件で光秀が言葉を返すと信長は立ち上がり、怒りを込めて一度か二度、光秀を足蹴にした」

「うわさによると」とある以上、信長による光秀へのパワハラ行為があったと断定はできないが、本能寺の変の直前に「信長が密室で光秀に辱めを加えた」といううわさが立ったのが事実なら、重臣たちも含めて安土城内に「信長恐怖」の空気が広がっていたことは間違いないだろう。

光秀謀反の動機を光秀の怨恨とし、説得力ある説明をするには、信長を暴君に描かなければならない。実際に信長は逆上しやすく、家臣は信長を恐れていた。そこにパワハラを加えれば横暴ぶりはさらに際立つ。

光秀の頭髪が薄いことにしたのも、信長のパワハラを強調するためだろう。
江戸時代には髷がないことは武士の恥とされ、髷が結えなくなった武士は隠居するという不文律があった。若くして髪が薄くなり、まだ隠居できなかった武士は附髪をつけたが、それには藩主の許可が必要だったという。
後世の俗書は江戸時代の価値観に沿って頭髪を光秀の「弱み」とし、それを信長に執拗に責めさせることで、信長を理不尽な暴君に仕立て上げようとしたのではないか。

続きはソースで
読売新聞
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20180215-OYT8T50014.html

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<明智光秀>反信長派への密書の原本発見 本能寺の変直後、室町幕府再興を目指していた

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1: 通り雨 ★ 2017/09/12(火) 03:23:37.93 ID:CAP_USER9

9/12(火) 3:00配信
<明智光秀>密書の原本発見 本能寺の変直後、反信長派へ

本能寺の変で織田信長を討った重臣の明智光秀が、反信長勢力とともに室町幕府再興を目指していたことを示す手紙の原本が見つかったと、藤田達生(たつお)・三重大教授(中近世史)が発表した。変の直後、現在の和歌山市を拠点とする紀伊雑賀衆で反信長派のリーダー格の土豪、土橋重治に宛てた書状で、信長に追放された十五代将軍・足利義昭と光秀が通じているとの内容の密書としている。【松本宣良】

藤田教授によると、書状は岐阜県の美濃加茂市民ミュージアムの所蔵。和歌山県内で伝えられ京都府の古書店に渡ったものを美濃加茂市の篤志家が入手して寄贈したという。

鳥居和之・名古屋市蓬左(ほうさ)文庫長らとの共同調査で、形状や紙質などから手紙の原本と断定し、筆致や署名、花押から光秀自筆の可能性が高いと結論づけた。本能寺の変に関する光秀自筆の書状は極めて珍しい。

書状は天正10(1582)年6月2日の本能寺の変から10日後の12日付で、返信とみられる。「上意(将軍)への奔走を命じられたことをお示しいただき、ありがたく存じます。しかしながら(将軍の)ご入洛(にゅうらく)の件につきましては既に承諾しています」とあった。

京を追放された義昭は当時、中国地方を支配する毛利輝元(てるもと)の勢力下にある鞆の浦(広島県福山市)にいた。義昭が京に戻る際は協力することになっていると重治から示され、光秀自身も義昭と既に協力を約束していることを伝える内容という。


(以下略)


全文は(ソース元に書状の現代語訳が有ります。)
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170912-00000004-mai-soci 
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